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言葉の魔力

もしかすると言葉って
とんでもない武器なのかもしれない。

正直、これまで言語化ってなんか浅いなと思ってた。

だって、言葉なんて幻でしかないから。

いくら言葉を使っても、それそのものではない。
言葉の意味を永遠問うていっても言葉だけでは一生たどり着かない。
なんならぐるぐる回るだけ。

言葉で言えないことの方がこの世界大半だろうし、
むしろ言葉で言えないことの方が大切だとも思う。

だから、所詮言葉だろって思ってた。
言語化とか言って言葉に縛られるのは本当に大切なことを
見失ってしまう。
だから、言語化ってなんか表面的だよなって思ってた。

 

実際、言葉はフィクションでしかないと思う。
だけど、言葉の力はすさまじいのだと思う。

フィクションだから大したことないっての違う。
むしろフィクションこそが人間の武器じゃないか。

言葉という武器を使ってきたからこそ、
人類は他の動物を支配するほどの力をつけてきたんだろうな。

 

言葉は情報だ。言葉自体は死んだもの。
だけど、情報は消えない。

言葉という情報、実体みたいなものを作ることで
後世にもバトンをつなぐことができる。

伝えたかったものそれ自体は残せないけど、
言葉があることでその人の可能性が開かれる。

1人でも少しずつ可能性は開いていくんだろうけど、
その速さが比較にならないほど速くなるのだと思う。

たぶん昔の人よりも今の人の方が
精神の発達スピードは速いんじゃないかな。


まず、個人の成熟はどのようにして行われるのだろうか。
言葉によって、なぜそのスピードが増すのだろうか。

言葉の性質として、保存みたいなものがあるのだと思う。
後世に繋ぐ意味でも保存するみたいな感じだし、
何か理解する時も言葉として形になるんだと思う。
形になることで認識できる。

形(言葉)にすると認識するというのは、
観測すると実体になるみたいなものかな。
何か似た感じを抱くけどまだしっくりとは分かっていないな。

言語化は見えるかと一緒。
言語化は情報化と一緒。
形にするってこと。

 

赤ちゃんってどうやって成長していくだろう。
まずこの世に生を授かる。

外界と触れる。見たり聞いたり触れたりする。

触れるによって、何かを受ける。
心身が何かを受けるって感じなのかな。

言葉がない世界。ほんとにほんとの最初はまだイメージつかないから、
言葉がある世界で考えるね。

つまり、普通に親がいて言葉を教えてもらえる環境にいるってこと。
この環境じゃなかったらどうなるのかはまた今度考えます。

シンプルに環境によっていくって性質かな。
何にどのくらい時間を使っているかでそれの平均値みたいなのによっていく。その性質が、赤ちゃん主観で見ると言葉を覚えようとしていくのかも。

環境にとって異質であるものは、環境によって行く。
偏りがあったらその偏りがなくなる方によって行く。

閉じた系で粒子が偏っていたら、満遍なく広がっていくように。
エントロピーが増大する方へ向かう。

ほとんどの人間の話をすると、
エントロピーが増大するうえでの閉じた系は、
環境になる。
つまり、何にどのくらい接しているか。
これがその人にとっての環境でその環境に近づいていく。

