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【小説】晴れた日の月曜日なんだけど 第5話(終)


5.トゥモロー・ノー・モア
(Tomorrow No More , I don't want to think of next week)


 あるマンションの一室で夫婦が言い争っていた。
「あんた。お茶碗やカップを集めて、何しているの?」
「四角形のマークを探してる」
「四角形?」
「ああ。霧滝きりたきのマークだ」
「霧滝? 霧滝って、あのお茶碗とかお皿の会社の? 四角形のマークは見たことないわよ」
「あのおんなが言ってたんだ。四角形って」
「あの女って、どこの女よ。あー。また、変なとこに電話したんだね。どこ? 霧滝にかけたんだ。霧滝は四角形じゃないよ」
「だから、あの女が言ったんだ」
「あんた。また、勘違いしてんじゃない。勝手に思い込んで、相手が言ったことにするなんて。これまでも何度も相手さんに迷惑かけてんだから」
「いや、今度ははっきりそう言った」
「だから、四角形のマークの茶碗はないよ」
「とにかく探して、霧滝にアッと言わせてやるんだ」
「ほんとにもう。会社でいじめられてるからって、何の関係もない会社の受付の人に電話してうっぷんを晴らそうだなんて」
「だから、会社で言われたことを、電話の相手に言ってやるんだよ。そうすりゃスッキリするんだ」
「本当にスッキリするの。そんなわけないでしょ。もう。どうしようもない、いやらしい人間の発想だよ。やめとけって。会社で言われたんなら、会社でいじめてきた奴らに言い返してやんなよ」
「できるかよ。社長に言い返すなんて」
「社長? 社長に何か言われて恨んでるのかい。恨んでるのだったら、言い返してやんなよ、その社長に。どうしようもない会社に勤めてんだ。そんなパワハラみたいな会社……。 まさか、社長にいじめられているからって、あんたが部下にパワハラしてんじゃないだろうね? ……。 そうなんだ。ほんと嫌な奴だよね。そんなくだらないことしてんだったら、会社辞めちまいなよ!」
 最後は怒鳴り声になっていた。
 男は答えられなかった。

「あっ。そうだ。あのババアのところにそんなカップがあったな」
「ババア? ババアって、あんたの母親のこと?」
「どっかにしまってあるはずだ。ちょっと行ってくる」


      *


 金曜日。区役所の福祉課に電話がかかってきた。折り返し用の予備回線にかかってきた電話だ。
 前日は振り込め詐欺の注意喚起で電話をかけまくって大変だったが、その効果もあって夕方には区民から代表番号への情報提供が落ち着いていた。
 この日は通常業務に戻って、臨時で手伝ってくれていたもう一人の主任、菊池さんはパーティションの中にはいなかった。
 鳴っているのは昨日菊池さんが座っていた大きな机の上に設置された電話だった。主任の加藤さんが立ち上がってその電話を取った。

「もしもし、〇〇区福祉課の電話係です」
「あー。もしもし、そちらに絵美子さんはいますか? 私、先日電話してもらった山本です」
「あら。山本のおばあさん? 電話係の加藤です。先日は救急車で病院に行ったと聞いたのですが、その後お身体からだの調子はいかがですか?」
「ええ。あの時は疲れと前の日に良く寝られなかったのとでトイレで座ったら寝てしまったようで。絵美子さんが電話をかけてくれたのに、出られなくてごめんなさいね。すいませんでした。病院では別に悪いところがないって自宅に帰されたのですが……。見回り班の高橋さんでしたっけ。最後まで付いてきてくれて助かりました」
「そうでしたか。それはよかった。それで絵美子さん●●とお話しがしたいということですよね」
「ええ。いらっしゃいますか?」
「ごめんなさい。今日は絵美子さんがお休みの日なんです」
「そうでしたか。残念だわ」
「もし、私でよければ、お話しを聞かせていただきたいのですが、どうでしょう」
「そうですか。聞いていただけますか?」
「もちろんです」
「見回り班の人に来ていただきたいんです」
「どうしたのですか? 見回り班にすぐに来てほしいということですよね?」
「ええ、いま来てほしいんです。この前来てもらった高橋さんは親切だったから、高橋さんが忙しくなければまた来てほしいのですが」
「何かあったのですか?」
「いえ。ね。実は。息子が血相を変えて家にやってきて。急に来るものだから、びっくりして。それが家じゅうを探し回って。どうしてなのかわからないのだけど、お茶碗やらコップやらお皿やらを出して並べるんですよ。その中のいくつかをトンカチで割って、そのかけらを持って行っちゃったんです。破片が散らばってるのに、片付けないでどっかに行っちゃったんです。わたしはどうしていいのかわからなくて…… どうしましょう」
「山本さん。このまま待ってもらえますか。見回り班にそちらへ行ってもらえるか●●●●●聞きますので」

 加藤さんは保留ボタンを押して一旦パーティションの外へ出て、課長の小林さんを連れてきた。
「課長。見回り班の高橋くんに山本さん宅へ行ってもらうことはできませんか?」
「ちょっと待って。聞いてみる」
 携帯電話で連絡を取り始めた。
「高橋くんだと30分はかかるかな。他の班だったら15分で行けそうだけど。山本さんの希望を聞いてくれる?」
 加藤さんは保留ボタンをもう一度押して保留を解除した。
「山本のおばあさん。聞こえますか」
「はい。聞こえますよ」
「高橋くん●●はちょっと離れたところにいて、車で移動しているのですが到着まで30分はかかりそうなんですね。他の班であれば15分で着くと思うのですが、やはり高橋くんのほうがいいのですよね?」
「ええ。30分で来てくれるのであれば高橋さんに来てもらいたいです。他の人が来るのとは15分の違いでしかないのでしょ。それに一度来てもらってるから、家の様子もわかっていると思うんですよね」
「そうですか」
 加藤さんは課長のほうをみると、課長はOKのマークを出した。
「高橋くんが、そちらに行けるそうです。30分後に到着します。よろしいですか?」
「ええ。ありがとうございます」
「それで、家じゅう破片だらけなんですか?」
「いえ。和室だけで。いまは台所からかけてるのですが、テーブルは大丈夫だからここにいます」
「応接セットとかはないんですか?」
「洋間にありますけれど」
「そこはどうですか。破片だらけとか?」
「大丈夫だと思います。障子は閉めておいたから」
「そちらに移動しましょうか。そのほうが楽でしょ」
「ええ。そうします」
「念のため、ソファーに破片が無いかも確認してから座ってくださいね」
「ええ。ご丁寧にありがとうございます」
 床の上を歩くような音が電話の向こうに聞こえた。
「えっと。ソファーに座りましたよ」
「それでは、高橋くんが着くまで、もう少し私とおしゃべりしましょうか?」
「ええ。いいんですか?」
「ええ。もちろんです」


