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南無阿弥陀仏

僕がすべきことはすごくシンプルなのかもしれない。

善いと思ったことをすること。
すなわち善く生きる。

自分が善いと思ったことが本当に善いかは分からない。
衆生の頭で考えたことで大変おこがましいが
衆生の善と仏の善が異なるのはこういうことかもしれない。

けど僕は、善いと思ったことをすることしかできない。
あとは天、神、仏に祈ることしかできない。

人事を尽くして天命を待つ。

人事を尽くそう。

ヒトラーとかも、彼は彼の善いと思ったことをしたのだと思う。
だがやはり悲惨な結果に終わったと僕は思う。

こういうことを考えると怖い。

本人はそれを最善だと思ってやっている。

けど僕たちはみんな自分が善だと思っていることを
することしかできない。

それがある意味人間の限界。

善だと思うことはもちろん変わっていく可能性は十分にあるが、
変わったとしてもそれが本当に善かは分かりようがない。

だけど、それでうじうじしていてもしょうがない。

僕は僕が善いと思うことを全うするだけ。
毎瞬毎瞬。

毎瞬というのが大事だと思う。

善いと思っていたことをしていて、
周りの人に何か助言いただいたときに
僕の考えは必ず何らかの影響を受ける。

そして、それを踏まえてその瞬間の善を選ぶ。

過去に引きずられてはいけない。

今の最善を常に観察し、選び続ける。

そうはいっても不安はあるだろうから、
例えばアドラーは「貢献」というのを1つの
指針にすることを提案しているのかもしれない。

仏教でも六度万行をし続けたりして
自分を見つめ続けるのは大切なんだと思う。

自分は完璧になったと思っている時が一番危うい。

だからこそ、煩悩具足を感じるときはある種安心したりもする。

気づかずにやっている時が一番怖い。

無知の知を大切にする。

まず僕は有限の存在なんだ。
万能でも完璧でもない。

これをはっきり理解する。
そして絶対に忘れないようにする。

ここを取り違えた時が一番危険。

こういうのを忘れないように、
毎日お経を読んだりとかがあるのかもしれないな。

人間だから、普通に生きていたらだんだん忘れてしまう可能性がある。
だからこそ、決まりとして定期的に振り返るべきだと思う。
けどその振り返りも形式的になったら危ない。

やってる気になったらやっていないのと同じ。
そうなっている状態の時は自分では気が付かない。

まずはそのことをしっかり理解する。
まあこれも結局はいたちごっこで完全には無理だから
結局やれることは人事を尽くすことしかない。

法友と一緒にいられることは
自分が危ない時を気が付かせてくれるっていう
ありがたいことでもある。

毎日瞑想をすることも心を観察するうえですごく大切。
逆に完璧に瞑想できたと思った時の方が少し不安。

そういう時こそ注意する。

僕がやることなすこと、全ては有限なんだな。
全部正しいか分かんないし善なのか分かんない。

だけど、僕はその生き方しかできない。

そんな有限の僕が善いことをできるように
祈り続けたいし、善い生を生きさせていただいていることに感謝したい。
こういうことを感じられていること自体がありがたい。

僕がこうしようと思ってこうなったことじゃない。
僕を越える何かだ。縁であり導きのおかげでしかない。

ありがとうございます。

自分にはどうにもならないことなのに
こうならせていただいてありがとうございます。

こうなっていることが善なのかなんて
全くもって分からないけど
僕ができることは祈りと感謝しかない。

ありがとうございます。

改めて胸に刻もう。

僕は善く生きる。
徹底的に人事を尽くす。

こんなふうに生きることができる
人間に生まれさせていただいてありがとうございます。

有限なのに、有限の中で決断させてもらえる。
こんなにありがたい恵はない。

きっとこれはたぶん人間だけなんだろうな。

ありがとうございます。

この生を大切に味わいながら生きていこう。

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