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『トガノイバラ』 -序章 / 1.血の目醒め

序章 還る


 ――手遅れだった。なにもかもが。

 そもそも間に合うはずもなかったのだ。
 その報せは友人を経由し、家人を経由し――迂回を重ねてようやく彼のもとへ届いたのだから。命の灯など、その間に簡単に、呆気なく消えてしまう。

 間に合うはずもない。

 わかっていた。わかっていた、けれど。
 居ても立ってもいられなかった。

 彼は握り締めていた受話器を放りだし、平生の彼からは想像もできぬような慌しさで家を飛び出した。
 家人の制止を振りきり、転がるように車に乗りこみ、通常ならば一時間は掛かるであろう道程をおよそ半分にまで短縮して――古ぼけた二階建ての小さなアパートの前に着くと、また転がるように車を降りた。

 雨が降っていた。
 じわじわと皮膚をむしばむ、しとやかな霧雨だった。

 飾り気のない簡素な外階段を一段飛ばしで駆け上がり、奥の部屋の臙脂色のドアを、ほとんど体当たり同然に押し開けた。鍵は掛かっていなかった・・・・・・・・・・・

 彼女は、浴室にいた。

 傍らには、ナイフが転がっていた。
 産まれたばかりの嬰児が、血を浴びて泣いていた。

 浴槽のふちに凭れかかるようにして突っ伏している彼女の首から、生命の残滓が流れている。

 ――浴槽に涙のあとを刻むように。
 ――鮮やかに、紅く。

 血を食む刃には見覚えがあった。以前、彼が使っていた折りたたみ式のジャックナイフだ。

 魂が分離していくような虚脱感。

 膝がくずれた。
 茫然自失となったのは、けれど一瞬のことだった。

 彼は叫んだ。彼女を抱き起こし、揺さぶり、何度も何度もその名を呼んだ。揺さぶるたびに、彼女の首はがくがくと右に左に傾いた。

 虚ろな瞳に光はない。
 ひらいた唇から息がこぼれる気配もない。

 それでも彼は呼びかけた。何故なのかと問いかけた。頼むから、と懇願もした。

 喉を破らんばかりの声が、狭い浴室に反響する。
 嬰児の泣き声と重なり合う。

 むせかえる血の匂い。
 残酷に花弁をひらいた絶望の薫り。
 死の静けさと、迸る生の慟哭。

 一足遅れに到着した友人に引きはがされても、彼の声がやむことはなかった。

 彼女は還った。ギルワーのしきたり・・・・・・・・・に従って。 シンルー・・・・の彼には理解しがたい、血のしきたりに従って。

 のこされた遺書には感謝の言葉と――我が子に与える名が記されていた。

 繊細に、丁寧に綴られた彼女の文字に浮かぶ微笑みは、泡沫のごとく、音のない雨のなかに消えていく。




1.血の目醒め


#1 採決の爪痕


 幼いころから、変なことがよくあった。

 普通に歩いているだけなのに、知らない人がばけものでも見たような顔をして逃げていく。青ざめた顔で話しかけてくる人もある。そのまま連れていかれそうになることもままあった。

 恐そうなお兄さんだったり、優しそうなお姉さんだったり、明らかに日本人なのに外国人のような目の色をした人も、いた。

 彼らは一様にユリのような甘い香水をつけていて、それがとにかく不快だったのを憶えている。

 危ないときには、

「みきざきいめい」

 ――御木崎伊明。
 名乗れば簡単に追い払うことができた。

 教えてくれたのは父である。理由は話してくれなかった。
 

 高校二年生にもなると『変なこと』も日常になり、誘拐されかけることなどもさすがになくなり、他人が気軽に話しかけられないような不愛想オーラの纏い方も覚えたおかげで、名を印籠のごとくかざす機会もなくなった。――ものの、クラスメイトから名前がめずらしいだの変だのとつッつかれることが多くなった。

 字面がゴツいせいなのか、

「寺なの?」
「神社なの?」
「由緒正しい旧家なの?」

 みたいなことはよく訊かれる。
 が、彼――伊明の家はごく一般的な家庭である。

 変わっていることといえば、母親が蒸発して父子家庭であること、まったく似ていない二卵性の双子の妹がいること、父親が私立探偵とかいうコミックみたいな職についていることくらいだ。

 いや、ほかにも色々ある。ちょっと普通でないことが。
 けれどそれは家云々のせいではなく――

 父が変人だからだと、伊明は思う。


*   *   *


「伊明くん、先に入ってもらってもいいかしら」

 女性看護師の柳瀬やなせに呼ばれ、伊明は待合室の椅子から立ち上がった。

 とおの小児科・内科クリニック。

 伊明が物心つく前から家族ぐるみで世話になっている、ここ矢形町やかたちょうの『まちの小さな診療所』だ。

 本当にちんまりと診療している。

 さほど広くはない敷地に、ちょんと置かれたような平屋建て。併設された駐車場は、車三台がゆったり停められる広さがあるが、うち二台は常に、看護師と医院長の愛車が占拠している。患者用スペースはひとつしかない。

 それでも不便はないようである。

 伊明はここで、他の患者と遭遇したことが一度もない。
 予約がいつも閉院ギリギリの午後七時に取られているから――というのもあるけれど、この医院自体が、完全予約制かつ完全紹介制という珍妙なかたちをとっているからでもあった。

 診察室に入ろうと受付カウンターの横を抜けたところで、「ねえ」と柳瀬に呼び止められた。

琉里るりちゃん、間に合いそう?」

「まあ……大丈夫なんじゃないですか」

 伊明はにこりともしない。返事も素っ気ないものである。
 けれど柳瀬は気分を害した様子もなく、

「連絡はあったの?」

「ありましたよ。部活長引いたって」

「そう。大変ねえ」

 綺麗に整えられた柳瀬の眉尻が、伊明の妹――琉里に同情を寄せるように下がった。

 どこからどう見ても二十代にしか見えない彼女は、少なくとも勤続十年は超えているはずのベテランだ。伊明が幼いころからここにいた。

 なのに加齢の影は一向見えず、頬の横で緩くまとめられた栗色の髪のつややかさも、目元や口周りの肌のハリも、モデルばりの細身の体形にぴんと伸びた姿勢さえもいっさい崩れる気配がない。

 美への執着とたゆまぬ努力のたまものよ、と本人は言っている。
 伊明は、美容整形のたまものだと解釈している。

「ゆっくりでいいわよって言ってあげて。少しくらい過ぎても、うちは構わないから」

「いや、俺が終わるまでには来ますよ。学校からここまで三十分くらいだし」

「でもほら、部活で疲れてるのに急がせちゃっても、ねえ。可哀想じゃないの。走ってくるわよきっと、琉里ちゃんのことだから。せめて伊明くんが先に入るって――」

「送ってます」

 うんざりして、伊明は言った。

「連絡がきた時点で、そう送ってます。いつもそうしてるじゃないですか」

「あらまあ、さすが伊明くん。通い詰めてるだけあ――」

「来たくて来てるわけじゃないんで」

 琉里が部活で遅れるのは、そうめずらしいことじゃない。今までにも何度もあった。そのたびに似たような――というかほとんど同じ会話を、伊明は柳瀬と繰り返している。

 彼女はいつもこうなのだ。
 伊明に、琉里に、やたら構いたがる。

 柳瀬は「まあ」と目を大きくした。

「まーたそんなひねくれた言い方する。小さいころはあんなに素直で可愛かったのに……ショックだわ、お姉さん」

「お姉さんって歳じゃないでしょ、柳瀬さん」

 幾つなのか、知らないけれど。

 おそらく女性に対して言ってはならぬ言葉であろうが、あいにく柳瀬も変人である。怒ることなくうふふと笑って、

「歳と美貌が直結するとは限らないのよ。――ほら、入って入って。院長が首を長ぁくして待ってるわよ」

 自分で引き留めておいて――とは思ったけれど、結局なにを言っても無駄なのだ。伊明は不満げに柳瀬を見返してから、診察室のドアを開けた。

 ――そのやり取りが聞こえていたのだろう。

「お前はほんッと、柳瀬に気に入られてんなあ伊明」

 苦笑まじりのだみ声。医院唯一の医師であり院長でもある遠野とおのが、年季の入ったキャスターチェアをぎしぎしいわせながら、ふんぞり返ったままの姿勢で「よう」と軽く手をあげた。

 見るたび思うが――医者に見えない。
 もちろん悪い意味で、だ。

 歳は四十そこそこで、白い筋のちらほら混じったこわい髪を適当に後ろに撫でつけている。秀でた額に濃い眉、太い鼻梁、骨格の際立つ彫の深い顔立ちは精悍だともいえるけれど、いかんせん、だらしない。

 まばらにはえた不精ひげや、着崩したワイシャツ、くたびれまくりのスラックス――さすがに白衣はちゃんと白いが、それでもやっぱり、乾燥機から取り出してそのまま羽織りましたと言わんばかりのシワが目立つ。

 さらには言葉遣いの荒さ、口の悪さ、目元ににじむ気性の激しさが伊明の思う『医者』のイメージから、限りなく遠ざけてしまっている。

 白衣がなければどこの裏稼業の方ですかと訊きたくなるような男だった。

 ――変なのだ。この人も。

 伊明は口をひらくことなく――挨拶さえ事務的な会釈のみで済ませてしまって――患者用のスツールに腰を下ろした。いつものように問診が始まる。遠野はもちろん伊明も慣れたもので、診察は滞りなく進んでいく。

 月に一度の、定期健診。

 とくに病弱というわけでもないのに、伊明は生まれてこのかた十七年間、ずうっと続けさせられている。妹の琉里もだ。

 変わり者の父の意向である。

 頻度の不自然さには伊明もとっくに気がついていたし、面倒だから行きたくないと直訴したのも一度や二度のことではない。そのたびに「なにかあってからじゃ遅い」と父に一蹴され、ならばと二人でサボってみると、父のみならず遠野まで目をツリあげて激怒した。