      *   *


 絵美子さんは金曜日、霧滝コールセンターの早番だった。
 睡眠はしっかり取ったつもりなのにまだ疲れが残っていた。

 昨日の振り込め詐欺注意喚起の電話連絡はとにかく件数が多かった。それも相手のおじいさんおばあさんの気持ちに気をつかいながら、一方で自分たち自身は怪しい電話ではないことを理解してもらわないといけなくて、体力的にも精神的にも疲れていた。

 こんな状態では電話対応でちょっとした間違いを起こしてしまいそうな不安はあったが、一方で不思議と何とかなりそうな自信もあった。その自信に背中を押されて家を出てきたようなものだった。たぶん、疲れが気持ちをハイな状態にしていたのだと思う。

 とにかく、朝の早番に間に合うように家を出て、コールセンターには8時前に到着した。


 水曜日のように早番の時間には部長が来ていると思っていたのだが、リーダー席に座っていたのはサブリーダーの藤崎さんだった。

「おはようございます」
「絵美子さん。おはようございます」
「早番の時間は部長が出てくることになっていたのでは?」
「絵美子さんが早番だってわかったから、私がやりますって志願したんです」
「いいんですか。就業規則でダメってことになっていませんでしたか?」
「1日、2日ぐらいだったらいいんじゃないですか」

 いつものように自分の持ち物をロッカーにいれて、いつものように筆記用具とノートを共通の棚の自分の引き出しから取り出して机に座った。
『あっ。パソコンの電源を入れるのを忘れていた』
 やはり、昨日の疲れが残っている。身体も意識もいつものようには動いてくれていなかった。

 コールセンターの開始時間になった。
 電話は鳴らなかった。静かな時間が続いた。
 スタートに何もないと、後で大変なことが起こりそうな予感がするのだが、この時の絵美子さんにとってはありがたかった。

 10分ぐらい経ったところで、最初の電話が鳴った。

「はい。霧滝コールセンターです。いかがなさいましたか?」

「あのー。……」

 その後の言葉が続かなかった。

「どうされましたか。何でもおっしゃってください」

「あのー。実は先日、電話して、カップの交換をお願いしたものなのですが」

 着信した電話番号で月曜日に絵美子さんが取った電話の記録がパソコン画面に自動的に表示された。

「月曜日の朝にご連絡いただいた方ですよね」

「はい」

「何かございましたか? 代わりのカップがまだ届かないとか……」

「いえ。届いたのですが」

「送ったカップが割れていたのですか?」

「いえ。割れていることはなくて、ちゃんとしたものを送っていただきましたよ」

「それでは、また色が違っていたとか?」

「いえ。そうではないんです。私、3客買い求めて、1客を交換してもらおうとして、代わりの候補を5客送ってもらったんですよね」

「はい」

 手配した通りに届いていた。5客のうち、1客を選んで、残りを返してもらえればそれで終わりのはずだ。

「お友達に霧滝のカップのことを話したら、そのカップを見てみたいというので、見せてあげたんです。そうしたら、その友だちも欲しいって」

「あら。そうでしたか」

「そうしたら、お友だちが別のお友だちに話して、私のところに来たんです。口が軽くて困っちゃうわ。そうしたら、そのお友だちもきれいな色だから欲しいって」

「そうでしたか。うれしいお話しです。ありがとうございます」

「そして、その人もお友だちを連れてきて……」

「……」

「それで、3人分のカップを追加で欲しいのですが……。 同じようなピンク色で少しずつ雰囲気の違うカップを送ってもらえませんか?」

「ありがとうございます。追加のご要望はこちらとしてもうれしいです。最初にご連絡いただいた時の少しくすんだ色のカップはいかがなさいますか?」

「それも、最後に見せたお友だちが、ちょっと渋くていいかもしれないって引き取ってくれることになったんです」

「そうですか。それでしたら返却はなくて、追加が必要ということですね」

「ええ。4人がそれぞれ3客ずつ欲しいので、合計12客。いま、最初の3客と追加5客の合計8客が手元にあります。4客送っていただけないかしら」

「そうですか。数が多いので、こちらで注文をうかがうよりも、お店からご連絡させていただいたほうがいいかと思います。最初の3客をご購入された販売店を教えていただけますか?」

 まとまった数の場合、販売店で取り扱ってもらったほうが細かい要望にも応えやすいし、お店の成績にもなると思った。

「ごめんなさい。実を言うと……」

「はい」

「実を言うと、私、高齢者施設に入ってまして、お店には行ってないんです」

「……」

「霧滝のカタログを見てきれいなカップがあったから通信販売で注文したんです。お友だちというのも、この施設にいる仲の良いお友だちで、時々お部屋に遊びに来てくれたり、こちらからお友だちのお部屋に遊びにいったりしている仲なんです。私の部屋に来てくれたときにお友だちがカップに気がついてどうしたのかと聞かれて、見せたんですよ。そしたら、他の人も呼んできちゃって。そのカップをみんなが気に入ってくれて、『同じものを買いましょうよ』ってなったんです。ごめんなさいね。お店で選んで配送してもらったなんて嘘を言ってしまって。でも霧滝のカタログはきれいだから、本当に実物を見ているように思えてきて、電話でそう言ってしまったんです」

