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自信ってなんだろう

本当の自信。
それはすごく静かで穏やかで、
それでいてどっしりとしているのだと思う。

表面的な僕らしきものではなくて、
僕の根本にある、僕そのものと言っていいような存在それ自体。
それが真の自信の正体なんだと思う。

自分を着飾りたいとき、無意識にでも強がっているとき、
それは本当の自信のなさの表れなんだと思う。

存在そのものに自信を持てていないから、
自分にいろいろ貼っ付けたくなる。
そしてそれを主張したくなる。

他人に分かってもらおうとしていると同時に、
自分にも言い聞かせているのかもしれない。

 

何か少しニュアンスが難しいな。
存在自身と言っていいような本当の自分が
自信を持っていたり自信を持っていなかったりするって
意味ではないんだよな。

本当の自分を受け入れていれば受けているほど、
本当の自分を観ずれば観ずるほど
真の自信が生まれてくるっていう感じかな。

たくさんの経験をすることで
本当の自分に気が付けたりもするのかも。

経験によって、奥の自分を感じたり
外側の自分を認識したりするのだろうか。

どうであるにせよ、
本当の自信はどっしりとしていて穏やかだ。

 

逆に、偽りの自信とはどういうものだろうか。
どこか違和感のある言動に言及してみたい。

自分の実績を自ら進んで主張する状態。
または主張したくなる状態。

肩書や自分の人脈とかスキルとかも同じ。

そういう分かりやすい名がついていて、
それをあたかも自分の強さの証明だと
言わんばかりに主張しようとする態度は、
やはりどこかに違和感を抱く。

そいう言う話を聞くと、
胸がざわっとして対抗したくなる僕もまた
偽りの自分に僕を同化している節があるのだろうな。

 

行動指針というか今の自分の軸みたいなところにおいても、
名刺に書けるようなことを得にいく姿勢は
本当の自分を受け入れらていない証拠だと思う。

凄そうなこととか、珍しいこととか、
みんながいいって言っていることとか、
何か人に話せるようなことをしようとする姿勢も
やはり真の自信に欠けているんだろうな。

そういうことができていない自分に、
モヤモヤを感じたり焦りを感じたりすることもまた、
真の自信のなさの表れ。

予定をパンパンに入れないと嫌だってのも
自信のなさを感じないようにごまかす態度だと思うな。

こういうのがダメってことじゃない。
むしろ真の自信を持つために必要な道程なのだとも思う。

これまで言ったようなことに結果的になることは全然あると思う。
むしろ真の自信がある状態になれば
そうなっていくのが自然なのかもしれない。

だけど、自分で意図的にそうしようとしている状態、
そうしないと嫌だって状態は自然ではない気がする。

力みがある。執着をはらんでいる。
作為的な打算的なその態度は、
根本の奥の本当の自分を押し殺していて、
外側の表面的な自分を華やかにすることに他ならない。

それは、たぶんただのごまかしに過ぎないし、
その状態のまま真の自由、豊かさ、幸せになることはできない。

さっき言ったみたいに、それが大切な過程にはなり得ると思うけどね。

 

とにかく、
いっぱいしゃべりたくなったり、自分を主張したくなったり
知識武装して論破したくなったり、自慢したくなったり
する状態は真の自信がない証拠ってこと。

それを抑えようとしている状態も
未だにその枠から抜け出せてはいない。

大切なのは、まずはその事実らしきものを知ること。
そうなのではないかと認識しようとしてみること。

何か自分が強く主張したくなったり反論したくなったりするときは、
そこに何か自分にとって気が付いていない大切なものが隠れている。

僕はなんだかそんな気がする。

そうやって一生懸命生きている先に、
きっと真の自信を持った真の僕がいるんだろうな。

一生懸命、全力ってのもたぶんめっちゃ大事。
それは真の自分を最大限表現しようとする態度。

自分を出しきる。
逆にそれができていない時は
本当の自分を殺している。

何事も全力で一生懸命やろう。
最善を尽くしていこう。

僕にできることはそれだけだ。



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