 琉里は怯え、伊明は引いた。

 そこまで怒る理由がわからない。健診の意味がわからないから。

 訊いても訊いても「念のため」「なにかあってからじゃ云々」としか答えてくれないのだ。烈火のごとく怒るのならちゃんと理由を説明しろと思うのだが、結局、いまだに解は得られぬままである。

 無駄に怒られるのも癪に障るので仕方なく通ってはいるものの、結果はいつだって異常なし。

 『なにか』なんて永遠に無いように思われる。時間と金の無駄である。

 ここ一か月の体調やなんやを訊かれ、体温を測り、目を覗かれたり口を覗かれたり聴診器を胸にあてられたり――形ばかりの(と伊明が感じる)遠野の診察は、いつもきっかり十五分で終わる。

 そのタイミングを見計らって柳瀬が顔を覗かせる。遠野が入れと指で示す。いそいそと――柳瀬が、入ってくる。

 これもいつも通りの流れであり、伊明もまた、いつもここで欝々とした息を吐く。 

「相変わらず注射は怖いか」

 遠野がにやにやしている。むかッ腹の立つ顔である。

「嫌いなんですよ。怖いんじゃなくて、嫌い。注射じゃなくて、採血が嫌い」

「ほう」

 にやにやしている。殴りつけてやりたくなる。
 伊明は遠野を睨んだまま、柳瀬に向けて乱暴に腕を差しだした。とたんにウフフフフと不気味な笑いが降ってくる。

「若い男の子の血っていいわよねえ、みずみずしくって」

 うっとりする柳瀬を、顔を背けて黙殺する。
 いつものこととはいえ、変態的なコメントは聞いていて気持ちのよいものではない。

「院長なんてヘビースモーカーだし大酒呑みだし体にいいもの嫌いだしで、もうドロッドロなのよ、血が。あれは下水ね、っていうかヘド――」

「柳瀬、減給」

 カルテにペンを走らせながら遠野が言うと、

「じゃあ五時に上がりますね」

 すかさず柳瀬が切り返す。わたし給料分しか働きませんのおほほ、と得意げに続けるこの人は、本当にいったい何歳なのか。

 ――なんて、心のなかで思っていても、伊明は会話に混ざろうとはしない。

 濡れた脱脂綿が腕を撫でる。アルコールの塗布された部分がすうと冷えていく感覚に、勝手に神経が集中していく。眉間のあたりが、いやにこわばる。

 一心不乱に床を見つめた。
 少しでも意識を逸らそうと、必死に。

 リノリウムに浮かぶ見慣れた模様。秋風にちぎられた薄雲みたいな――。

「伊明」

 不意に、遠野の太い指が視界に入って来た。ぱちぱちと鳴らされる。伊明は反射的に顔をあげた。

「そういやな、このあと父ちゃん来るってよ」

「……はあ、そうですか」

 気のない返事に、遠野がぐっと眉をひらいた。

「はあそうですかってお前、ほかにもうちょいなんかあるだろ」

「なんかってなんですか」

「いや、なんですかって訊かれると困るんだが」

「遠野先生に用事があるんでしょ? 俺、べつに関係ねーし」

 遠野は伊明をまじまじ眺めながら、ペンの尻でこめかみを掻いた。

「お前は見事に反抗期をこじらせたなあ」

「べつに反抗期じゃないですよ、心底どうでもいいだけで。っていうか、普通じゃないですか。高二で親にべったりとか、そっちのほうがありえないし、……」

 言い終わらないうちに、針の感触がめりこんできた。伊明は思わず息を詰め、口をつぐむ。

 ――ああ、嫌だ、この感覚。
 これがあるから嫌なのだ、採血は。

 ぷつ、と皮膚を突き破ってくる針の痛み。
 体の一部が吸い上げられていくような感覚。

 ぞわぞわと背中があわだつのになぜかそれは不快ではなく、むしろ妙な高揚感を伊明にもたらす。全神経が浮き立つような――ふわと甘く、心地好い熱が、裡から支配しに掛かってくるのだ。

 たぶん、誰に話しても伝わらない。柳瀬や遠野にさえも。
 なんとも形容しがたい奇怪な感覚なのだ。

 年々強くなってきているような――気も、する。

 伊明はもう片方の手で拳を作り、額にぶつけた。ごつ、と骨同士のぶつかる音が頭の中に鈍く響く。ごつ。ごつ。

「はい、おしまい」

 針が抜かれ、絆創膏のような止血テープがあてがわれる。

 腕は凍りついたようにこわばりきって小刻みに震えていた。テープをおさえる親指が勝手に針の痕を探す。裡側に残る奇怪な感覚を散らすようにぐりぐりと動く。

「揉むなっつってんだろうが――」

 リノリウムのちぎれた雲。
 子供のころは、この雲からいろんなもの連想していた。

 今は、なにも――浮かばない。

「――おい。おい、伊明。こっち見ろ。息吸え、深呼吸」
 
 目の前で指が鳴らされる。

 伊明の瞳がようやく動いた。錆びた機械みたいにぎこちなく。思いだしたように息を吸う。そして吐く。言われるままに、ゆっくりと深呼吸を繰り返した。

 腕が、弛緩する。

 柳瀬はいつのまにか退室していた。

 どこから流れてきているのか――閉め切られている室内に、さっきまでなかったユリの薫りが漂っている。

 甘い匂い。香水だろうか。
 幼いころの記憶に触れる。

「……だんだん激しくなってきてんなあ、お前の注射嫌い」

 カルテにペンを走らせながら、呟くように遠野が言った。ちらと動いた視線が、伊明の手元に注がれる。

 指の震えは止まっていない。
 機械的に浅い呼吸を繰り返しながら、伊明は青ざめた顔で朦朧と、床の模様を見つめていた。


 十分ほど休ませてもらいやっと調子を取り戻した伊明は、なにごともなかったような涼しい顔をつくって診察室を出た。

 それとほとんど同時である。医院入口のドアが勢いよくひらいた。

 上部に取り付けられている来客を知らせるベルが――通常ならちりんと優しく鳴る程度なのに――ヂリンヂリンッととんでもない音を立てた。

「あ、うわ、わっ」

 ベルを鳴らした張本人がその音にびっくりしている。
 150センチに満たない背をいっぱいに伸ばし、腕を伸ばして揺れるベルを押さえようとしているのだが、悲しいかな今一つ――いや、三つくらい届かない。

 そうこうしているうちにベルは自ら揺れを止める。
  背伸びしていた制服姿の少女は、文字通り、ほっと胸を撫でおろした。

 そのタイミングを見計らって。

「琉里」

 呼びかけると、少女――琉里は、今度はびくッと大げさに肩をそばだてる。我が妹ながら、反応や動作やらが呆れるほどにいちいちでかい。

「びっくりした、なんだ伊明か」

 振り返った琉里が、またほっと胸を撫でる。

「なんだってなんだよ。っていうかお前、不審者みたいだったからな、今」

 琉里は、たははと気の抜けた笑い声をこぼして頭にぽんと手を乗せた。

「失敬失敬」

「おっさんか」

「やーびっくりしたよ、もぉ。駅からここまでダーッて走ってきたのはいいんだけど、こう、勢い余っちゃってね、思った以上にチカラ入っちゃってね。ドアばーんってなるし、ベルぢりんぢりん鳴るしで、わーって思って――」

 まるで小学生の説明である。

「……見てたから知ってる」

「見てたの? やだな、声かけてよ」

 むくれながら、琉里は靴箱からスリッパを出した。革靴ローファーを脱いで履き替える。

「あのタイミングで声かけたら、お前ひっくり返るだろ絶対」

「そんなことな――くもないかもしれないけど……でも、無言でニヤニヤ見られてるほうがなんか嫌」

「ニヤニヤとか言うなよ、してねーよ」

「してるよ」

 こんなだよ、と琉里は自分の頬を引っぱった。顔がだらしなく横に伸びる。

「お前今日メシ抜き」

「えー!」

 悲嘆にくれる琉里の絶叫に、伊明はふんと鼻を鳴らす。
 すると。

「仲がいいのは結構だけど、病院内ではお静かに」

 いつのまに現れたのか、無人だった受付に柳瀬がいた。カウンターに両肘を乗せ、二人を眺めて微笑んでいる。

 受付カウンターの奥には扉があり、どうやらそこが事務室だか控室だかに繋がっているらしく、受付にいないとき、柳瀬はたいていそこから出てくる。

「あ、柳瀬さんっ」

 琉里が受付に飛んでいく。琉里ちゃーん、と両腕をのばして柳瀬が迎える。お静かに、はどこへやら。カウンターを挟んで二人はきゃっきゃとやりだした。

「琉里ちゃん、ひと月みないあいだに少し大人っぽくなったんじゃない? あら、お化粧してる?」

「えへへ。今日ね、衣装合わせだったんだ。だからメイクもついでに――っていっても軽くなんだけど。落とす時間もなかったからそのまま来ちゃった」

 化粧。
 面と向かって話していたのに伊明はまるで気づかなかった。

 琉里は演劇部に所属している。
 今月末――九月の下旬に行われる文化祭での公演まで残り三週間となったいま、学校のある日は朝と放課後、休日は朝から晩まで毎日毎日、稽古稽古という地獄のような日々を送っている。

 休日返上も朝練も伊明だったらまず耐えられない。
 けれど琉里は、愚痴もこぼさず休むこともなく楽しそうに励んでいる。

「自分でやったの?」

 柳瀬が訊くと、琉里はううんと首を振って、

「私メイクできないもん。友達にやってもらったの。友達っていうか部員の子なんだけど、同じ二年生の。すっごく上手なんだぁその子。みてみて、目の上きらきらしてるの」

 琉里は嬉しそうにはしゃいでいる。

 その素直さや仕草のせいもあるだろうけれど、どう贔屓目に見ても琉里は高校二年生には見えなかった。身長のせいもある。感情のままにくるくる変わる、屈託のない表情のせいもある。

