あか | 若者の等身大日記

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最近の記事

僕は僕に問う

僕は僕が分からない。 それでも僕は僕を分かりたい。 この矛盾がさまざまな苦しみの元凶にもなるし、 深い豊かさの始まりにもなるんんだろうな。 右手で右手を触れられないように、 右目で右目を見れないように、 自分で自分を認識することはできない。 まあ自分をどう定義するかにもよるんだろうけどね。 思い込み、催眠、暗示とは、 この根本の原理が働いているんだろうな。 人間として生きるということは、 きっとこれらの「信じる」要素は必要不可欠なんだと思う。 だけど大切なのは、

    • 善くある

      善くある 僕はこれをこれからずっと大切にしていきたいな。 僕は人間。 僕が善いと思ったことが本当に善いことかは分からない。 僕の善いが誰かを気づ付けることがあるかもしれないし、 見方によって善いとも悪いとも捉えられることばかりだと思う。 そもそも「善い」なんて幻想にすぎないんだろうしね。 だけど僕は、善くあることしかできない。 今、僕が善いと思うことをやる。 時には、善いと思っているのにできないこともあると思う。 そういう時、それに肩を落としてしまう心は忘れたくな

      • この世界で愛よりも大切なことはあるわけがない。 愛を大切って言葉で評価するのもしっくりこない。 この気持ち。心。 このどうしようもない感謝の心、 ありがとうで溢れかえってくる、 捉えどころはないけれども とてもエネルギーで溢れている気持ち。 これを僕は愛と呼ぼう。 言葉それ自体はたしかにそのものではない。 けど「それ」は確実に存在している。 これに言葉をつけている。 それを本当の意味で分かった時、 言葉もはっきりとしてくる。 言葉が分からないってなるんじゃない。

        • 自信ってなんだろう

          本当の自信。 それはすごく静かで穏やかで、 それでいてどっしりとしているのだと思う。 表面的な僕らしきものではなくて、 僕の根本にある、僕そのものと言っていいような存在それ自体。 それが真の自信の正体なんだと思う。 自分を着飾りたいとき、無意識にでも強がっているとき、 それは本当の自信のなさの表れなんだと思う。 存在そのものに自信を持てていないから、 自分にいろいろ貼っ付けたくなる。 そしてそれを主張したくなる。 他人に分かってもらおうとしていると同時に、 自分にも言

          僕は誰だ

          人生の体感時間は変わるらしい。 よく言われるのは20歳くらいで人生の半分の 体感時間を生き終わっている。 一年という単位が占める割合がこれまでの人生が長いほど 小さくなるからだろうか。 全て慣れていることばかりで新しいことに触れなくなるからだろうか。 生活を一か月単位、一年単位というふうに 大きい単位で過ごすようになるからだろうか。 いずれにしても、たしかに体感時間は短くなっているような気がする。 もう一週間たったのか。 もう大学生終わったのか。 これがたぶん、もう

          還るところ

          長くてもあと100年で死ぬのか。 そんな気持ちにふと包まれた。 何気ない日常のひととき。 この生の儚さに僕は触れた。 尊さを奥に秘める虚しさ。 それをうっすら感じるけれども 決してまだ死を美しく感じることはできなかった。 知っているはずなのに知らなかったこの事実。 当たり前のことをそのまま見つめられた。 その存在そのものに触れようとする感覚。 それ自身とつながる感覚。 それを人は愛と呼ぶのかもしれない。 死という目を背けたくなる不の象徴のような存在を 僕はどのく

          分からない

          僕は何をしていこうか。 それを考えてみる。 超次元スポーツを創る。 物語を創る。 僕の思想体系を創る。 大きくはこんな感じかな。 細かいことで言ったらいろいろある。 パン屋やる。 世界の絶景を見る。 音楽を創る。 幸せな家庭を築く。 先生になる。 学問を探求する。 XRのMAD創る。 MAD作成アプリ創る。 パートナーAI 読書パートナー カレンダー、チャット、日程調整、名刺、メモの統合あぷり シフト作成・管理アプリ 恋愛 友達と遊ぶ いろいろ挙げてみたけれども、

          他力

          身体が心地いい。 何かに包まれているような 身体の境界線がにじんでいるような そんな感じがする。 今日は力が抜けている。 リラックスしていると言ったほうが近いかな。 優しい感じ。 安心感がある。 何を考えていたかも よく分からない。 未来も過去も頭の中を覆わない。 考えようとしても 気づいたら消えてしまっている。 というか考えようとしている感じがすくない。 考えが浮かんでくるときはあるが、 考えようとする感じは薄い。 といっても、どんな時も大抵そうだよな。