 絵美子さんは自分と同じだと思った。
 ここに勤める前から自宅に送ってもらっている霧滝のカタログはきれいで、ずーっと見入ってしまうのだ。

 月曜日のことを思い出した。後で確かめたら販売店コードの欄は空欄だった。単純な販売店コードの入力漏れはめずらしくはないので、あまり考えずに手配していた。販売店からコード追加の要請があれば、その時にコールセンターでコードを入力すれば、そのお客様の全部をお店の成績につけることができる。大した問題にはならないはずだ。それよりもお客様に品物を送るのを優先させた方がいいとその時には考えていた。

「わかりました。それでは私のほうで手配します。どのような色をご希望か教えていただきたいのですが……。もしよろしければ、スマホのカメラでお手元にあるカップを写してこちらに送っていただいて、どれがよいかを教えていただければ、そのように工場の職人に伝えます」

「えーっと、ちょっとスマホの操作がわたしには難しいので、前回と同じように職人さんに選んでいただきたいんです」

「わかりました。そのように職人に手配します。それとお支払いですが、3人のお友だち宛てにお支払いのご案内をお送りしましょうか?」

「えーっと。それも、3人の名前を伝えるのは手間がかかるから、私宛てに合計の金額で送ってちょうだい。振込票か何かを送っていただければ、ここの職員の人にお願いして払ってきてもらいますので」

 職員の人に3通の振り込みを頼むのに引けているような気がした。1通でまとめておいたほうが職員の人の手間にならないだろうと……

「わかりました。こちらのルールで大変申し訳ないのですが、件数が多いので、先に振込票を送ります。入金を確認できたらすぐにカップを送ります。それでよろしいでしょうか」

「はい。そのつもりでいましたので、そうしてください」

「最初の3客分のお金はもういただいていますので、すでに追加した5客とこれから送る4客の合計9客分の金額を振込票に記入してお客様宛てにお届けします」

「はい。待ってますよ」


 電話を切るとサブリーダーの藤崎さんが近くにやってきた。
「よかったじゃないですか。カップが追加で売れて」
 藤崎さんは電話の会話をモニターしていたようだ。
「ええ。でも、よかったのでしょうか。本当は実物を見て選んでいただきたかったのですが」
「まあ。いいんじゃないですか。カタログを見ているし、他の3人も8客のカップを実際に見ているわけですから」
 絵美子さんは電話に応じている間に、ウェブ検索で住所が高齢者施設だったことも確認していた。追加でカップを送ることに問題はなさそうだった。
 それでも9客の支払いは個人向けとしては数が多かった。なので、入金を確認してからカップを送ることにした。

 この時に気がついたことがあった。個人向けの商品発送や交換だったら、リーダーの事前チェックなしに相手に商品を送ることができる与信枠は1件あたり1万円で十分に対応できる。個人向けはそれ以上の金額だと振り込んでもらい入金を確認してから発送することがほとんどだった。この場合、与信枠は必要ない。商品発送を希望するお客様からの電話が続いたとしても与信枠として5万円もあれば1日の電話対応は可能だ。それも絵美子さんの場合は勤務が午前中だけなので5万円は多いくらいだ。
 それが10万円の枠に拡大されているということは……
 社員になって他のオペレーターさんの面倒も見て欲しいということなのか?
 絵美子さんが霧滝コールセンターに来たばかりの頃、先輩オペレーターさんたちにやってもらったように……
 自分には負担が重い。


 通常の時間になるとリーダーが出社して、サブリーダーと席を交代した。

 その後に木村さんが出社した。

 きょうも絵美子さんに向かって歩いてくるような気配がした。

 水曜日のようなリーダーからの呼び出しはなかった。

 木村さんは絵美子さんの席の後に立った。

「絵美子さん。ちょっといいかしら」

 後ろを振り返った。

「おはようございます。今日はなんでしょうか?」

 水曜日のことで、仕返しされるのではないかと警戒した。

「おはようございます。あなた、お昼は2駅先のカフェでお茶してるんだって」

 月曜日のお昼に藤崎さんとランチした時のことを言っているのだと察しがついた。

「いえ、この間初めて入って、雰囲気のいいところだなと思っていたんです」

「そう。私はよく行くのよ。あなたとそのお店で会ったことがないなと思って。藤崎さんからその話しを聞いた時に……」

「……」

「それで、今日は私と一緒にそのお店でランチしない?」

「……(はぁ)」

「サブリーダーの藤崎さんも連れていくから、一緒に行かない?」

「(はあ。)はい」

 しぶしぶ承諾した。



 木村さんは自分の席に向かった。それからしばらくして、サブリーダーの藤崎さんに声をかけられた。
「絵美子さん。ヘッドセットを着けたままこちらに来てもらえませんか」
 若手社員オペレーターの隣の席に連れていかれた。
「ここの席を空けてもらいましたので、座ってください」
 藤崎さんは立ったまま、パソコンに延長コードを付けたヘッドセットのプラグを差し込んだ。絵美子さんは空けてもらったその机の椅子に座って、藤崎さんと同じようにパソコンのもう一つのジャックにプラグを差し込んだ。

 若手社員は
「はい」「はい」「いえ」「そんなことはありません」「はい」
と電話の相手に答えている。
 空けてもらったパソコンには若手オペレーターのパソコンと同じ画面が表示され、そこには絵美子さんが月曜日の帰り際に電話に出たあのセクハラ言葉男の記録が表示されていた。

 藤崎さんが
「本人が頑張ってこの相手に対応するというので会話を続けさせているのですが、絵美子さんにもアドバイスをいただけないかなと思って」
「それはかまいませんが」
「大変になったら私が代わって、それでもだめだったらリーダーに回すことになっています。リーダーも席からこの電話をモニターしていると思います」
 パソコンの音声スイッチを入れた。

「だから、壊れた茶碗を交換してくれって言っているんだ」
「お使いになって壊れた茶碗を交換することはできません」
「だから、四角形のマークはお前たちの商品なんだろ。永久保証していたんだから交換してくれ」
「いえ、違います。四角形のマークは霧滝のマークではありませんし、永久保証はしていません」
「だから、あのおんなが、四角形がおまえたちのマークだって言ってたんだ」
「そのようなことは言っていません」
「本人と話す。あの女を出せ」
「いえ。わたくしが対応させていただきます」
「お前じゃ、話しにならん。早く代われ」
「いえ。代わることはできません」