こういう基本的な原理っぽくもある。

もっと実際に近づけると、
シンプルに生きようとする生命力によるものかな。

生きたいというエネルギーだけはあり、
赤ちゃんはそのために周りの助けを求める。

言葉を覚えたほうが生きたいという欲が満たされるから、
そっちの方に向かうのかもしれない。

赤ちゃんはマネをしたがるって言い方もできるか。
これは環境に寄っていくってことだろうけど。

赤ちゃんのこと考えるのもやっぱ難しいな。

じゃあ、幼稚園くらいの子供がどうやって新しく言葉を覚えていくのか。

これはまず、大人が知らない言葉を使うってのがありそう。
それを聞いてそれなに?って聞く。

基本的に、万能に向かっていくのだろうな。
無限に向かっていく。できないことがあったらできるようになろうとする。

その言葉の意味を聞いて、
大人がそれを教える。

それが、既成概念として存在する言葉や経験に基づいたものであると
それを理解する。

そこにいきつくまでは疑問は止まらない。
だって普通に分からないが解決されないから。

既成概念がどうやって形成されるのか。
僕たちが当たり前だと思っていることはどうやって当たり前になったのか。
それも面白い観点だな。

大体の子供は、
親がそういうもんだよっていってフーンと思うしかないのかな。

いったん保留された質問は、たぶん自分の実生活と直接関係ないものは次第に消えていく。

どっちでも関係ないから。

シンプルに周りの人がみんな言っているからそう思っているみたいなのもある。

むずいな。この辺。

けど、今の僕たちの新しい言葉や概念の理解も同じなんだと思う。

あと、そういう疑問は最初新しいものに触れたときに
それを知りたいって感じになるけど、
だんだん既成概念に向かっていくんだろうな。

そもそも、なぜそれが当たり前なんだろうみたいな。
これを前提に考えているけど本当にこれは正しいのか?みたいな。

関心が自己に向かっていくのもこんな感じかも。
私ってなんだろうみたいな。

小さな子供の既成概念は、
たぶん人間としての知覚機能に基づいたものかも。

どうだろ。

てか、どの地点で関心が前提の方に向かうんだろ。

難しいな。

めっちゃ話がそれた。

なんか分からないことだらけだな。
全部分かんない。

すごいな。味わい放題。
いくら探究しても探究しつくせることはない。

無限に期待し万能になりたいんだけど、
ゴールみたいなものはないって感じか。

人間が有限であるからそういうものだよな。

そうすると、人間が行きつける最高の場所は、
無知だということを知ることなんだろう。

それでも知ろうとする心は止まらないだろうけど。

無知の知。

 

話し戻そう。

まあ、言葉っていう感じで知らない概念をまず受け取る。
そういうものがあると言われるけど、それが何かは分からない。

存在だけ知らされるってかんじか。
あるかないかも分かんないけど、存在可能性があるって感じかな。

それを知らない間は、
それが存在するって可能性すら知らない。

可能性が開かれるんだ。

これがまず理解のファーストステップかな。

あるかもしれない。という感覚。
これは自分が万能で完全だと思っていたら生まれてこない。
けど意外と、今自分が理解できることがすべてだと思っている人が多いんじゃないかな。

まあまず可能性が開かれるってことね。
新しい概念の提示、言葉の提示によって。

その言葉の存在を知る。言葉の意味は分からないけど。
そうすることで「言葉の意味」の存在可能性を知る。

何か新し存在を知った時、
その奥の存在可能性が開かれるんだろうな。

そこから言葉の意味を理解するのはどんな過程をたどるのだろう。

数学とかの理解の道程を考えたら面白いかもな。

1+1=2ってのは、実際のものを使って説明したら
多くの子供は分かるのだろうな。

ここでなんでそうなるの?ってなる子供はすごいよね。
何が違うんだろう。

まあこんなかんじで、既成概念を組み合わせる形で
新しい概念を知る。

その新しい概念は、最初頭ではわかるけどとか言われたらわかるけど見たいになるんだと思う。
そこからそれを繰り返しやることでそれが当たり前になるんだろうな。
けどそれってなぜかわかったってことじゃないよね。

そういうものだって了解したって感じ。理解はしていない気がする。
ほとんどの場合はってことね。
自分の既成概念に行きつく前に、それはそういうものとして捉える。
そっちの方が省エネだから。みんなが言っているから。

けどそうやって決めつける既成概念は、
間違ったものになる可能性があるし無責任でもあるから危険だよね。

自分の既成概念に基づいた理解による、
新しい既成概念の誕生が理想。
これだったら最終的に自分の既成概念を疑うことだけでいい。
なんかよくわからんな。

まあけど、既成概念はどこまでたどっても信じていることでしかない。
身体感覚に関してもこれはあると信じている。当たり前に。

けど僕たちはどこまで行っても信じることしかできないんだろうな。
それをまずはしっかりと了解する。

これは大事だと思う。
その上で何を信じるか。理解できなくてもいい。

数学の公式ただ覚えるとかもあるじゃん。
その意味知りたくなるってい人も多いだろうけど、
それはそういうものだって決めつけることも多い。

その決めつけが間違っていることももちろんあるけどね。

だから、何を信じるかは大切なんだろうけど、
何を信じるべきかなんて分からない。

信じる根拠みたいなのを作るとしても、
その根拠を信じるってことだから、その根拠が正しい理由はない。
その根拠を信じる根拠を作ろうってなったらいたちごっこ。

けど、信じるっていうのはものすごいパワーがある。
信じることで自分の外のパワーをいただける。飛び級できるみたいな。

公式全部使わずにやってたら数学の進歩もない。
公式の理解はもしかしたら大切なのかも。
けど、公式を何も知らずに全部自分で生み出そうとしたらスゲーコスパ悪い。やっぱ継続は力強いし、先人の残してくれたものを受け取ることが
人類としての継続なんだろうしね。

まず公式を教えてもらう。
その後に理解するって順序が数学の学習は当たり前じゃん。
理解せずに公式使う人もいるだろけど、まずその公式の存在を知る。
そうすることで可能性が開かれる。

