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本当の幸せの状態

人間としての幸せの真理は何か。
人間の幸せ自体、真理自体は言及できないけど、
その状態がどんな感じかは言及できる。
けど言葉にする時点でめっちゃ正確ってわけじゃないけどね。

真理から漏れ出すものを、言葉という色を塗って
頑張って伝えようとしている感じ。

それを前提において
人間の本当の幸せとは何かについて書いていきたい。

 

本当に幸せになる時、
それは自己への執着からの脱却をするとき。

たぶん一言で言うとこうなるんだと思う。

脱却の仕方は人それぞれなんだろうけど、
先人たちはいろんな道を差し示してくれているって感じね。

けど、あくまでそれは真理そのものではなく、
それのみが真理に行きつく道でもない。

結局歩くのは君だ。
真理に至った後振り返ってみれば君だけの道になっている。

道を歩んでいる途中は、
君は先人の道のみが正しいと思っているかもしれないし、
それを疑って試行錯誤しているかもしれない。

正直それは何でもいい。

けど確実なのは、真理を得た後振り返ってみたら
君だけの道だったなとわかるはず。

本当の幸せになる時。ならせてもらう時。
不思議となった時。

それは自己というものからの執着から
逃れたとき。

それは執着してしまう自己を
認識している状態ともいえるかもしれない。

自分が有限だとはっきり理解する時。
もっと正確に言うと
自分は有限なんだと思うってよりも
有限なんだって思う感じね。

そこに至る時、言葉は消えていく。
言葉が跳ね返される。違う違うってなる。

そんでゼロになった時、その時本当に幸せについて知る。

どんな道で至るかは人によって違う。
人間として生きられていることへのありがたさを感じるかもしれない。
そうでないかもしれない。

喜びがどのくらい生まれるかも人によって違う。
この喜びに関しては煩悩だからね。

真理に至るために苦労した人ほど、
この喜びは大きいと思う。


浄土真宗で言えば、阿弥陀如来に救われる。
救われた時、死後がはっきりわかるというけど
それは間接的なもの。
今の自分がはっきりわかるから死後もわかるってこと。

自己をはっきりわかることによって、
自分が煩悩の塊であることを分かることによって救われる。

これが浄土真宗。

まあこれも浄土真宗がこの道を示してくれているって感じで、
実際は自分の有限だとはっきりわかることが本質。

自分にはどうにもできないと心から分かる。
煩悩具足の悪人だってことがはっきりわかる。

他力って感じ。

禅とか密教とか基本的に全部、
真理を得るための道程の違い。

今みんなが真理に至れない原因を考えて、
このやり方が最善だと思った方法を開祖の方たちは説いている。

もっといえばキリスト教とかもそうだと思う。
だけど、その道程、方便は科学と相性悪い。
あとは誤解が生まれやすいとかいう特徴もある。

そんなかんじでいろんな道程はあるけど、
全部特徴は違う。

キリスト教は人を傷つけることが歴史的に多かっただろうけど、
仏教的に言う救われた人もその分多かったのかもしれない。

受け取る側が間違って受け取ると大変なことになるのが
キリスト教とかなのかな。

その辺もちゃんと学びたいな。

 