 絵美子さんが『代わろうか?』と書いたメモを若手オペレーターの前にすべりこませた。若手オペレーターはそのメモに『やってみます』と走り書きして絵美子さんに返し、絵美子さんの方を向いて軽く会釈した。

「八角形のマークはお前たちのマークではないというのはその時にわかった。そうしたら、四角形が自分たちのマークだと言ったんだぞ」

 このお客様の最初のご要望は八角形のマークが付いた半永久保証だとお客様が主張しているカップが壊れたので、交換しろというものだった。その時、絵美子さんは八角形のマークは霧滝ではなくライバル社のマークだと伝えたところで、相手は霧滝のマークは四角形だと勘違いしたまま電話を切ってしまったのだ。絵美子さんが四角形も霧滝のマークではないと説明しようとする前だった。

「そのようには説明していません。こちらから説明しようとしたところで、お客様から電話を切られたのですよ」
「いや、切ったのはお前たちのほうからだ」
「いえ、こちらが説明しようとしたところで、お客様が電話を切られています」
「証拠があるのか」
 若手オペレーターはサブリーダーの方を振り向いた。
 サブリーダーはうなずいた。
 若手オペレーターは続けた。
「はい。電話の音声記録を確認しました。こちらから説明しようとお客様をお呼び止めしましたが、その言葉の途中でお客様が電話を切った音が録音されていました」
「会話を勝手に記録していたんだな。おれは了承していないぞ」
「いえ、こちらにお電話いただいた際に、まず、会話を録音させていただいていることをご案内する音声を流しております」
「んーん。社長を出せ、社長を」
「いえ、お客様のご要望は、私どもで承ることになっています」
「んーん」

 相手がガシャっと電話を切った。
 その後でプープー音だけが響いた。

 若手社員オペレーターはパソコン画面の『切る』ボタンを長押しクリックした。3人はヘッドセットを頭から外して首にかけた。
 サブリーダーが
「よく頑張ったわね」
「ええ。サブリーダーと絵美子さんが横に居てくれて。いつでも代わってもらえるって思ったら、自然と言葉が出てきたんです」
「よかった」
 絵美子さんは安心した。
 サブリーダーの藤崎さんが若手オペレーターに
「でも、あなた、同じ人の電話を2度取ったことになるわよね。ある意味引きが強いというか……」
「なんとなくそう思ったんです。着信音が鳴った時に月曜日の人ではないかなって。それだったら、他の人ではなくて自分が出ないといけないという気持ちで電話を取りました。そうしたら、本当にその相手だったんです」
「その相手だと思ったら、電話を取らないほうがよかったんじゃない」
「いえ、同じ相手でも今日はきちんと受け答えできそうな気がしたんです」

 若手オペレーターはパソコンの会話記録ソフトウェアに対応内容を打ち込み始めた。サブリーダーはリーダー席へ報告に向かい、絵美子さんは自分の席に戻った。


      *   *   *


 あるマンションの一室では夫婦がまだ言い争っていた。
「あんた。どこに電話してたの」
「霧滝に……」
「それで打ち負かされたのね。あたりまえだよ。こんな了見の狭い男の話しを聞いてくれるところなんかないよ」
 男は小さくなっていた。
「それに、何。割れたガラクタ持ってきて。だけど、いいお茶碗のカケラよね。もしかして、これをお母さんのところから持ってきた?」
「ああ。ババアのところから持ってきた」
「これ、もしかして、お母さんが大切にしていたお茶碗じゃない。亡くなったお父さんとの記念品じゃない?」
「知らねえ」
「割れてるって…… あんた、わざと割って持ってきたんじゃないでしょうね」
「こんな古い茶碗。『壊れた』って言って、霧滝に新しい茶碗と交換させたほうがいいんだ」
「なんてことを……。お母さん、がっかりしてるんじゃない」

 玄関のチャイムがなった。
 妻が玄関口に出た。
「警察のものですが、(ピー)さんはいらっしゃいますか?」
 夫が出てきた。
「私ですが」
「お母様のお宅で、家の中から叫び声と何かが壊れるような大きな音がしたという通報が近所の人たちから複数ありまして。逃げた犯人を追跡調査したところ、その人物がこちらのマンションに入ったものですから……」
「ババア、いや、母親のところで食器を探して持ってきただけですが」
「やはり、息子さんのあなたでしたか。すいませんが、一緒に来ていただけますか」
 妻が
「お母さんに何かあったのですか? あんた、お母さんに何したの? お巡りさん、お母さんは大丈夫なんでしょうね? あー、もーう」
 妻はしゃがみこんでしまった。
「いや。お怪我はないのですが、家の中が荒らされていまして。それでちょっとお話しをうかがいたいのです。お二人とも署まで来ていただけますか」


 その頃、福祉課のパーティションの中では、課長の小林さんが見回り班の高橋くんと携帯で話していた。
「私が山本さんの自宅の前に到着した時には、すでに警察が来ていて中に入れなかったんです。区の福祉課のもので山本さんご本人に呼ばれてここに来たと言ったら、警察が山本さんに確認してやっと中に入れてもらえました」
「ああ。主任の加藤さんが山本さんとの電話をつなぎっぱなしにしていたから、そこらへんの事情は把握している」
「そうでしたか」
「こちらからも警察に連絡しておいたほうがよかったな。そうすれば、高橋くんはすぐ入れたのに。DV(ドメスティック・バイオレンス、家庭内暴力)の可能性までは思い至らなかったなあ。山本のおばあさんの様子がDVとは結び付かなかったのでね」
「電話口で冷静かどうかとはあまり関係ないかもしれませんね」
「近くの班に先に行ってもらったほうがよかったかな」
「そうかもしれませんね」
「高橋くん。今日も大変かもしれないけど、山本さんに一日付いていてもらえるかな」
「いいですけど。何か心配ごとでも」
「いや、この状況だと、息子さんは警察に呼ばれて、今日は山本さんとは会えないだろうし、他に家族がいたとしてもやはり警察に呼ばれることになるだろうから。今日、家の中が落ち着くまで山本さんに誰かついていたほうがいいと思う。遅くまでかかりそうだったら、誰かをそっちに行かせて交替させるから。私も後で行くよ」
「わかりました」

