「誰かを救いたい」は自分には重荷だった
仕事への思い
個人であっても法人であっても、何かの事業を興す「動機」というのがあると思う。
なんの理由もなく始める人もいるかもしれないし、自分の意思とは関係なく事業を任される場合もあるかもしれない。
そうだとしても、どこかのタイミングで「なんでこれをやっているのだろう?」みたいな動機というか理由にぶち当たる時が来る。
私もあった。
自分なりに探ってみてもよくわからない時は、周りの人を参考にしてみたり、事業を続けている人に相談してみたりする。
ある人は、
「ビジネスは救済(役に立つ)か、エンタメだ」
と言っていた。
おお。
なんだか、そう思えてきた。
仕事を始める動機
役に立つ何か
または
面白い、楽しい何か
に対してなら、お金は動きそうだ(お金を払う)。
自分の能力や環境によって、その規模や内容を決めていく。
あくまで方向性は「救済かエンタメか」なのだ。
そう思えた。
周りの動機を眺めてみると気付く違和感
そう思いながら、いろいろな人や企業のプロフィールとかみると、「自分の経験、自分の技術で、〇〇を救いたい」っていう思いをつらつらと書かれている。
ビジネスは救済かエンタメ、っていうのはテンプレート(決まり文句)のように思えてきた。
と、いうのは「救いたい」を自らの仕事の動機とした時に、自分自身へ違和感を覚えたからだ。
本当に自分は誰かを、何かを「救いたい」のか?
そんな大それたことをしたいのか?
「誰かの役に立ちたい」という思いで仕事をする人もいる。
それはそれで大切な志だ。尊敬する。
私も、誰かの役に立てて、感謝されると嬉しい。
それが直接の仕事の動機か?というと、そうでもないような気がしてきた。
「救済」への疑問符が最近の自分から離れないのだ。
自分は重要であると認めてもらいたい
誰かを助けたい。
それは、「誰かにとっての大事な存在でありたい気持ち」、と変わらないように思えてきた。
自分は相手にとって重要な人間でありたいという思いと、支配欲は紙一重な気がしている。
依存させたい気持ちにもつながる。
私は医療や介護の現場をよく知っている。
誰かの役に立ちたい、困っている人を助けたい、そんな熱意を持った人が多い。
美しいことだと思う。
事実、患者たちからの感謝や激励で、医療者や介護者は癒されている。
そこで関係性が成立しているとも言える。
それでいいじゃないか。それでいいのだろうけど、自分自身では何か違和感を覚えるのだ。
相手からのリアクションを求めて、相手に自分の思いを押し付けることにならないか?そんなふうに感じるようになった。
相手に、「この人がいると助かる」「この人がいて嬉しい」「この人がいないとダメだ」と思わせようとしてるんじゃないか?
そんなふうに感じてしまって、「救済」がテーマにならなくなってきた自分がいる。
エンタメでいいじゃん。それで軽くなれた
「救いたい」が動機にならない。
むしろエンタメに近いかもしれない。
「こんな風にしてみると楽しいよ」
「私はこんな感じで楽しくやってますよ」
「やってみます?」
がベースで仕事をやっている感覚がしっくり来る。
結果的に救えている人もいるかもしれないし、そうでない人もいるだろう。
救われているとか、そうでないとかは相手が感じることで、私が押し付けることではない。
少しでも楽しく思ってもらえたらそれでいいかな、と思う。
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