「自分軸で生きる」を発見した日
どのくらい前かわからないけど、自分に素直になろう、自然でいようと決めた。
そういう人に憧れたし、そうじゃない人に違和感があったから。
でも、素直でいるとか自然でいるっていうのがどういう状態なのかはわからないでいたみたい。
それでいて、生活や仕事に関する知識や情報は増えていく。
賢くなった気になって、悪い気はしなかったけど、それは素直とか自然とは違う感じがしていた。
言葉を定義しないままに使うから、そうなってしまうのか?
とはいえ、そこに執着して足掻くのも、何か違う気がして、とりあえずそのままで過ごしてきた。
その間も多くの情報と知識に触れることになって、自分自身はどんどん形成されていく。
で、最近わかった。
情報も知識も、何かとの関係性も、自分の外側にあるぞ、と。
まずは、情報や知識や他者などの「自分の外側」を使って自分自身を発見するのが第一歩だったのだ。
そうやって、まずは自分自身に気づかないといけなかった。
それは経験していた。
自分自身の発見自体はできていて、「私は〜〜〜な人間である」という自覚は生まれていた。
そこで止まっていたのだ。
自分自身だと思っている存在は、外側との比較で生まれていた。
自分と世界を分けた時に生まれた存在。
それを自我って呼ぶ人もいるみたい。
それを発見して、それが自分自身だと思い込んでしまうと、
・外部との違いによる不安
・外部と分離したことで生まれる争い
みたいなのに発展する。
外の評価を気にする、とか
自分と合わない意見を否定する、とか
がそうだ。
どうも、私はその状態にあったみたいだった。
自分自身の素直な考えとか気持ちを表現している時、または表現した後、他者の反応を気にしている自分に気がついた。
もう1つ。
他者の反応を気にして発信している自分も発見できた。
こういう自分たちは、分離意識によって生じた自分で、私が目指していた素直とか自然とは違うぞ、と気づいた。
「私が声を大にして言おうと思った大事なこと」って、すでに「頭のいい人」とか「成功を収めた人」とか「声が大きい人」がもう言っている。
同じようなことを言えば、他者から評価されるんじゃないか、といった下心が私の中にあった。
それも発見できた。
そんなのわざわざ私が言わなくてもいいし、人の目を気にしていて自分らしくない。
なんとなく感じていた「気持ちの重さ」に気づいて、スッキリした2020年8月7日。
では、私は何を言うのか?
単純に私の素直な気持ちで良いわけだ。自然に逆らわず。
「分離」から生まれる感情や言葉を切り離していくと、素直で自然な自分が現れると思っている。
その存在を大事にしていこう。
自分軸で生きるとか、自分の中心に自分を置くとかってそういうことなのかも。
それなら、楽に生きていけそうだ。
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