 主任の加藤さんはまだ山本のおばあさんと話していた。
 山本さんが
「もうちょっと話し、してくれる」
と離してくれないのだ。
 状況が状況なので、無理に切ることもできないし、福祉課の立場からは状況把握のために電話をつないだままにしておいたほうがいいと判断していた。
 警察が到着したときも、山本のおばあさんは携帯を持ったまま玄関の前まで行って、「ドアを開けて大丈夫かしら」と、いちいち加藤さんに聞いていた。よっぽど怖かったのだろう。

「山本さん。見回り班の高橋くんが到着したようですよ。警察の人が連れてきてくれるそうです」
「そうですか。やっと安心できる」
 落ち着いたように振舞っていたけれど、実は心細かったようだ。
 一度会ったことがある高橋くんに行ってもらって正解だった。
 電話口の向こうで『あー、高橋さん。やっと会えた。来てくれたのね、ありがとう』という声が聞こえた。そして、電話には
「高橋です。加藤さんですか」
「はい、加藤です。お疲れ様です。大変なところ来てもらって、ありがとう」
「いえ、私は大丈夫です。加藤さんも長い時間、電話を続けてくれてありがとうございます。後は、私のほうで対応しますので、加藤さんは休んでください」

 やっと電話が終わった。

 この日の電話班は、主任の加藤さん以外は前日とは違うメンバーだった。
 加藤さんはその3人に
「少し早いけど、みんなでお昼にいきませんか」
「まだ11時ですけどいいんですか?」
 パーティションの中に残っていた課長が
「行っておいで。私が留守番しているよ」
と言って前日に菊池さんが使っていた部長机の椅子に座った。
「加藤さん。食事といっても職員食堂ですよね」
「ええ、この時間はもう外のレストランは混雑してきますから。ごめんなさいね」
「でもここの職員食堂は眺めがいいんですよね」

 どこかで聞いたような会話をしながら、今日の担当者4人は、7階にある職員食堂に向かおうとした。
 課長が
「職員食堂に行くの? きょうはスペシャルディでステーキランチがあるはずだな。私のツケで頼んでいいよ。品切れになる前に早く行っておいで」
「ありがとうございます」「お言葉に甘えて」

 エスカレーターホールで
「課長のツケって、職員食堂ではどう頼むのですか? 自分のカードのタッチ決済になっているのに」
「知らない」
「後で課長に請求すればいいんじゃないですか」

 7階の職員食堂にはまだ数人しか並んでいなかった。ステーキランチに間に合ったようだ。


      *   *   *   *


 霧滝コールセンターでは絵美子さんが電源を切って真っ黒になったモニターを見たまま、カバンを前でしっかりと抱えながら座っていた。時間は11時を回っていた。木村さんにお昼に誘われているのだが、まだ声がかからない。このまま木村さんと藤崎さんを待ったほうがいいのか、先に行ってお店で待っていいのかがわからなかった。電話が鳴ったとしても、もう出るつもりはなかった。

 サブリーダーの藤崎さんがやってきた。

「絵美子さん。待たせてごめんなさい。先に行ってもらえるかしら、すぐに木村さんを連れて行きます」

 会社を出て、地下鉄に乗り、2駅先で降りた。出口の近くにある白い建物のカフェ。

 あの時に藤崎さんがおいしそうに食べていたクロックマダムにした。それにカフェオレボウル。カフェオレを大きな器に入れて出してくれるところは珍しい。これは外せなかった。

 前回と同じようにお庭の雰囲気を楽しめるテラス席に座って待つことにした。
 クロックマダムにはまだ手を付けず、カフェオレボウルを両手で持ち上げて一口飲んだ。

 庭に向いて座っていたが、ふと振り向いた時に2人がレジにいるのが見えた。

 2人は注文を終え、テラス席のドアを開けて絵美子さんが座っているテーブルへやってきた。
 木村さんが藤崎さんに毒づいていた。
「あなた。言っていたお店と違うじゃない。私がいつも行っているのはもう少し先のおしゃれな赤い三角形屋根のカフェよ」
「はっきり言ったわよ。地下鉄の出口近くにある白い建物のカフェって。それにここもおしゃれなカフェでしょ」
「私のカフェは壁が白いのよ。まあ、いいわ。レジに取りに行ってくるから、あなたがた2人は座っていて」

