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109.(53/365) 1人読書「間合い 生態学的現象学の探究 第6章」

第3章から取り組み始めた情報カードによる読書メモ。
それを元にした思考メモとしてのnoteもこれで第4弾。
やっぱり自分の肌感覚に合っている方法だと感じる。
これで一冊分の読書メモ終了。
今後も時間を見つけて、これ、いろんな本でやっていきたいな。

第6章のタイトルは「間合いとアフォーダンス」
気になるタイトルだ。

日本庭園において重要なのは、全体を鳥瞰したときの構造ではなく、部分と部分の接合であり、部分同士の関係性である。
「間合い 生態学的現象学の探究」(河野哲也著)

ここでは、他国の庭園と比較しての日本庭園の特徴が挙げられている。
当然だが、学校とは全く異なる構造だよなあと思う。
学校は、絶対を鳥瞰した時の構造が重要になっている。
そして、それは「機能」を最重要と捉えてつくられている。
ここでいう「機能」は、工業製品のそれに近いものだとぼくは思っている。
極端に曲線が少ないのも、自然とは対極にある構造だ。
廊下は見通しがきくよう、まっすぐだし、教室は、無個性に同じサイズが並ぶ。
前章でも出ていたが、これはリズムではなく、拍子に近い。
類似したものの再帰ではなく、単純な反復。
だからこそ、教室ごとのカラーがあることは、拍子をリズムへと変える可能性を持っているように思う。
リズムが生命を躍動させる。

私の意図と行動は、単にそれぞれのアフォーダンスの一連のつながりとして、トポロジカルに空間と時間を移行しているだけである。
「間合い 生態学的現象学の探究」(河野哲也著)

「トポロジカルってなんやそれ?」となって、メモした一文。
知らない新しい奇妙な響きの言葉って昔から好きだ。
調べてみた。

トポロジカル
「位相幾何学(トポロジー)の「位相幾何学に基づく」という意味の英語の形容詞。トポロジーは物体を(切断・接着などをせず)伸ばす・曲げるといった連続的変化のみで加工する概念や技術を指す意味で用いられる語。
「実用日本語表現辞典」www.weblio.jp

「断続」ではない、ってことかな。
そう理解すると、間合いが、流体や気象学、海洋学をベースに考えたほうがいいという考えともリンクする。
ぼくの意図も行動も、その時々でぶつ切りのものではなく、常につながっていて、その形を伸ばしたり曲げたりしながら変化していくものだってことかな。
伸ばしたり曲げたり、というのはリズムにも通ずる。

間を取ることは、環境の渦とのカップリングに巻き込まれながらも、そこから別の局面へと身を移す可能性、その隙間を維持することである。
「間合い 生態学的現象学の探究」(河野哲也著)

この一文を読んだ時に、「閉じつつ開かれる」という言葉が自分の中に浮かんだ。
その場にコミットしながらも、そうではない可能性にも常に自分自身が開かれているような状態をイメージした。
「木を見て森も見る」ということも、この一文の言い換えと捉えることができるのではないだろうか。
日本庭園を歩きながら絶えず変化していく目の前の景色にも、これと同じことが言える。

リズムの相違こそが、流動し、交換し合う環境と自己との境界を作り出す。
「間合い 生態学的現象学の探究」(河野哲也著)

境界線というものは、本当に恣意的なものだと思うようになった。
そんなものは、関係性において存在しなくて、無意識に自分の中にある価値観が見えない境界線を引いて、それが周囲にも認知されて、結果として見える化してしまっただけなのではないかと思う。
「わたし」と「あなた」が、どちらも流体であると捉えると、境界線などというものはなくて、その境界も流体であるゆえに絶えず変化し、揺蕩うものであると捉えられる。
図工のマーブリング液を数滴垂らした水面をじっと見ているイメージが頭に浮かぶ。

すでに動いている世界の中で、環境の中のさまざまな渦や潮流を、自分の渦動を使ってひとつの束へと導流させていくこと、いわば、せぬ隙=間を空けて引き込んでいくこと、それが意図的行為である。
「間合い 生態学的現象学の探究」(河野哲也著)

授業における意図的行為を考える時、教師の介入が頭に浮かぶが、ともすると、「自分の思い通りにコントロールする」みたいに捉えてしまいそうになるけど、きっとそうじゃない。
ここでいう「導流させていくこと」は、どこまでいっても、「わたし」と「あなた」の間での応答の応酬の結果であり、こちら側の意図だけで相手を強制的に変化させる介入の方法とは別物だ。
そして、この意図的行為において、過剰な主体性という名の自意識は、時に導流を妨げる足かせにもきっとなる。
そのことを意識しながらも、意識し過ぎないで、どう振る舞うのか。
やっぱり「自然に振る舞う」ということを考える時、そこには、環境からのアフォーダンスをそのまま受け取って、身を委ねるということが必要不可欠なんだと感じる。

流体を媒質とした渦同士のカップリングは、そのあいだに、余裕やあそび、バッファがあり、両者の相互作用は柔軟で、粘りがあり、調整力に富んでいる。
「間合い 生態学的現象学の探究」(河野哲也著)

どこまでも、曖昧で、なんとなく、ゆるやかに、そんな関わり方が頭に浮かぶ。
はっきりと、計画を立てて、効率を重視して、そんな関わり方とは違うベクトル。
こういう間合いを、ぼくは、クラスで、職員室で取れているだろうか。
まだまだ流体には程遠いかたさである自分を思う。

先のリズムのように、環境に対して子どもと指導者がともに働きかけをして、そこにそれぞれのリズムが同調するような活動が生じることが、真の行為の促進になる。
「間合い 生態学的現象学の探究」(河野哲也著)

前半部分、「環境に対して子どもと指導者がともに働きかけをして」は、そのままFeel℃ walkじゃないのか?と思ってしまった。
外側から場を促すファシリテーターではなく、自分もその場に浸りながら働きかけるジェネレーターとしての在り方が見事に重なる。
なんとなく気になったものを観察し、お互いの見つけたものを面白がり、乗っかり合うことでそこに新たなリズムが生まれ、それが次のアイデアや行動へとつながっていく。
そのスパイラルがどこまでも続いていく。
スパイラルも「螺旋」で、1つの「渦」だ。

同調する相互行為の中で、既存のアフォーダンスの型を利用しつつ、相互に転じ合うこと。
「間合い 生態学的現象学の探究」(河野哲也著)

その場に没頭するが、いつでもそこから違う可能性にも移れる余白、つまり間を取ってその場に在る。
そうした在り方が、今とは違うリズムへ軽やかに転じる可能性を拓く。
この相互に転じ合うことが、もっともっと学校で起こればいいなと思う。
そうしたら、学校にもっとカラフルなリズムが生まれるはずだ。
そこはきっと一人一人にとって楽しい場であり、行為が促進され続ける契機を絶えず生み出す場になるんだと思う。

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