 ただそれ以上に、ぱちりとしたどんぐりみたいな大きな目も、リスみたいなもっちりした頬も、華奢な体つきも、どこもかしこも中学生のころから一ミリの変化もない――というのが、大きかった。

 まるで時が止まっているみたいに。

 180の高身長で細面、大学生に間違えられることのほうが多い伊明とは似ても似つかない。双子とは思えない、歳の離れた兄妹みたいだ従兄妹みたいだと、世間からはよく言われる。

 ひとしきり柳瀬と盛りあがったあと、琉里はスクールバッグを伊明に預けて診察室に入っていった。その背中を見送って、伊明も待合室の椅子に落ち着く。

 琉里のバッグを隣に置き、デニムのポケット――琉里は制服だが、一度帰宅している伊明はTシャツにデニムといういでたちである――からスマートフォンを取りだし、ゲームアプリをぽちぽちといじくった。少し前に友人から一緒にやろうと強引に誘われたものである。

「伊明くん、来月の予約――」

「琉里と決めてください。俺、いつでもいいんで」

 画面から顔もあげない。
 柳瀬がひっそり嘆息したのが聞こえたが、気がつかないふりをした。

 まったくスマホというのは便利である。熱中しているていでいれば余計な会話を避けられるのだから。

 非常にそっけなく、とても不愛想な伊明だが、他人に対してすべてこうというわけではない。愛想がいいわけではないにしろ、クラスメイトとも普通に喋るし、さほど親しくない相手にはそれなりに気を遣った振る舞いもする。

 それができない――いや、しないのは、遠野が『父の旧友』だからだ。その波紋が柳瀬にも及んでいる。
 はたから見れば子供じみた反発なのだろう。伊明本人にその自覚はないけれど。

 琉里が診察室に入ってから十分ばかりが経ったころ。

 院入口の扉が、のそりと開いた。

 琉里のときとは正反対。
 あまりにも静かな来訪だった。ベルも微かに揺れただけ。

 それでも、会話のない待合室には十分だった。受付でなにやら事務作業を行っていたらしい柳瀬も、スマホをいじくっていた伊明も、釣られるように顔をあげた。

 伊明の表情が「げ」とこわばる。
 中を覗くようにして顔をだしたのは、父――伊生いきだった。

「あら。御木崎さん」

 柳瀬がにこやかに迎える。

「めずらしい、伊明くんたちのお迎えですか?」

「いや。遠野に野暮用だ」

 眉ひとつ動かさず、伊生が答える。

「ああそういえば――お約束があるって、院長が言ってましたっけ」

 柳瀬は思いだしたように頷いて、

「いま伊明くんたちだけですから、よかったらどうぞ、中でお待ちになってください。もう少しで終わると思いますから」

「ああ、――いや」

 伊生は扉の内側に入ってはきたが、そこから動こうとはしなかった。凍りついている息子へおもむろに視線を移し、おう、と不愛想に片手をあげる。

 伊明はぎこちなく、他人行儀に頭を下げた。すぐにスマホの画面に顔を戻す。

「終わったのか?」

 伊生が訊く。

「……琉里待ち」

「そうか」

 輪をかけたそっけない返答に、短い相槌。
 無遠慮に注がれる父の視線に伊明は居心地悪く身じろいだ。

 神経質そうな顔に並んだ狐のような伊生の目には、どことなく、凶暴な狡猾さがある。愛想笑いとは縁遠い彼の相好がくずれることはごく稀で、遠野いわく、伊明と伊生は「そっくり」で「まさに親子」なのだそう。

 遠野と歳は同じだが、伊生の髪に白いものは混じっていない。ひげのあともほとんど見えず、外見的な印象はこざっぱりとしている。

 なのに遠野と並ぶと伊生のほうが歳をくってるように見えるのは、顔のしわの入り方のせいだろう。笑うとできる目じりのしわが愛嬌を添える遠野に対して、伊生は、眉間に深く刻み込まれた縦じわが悪い意味でよく目立つ。

 190センチに届きそうな長身、筋肉質な体つき。ノーネクタイではあるけれど、残暑厳しいこの時期でも――なんならうだるような真夏でも――常にきっちりとスリーピーススーツを着込み涼しい顔をしていられる伊生は、息子から見ても異様である。

 変人だ、と伊明は思う。機械仕掛けの化け狐。

「どうだった」

 父の言葉はいつも足りない。伊明は顔を上げずに眉をひそめる。

「なにが?」

「健診」

「健診のなに?」

「結果だ。どうだった」

「どうもこうも。いつもと同じだよ。異常があれば連絡するって」

「――血液検査には少し時間が掛かりますからね」

 見かねたらしい柳瀬があいだを取り持つ。
 そうか、と伊生はどちらにともなく頷いて、

「採血は無事済んだか」

 続けて訊いてくる。伊明にとっていちばん触れられたくない部分だ。

「……済んだよ」

 ぶっきらぼうに答えると伊生はまた、そうか、と頷いて腕時計に目をやった。

「伊明、ちょっと来い」

「なに?」

 感情がそのまま声に出た。表情にも出た。あからさまな険を、伊明は取り繕おうともせずに父にぶつける。

 しかし伊生はすでに背中を向けていた。こちらの反応などお構いなしに。

「なんだよ」

 外へ出て行こうとする伊生に、より険呑な声をぶつける。
 伊生は少しだけ振り返って、

「いいから来い。琉里が終わるまでどうせ暇なんだろう」

「遠野先生に用事があるんじゃねーのかよ」

「急ぎじゃない」

 ばたん。ちりん。
 ドアが閉まり、ベルが虚しく音を立てる。

 ――いつもこうだ。伊明には拒否権はおろか選択の余地さえ与えられない。

 身勝手な父親の、見えなくなった背中にスマホを投げつけてやりたい衝動を抑えながら、伊明は舌打ちをして立ち上がった。



 九月初旬。
 暦の上では秋だけれど、体感、まだまだ夏である。

 それでも昼に蒸された空気が宵の風に流されきってしまえば、夏の終わりも近そうだ、とそんな情緒を肌に感じたりもする。

 身勝手な父は院の駐車場に入っていった。伊明も渋々それに続く。

 夜にひたされた静かな敷地内に、シルバーのレクサスが浮かびあがっていた。父の愛車である。いや所有物というべきか――情を切り捨てて生きているような人なので〝愛〟車ではない。

 ほかに、いつ見ても新車ばりにぴかぴかなメタリックブルーのクラウンが一台、プラムブラウンの軽自動車が一台停まっている。こちらは遠野と柳瀬の愛車である。

 伊生は自車の助手席のドアを開け、スーツのジャケットを放りこみながら、

「お前、最近怠けてるだろう」

 おもむろに、そう言った。

 ――最悪だ。

 ここに連れてこられた時点で嫌な予感はしていた。
 それが確信に変わるのに、今のは十分すぎる一言で。

「いいよもう、そういうの」

 デニムのポケットに両手を突っこんだまま投げやりに返す。

 腕時計を外していた伊生の手が止まった。ついと動いた厳しい瞳から逃れるように、伊明は顔を横へ背け、溜息まじりに頭を掻く。

「だって、必要ねーだろ。体術の稽古・・・・・なんて」

 月に一度の定期健診。
 それと並んで鬱陶しいのがこれなのだ。

 いったいなにが楽しいのか、父は暇さえあれば素手で闘い勝つ術を――つまり体術なるものを叩きこんでくる。

 小さい頃からそうだった。

 しかもそれは空手とか柔道とか、れっきとした武道ではなく――合気道が源流になっているそうではあるが――様々な武術をミックスさせたような、超実戦的なものである。

 いくつか型はあるものの、基本的には稽古自体も父との無言の手合わせのみ。言葉はいらない体で覚えろ痛みをもって、という超スパルタな指導スタイルで、実際、伊明はさんざん痛い目に遭わされている。

 痣だの擦傷だのが絶えなくて虐待を疑われたことまであったが、その頃はまだ強さへの憧れもあり、伊明自身もおもしろがって「稽古稽古」と父にせがんでいた頃でもあったから、大きな問題にはならずに済んだ。

 でも、高校生にもなれば――。
 それが普通じゃないことは、嫌でもわかる。

「俺、べつに格闘家目指してるわけじゃないし。っていうか、日常生活のなかで殴り合いだの取っ組み合いのケンカだの、そんな暴力沙汰ってまずないじゃん、普通に考えて。ガキじゃねーんだし。不良マンガじゃあるまいし。意味ねーよ」

 伊明の反論に、父は視線をくれこそすれ殆ど無反応だった。腕時計を外し、助手席に放りこみ、ドアを閉める。

 ――これはまずい。

「俺、戻るから」

 そそくさと踵を返そうとした、とたん。

 父との距離がふッと詰まった。

 四十路を超えたおっさんの動きとは思えない。それほどに速く、あまりにも静かに、目の前に迫る。
 思わず逃げ腰になった伊明の動きを牽制するように右の拳が――頑強な節くれだった拳が、空気をうならせ、頬ぎりぎりのところを過ぎていく。

 息をのむ。目をみはる。

 冷淡な父の瞳が、伊明を冷ややかに見下ろしている。

「自分の身くらい自分で護れなくてどうする。なにかあってからじゃ遅い」

「……なにか、って」

 声が喉に引きつれた。
 息子の反問を、しかし伊生は待ってくれない。

 突き出された右拳がひらかれ肩を掴まれる。父の左肩が動く。左肘が引かれる。掌底がみぞおち目掛けて迫ってくる。

 伊明はとっさに、父の右腕を上に弾いた。逃げ道を作って彼の背後に回りこむ。と、その動きを読んでいたかのような回し蹴りが、今度は横膝を狙ってくる。ジェットエンジンでもついているのかと思うような動きのキレ。とんでもない親父である――が。