「私が持ってきましょうか?」

 絵美子さんが立ち上がろうとしたのだが

「あなたはいいの。ここにいて。私が呼び出したのだから」

 木村さんがレジに戻っていった。月曜日と同じように絵美子さんの左隣に座った藤崎さんに聞いてみた。

「木村さん。どうしたのですか?」

「だれかとおしゃべりしたかったのでしょ。コールセンターでは私としか会話という会話はしていなかったから」

 話し相手に選ばれたということか。光栄だと思っていいのかもしれないが、どちらかというと困惑の気持ちが強かった。木村さんの意図がわからない。

 2人分のトレイが絵美子さんのトレイの両脇に音を立てて置かれた。
 木村さんは右隣の椅子に座った。
 2人の社員にはさまれた。

「絵美子さん。あなた、プロジェクトに参加するんだって」

「……」

 プロジェクトを立ち上げることはまだおおやけにはなっていないはずだ。答えに躊躇ちゅうちょした。

 藤崎さんが

「絵美子さんが新しいプロジェクトに誘われていることを私たち2人も知っています。話してもかまいませんよ」

「来ちゃいなさいよ。そのプロジェクトに」

「でも、私は電話の仕事が合っていると思っているので……」

「そうなの? 珍しいわね、そういう人って。私はコールセンターから外れるかもしれないけど。そのプロジェクトでまたご一緒するかもしれないわね」

「木村さんはプロジェクトでは何をするのですか?」

「さあ。何をするんでしょうね。絵美子さんは私がコールセンターで何をしているかも知らないでしょ」

「ええ。私は週3日しかいませんでしたし、来ても午前中だけでしたから」

「私がコールセンターにやってきたのは半年前。同じ総務部ですけど広報班に属していて、その時の上司から『オペレーターを管理する仕事』と説明を受けてやってきたの」

 典型的なかさ増し辞令だ。ポジションが上がると見せかけて異動を了承させるやり方だ。

「それで電話を取らずに、オペレーターの対応記録だけを見ていたということですか?」

 藤崎さんが横から

「そうなのよ。木村さんがなぜ電話を取ってくれないか、私もわからなかったのよ。2日前の水曜日までは」

「2日前ですか」

「ええ。屋上で絵美子さんと木村さんが話しているところを聞いていたんです」

「あの場にいたのですか?」

「ええ。ドアの後ろにいたんです。絵美子さんがドアを開けて階段を降りていったときに」

「気がつかなかった」

「だって、そこでバッタリと出会ってしまったら絵美子さんも気まずいでしょ。それで物陰に隠れました。絵美子さんが階段をかけ降りていった後で入れ替わりにドアを開けて屋上に出て、テーブルに座って」


 木村さんと藤崎さんがその時のことを説明し始めた。


      *      *   *   *   *


 藤崎さんがドアを開けて屋上に出た時、木村さんはまだアウトドアタイプのテーブルセットに座っていた。

「木村さん、ここで何をしているの?」

「えっ。ええ。絵美子さんと話してたの」

 すこし大げさに

「絵美子さん、泣きながら帰っていったわよ。あなた。何かしたんでしょ」

 木村さんをじっと見た。テーブルを見たまま表情は変わらなかった。

「嘘よ。泣きながらっていうのは。だけど困ったような顔をしていたけど……」

「絵美子さんが商品を勝手に送っていると思って、ここに連れてきて注意したのよ」

 藤崎さんは向かい側の、さっきまで絵美子さんがいた席に座った。

「そんなはず、ないでしょ。絵美子さんにも与信枠があるから、その範囲内だったらリーダーに承認してもらう前に商品を送ってもいいことになってるわよ。絵美子さんの場合、他のパートさんよりも金額を多めに設定しているはずだけど」

「その、何とか枠」

「覚えておいて。与信枠。よ、し、ん、わ、く。あなたがここに来てすぐに、私が説明してあげたじゃない」

「そうらしいのよね。ここに来た人は必ず教えられることだって絵美子さんに言われたのだけど。覚えていないのよ」

「電話に出てくれないから。だんだん忘れていったのでしょ。最初から覚えるつもりも無かったかもしれないけど」

「それで、一言言っておいたほうがいいと思って」

「注意しようと屋上に連れてきたら、反撃されたってわけね」

「リーダーやあなたが甘やかして調子に乗っているから、注意するのは私しかいないと思ったのだけど」

「いじわるな人の発想よね。一対一で注意しようというのも、屋上に連れてくるというのも。先に私に言ってくれれば、こうなる前に説明してあげたのに」

「そうよね」


「電話を取ってみてよ」

「……」

「実際に取ってみて、どういう質問を受けているかを実際に聞いてみたら」

「それは対応記録を見ればわかるけど」

「整理して記入しているから、わかりやすくなっているけど、実際には何のことを言っているのかわからない相手もいるし、なかには怒ったようにしか話せない相手もいて、そんな人たちから問い合わせのポイントを聞き出そうとしているのよ。特に怒ったような話し方をする人って、自分が偉いポジションにいるって勘違いして、現場を経験してなくて、プライドだけはあるっていう人が多いから。そんな人には慎重に対応するけど、そうしないと本当に怒って収拾がつかなくなるのよね。あなたはそんな人のうちの一人なのよね……」

「す、すいませんね」

「とにかく、苦労して、要点をまとめて書き込んだ記録には相手の表情はないのよ。わかりにくい質問とか、怒っているように聞こえる話し声なんていつものことだから、いちいち書き込んでいたらきりがないのよ」

「……」

「あなた。問い合わせと回答の相関分析をしているって聞いたことがあるけど、その分析が正確かどうかはわからないって思わないの? オペレーターさんたちがどういう質問に接しているのか、生の声を聞いてもいないのに」

「……そうかもね」

「そうね。明日の早番はどう?」

「明日の早番?」

「その時間だったら、たぶん邪魔は入らないからきちんと教えられるわよ」


      *   *   *   *   *   *


 絵美子さんは
『木村さんが昨日の早番をやっていた……??? 大丈夫だったのだろうか』
と心配した。

 藤崎さんが
「そこでコールセンターでの仕事の仕方を一通り説明したんです。木村さんが異動してきた直後にも説明しているので、これで2度目になるのですけどね」

「ここに来たばかりの頃は何を説明されているのかさっぱりだったのよ。でも、もう1度説明を受けるとわかるのよ。オペレーターさんが何をして、リーダーやサブリーダーが何をして、部長が何をしているのか」

「与信枠のことも改めて説明しておきましたよ」

「私のパソコンからは対応のやりとりしかわからなくて、絵美子さんの電話対応がリーダーや部長に承認されたかなんて表示されてなかったから」

「承認マークは、部長とリーダーと私、それに本人しかわからないようになっているんです。木村さんはこれまで電話を取って会話内容をシステムに記録したことがないから、パソコンにどう表示されるかなんてわからなかったのでしょ。昨日は私が見ている前で電話に出て、対応記録を入力してもらったのよ。リーダー席にいた部長がすぐに承認してくれたので、マークが付くことを画面で見てもらいました」

「電話を取ってしまったのですね」

 危なっかしい。

 木村さんが電話してきた相手を怒鳴りつけている様子が頭に浮かんでくる。サブリーダーが付いていたので、そうならなくて済んだのだろうが……


「でも、異動してプロジェクトに参加するのですよね。もう、電話の経験は必要なくなるのですよね」

「私が調べていたのはどう回答すると何パーセントの確率で正確に理解してもらえるか、あるいは理解できなくて次のアクションにつながってしまうのかを考えていたの。新しいプロジェクトのことを聞いた時に、そのデータ分析を生かせそうだと思ったから自分から手を挙げたのだけど、電話対応の経験値がゼロだから役に立たないわよね。コールセンターから出ていこうと思っていたけど、その後も電話対応してその経験をデータの精度を上げるのに活かそうかとも思っている」