基本的に全ての苦しみは自己の執着から生まれる。
現代はいろんな地位とか名誉とかあるからより
自己に執着しやすいし苦しみを生みやすい。

けど逆に、自己に執着していることに気が付きやすい面もあると思う。

現代は、自己を記号化、意味化、情報化みたいな感じで
価値として見てしまいがちだからね。

自己を固定している。確固たる自己があると思ってしまう。

けど根本は今も昔も変わっていない。

自己に執着してしまうということ。
自己に執着して生きていることに気が付いていないこと。

気が付いているということは、
すなわち本当の自分は執着から逃れている。

今風に言うとメタ認知できている。

自己への執着は必ずしも、自己の価値化とは限らない。
自己を価値として見るのは現代で顕著なだけ。
まあ多少なりはあるかもだけど。
いや、ずっと強くあるのかな。

まあ、もっと本質的なところにいくと
自分が万能だと思っている。自分が有限だと心から思っていない。

自分にはどうにもならないことがあると腹から分かっていない。
正確に言うと自分がどうこうできることは何もない
ということを腹から分かっていない。

頭でわかっている人はいるのかもしれないけど。

あと、この自己への執着の離れ具合は人によって違うと思う。
抽象度高い存在になっていく。

けど、離れたかどうかってのがまず大事。
完全に同化している状態からそれが解放されたか。

この解放されたこと自体を浄土真宗的には
絶対の幸福と呼ぶんだろう。

あとは、愛についてもっと知りたいな。
心が融合して一体になる。

これは絶対の幸福とはまた違うと思う。
自己の執着からの脱却とはまた違う気がする。

仏教的に言うと慈悲の心。
これが仏教ではどんな位置づけなのか調べてみよ。

愛こそが本当の幸福かもしれない。

万物は抽象化に進んでいく。
一は広がっていきやがて一はなくなりもっと大きな新たな一になる。
まあ外側の枠があったらの話だから正確には違うけどね。

無限に向かっていく。広がっていく。
これが万物の真理だと思う。

自己からの執着がなくなっていくのも
その現象の一つ。

エントロピーは増大していく。

世界は本質的にエネルギーの流れ。

最終的に一つになるのか。けどそれは大外があるということ。
始まりもないし終わりもない。

これが人間にはわからない。
どういうことか。無限を知らない。

これが人間が考える限界。

人間が考える範囲で真だと言えるのは、
万物は無限に向かって流れているっていうこと。

これだと思う。

切り取ると流れているってこと。

諸行無常とかと一緒。

だから、もし嬉しい感情になったら
それを自分の中でとどめるんじゃなくてちゃんと外に出す。

お金は貯めずに使うとかもそうだと思うよ。

何か捨てると何か入ってくるとかもね。

流れを止めちゃうのは基本的に善くない。

自己への執着が大体流れ止めちゃうからあんまよくないんだろうな。

身体もそうで、やっぱり運動した方がいい。
エネルギーは使ったほうがいいと思う。

循環は無限だ。
だから循環って捉えたほうが分かりやすいのかも。

輪廻転生とかニーチェのやつとかもそう考えたらよくわかる。
万物は回転であるみたいなやつも。

基本的に自分の中でエネルギーをとどめない。

エネルギーが溜まりすぎちゃうと
やっぱり不調が出てくる。

人間の心、関心とかも基本的には無限に向かっていく。

それが何かは人それぞれ。

科学の解明の人もいるかもだし、
目標達成もそうなのかな。

今は違うと否定し、今は無限、万能じゃないと否定し
無限、万能に向かう。

そういう存在。

今は満たされていないという気持ち。
それだけ。

万能だと思っているから満たされない。
だから満たそうとする。

何かが足りないと思う。

無限を満たすことは一生できない。

けどなかなか自分は有限だと思えない。
無常感を抱いたり無力感を抱くのは自分が有限だと
頭ではなくはっきりわかる始まりだと思う。
死っていうのはそれにおいて大きな役割を果たす。

やろうとしているのにできない。
思い通りにできない。

これの繰り返しが、自分の有限性の理解に近づいていくのかも。
だから罪悪感、煩悩具足を分かることは大切だし、
負い目が大切になる。

けど、やろうとしているのにできないってのは
善に向かわないといけない。

善に向かい続けるけど、完全にはできないってのが
自分の有限性の自覚になる。

けど、これやってるとたぶん自然と善に近づく。
無限に近づくってだけで完全にはならないだろうけど。

完全になったとき、負い目は感じなくなるけど、
それはただのうぬぼれかもしれない。

自分ではそれは絶対に分からない。

逆うぬぼれの方が怖い。
だから負い目がある方が逆に安心するし、
良心を間接的に感じる。

善く生きるって大事だなって思う。

たぶん、他の人に善を与える感じに感覚がシフトしている時、
本当の善になっている気がする。

人類に対して負い目を感じて、
善くなろうとする感じ。

自分って枠から広がっている時。
関心が自分じゃなくて共同体にあるとき。

心からそう思えている時。

まあそうなってて、自分は完全に善だな―って思ったら
それはもう完全な善じゃないってことだけどね(笑)

これがすなわち愛なんだと思う。

お釈迦様はたぶん愛だった。

仏の心のみの状態。
絶対の幸福は仏凡一体らしいから完全な善ではない。

仏凡一体って梵我一如とか精霊が宿るとかと一緒な感じだよな。
いや梵我一如はちょっと違うかも。

まあだから、例えば相手が救われているか聞く時は
救われましたか?って聞くと相手はたぶん応えづらい。

救われたって言うことも救われてないって言うことも
たしかではない。もやもやする。

そこに言及している時点でもう違うんだ。
仏教でいうところの救われたってことではあると思うんだけどね。

けど、たぶんこういう感じでフィクションだとはわかってないけど
救われたって人もたくさんいるだろうから
たぶんそういう人は返答に困る。

ここを分かってもわからなくても救われていることには
関係ないんだけどね。

救われたことに気が付いていないだけで救われている人とかもいそう。
たぶん本当に他者とか人類に関心が向いている人はそうなんだと思う。

嫌でもこの辺むずいな。自己中心性から他者に何かしたいと思っている感じの人もいるからね。建前とかもある。


この辺むずいな。

よし。けど僕は愛の塊になろう。


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