 あいにく伊明もその血を濃く受け継いでしまっている。幼少から叩きこまれてきた技術の賜物でもあるのだろう。彼自身の反射や身体能力もまた、常人に比べてかなり高かった。

 不安定な姿勢であったにもかかわらずぴょんと後ろに飛びのいて、父の足技を器用にかわす。

 伊明はすでに観念していた。
 こうなったらもう駄目なのだ。父の気が済むまで付き合うしかない。

 問題は、いかにダメージ少なくやり過ごすか、だ。

 いったん態勢を立て直そうと伊明はさらに後退し、父との間合いを取ろうとした。が、失敗した。まるで糸で繋がれているみたいに、下がった伊明の懐へ伊生がするりと入ってくる。

 そこからはまさしく怒涛。無難に終わらせようとする伊明の心を見透かしているかのような、容赦のない攻撃の手。面食らった。動揺に己の動きが支配される。凌ぐのに精一杯で反撃するいとまもない。

 ――いや、それだけじゃない。

 父の速さも攻撃の重さも、こんなものじゃないはずだ。ずいぶん抑えられている。長年相手をしてきたからわかる、明らかに手加減していることが。

 なのに、捉えきれない。

 以前ならば余裕でかわせただろうその拳が、その足が、どうしても捉えきれないのだ。脳と体の疎通が遅れている。反撃のタイミングが掴めない。無理くりだした拳は難なくかわされ、蹴りはことごとく弾かれる。

 父がさらに手を緩めたのが、わかった。
 わざと隙を作って伊明に仕掛けさせようとしている。

 それがひどく、癪に障った。
 荒々しさが動きににじむ。苛立ちが勢いに拍車をかける。気がつけば、伊明は猛然と手足を振るっていた。

 しかし当たらない。それでもかわされる。

「くそッ……!」

 毒づいた。ふざけんな、と叫びたくなる。
 激情に煽られるがまま、わずかに横に流れた不安定な体勢から無理やり左足をぶん回した。うまく決まれば、父の横ッ首を打てるはず――。

 ぱし、と手のひらで止められた。
 無駄なく、隙なく、ごく静かに勢いを殺される。

 そのまま足首を掴まれ、完全にバランスを失った。体が横に傾ぐ。掌底が、目の前に迫る。

「……っ!」

 伊明は本能的に顔をかばった。

 ――けれど。
 掌底はこなかった。がしりと右肩を掴まれただけ。
 捕らわれた右肩と左足。転倒は免れたが、同時に動きも封じられた。

 完璧な、敗けだった。

 父の手が足から離れ、肩から離れる。
 ふつりと切れた緊張の糸。どっと押し寄せてくる疲労の波に浚われて、伊明は膝からくずれるようにその場にしゃがみこんでしまった。

「くっそ……」

 息が上がっている。
 ふきだした汗が額を、頬を、とめどなく流れ落ちていく。

「先月だったか――前回のほうがまだましだったな。どんどん動きが鈍くなってるぞ、伊明」

「わかってるよ、うるせーな」

「怠けるからだ」

「うるせーってば」

 Tシャツで汗を拭う。
 父を窺ってみると、呼吸はいたって落ち着いている。額に滲んだ汗を手の甲で拭き、相変わらずの涼しい顔で袖のボタンを外して肘まで捲りあげていく。

 ――今ソレかよ、クソ親父。

 伊明は心のなかで悪態をついた。
 腹立たしいことに、父はぴちりとしたベストに長袖のワイシャツという動きにくい服装で伊明の相手をつとめていたのだ。にもかかわらず、手も足も出なかった。悔しいどころではない。

 睨むように父を見やっていた伊明の瞳が、ふと、露わになった左腕に留まった。

 甲側の手首から肘にかけて、父の腕には、幾筋もの傷痕が刻まれている。縦に刃を入れたような深いものが、いくつも、いくつも。

 その所以を伊明は知らない。
 聞いたところで返ってくるのは「昔ちょっとな」のみである。

 伊明は父から視線を外した。

「っていうか――」

 まだまだ小言を重ねてきそうな父に、先手を打つ。

「手合わせの相手なんて、あんたと琉里しかいないだろ。二人とも忙しくてそれどころじゃねーじゃん」

「……俺はともかく、忙しかろうが暇だろうが琉里は駄目だ」

「昔はやらせてたくせに」

「昔は昔、今は今だ」

 なんだよそれ、と伊明は口の中で呟いた。

 琉里も父のしごきを受けて育ったが――そもそも彼女は、今でこそあんなに元気だけれど、小さいころはすぐに寝込んでしまう虚弱体質だった。

 父の稽古が始まったのは、それを抜けだした小学校中学年くらいからである。それでもやはり伊生の娘、伊明の妹、なかなかにスジがよく、あっというまに上達していった。

 先輩風を吹かせていた伊明が手心を加える余裕をなくしたのも、中学に入ってすぐのことである。

 高校に上がって以降は、二人の手合わせは父によって全面的に禁止されている。たとえどんなに軽いものであっても、だ。

 琉里はそれに不満たらたらで、いまでも時々、内緒でやろうよとせがんでくることがある。けれど、体格差もあるし童顔だし女だし、と気の引ける要素も多分にあるので、父の命令を体のいい断り文句に利用している。

 ついでに。

「練習しようがねーだろ、相手いないんじゃ」

 こんなふうにおさぼりの言い訳にも使っているわけだが。

「型も教えてるし、体作りくらいなら一人でもできるだろう。お前が片時も離さない携帯電話で検索のひとつもしてみれば、方法はごまんと出てくるんじゃないのか」

 ド正論。ぐうの音も出ない。

「もしどうしても相手が必要だというのなら、俺が時間を作ってやるが」

「……父さんは嫌だ」

「だろうと思った。なら遠野にでも頼め」

「遠野先生はもっと嫌だ。あの人ガチで殴りに来るから」

 手加減なしで、顔面を――だ。

「ああ、まあ……あいつの土台は喧嘩だからな」

 さすが、この父の竹馬の友というべきか。遠野も腕っぷしにはかなり覚えのあるタイプである。
 ただ父の言うとおり、彼の場合は武術というより暴力なのだ。父や琉里との手合わせなら成立する拳のキャッチボールが、遠野が相手だとメリケンサックの豪速ドッジボールみたいになってしまう。

「まあいずれにせよ、だ。鍛錬を怠るな、伊明。いいな」

 念を押すようにそう締めて、伊生は「戻るぞ」と伊明を促した。立ち上がるのも待たずにさっさと歩きだす。

 ――この人は、いったい息子になにを求めているのだろうか。

 普通の親が気にするようなこと、たとえば成績の良し悪しだとか進路だとか、そういったことには一切口を出さないくせに、定期健診にはやたら厳しく、口をひらけば鍛錬鍛錬、また鍛錬だ。

「……なんなんだよ」

 駐車場から出ていく背中を睨みつけ、顎に滴る汗を拭ってから伊明はようやく立ち上がった。

 院内に戻ると診察を終えたらしい琉里が待っていた。先に戻ったはずの父の姿はすでになかった。

 琉里によると、「どうだった、健診は」と伊明にしたのと同じ質問をし、一言二言、言葉を交わして、遠野と奥に引っ込んでいったという。

「先に帰ってろって。待ってるって言ったんだけど」

 琉里はどこか寂しそうだが、伊明にとってはありがたかった。柳瀬の笑顔に見送られ、伊明は、琉里とともに診療所をあとにした。



#2 血の目醒め


 診療所から徒歩十分。
 小さなガレージのある二階建ての一軒家が、伊明たちの住まいである。

 二階には兄妹それぞれの自室と、父の書斎兼寝室がある。バルコニーに続く一室は空き部屋で、家族共用の物置部屋として――といっても物はそんなに多くないけれど――活用している。

 一階は風呂やトイレ、カウンターキッチンにちょっと広めのリビングダイニングなど生活の場として整えられており、伊明も琉里も、寝る以外のほとんどの時間をこの階下で過ごしていた。

 学校の課題もリビングでやり、時間のかかる家事なんかもそこで済ませる。

 たとえば朝方にバルコニーに干しておいた洗濯ものをわざわざ下に持ってきて、アイロンを掛け、たたんだものをまた二階に持っていくという――他人から見れば余計なひと手間を、伊明も琉里もすすんで掛ける。

 テレビがリビングにしかないという理由もある。黙々と一人でこなすよりも、なんやかやと兄妹でくっちゃべっているほうが楽しいからというのも存分にある。

 今も琉里は、ソファセットの置かれたリビングと食卓の置かれたダイニングの間にぺたんと座ってアイロンがけに勤しんでいる。伊明は伊明でキッチンに立ち、夕食の支度を進めていた。

 母親のいない御木崎家では、ごく日常的な光景である。

「いーいーなー」

 ふしゅう、とアイロンが蒸気をふく音と一緒に、琉里がうらやましそうな声をあげる。

 駐車場での一件を、琉里に愚痴っていた最中だった。
 小鍋に味噌をといていた伊明は思わず手を止め、琉里を見る。

「『いいな』?」

「だってお父さん、伊明ばっかり可愛がるんだもん。ずるい」

「可愛がるとか……」

 気色の悪い――と伊明の腕に鳥肌がたつ。

「だってー」

 琉里が頬をふくらませた。

「私、高校に上がってから一度も手合わせしてもらってない。伊明ともダメって言われてるし……なんか、のけものにされてる気分」

「しょうがねーだろ女なんだから――」

 言ったとたん、琉里がむッと眉を寄せてアイロンを置いた。昔はやってたじゃん、と、先ほど父にぶつけた言葉がブーメランのごとく返ってきそうな気配がして、伊明は慌てて取り繕う。

「っていうか部活あるしお前。いま怪我したらまずいんだろ。今回、メインの役もらえたって喜んでたじゃん。本番まで休めないって言ってたし」

「……まあ、そうなんだけど」

 肩を落として、うう、と唸る。かと思うと。

「でもやっぱり私もやりたいー! 伊明やお父さんと手合わせしたいー!」

 両手を振り上げてわんとわめいた。そのままぱたんと後ろに倒れる。深いため息が、ひとつ聞こえた。

「……遠野先生とやろうかな」

「それはやめとけ」

「はーい」

 素直な返事とともに、琉里がむくりと起きあがる。
 わめいて倒れて多少はすっきりしたらしい。ふくれっ面はすでに直り、アイロン掛けを再開する手もよどみなく動いている。