          揺らぎの心地

          最近、何か少し変わってきている気がする。 何が変わっているのかもはっきり分からない。 なんていうんだろう。 力みが取れてきている感じというか 遊ぶ感覚というか。 力を入れてしまう感覚が認識にも乗ってきた。 乗ってくるからこそ苦しさを感じる。 気が付いていないというのは怖いことだけど、 ある意味楽である。 気が付いていないことがあるということに 気が付くのはすごく大事なことかもしれない。 今を味わって楽しんで生きる。 素のエネルギーを押さえつけずに エネルギーそのも

          まずいっちゃえ

          おはようございます。 今日は特に何も書くことを思いついていません。 けど、とりあえず書き始めることにしました。 やっぱり、たぶん何事もまず始めるってことは大切だと思う。 悩んでいる暇あったら行動しろみたいなのもそう。 始める対象がたぶん難しいんだよな。 ただ脳死で突っ込めってこととは違う。 まあそれが大事な時があったり、 そういうのを飛び込める人がとんでもないことやっちゃったり することもあるんだろうけど。 何もしないよりは突っ込むほうがいい。 もちろん対象による

          無価値に直面するのが嫌で、様々な苦しみが生まれてくるのかもしれない。

          僕は苦しみというのがよく分からない。 本当に苦しそうな人が言っている「苦しい」と 今僕が思うような「苦しい」は違うものな気がする。 逃げだしたくなるようなものならまだしも 死にたくなるような苦しいがよく分からない。 高校サッカーの時はたしかに苦しかった。 逃げ出したいしこのストレスから早く解放されたかった。 けど死にたいとなったことなんて一度もない。 その苦しさも、今はもう感じることがない。 押しつぶされそうな苦しさから離れている。 というか、苦しいという表現がぴ

          無価値に直面するのが嫌で、様々な苦しみが生まれてくるのかもしれない。

          言葉の魔力

          もしかすると言葉って とんでもない武器なのかもしれない。 正直、これまで言語化ってなんか浅いなと思ってた。 だって、言葉なんて幻でしかないから。 いくら言葉を使っても、それそのものではない。 言葉の意味を永遠問うていっても言葉だけでは一生たどり着かない。 なんならぐるぐる回るだけ。 言葉で言えないことの方がこの世界大半だろうし、 むしろ言葉で言えないことの方が大切だとも思う。 だから、所詮言葉だろって思ってた。 言語化とか言って言葉に縛られるのは本当に大切なことを

          すべて

          この宇宙の真理は、無であり無限だと思う。 その存在のことは感じるが それがある証拠もそれが何であるかも分からない。 間違いなく思考や言葉自体は有限であり、 それらによって表現しようとする「そのもの」は 形を持たない。ただのエネルギー。 それに服を着せて認識をする。 どんな服を着せるかは自由であるし、 あくまでそれは服でしかない。 そのものではない。つまり、思考や言葉などのそこには何もない。 「あると感じる。あると思う」 それしかない。 起点を感じる。主体を感じる。

          本当の幸せの状態

          人間としての幸せの真理は何か。 人間の幸せ自体、真理自体は言及できないけど、 その状態がどんな感じかは言及できる。 けど言葉にする時点でめっちゃ正確ってわけじゃないけどね。 真理から漏れ出すものを、言葉という色を塗って 頑張って伝えようとしている感じ。 それを前提において 人間の本当の幸せとは何かについて書いていきたい。   本当に幸せになる時、 それは自己への執着からの脱却をするとき。 たぶん一言で言うとこうなるんだと思う。 脱却の仕方は人それぞれなんだろうけど

          フィクション

          本当の幸せとは何か。 この問いに人間は直面する。 本当の幸せ、真理。 それを追求せずにはいられないのが人間だ。 プラトンにならうなら、 それはイデアと言ってもいいかもしれない。 今明確に分からないのに、なぜかあると心の底で感じる。 それを追い求め続けてしまう。 だけどいくら真理を探究しても分からず、 最終的にその限界に直面する。 物質を突き詰めて量子にたどり着いたのと同じだ。 最終的に、これ以上分からないということが分かる。 無知の知といってもいいかもしれない。 フ

          南無阿弥陀仏

          僕がすべきことはすごくシンプルなのかもしれない。 善いと思ったことをすること。 すなわち善く生きる。 自分が善いと思ったことが本当に善いかは分からない。 衆生の頭で考えたことで大変おこがましいが 衆生の善と仏の善が異なるのはこういうことかもしれない。 けど僕は、善いと思ったことをすることしかできない。 あとは天、神、仏に祈ることしかできない。 人事を尽くして天命を待つ。 人事を尽くそう。 ヒトラーとかも、彼は彼の善いと思ったことをしたのだと思う。 だがやはり悲惨な