『そうか。木村さんは異動を自分から希望したんだ。追い出されたのではなかった。よかった』


「でも、あなた方には謝らないと」

「何を。ですか?」

「机の上にカバンを置いていたこと。分析の資料が入っていたので、自分の仕事に必要だったの。それを見てみんな心配してくれていたんでしょ。個人情報が入っていやしないかって。周りのみんながカバンを机に置くことを嫌がっていたことに気がつかなかったわ。私のことを嫌がっていたとばかり思い込んでいたから」

 いや、木村さん自身をみんな嫌がっているのだ。
 絵美子さんは
「そうでしたか」
とだけ答え、嫌われていることはあえて否定しなかった。『そんなことありませんよ』なんて言ったら嘘っぽくなる。

 藤崎さんが

「だから昨日からカバンもロッカーに入れてもらいました」

 いま聞いた内容だけでも、他に問題点がある。

「分析の資料は家に持って帰ってはいけないのでは?」

「うーん、そうよね。でも、大学時代に使っていたソフトが使いやすかったから。それも時代遅れのソフトらしいけど」

 それもやってはいけないことだ。

 藤崎さんが

「自分のソフトに会社のデータを入れていたの? あなた、いろいろ出てくるわね。不祥事が一体いくつあるのかしら」

「プロジェクトに入ったら会社に高性能のアプリを買ってもらって、残業して分析に専念するわよ」


「あのー」
 3人の前に若手社員オペレーターがトレイを持って立っていた。
 藤崎さんが
「どうしたの。あなたもこのカフェの常連さんなの?」
「いえ、サブリーダーと絵美子さんが2駅先に洒落たカフェに行ったっていう話しを聞いて、私も行ってみたいと思って、ここ数日お昼の時にこのあたりのカフェを順番に回っているんです。そうしたら、今日は偶然、みなさんがこのカフェにいるものだから、びっくりしました。やっと見つけました、お話しに出ていたお店を」
 若手オペレーターさんのトレイには絵美子さんが月曜日に注文したのと同じキッシュとカフェオレボウルが乗っていた。でもキッシュはフルサイズで、絵美子さんが持ち帰り用に分けてもらったキッシュの紙袋はなかった。

 木村さんが
「いいわよ。そこ空いてるから」
と絵美子さんの正面の席を指さした。

 木村さんが続けた。
「あなたがた3人は今日は大変な電話があったんでしょ。すぐ近くに藤崎さんと絵美子さんがあなたを守るように居るものだから、ずいぶん変な電話がかかってきたんじゃないかなって見てたわよ。でも2人も付いているなんて甘やかしすぎよね」

 藤崎さんが
「何言っているのよ。半年前と昨日と、2回も私に説明させておいて。それこそ、部長やリーダーに木村さんを甘やかすなって怒られるかもしれないのに。それに、本当に大変な電話だったのよ。月曜日は絵美子さんに出てもらってうまく対応してもらえたのだけど……」

「それじゃ、次にその人から電話があったら私に回してよ。実戦練習の成果を見せてあげるわよ。なんとかしてあげるから」

 電話対応を経験して気持ちが大きくなっている。

「それが困るのよ。木村さんは。相手を力技で打ち負かすつもりでしょ。その後に苦情が返ってくると、オペレーターの誰かがそれを取ることになるのよ」

 木村さんが
「それも全部私に回してよ。怒鳴りつけてやるから」

 本当に怒鳴りつけるつもりだったんだ。

 若手オペレーターが
「私もちょっとだったらお手伝いできそうな気がしてきたのですが」

 藤崎さんが
「大丈夫? 月曜日はダメージがかなり強かったのに」
と心配したが、
「ええ。絵美子さんに背中をポンポンとたたいてもらったんです。その瞬間にストーンと心の中で何かが落ちて、吹っ切れた気がしたんです。不安がスーッと無くなった気分だったんです。その後で、絵美子さんのやり取りをモニターさせてもらいました。こう言っていいんだとか、こういう切り替えしもあるんだって。お客様に逆らっちゃいけないっていう呪縛のようなものが私にあったのが、そこから解き放れたように感じたんです。もしかしたら私にもできるかもしれないって思ったんです」
「それで、今日は頑張ってみたのね」

 木村さんが
「へえ。絵美子さんって神の手みたいなものを持ってるんだ。すごいじゃない」

 木村さんは若手オペレーターに
「ねえ、私と二人でチームを組まない。クレーム対応チーム。リーダーもサブリーダーも会議とか打ち合わせがあるのに、クレームまで引き受けるのは大変でしょうから。『クレーム・バスターズ』なんてね」

 藤崎さんが
「ほんとにやめて。クレーム全部をやっつけちゃだめなのよ。本当に困って電話してくる人もいるのだから。話すのが苦手でぶっきらぼうになる人も中にはいるから、丁寧に受け答えしなければいけないのよ。」

「わかったわよ。それは絵美子さんに引き受けてもらうわよ」

「配送したお茶碗やお皿が本当に壊れていたら謝らなければならないし、工場や経営陣にも連絡しなければならないのよ」

「わかった。それはあなたとリーダーに回すわ。今日みたいな理不尽な嫌がらせ(ハラスメント)の電話を引き取るわよ」

「木村さん。危なっかしいからやめて。こんなに調子に乗るんだったら実戦練習しなければよかった。とにかく、タメグチはだめ。絶対に敬語で話して。それにわざと低い声を出すのはだめ。脅すような口調になるから。トーンを高くして、親しみやすく会話して。そして、相手の言葉にはちゃんと相槌を打ってもらえる。何も言わないと相手への圧力になるから。あーん。やっぱり木村さんの実践練習はやめとけばよかった」