 琉里のこの切り替えの早さを、時々ちょっとうらやましく思う。

 小さく溜息をついて、伊明も夕食の支度を再開した。

 小鍋にフタをし、冷蔵庫から取り出した半玉のキャベツをまな板の上にごろんと放る。夕方、学校帰りに買ってきた総菜――トンカツ二人前も、皿に移して電子レンジに放りこんだ。

 今日は健診があったため、スーパーマーケット様にお力添えをいただいた。出来合いの総菜は、金は掛かるが楽ちんでいい。

 伊明は半玉キャベツをくるむラップを剥がしながら、琉里に「そういえば」とふたたび水を向ける。

「どうだった? 健診」

「あ、うん。……あれ? 前回のこと、私、伊明に話したっけ?」

「体に変化で出てきてるってやつだろ」

「そうそう。で、今回もね、やっぱり同じこと言われた。先々月くらいから少しずつ体に変化が出てきてるから、いろいろ気をつけなさいって。ちょっとでも気になることがあったらすぐ来いって」

「なんなの、体に変化って」

 ずいぶん変な言い回しだ。

「わかんない」

「調子悪いの?」

「そんなこともないんだけど。遠野先生、説明してくれなくて。なんなんだろ?」

 琉里自身も思い当たるものはないようだった。不思議そうに首をかしげている。

「……変化、ねえ……」

 ざくざくとキャベツを切りながら呟いた伊明の脳裡に、ふと。

 ――なにかあってからじゃ遅い。

 父の言葉がよみがえった。

 なにか。
 なにかって、なんだろうか。

 遠野の言う体の変化とやらと関係があるのだろうか。

 月に一度の定期健診も、口酸っぱく言われる鍛錬も、そのなにかに備えるためのものなのだろうか。

 だとすると――
 父は、そのなにかを知っていることにならないか。

 健診は、病気をいち早く発見するためのものである。
 体術は素手で相手に勝つための術である。

 それを結びつけるなにかって――。

 ざく、ざく、ざく。

 ザクッ。

「いッて……!」

 人差し指に走った鋭い痛みに、思わず包丁を取り落としてしまった。まな板とぶつかって、ゴト、と重たい音が響く。

 琉里がおどろいたように顔をあげた。

「どうしたの?」

「指、切った」

「えッ!?」

 かなり深くいったらしい。傷口から血があふれてくる。
 こんなの久しぶりだった。考えごとに気を取られすぎて手元がおざなりになっていたか。

 ひとまずティッシュで抑えようとキッチンを出た――ところで、薬箱を持ってすっ飛んできた琉里とはちあわせになった。ぶつかりそうになる。

「あ、ごめん」

「いいから。――こっち来て。傷見せて」

 こういうとき琉里は結構冷静なのだ。普段は子供っぽいけれど、伊明よりよほど根がしっかりしている。

 琉里にくっついてダイニングに移動した。促されるまま、片手を差しだす。

 指先から、血が、滴る。

 手当するべく伸ばされた琉里の手が、ぴくんとふるえて不自然に止まった。


 ――もしも。
 もしも宿命の歯車があるとしたら。
 それはきっと、ほんの些細な切欠ひとつで回り始めてしまうのだろう。ゆっくりと――軋みをあげて――当人たちの意思など、関係なく――。


 むせかえる甘い匂いに脳が痺れる。眩暈がする。

 傷口が、焼きごてを押し当てられたみたいに熱かった。

 体のなかを廻る血は、まるで炎の濁流だ。血管という血管がどくどくと脈打って――心臓が砕けて体中に散らばったみたいだった。

 なんだ、この感覚。なんだ、この匂い。

 声は掠れて音にならない。
 指先さえも動かせない。

 どろりと濁った、蜜のごとき沈黙のとばり。

 それを動かしたのは、琉里の渇いた吐息だった。

 まるで熱砂の大地を彷徨い歩く、迷い人の、最期の喉のひくつきだった。死の淵に視る幻想のなか――小さな一葉のわずかな朝露に縋るような仕草だった。

 すくいあげるように両手を伊明の指に添え。
 琉里はそっと。
 傷口に、唇を近づけた。
 舌が血を掬いとる。皮膚の切れ目を押しひらかれる。
 人のぬくみを忘れたみたいに琉里の頬は青白い。触れるすべてがひどくつめたい。

 それとも――
 自分が
 熱く
 なって、いるだけ
 なの、か

 血の脈動が激しくなる。いっそう匂いが強くなる。頭の芯から痺れていく。思考がまとまらない。考えなければならないことが、考えられない。

 知っている。よく似た匂いを知っている。小さい頃に何度も嗅いだ。よく似ている――けれど、違う。比べものにならないくらいに、これは濃い。

 ユリの花が血を浴びれば、こんな匂いになるのだろうか。

 妹の瞳は、はたしてこんな色だったか。澄んだ冬の湖に灰をまぶした、青灰色。

 熱に浮かされ幻覚を見ているのだろうか。

 それともこれは夢なのか。

 ――ああ、嫌いだ、この感覚は。

 奇妙な高揚感。血の抜かれていく感覚。採血のときよりはるかに強烈で、意識がとけてなくなりそうだ。

 ――と。

 ふいに、指にり集まっていた神経が、ほどけた。

 琉里の手が、口が、伊明の指から離れていく。すぐ下にあった小さな頭がくずれるように落ちていく。

 どさり、と音がした。

 倒れたのだと気づくまでに、少し掛かった。

「琉里!」

 現実に引き戻される。
 伊明ははっと息をのみ、慌てて妹の傍らに膝をついた。

 呼吸が荒い。ふるえている。まるで毒でものんだようだ。苦悶に顔をゆがませて、喉をおさえ、こわばりきった体をくの字に曲げて――琉里は、ぐ、ぐ、と苦しそうにうめいている。

「琉里、琉里ッ!」

 何度呼び掛けても、揺さぶっても、固くつむった目は開かない。琉里の体は焼けるように熱かった。

 なにが起こっているのかわからない。なにが起きたのかもわからない。

 伊明は激しく混乱していた。

 妹を助けなければ、なんとかしなければと思うのに、脳みそが馬鹿になったみたいに正常な働きをしてくれない。焦りばかりが募っていく。

 だから――玄関で物音がしたのにも、どたどたと廊下を踏み鳴らす足音があるのにも――伊明は気がつかなかった。

「伊明! 琉里!」

 リビングの戸が勢いよく開いた。太く響いた父の声。
 振り返った伊明の口から、父さん、と縋るような声がこぼれた。

「琉里が、琉里が――」

「なにがあった」

「わからない、わからないけど、急に……、指切って、手当てしようとして、それで」

 伊生は、伊明を押しのけるようにして琉里のそばに膝をついた。頬に触れ、口元に触れ、唇を割りひらく。噛み締めた歯列になにかを認めたらしい伊生は、今度は伊明の左手を取った。

 人差し指の先についた真新しい傷。滲む血。

 伊生の顔が、こわばった。

「……父さん……」

「――話はあとだ。遠野に掛けろ」

 伊生はスラックスのポケットをまさぐって、自身のスマートフォンを伊明の手に押しつけた。

「診療所……」

「いや、携帯にだ。出るまで鳴らせ」

「父さんは」

「遠野のところへ連れていく」

 言いながら、琉里を抱きあげた。
 琉里はもがくように身じろいだ。いっそう苦しげにあえぎだす。

 伊生の眉間が一瞬、つらそうにぴくんと痙攣した。が、留まることなく踵を返す。

 父のあとを追うように、伊明も覚束ない足で立ちあがった。

「俺――俺も」

「お前はここで待ってろ」

「でも」

「待ってろ」

 有無をも言わせぬ口調だった。

 伊明はその場に立ち尽くしたまま、居間から出ていく父の背中を見送った。離れていく足音を聞き、玄関の扉の閉まる音を聞いた。乱暴に開閉される車のドアの音も。火を噴くようなエンジン音も。

 車の走行音が遠ざかっていく。

 伊明はようやく、のろのろと、父のスマホに目を落とした。


 遠野はすぐに電話に出た。

 ちょうど院を出たところだというのでそこに居てくれと引き留めて、いま父が琉里を乗せて車で向かっている、急に倒れたのだと事情を説明しているうちに、電話の向こうでブレーキ音が聞こえ、遠野、と切迫した父の声が飛びこんできた。

 あとで連絡するから、と遠野は言った。
 俺が診るから大丈夫だ、心配するなと続いて、慌ただしく通話は切られた。

 安心なんて、できるはずがなかった。

 伊明は父のスマートフォンを傍に置き、ダイニングテーブルに突っ伏したまま――ただ、待っていた。遠野からの連絡を。

 琉里が心配だった。おそろしく不安だった。
 倒れる直前に起きた不可解な出来事が頭のなかでループする。

 あれはいったいなんだったのか。

 現実とは思えない。いきなり白昼夢に引きずりこまれたみたいだった。
 瞳の色とか匂いとか、錯覚だった幻覚だったと無理やり言い聞かせようともした。

 でも、琉里の行動は明らかに異常だったし、それに対し、自分の中にある得体の知れないものが確実に呼応していた自覚もある。

 採血のときの妙な感覚が琉里に向かって動いていく感じ――ぞわぞわと、無数のなめくじが神経を這っていくような感じが、いまだに体の中に残っている。

 伊明は思わず口を押さえた。
 気味が悪い。気持ちがわるい。

 ――ピリリリリ……。

 伊生のスマホが鳴りだした。

 思わず飛びついた伊明だったが、画面を見て落胆する。

 発信元は遠野ではなかった。『御影佑征』と表示されている。父の知人か、仕事関係の人だろうか。読み方はわからないが、伊明のフルネームに負けず劣らずのゴツい字面だ。

 ほどなく留守番電話に切り替わる。

『あ、もしもし、ミカゲですー。こんな時間にすいません、夕方に掛けるつもりやったんですけど、ちょっといろいろ立て込んでもうて――』

 部屋が静かなせいもあるのだろうけれど、向こうの声量もとにかくすごい。聞く気もないのに一字一句が鮮明だ。

『うちで二つほど席が空きましたんで、ひとまずご報告しときます。ただ技術職なんで誰でもウェルカムってわけにはいかんのですけど……いや、まあ詳しくは来週、会ったときにお話さしてもらいますね。あと何度もすいませんけど、ソーケの件もそろそ――』