言葉と一緒。価値観と一緒。

今の自分にはない新しい言葉や価値観を提供されて、
それはなぜそうなるのかを探求する。

そうして納得すること。説明できないと納得した気になっているだけかもしれないからむずいよね。まあどっかで公理に行きついてその公理自体は証明できないから、結局その公理については根拠はないけどそう思うって状態。
地球は回っているって言われてそうだよねってなる状態と同じ。別に自分で確かめたわけじゃないし、原理を知っているわけじゃないけどそうだと思っている。
これなしで全部自分で知ろうとしてたらきりがないし、人類として進歩がない。

そう考えたら信じるってすごいパワーだな。
人間を人間たらしめるものはフィクション。信じられるんだ。
これがあることで人類は普通より速いスピードで進化できる。
間違ったフィクションを信じる人もそうでない人もいるけど、
全体としては善い方に向かっていくと信じたい。

まずは、信じることで自分は大きく変化することを知る。
まずはここから。

何を信じるかについてだけど、
極端に言うと正しいものを信じることができれば
一気に成長する。

理想は新しい概念を提示されて、
それを理解することかも。既成概念まで落として理解する。
そっちのほうが多分応用がきく。

ゼロから生み出せる。

純粋にそれはそういうものだと信じるだけでは、
新しいものを生み出す力は生まれない。

けど、数学の公式みたいに脳死で覚えてもそれ自体の効果はある。

宗教みたいに、結局何かを信じることだからこれを信じるっていう
簡単なやつにしても幸せになれる。

けど、その分誤解も生まれやすいのかも。

まあ脳死でそう信じる方がスピード感は早いかも。

例えば仏教でもそれはそういうものだと信じるところはある。
けど恩恵だけを受けるとしたらそれでいいのかも。

けど、引き継ぐとしたらそれは違うと思う。

新しい概念を提示されて、それを既成概念から理解することで
概念を生み出した人を引き継げる。

一から生み出したのと同じ効果があるのかな。
わかんない。けど少なくともそれをすることで、自分の栄養にはなる。

新しい概念を生み出すにおいて、その材料はある。
その材料みたいなものとして溜まる。

脳死でそういうものだと決めつけることは、
たぶん栄養にはならないんじゃないかな。

たとえば、お金があれば幸せと脳死で思っている人と、
お金があればこういうことにお金を稼げば幸せと思っている人と、
お金をこういうことに使うことでこうなるから幸せと思っている人は
たぶん了解している深さが違う。

浅ければ浅いほどスピードは速いけど、
浅ければ浅いほど取り違える危険がある。
本筋とずれちゃったりね。

根を張れば張るほどちゃんとした方向に向かう。
これは公式を提供されてしっかり理解して使うのと同じ。
これの方が応用が利く。

根を張るのをどこまでやるかって話だけどね。きりがないから。
けど、根を深く張れば張るほど分別はなくなっていく。
全部に共通するようなことになっていく。
真理みたいなものに近づいていく。

お金の例で言ったら、これを深ぼりまくることで
お金がただの一つの具体例にすぎなくなる。
深ければ深いほど全てが同じだと思うようになる。

で、深ければ深いほど自分の栄養になる。
何かを考えるときとかもより真理に近づく。

だから、少なくとも自分の既成概念と少しでも
かするまでは深ぼろう。

そして、そう思った時に納得したとに
それを信じよう。

それが僕のスタンス。

けど、先人たちの練り上げた概念は取り入れさせてもらう。
それをつまみにして、自分でいろいろ考える。

それを納得する、もしくは違うと思うという段階まで行くまで深ぼりたい。

自分の意見をもつまでは味がする。
まあ少しほっといてまた噛んでも味はするのかもだけど。

 

最初に話したいことをずれちゃった。
仏教がすごいと思うのは、そういうふうな新しい概念を提示してくれるから。提示してくれるから、それの存在可能性を知る。
それを考えようとする。存在を確かめようとする。
そうすることで存在に乗り出す。

原理的に先人の公式を知らなくても自分で見出せる可能性はある。
けど先人の公式を知ってからの方がすぐにその公式を納得できる。
身になる。

そうやって認識に乗るということは、
たぶん自分の抽象度が一つ上がる。それを認識している存在になるから。

そうすると、その了解を元にまた新しい概念が提示される。
これを繰り返すことでどんどん自分の抽象度が上がっていき
逆にどんどん分からないことが増えていく。
最後には無、無限に行きつく。

そのとき、おそらく自分は消える。
それが分からないことが分かった時。

無知の知。

僕はそういう風に思うんだ。





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