「はい、はい」
 木村さんは舌をペロッと出した。藤崎さんの目を盗んで電話を取るつもりだ。


 木村さんは
「話しは変わるけど、絵美子さん。本当にこの会社にいらっしゃいよ。プロジェクトではあなたの経験を活かせると思うわよ」

「そうなんでしょうか」

「大丈夫よ。あなた、電話対応が好きって何回も言ってるけど、プロジェクトが始まったら、好きなことが他に見つかるかもしれないわよ。私もここに来てそんな感じだったし」

 若手社員オペレーターが
「プロジェクトって何ですか?」
 藤崎さんが
「木村さん、しゃべっちゃうんだから」
 木村さんはまた、舌をペロっとだした。

 藤崎さんは木村さんを抑えるのに疲れてきたが
「しょうがない。この4人の間だけにしておいて」
 そうやって、秘密の話しは広がっていく。
「販売管理と顧客対応の新しい仕組みづくりが議論されているのだけど、その準備チームに絵美子さんに社員として来てもらえないかっていう話しがあるの」
「絵美子さんに来てもらえるのですか、それはいいと思います。でもコールセンターではないんですね」
 絵美子さんは
「でも、やっぱり私はお話ししている仕事のほうが自分に合っているような気がして」
 木村さんは
「だから、それは何度も聞いているって。コールセンター兼務だったら、電話対応からまったく離れることもないでしょ。でも他のことをやりたくないんだったら、自分で決めるしかなさそうね」

 木村さんはちょっとがっかりしたような顔をしたのだが、すぐに

「絵美子さん。また、会いましょうよ。私だけと会うのが嫌だったら、この4人で会ってもいいし。プロジェクトどうのこうのにかかわらず、お互いに役に立つ話しができるかもしれないわよ。夜がだめというなら、お昼休みに集まってもいいわよ。このお店で」

 嫌われている自覚はあるようなのだが、それにしても、ずいぶんと気に入られてしまった。自分の何がよかったのだろう。


 プロジェクトの社員というポジションに魅力を感じないわけではないのだが、これまでいろんなところで働いた経験から、そう長くは続かないような予感がしていた。
 それに、この1週間で自分の周りが目まぐるしく変わってしまった。自分の本当の性格もあって、だんだんと仕事のことを考えるのが嫌になってきている。
 精神的にも、体力的にも、余力が奪われて、考えられなくなってきたのだ。新しいプロジェクトという環境で仕事を続けるとなると、もう自分の中が目いっぱいになってしまって我慢できなくなりそうだ。
 昨日は区の福祉課で注意喚起の電話をかけなければならずクタクタになった。それで悪い方向に考えすぎているのかもしれない。それでも、抱えるものがだんだん多くなってきて、持ちきれなくなっている。

 絵美子さんはそういう時に、すべてを投げ出す癖があった。霧滝でその癖をわかってもらえる上司がいて、仲間がいて、受け皿を用意してもらえるのであれば、ずっといてもいいなと思っていたのだが……
 それが、この1週間で周りの人間関係があまりにも急に膨らんでしまった。

『この霧滝にいなくていいのなら』

 そう考えると楽になった。

 その瞬間、絵美子さんの脳裏に、ある風景がよぎった。

     ^^^     ^^^     ^^^

 霧滝コールセンターに、リーダーはいなかった。
 絵美子さんがリーダー席に座っていた。
 早番の8時からその席に座って、オペレーターさんたちの会話をモニターしていた。
 その何件かは電話を引き受けた。
 電話の相手から怒られたりもしたが、最後には納得してもらって電話を終わらせることができた。
 自分が電話に出ている時は藤崎さんがオペレーターさんからの電話を引き受けていたし、若手社員オペレーターもパートのオペレーターさんたちと和気あいあいとやっていた。
 コールセンターの運営がとてもうまく回っていた。順調で、とてもハッピーで、天国にでもいるような気持ちになっていた。
 11時になった。
 木村さんがリーダー席にやってきた。
「代わりましょうか」
と言ってくれた。
「はい、お願いします」
 席を木村さんに譲った。
 2駅先のカフェにやってきた。
 カフェオレボウルを飲んでいたら藤崎さんがやってきてミルクティを飲み始めた。
 他愛もない楽しい会話が始まった。
 カフェオレを半分飲んだところに木村さんもやってきた。
「木村さんどうしたの? リーダー席でオペレーターさんたちを監視しているのではなかったの」
「監視だなんて。みなさんの楽しい会話を聞かせてもらっていたのよ」
「でも、席を外してここに来るのはまずいんじゃない」
「いえ、前のリーダーがやってきて、絵美子さんのところに行ってあげなさいって、代わってくれたんです」
「いいのかしら」
「絵美子さん。いいんですよ」
 そして、若手社員オペレーターも途中から加わった。
 楽しい時間だった。

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 でも夢だった。
 ほんの一瞬夢を見ていたようだ。
 我に返ると藤崎さんと木村さんと若手オペレーターは食事を終えて立ち上がろうとしていた。
 無意識のうちに3人の会話に合わせながら食事をしていたようで、自分のトレイのお皿にもクロックマダムは残っていなかった。
 カフェオレボウルの最後の一口を飲んだ。

 自分が楽しく仕事をしている夢を見るのも、悪い癖だった。
 どこのパート先でも、最後にはそんな夢を見てしまう。

 その夢と現実のギャップで苦しめられて仕事を点々としてきた。
 続かなかった。
 夢に向かって進もうとすると、気力だけでなく体力も続かないのだ。

『やっぱり、次の仕事を探したほうがいいのかな?』

 この悪い癖でこの仕事も終わろうとしている。
 土曜日と日曜日は、ウェブサイトで他によさそうな仕事がないか探すことになりそうだ。

『ありがとう。霧滝コールセンター。たった3、4か月だったけど……』



(小説「晴れた日の月曜日なんだけど」 終わり)



これはフィクションです。
登場人物や企業、団体などは架空のものです。
また、この小説の中に出てくるルールやサービスも私の想像にすぎません。
同じような名前や社名、団体名、グループ名、規則などが存在したとしても
この小説とは何の関係もありません。
ご了承ください。

                  (和泉佑里)


参考資料

「新版コールセンターのすべて 導入から運用まで」
           菱沼千明著 リックテレコム発行

「コールセンターマネジメント改革 改訂増補版」
           佐伯学/寺川正浩著 リックテレコム発行

「コールセンター もしもし日記」
           吉川徹著 三五館シンシャ発行

「督促OL コールセンターお仕事ガイド」
           榎本まみ著 リックテレコム発行



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