 ピ――……。

 よく喋る人である。
 留守録の制限時間を超えて喋りつづける人を伊明は初めて見た。

 どでかい声量、陽気な声音、関西方面と思しきイントネーション。

 やはり仕事関係の電話――なのだろう、たぶん。私立探偵とは程遠い内容な気もするし、よくわからない単語も混じっていたしで、伊明にはまったく理解できなかったが――ともかくも、今はそんなことに気をやっている場合じゃない。

 伊明はリビングの掛け時計へと目を向けた。時刻は午後九時を回っている。

 父が出て行ってからどのくらい経ったのだろうか。混乱していたせいなのか、時間の感覚が完全になくなっていた。

 ――ピリリリリ……。

 ふたたび父のスマホへの着信。しかしこれも遠野からではない。隣県の市外局番から始まる、未登録の番号である。

「なんだよ、もう……」

 気が抜ける。伊明はテーブルに突っ伏した。

 ――ピリリリリ……。
 ――ピリリリリ……。
 ――ピリリリリ……。

 その番号からの着信は何度も続いた。留守電に切り替わると切れ、またすぐに掛かってくる。それを繰り返し、三回、四回。

 五回。

 たまらず伊明は身を起こした。スマホを取りあげる。
 用件を聞いてさっさと切ってしまうつもりだった。

「もしもし」

『……』

 虚を突かれたような、息をのむ微かな音。短い沈黙。戸惑いがちに返ってきたのは。

『伊生、さん?』

 たおやかな、女性の声だった。

 出なければよかったと、伊明は即座に後悔した。

 たった一言、ほんの短い呼びかけ一つ。だというのに、その声は、その温度は、父との距離の近さを感じさせるに十分で。

「……すみません、父は今ちょっと出ていて。スマホ置いてってるんです。何度も掛かってきたから、大事な用が――仕事関係の大事な用でもあるのかと思って」

 『父』と『仕事関係』の部分をことさら強調する。
 できるかぎり冷静に。平静を、装って。

「伝言があるなら伝えときますけど」

 相手の女が諸々を察してごまかすなり話を合わせるなりしてくれればいいと心の底から願った。

 しかし向こうは、また沈黙してしまう。

 ――本当に、嫌になる。

 よりにもよってこんなときに。こんな状況のときに。
 伊明は額をおさえて溜息をついた。折り返すよう伝えましょうか、と付け加えようと口をひらく。

『伊明?』

「……え?」

 唐突に発せられた自分の名。思わずまばたく。

『伊明なの?』

 今度は、伊明が沈黙する番だった。

 女の声には抑制された静けさがあった。こみあげてくる感情を、押しあがってくる衝動を、喉で抑え、引き絞って、引き絞って、ようやくこぼしたような声。

 心がざわつく。
 名乗った覚えは、もちろんない。

「え、と」

 かろうじて出せたのは、そんな無意味な二音だけ。けれど彼女はそれで確信したようだった。

 そう、伊明、あなたなのね――。

 ひとり言のように呟いて、

『ああ、ごめんなさい。驚かせてしまったわね』

 くすりと笑って、言った。

『昔、あなたがまだ赤んぼうだったころ――少しだけ一緒に暮らしたことがあるの。……親戚のおばさんよ。御木崎の』

 御木崎の。

「父さんの……?」

『ええ。ごめんなさいね、いきなり伊明だなんて馴れ馴れしく呼んでしまって。あんまり懐かしかったものだから、つい』

「……はあ……」

 ――親戚のおばさん? 一緒に暮らしたことがある、って?

 そんな話、いままで一度も聞いたことがない。

 父は、若い頃に勘当されて実家とは絶縁状態、のはずである。それも伊明たちが生まれるより前の話であり、以来、親兄弟親類の誰とも連絡を取っていない、と――本人自らそう言っていたのに。

 スマホを握る手に力がこもる。

 この電話はいったいなんだ。
 親戚と名乗るこの人は、いったいなんだ。

『じつは、御木崎家うちのことで、どうしても伊生さんと直接お話がしたくって』

 たおやかな声が沈黙を浚っていく。

『申し訳ないんだけれど――伝言、お願いしてもいいかしら』

「……ぁ? え、あ、はい。あ、ちょっと待ってください、書くもの……」

 伊明は慌ててリビングに据えてある固定電話のそばに行った。そこにはメモパッドが常備されている。

『おとうさまの葬儀は済ませました。そのうえで、今後のことをちゃんと話し合いましょう、って。この番号でも構わないけれど、もし家の者と話したくないのなら、今から言う番号に折り返すように――伝えていただける?』

 繋がりにくいとは思うけれど履歴は残るから、と前置きをして、彼女は携帯電話の番号を口にした。伊明はメモ用紙にその数字だけを書きつける。

 彼女はよろしくと念を押したあと、

『……あなたの声が聞けてよかった』

 やわらかな微笑の見える声で、そう言った。


 どのくらいそうしていたのか――スマホを手に持ったまま、メモ用紙に並んだ数字を見つめていた伊明は、玄関の物音にはッとした。

 父が帰ってきたらしい。

 とっさにメモをちぎって手の中に握りこむ。父のスマホはダイニングテーブルに放りだした。

 廊下へ出ると、明かりのない玄関には靴を脱いでいる父の背中だけがあった。

「……琉里は?」

「今日一日、遠野が見ることになった」

「それ、入院ってこと?」

「心配するな。念のためだ」

 淡々と答え、廊下に上がり、伊明を素通りしてリビングに入っていく。
 室内――片づける気になれずキッチンもアイロン台もそのままになっている――を見回して、リビングの奥、ガレージに面する掃き出し窓をがらりと開けた。

 居間の戸口に立ったまま、伊明は父の背中を、その横顔を睨みつけていた。

 あいかわらず、訊かれたことに答えるだけ。
 なんの説明もしてくれない。なにも話そうとしてくれない。
 表情からも、動きからも、なんの感情も読みとれない。

 信じられないほどいつも通りな、父の姿。

 夜の秋風がしとりと流れこんでくる。こごっていた家の空気を循環させる。

「……なんだったの?」

 ぶっきらぼうな伊明の問いに、父は怪訝そうに振り返る。

「琉里が倒れた原因。なんだったの?」

「ああ。……まあ、発作みたいなものだ」

「発作?」

 父は硝子戸から離れて、また伊明の前を素通りする。一瞥もくれず、ダイニングテーブルに投げ出されていた自身のスマホを手に取った。

「発作ってなに?」

 伊明が訊く。父はスマホをいじくりながら、それに答える。

「琉里には、生まれつき持病のようなものがある。ここしばらくは平気だったが――」

 ふと父が眉をひそめた。

「お前、俺の携帯使ったか?」

 伊明は逃げるように視線を外した。握っていたメモをポケットに突っ込む。

「……遠野先生に、電話」

「そのあとだ」

「ああ、……同じ番号からすげー掛かってきてたから」

「出たのか」

 父の瞳が険しくなったのが、わかった。
 刺々しい視線が容赦なく肌に刺さる。

「緊急だと思うだろ、あんな――何回も何回も掛かってきたら」

 自然と語気が強くなる。目を合わせずにキッチンに入り、まな板の上でしなびているキャベツをゴミ箱に流しいれた。包丁も、まな板も、シンクに突っこむ。

「名乗ったか」

「は? なに?」

「向こうは、お前に名乗ったのか」

 張りつめた父の声。

 わかっているのだ、相手が誰だか。
 着信履歴に残っている番号は未登録のはずなのに。

 燻っていた苛立ちが、ほのかな熱を孕みだす。伊明はそれを抑えこむように、シンクのふちに両手をついてゆっくりと息を吐きだした。

「……名乗ってねーよ。名乗ってねーけど、親戚だって言ってた。あと伝言。オトウサマの葬式は済ませた、話し合いたいことがあるから電話くれってさ。……その番号に」

 水道のレバーを勢いよく上げる。最後に添えた呟きが水の音に掻き消される。

 父は、そうか、と無感情に言っただけだった。

 言い訳もない。弁明もない。
 説明も、やっぱりない。

「絶縁状態じゃなかったっけ?」

「他になにか言ってたか?」

 嫌味たっぷりに放った問いは、無視された。

「なにも」

 苛立ちを抑えるのはもう無理だった。乱暴な手つきで適当に洗ったまな板と包丁を水切りカゴに投げ入れ、キッチンを出る。

 父は、ダイニングで巌のように固まっていた。大きく引いた椅子に浅く腰掛け、足を組み、テーブルに片腕を乗せて――指先だけが擦り合うように動いている。考えこんでいるときの父の癖だ。

 伊明はカウンターに腰をもたせかけ、その横顔を睨んだ。説明を待ったところで無駄なのはわかっている。

「なあ。琉里の持病ってなんなの? 昔から体弱かったじゃん、それとは違うの?」

「……その前に」

 父の瞳が伊明に向く。

「あのとき何があったのか、詳しく話せ」

 人差し指がコツコツとテーブルを叩く。座れという合図である。
 伊明は動かなかった。

「あのときってなに? 琉里が倒れたときのこと言ってんの?」

「そうだ」

「さっき言っただろ。俺が――」

 コツ、コツ。
 再度、今度は強めにテーブルが叩かれる。

 伊明は舌打ちしたくなるのを堪えてカウンターから腰を離した。乱暴に椅子を引き、父の斜向かいに座る。

「俺が、包丁で指切って。琉里が手当てしようとして、……そしたら、いきなり倒れて」

「伊明。詳しく・・・話せ」

「……」

 この暴力的な父の目つきが、伊明はとにかく嫌いだった。

 こちらの意思などお構いなしに、凶暴な圧でもって従わせようとする傲慢な瞳。そこに温みは欠片もなく、底冷えするようなつめたさだけが、薄氷を張ったみたいに――常に冷然とひかっている。

