学校行事に参加すると、いろいろ見えてきて苦しい
小学校に行って、子供達を見ていると、個性の違いがよく見える。
それはその子達特有の認識パターンで、そのほとんどは家庭で作られているモノだと思う。
だから、子供を見ていると親の思考や振る舞いがだいたい見えてくる。
どういう家庭で、どんな親からのどんな教育を受けたか。
そこに優劣はなくて違いがあるだけ。勉強ができるとかできないとかの話ではない。
どういう振る舞いの子供が優れているとか、そういう話でもない。
違いがあって、その違いを生み出した背景があるよなあ、という感想だ。
「個性を大事に」
「その子らしさを大事に」
と言葉にしながら、学校教育は「同じような人材が生まれるように」育てているように見える。
教員と話している時は、「その子のいいところが伸びるように」働きかけていると聞いたけど、実際の場面ではそうはなっていない。
長く続いた教育現場の慣習を超えていくのは並大抵のことでは無理だろう。。。
「みんな違って みんないい」じゃないけど、あの人と私は違うんだ、と思えればいいだろう。
ところが、「みんな同じように」を念頭に学校生活が構成されているから、「同じじゃない部分(個々による違い)」が目立ってくる。
目立ってきた違いをジャッジメントして評価して善悪をつけて優劣をつけるから攻撃が始まる。
表でやるか裏でやるかはその時々で選択されているようだけど、「違いを認めない集団」にいるから、違いを排除しようと働いてしまうのか?
学校だけでなく、家庭でもそう。親がしているんだ。
親が「自分の考えと同じようになれ」と、無言であるいは直接働きかけている。
親の価値基準でもって、子供の言動を作っていっている。
社会規範から外れるような言動は修正の対象にならざるを得ないと思うけど、「親の価値基準(好き嫌い)」をベースにして「自分と同じような基準を持て」とするのは危ない。
そう言いながら、私もやっている自覚がある。。。
親が「自分と(家族と)同じ考えを持つように」働きかける様子は、「そうじゃない考え、意見、行動」を攻撃しているように映るかもしれない。
それを子供がまねている。学校でやっている。
それをクラスでやっている奴を、他の子供がまねる。
集団による攻撃はそうやってできていくのではないのか???
学校は社会や家庭の縮図と言われるし、そう思う。
いじめ、パワハラ、セクハラを本気でゼロにしたいのなら、家庭の単位で、社会の単位で「同じでなくていい。違いがあっていい。」という方向にならないとじゃないか?
その上で、「違うだけで、そこに優劣はない」という結論を共有できないと変わらない気がする。
「ダメだ」「してはならない」っていうだけではなくならない気がする。。。
ああ、違うんだ。
会社は階級社会だ。
違いには意味が生まれ、力が生まれるのか。
「会社」って言うのが壊れないとダメなのか?組織っていうのがある以上、変わるのは無理なのか??
学校ってなんのために行くのだろう?
社会に気づくために行くのかもしれない。。。勉強なら学校じゃなくてもできるから。
ここまで書いておいて、ひっくり返すようだけど、現在の社会に対して私はジャッジメントしている。そして、今の社会はダメなところが多いよね、と優劣をつけてしまっている。
そんなことに気づいた。
学校では「みんな仲良く」と言う。
私は、「みんなと仲良くは無理だわ」と思ってしまう。子供にもそうやて言葉に出してしまう。
「違いはあっていい」と思ってはいる。
けれど「違いがありすぎると世界を共有できない」とも思っている。
違いが強すぎる相手とも、世界を共有していかなければいけないのか?そう思うと私は苦しさを覚える。。。
関係性を解消すれば、その世界を共有しなくて済むよね?
それはお互いのためだよね?
だから、「誰とでも仲良く」は無理なんじゃないか?と思う。
いつの日か、「違いが大きいけれど世界(関係性)を共有できる」時が来たらまた共有すれば良い。
そんなふうに思っている。
どうも現状の学校社会に困惑してばかり。。。
小学校では個性を大事にって言いながら、中学校では一気に受験モードに舵を切る。点数点数と言われる。子供たちも「点数、順位」を意識づけられる。
良い悪いを言っているのではなくて、「わかんねえなあ」て気持ちだけ。。。
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