吉田松陰と論争した朱子学の大家 山県太華『非聖弁』3

太華は、聖人の行いは天の理と同じであるので、これを批判することなどできないと主張しています。これは、吉田松陰から見れば「聖賢に阿(おも)ねる」=聖人の言行に迎合するものでした。
松陰にとっての聖人とは、あくまでも人間であり無条件に崇拝する対象ではありませんでした。

原文
易の繋辞中庸の書など皆天と聖人とを合はせ説くこと弁別し難きが如し。此れ実に聖人の徳天と斉しきゆえに後の聖賢よく是れを知りてかくの如くは説き玉へるなり。然れば聖人の為し給へることは一毫も天理に違ひたることあるまじければ、後の人誰か能く是れを間然することを得んや。故に堯舜より今に至るまで数千年を経、億に万にの人皆尊信仰慕して敢えて非議する者なく、我邦にても応神天皇の御時始めて漢籍来りしより、世々の天子皆彼の聖人の教えを崇信して、是れを天下に敷施したまひ、今に至て千余年亦億々万々の人を歴て尊信崇奉敢えて非議する者なし。是れ実に天理を尽くして人心を感服する所以あるに非ずや。

訳文
『易経』『中庸』では天と聖人が一体化しているので区別することができない。なぜなら聖人の徳は天と同じため、天と聖人とを一体化させて説かれている。つまり、聖人の言行が天の理と異なることは全くなく、後世の人間があれこれと非難することなどできないのだ。なので、堯・舜から今に至るまで数千年間を経て多くの人々に尊信され、あえて非難する者はいなかった。我が国でも応神天皇の御代に漢籍が伝わってより天皇はみな聖人の教を尊信し、天下に聖人の徳を広げ、今に至るまで千年あまり多くの人々が尊信し非難する者はいなかった。これはまさに聖人が天の道理を全うし、人々を感服させるからに他ならない。

応神天皇16年、百済王の命を受けて王仁(わに)が『論語』『千字文』を日本にもたらしたとされます(日本書紀、古事記より)。なお、『千字文』はこの頃にはまだ成立していないとされており、誤りではないかと考えられている。

底本、国立国会図書館デジタルライブラリーより

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