 はたしてこれが、父親が息子に向ける目なのか。

 伊明はテーブルに視線を落とした。

 話したところで理解してもらえるとは思えない。自分でさえ夢か現か知れないようなあの出来事を、この男が受け入れようはずもない。

「…………」

 伊明が沈黙を守っていると、

「話しづらいのはわかってる」

 父が言った。

「だいぶ、不自然なことが起きたろう」

 伊明は驚いて目を上げた。が、互いの視線がかち合うことはなかった。

 父は瞼を伏せている。眉間に深くしわを寄せ、目頭を押さえていた。めったに崩れない父の、苦々しい顔――。

「……琉里から、聞いたの?」

「いや。琉里はまだ話せる状態にない」

「じゃあ、なんで」

 父は短く嘆息し、目元から手を離した。伊明へと瞳を戻す。
 冷徹なひかりは変わらずこびりついていたが、それでも、圧力を掛ける目つきではなくなっていた。

「あの状況を見れば大体の予想はつく。俺が知りたいのは、どういう経緯でそうなったのか、琉里がどんな行動を取ったのか、――お前がなにを見てなにを感じたのか、だ」

 無意識、なのか。
 言いながら父は左腕をおさえていた。いくつもの傷痕のある、左前腕。

「話はそのあとだ。必要なら、答えられる範囲でお前の訊きたいことにも答えてやる」

「……ちょっと、待って。父さんは……説明できるっていうのか、あのときの――あれを」

「できる」

 よどみなく、言い切った。
 伊明はひどく戸惑ったが、逡巡したのち、ぽつぽつと話し始めた。父の要望通りにできるだけ詳しく。

 指を切った。手当てすると言った琉里に、傷を見せた。とたんに甘い匂いが広がって、頭の芯がぼうっとして、傷口を中心に血が滾るように熱くなって。琉里が傷に口をつけると、余計にそれらがひどくなって――。

「琉里は自分から血を舐めたのか」

 父の問いに、伊明はためらいがちに頷いた。

「あいつも……変になってた、と思う。俺も普通じゃなかったけど、琉里も普通じゃなかった。二人して、別々の幻覚のなかをさまよってるみたいだった」

「そうか」

「……だからだと、思うんだけど」

 そこでちょっと口ごもった。父を窺う。
 話せ、と目で促され、伊明はうつむきがちに口をひらく。

「幻覚の延長、っていうか……琉里の目の色が変わったように見えたんだ。灰色っぽい青に。顔も死ぬんじゃないかって思うくらい血の気が失せてたし、指とか、すげー冷たくて」

 人差し指の傷をいじくっていると、ぴりっとした痛みとともにふたたび血が滲みだす。それを眺めながら、伊明は続ける。

「そしたら急に琉里が倒れたんだ。俺もそれで正気に戻ったっていうか、我に返ったっていうか……でも正直パニックで、ほんと、もうワケわかんなくなってた。あいつの体、それまで冷たかったのが嘘みたいにめちゃくちゃ熱くなってたし、すげー苦しそうにしてたし」

 父はなにも言わなかった。伊明が顔を上げる。

「なあ、あれって――」

 父がおもむろに立ち上がった。伊明は思わず口をつぐむ。

「……なんだよ」

「少し出てくる」

「はあ?」

 すこしでてくる。出掛けるという意味か。

 ――このタイミングで?

 父は構わず、スマホを手に取った。鍵や財布や――座ったときにでも出したのだろう、卓上に散らばっているそれらをスラックスのポケットにねじこんでいく。

「ちょっと待てよ。まだ話終わってねーだろ」

「それだけ聞ければ十分だ」

「そうじゃねーだろ、琉里のことは? なにが起きたか説明するって言ってたろ」

「『必要なら』。今はまだいい」

 伊明は完全に言葉を失った。
 は、と訊き返す声すら出せず、呆然と父を見あげる。

 父はそんな伊明を一顧だにせず、さっさと居間から出て行ってしまった。慌ててその背中を追いかける。

「ふざけんなよ、なんだよ『今はまだいい』って。なにがいいんだよ!」

「いま話してもお前が混乱するだけだ」

「もうとっくに混乱してる」

「だから、今じゃないほうがいいと言ってるんだ」

「そうじゃなくてッ……」

 説明がないからだ、思わせぶりなことを言って逃げるからだと――玄関に立ったその背中に、怒鳴りつけてやりたかった。

 でも、できなかった。
 振り返った父の瞳がツと動いた。暴力的な、冷たい瞳が。伊明に向けて。

「いずれ話す」

 これ以上は無用だと、その瞳が言っている。

 吐きだせなかった言葉が喉の奥で停滞する。息が詰まる。口のなかで、奥歯がぎりと小さく軋んだ。

 父はふいと視線を外してドアノブに手を掛け、

「お前も疲れたはずだ。もう休め。明日も学校なんだろう」

 とってつけたような『親』の台詞を残して出て行った。外から施錠する音が、暗い玄関に重たく響く。

 ――ふざけんな。

 伊明は激情に任せて壁に拳を叩きつけた。衝撃も痛みもすべて自分に返ってくる。じんじんと痛む片手に手を添えて、

「……クソ親父」

 呻くように、呟いた。

#3 大人たちの嘘


 ――昔からそうだった。
 自分勝手で傲慢で、理不尽で、父親らしい懐の深さなんて微塵もない、クソの役にも立たないようなクソ親父な父親だった。

 行き場のない苛立ちを抱えた伊明は、結局、一睡もできずに朝を迎えた。

 時刻は午前五時である。

 ベッドから身を起こして自室を出、居間に降りていくと、早朝の白い陽光が奥の硝子戸からやんわりと室内に入りこんでいた。浮遊する埃が光の粒に見えるよう。

 すべてが昨日のまま残っている。

 作るだけ作った手つかずのみそ汁、レンジに放りこんだままのトンカツ、アイロン台には中途半端にアイロン掛けされたワイシャツが忘れ去られたみたいに放置されている。

 その横には、きちりとたたまれた衣服が少しと、取りこまれた状態のままの服がそれぞれ大小の山を作っている。

 クソ親父は、夜中の二時ごろに一度だけ帰ってきた。が、またすぐに出て行った。廊下を行き来する足音や物音から察するに、着替えと風呂を済ませるために帰ってきたらしかった。

 ――それと。

 伊明はキッチンのゴミ箱を覗いた。
 昨日まで満杯に近い状態にあった中身はからっぽになり、新しい袋がきちんとはまっている。

 ゴミ出しは唯一、父担当の家事なのだ。

 律儀なのはいいけれど、ポイントがずれていないだろうか。ゴミなんかどうでもいい。いや、よくはないが、ゴミなんかより息子と向き合えと伊明は思ってしまう。

 キッチンまわりをひと通り片づけてから、リビングのソファに腰を下ろした。

 視界のすみに入ってくる山積みの衣服にはあえて知らん顔をし、たっぷり二時間ぼうっとしてからようやくもそもそ準備をして、学校へ向かった。

 休んでしまおうかとも思ったけれど、あの家に一人でいるのもキツかった。

 授業中はほとんど寝ていた。昼休みは保健室に行き、具合が悪いと言って休ませてもらった。そのまま五限目をさぼって六限目が始まる直前に教室に戻った。居眠りはせずに済んだが、授業内容はほとんど耳に入ってこなかった。

「伊明、だいじょーぶか?」

 HRが終わるなり、クラスメイトの流星りゅうせい――本来の読みは『すたあ』だが本人が『りゅうせい』と読めと言う。互いにヘンな名前だな変わってるなと言いあってから妙な友情が芽生えた――が、スクールバッグを肩に引っかけ、伊明の顔を覗きこんできた。

「今日ヤバかったなぁお前。あ、目の下すげークマ」

 口を半開きにし、無遠慮に、伊明の下瞼にむけて人差し指を突きつけてくる。視界に突然とびこんできた指先。伊明は反射的にその手を払う。

「お」

「……だから。指さすなっつの」

「いめーちゃんキビン~」

 機敏、を慣れない発音で言って流星は笑う。犬みたいな顔がくしゃっとくずれた。

「さっすが武闘家。アレだろ、ホァチョーアタタタターってやつだろ?」

 流星はツルのように両手を掲げて片足立ちになり、拳を何度か突き出した。だらしなく着くずした制服が、余計に動きをもたもた見せる。

 武闘家でもないしホァチョーでもアタタタターでもないし、その動きのイメージもだいぶ間違っている。バカだろお前、と軽口をたたきながら伊明もバッグを手に席を立った。

 帰宅部同士、肩を並べて廊下を歩いていると、

「あ、琉里の」

 すれ違いざまに声をあげて振り返った女子がいた。

 栗色の髪にふわふわのニュアンスパーマをかけた、ずいぶん顔立ちの整った子である。ゆったりとしたニットカーディガン。スカートの丈がやたら短くて太腿がむきだしになっている。

 流星が隣で鼻息を荒くした。

 琉里とよく一緒にいる子だ。クラスメイトで同じ演劇部員の子。名前はたしか――。

「……えーと」

 出てこない。

 伊明と琉里は同じ学校にこそ通っているが、交友関係はまったく別だった。クラスが離れているせいもあるし、部活組と帰宅組という違いもある。校内で顔を合わせても軽く挨拶を交わすだけだ。

 だからこの栗色女子も、顔に見覚えはあっても名前がわからない。

 けれど彼女はそんな伊明に構わずに、

「ねえ、琉里どうしたの?」

 臆することなく話しかけてくる。

「……どう、って」

「体調不良でお休みだって、先生が言ってたから。風邪?」

「風邪――っていうか」

 少なくとも風邪ではない。が、どう言えばいいのかわからない。

 言いよどむ伊明に、栗色女子が首をかしげた。それから言いにくそうに眉をさげて、

「風邪じゃないならいいんだけど……ほら、本番――文化祭が近いでしょ。いま喉やられちゃうとまずいし、それに……」

 歯切れ悪く、後ろを振り返る。連れがいたらしい。

 こちらは彼女とは対照的な黒髪ストレートの眼鏡女子だ。見るからに真面目そうな、けれど気の強そうな、ツリ目がちの子である。

 彼女の視線に押されるようにして、栗色女子が続けた。

「この時期に休むのも、ちょっと……まずいっていうか、タブーっていうか。ほら、琉里、役ついてるし。メインだから出番も多いし。……先輩たちもね、その、ピリピリしてるし」

「連帯責任」

 眼鏡女子がそっぽを向いたままぽつりと言った。栗色女子が頷く。

「そう。そうなの。うち、文化部だけどちょっと体育会系入ってるっていうか……」

「体調管理がなってないって、私たちまで怒られる」

「そうなの。ね、明日は出てこられるのかな」

 交互に喋るのを眉をひそめて聞いていた伊明は、女子二人を見下ろして、

「俺に訊かれてもわかんないから。本人に直接訊けよ」

「だって、休んで――」

「ラインとか。あるだろ」

 語調の強さに、栗色女子はひるんだらしかった。
 代わりに、眼鏡女子が答える。

「返事こないのよ。既読もつかない」

 ――まあ、そうだろう。
 言っておいてなんだけれど、じつを言えば伊明も昨夜から何度か連絡を入れているがいまだに反応は得られていない。

「……とにかく」

 眼鏡女子は瞼を伏せて、溜息をついた。

「琉里に連絡するよう伝えてもらえない? それと――」

 瞳が伊明に戻ってくる。

「お大事に、って。……行こ、繭香まゆか。遅れる」

「あ、待って、ようちゃん」

 さっさと歩きだした眼鏡女子を、栗色女子がぱたぱたと追いかけていく。
 それを見送るでもなく、伊明は無言で踵を返した。

「お前さぁ」

 隣でおとなしくしていた流星が、頭の後ろで手を組みながら呆れたように言った。

「女子相手にアレはないだろ。もちょっと愛想よくできねぇの?」

「なにが」

「なにがじゃねぇよ、怖いんだよお前のブチョーヅラ」

「仏頂面な」

「そうソレ」

 懲りもせず、ぴ、と人差し指を突きつけてくる。やんわり押しやると、流星はへへッと笑って「あの繭香って子、可愛かったなぁ?」と鼻の下をのばし始める。

 伊明は適当に相槌を打ちながら、制服のスラックスのポケットからスマホを引っぱりだした。

 そのときに指先を掠めたのは、一片のメモ用紙。

 琉里に送ったメッセージは未読のまま。

 そして、父からのメールが一通。

 ――琉里の迎え頼む。


 まさか二日連続で来ることになるとは――。
 とおの内科・小児科クリニックと記された小さな銀プレートの表札を、伊明は複雑な表情で眺めていた。

 真ん中に縦長の細い磨硝子をはめこんだ木目のドアからは、中の様子は窺えない。看板も掲げられておらず、なにも知らない人から見たらきっとなんの施設か見当もつかないだろう。

 ここが診療所だと示すのは、ドアにくっついたこの銀プレートのみなのだ。よく破産しないものだと伊明は思う。

 迎えを頼むということは、琉里を連れて帰れということ。
 遠野から退院の――というのは大げさかもしれないけれど――許可が父に出され、伊明へと流れてきたのだろう。

『今から迎えに行く』

 電車の中から琉里に送ったメッセージには、やはり既読もつかなかった。

 伊明はスマホをポケットに押しこんでドアの把手に手をかけた。と、ほぼ同時――こちらで引くよりも先に、中からドアが押し開けられる。

 出てきたのは若い女性だった。診療を終えた患者らしい。
 ぶつかりかけ、伊明はとっさに下がろうとした――けれど。

 ざわり。

 伊明の裡でなにかがざわついた。甘い匂いが鼻腔をくすぐる。

 一瞬、時が止まったみたいだった。動けなくなる。

 彼女もまた伊明を見あげて大きく目をみはっていた。
 口を、鼻を、手で覆う。うつむく。無理やり視線を剥がすように。その動きのどれもがぎこちない。

 すみません、と蚊の鳴く声で言った彼女は、逃げるように伊明の横をすり抜けていく。

「伊明くん」

 中途半端に開いたドアから、柳瀬が顔を覗かせた。かと思うといきなりぐいと腕をひっぱられた。院内に引きずりこまれる。

 柳瀬は後ろ手にきっちりドアを閉めてから腕時計で時間を確認し、ふー、と気の抜けていくような長い溜息をひとつ吐いた。

「もう。連絡ないんだもの。いつ来るのかわからなくて、どうしようかと思ってたのよ」

「はあ」

 伊明の返事も気の抜けたものになる。
 せっつかれるまま靴を脱ぎ、スリッパに履きかえながら、

「父さんから連絡いってないですか」

「院長からは聞いてた。伊明くんが迎えに来るはずだって。でも時間まではわからないじゃない、何時ごろ行くとか今から行くとかなんにも連絡してくれないんだもの」

 診察でもないのに、なぜここまで連絡連絡と言われなければならないのか。伊明は柳瀬を横目ににらむ。

「ここは迎えまで予約制?」

「そうよ」

 柳瀬はあっさり頷いた。

「あのね。うちでは、できるかぎり患者さん同士がはちあわせないようにしてるのよ。診療時間外なら百歩譲ってまだいいけど、いまみたいに伊明くんがいきなりぽんと飛びこんできたら、他の患者さんがびっくりしちゃうでしょ」

「はあ。……」

 たしかに、さっきの女の人もびっくりしてはいたけれど――不意の遭遇だからって、あそこまで驚くものだろうか。

 それに、神経が逆立つようなあの感覚、あの甘ったるい匂い。

「まあでも、ちょうど予約と予約のあいだの時間でよかったわ」

 気を取り直すように言った柳瀬は、「こっちよ」と先に立って歩きだす。
 釈然としないものを抱えたまま、伊明もそれに従った。

 受付カウンターを横ぎって診察室の前を通過する。
 その奥、突き当りにもうひとつ扉があった。

 長年通っているけれど、ここより先に伊明は足を踏み入れたことがない。なにがあるかも知らなかった。

「琉里ちゃん。伊明くん来たわよ」

 柳瀬が扉をノックし、開ける。

 そこは、こじんまりした病室――だった。病院のそれというより学校の保健室みたいである。

 カーテンで仕切られたベッドが二台、こちらに足を向ける形で置かれている。

 入って左の壁沿いに収納棚が二つ。右奥には本棚があってマンガだの小説だの絵本だのの背表紙が雑多に並んでいる。

 その隣にも扉があった。まだ部屋が続いているらしい。位置関係から察するに、受付カウンターの真裏――柳瀬がいつも出たり入ったりしている事務室だか控室だか――につながっているようである。

 入口正面の窓には分厚い遮光カーテンがひかれており、明度の抑えられた蛍光灯がやんわりと暖色の光を落としていた。地下室みたいな薄暗さである。

 琉里は左側のベッドに、両足を床に投げだすようにして横向きに座っていた。

 Tシャツにハーフパンツという昨日のままの部屋着姿。寝ぐせのついた髪の毛が肩の上でぱらぱらと踊っていた。

「伊明っ」

 振り向いた琉里の顔がぱっと明るくなった。
 ベッドからぴょんと飛びおり、スリッパを鳴らして駆け寄ってくる。

 普段どおりすぎる琉里の元気な様子に、伊明のほうがたじろいだ。

「大丈夫なのか? いきなり――そんな動いて」

「うん。もう平気。おさわがせいたしまして、どーもごめんなさいでした」

 文法もへったくれもない謝罪にぺこんとお辞儀まで添えてくる。
 顔をあげた琉里の屈託のない笑顔を見れば――戸惑いつつも、伊明の口からはほっと安堵の息がもれる。

 ――ちりりん。

 来院患者の存在を知らせるドアベルの音を耳ざとく聞きつけた柳瀬が、あら、と小さく声をあげた。

「やだ、次の患者さんもう来ちゃった。お見送りしてあげたかったんだけど、ごめんなさい、戻るわね。費用はいつもどおり、月末に御木崎さん――お父さんから纏めて貰うから、今日はそのまま帰って大丈夫よ」

 慌ただしく受付に戻りかけた柳瀬が、「あ、そうだ」と思いだしたように振り返る。

「悪いんだけど、二人とも、帰りは裏口のほうを使ってもらえる?」

「うらぐち?」

 琉里が不思議そうに首をかしげた。柳瀬が本棚の隣の扉を示す。

「そこ、院長室になってるの。入って左奥のドアが裏の駐車場につながってるから」

「わかり、ました」

 ぎこちなく頷きながら琉里はちらと伊明を窺ってくる。なんでわざわざ――と思っているのだろう。

 伊明は軽く肩をすくめるだけに留めた。

「それじゃあお大事にね、琉里ちゃん。なんかあったらまたすぐ来るのよ。お父さんによろしくね」

 早口でまくしたてて、柳瀬は病室から出て行った。

「――意外と繁盛してるんだな、ここ」

「繁盛って」

 琉里は小さく笑って、

「午前中からひっきりなしだったよ、患者さん」

「へえ。……っていうか、お前、起きてたんなら返事くらいしろよ」

「返事?」

「何度も連絡したんだよ。ライン。見てねーの?」

 琉里がぱちりと瞬いた。ライン、と呟いて。

「家だもん、スマホ」

「あ」

 ――そうか。

 自分も琉里も、つねに肌身離さず持っているものだから、体の一部のように考えていたけれど――そういえば昨夜、琉里は父に担がれて手ぶらでここに運ばれたのだ。そりゃ既読もつかないだろう。

 我ながらまぬけがすぎる、と伊明は思わず顔を覆った。

「……そんなに心配してくれてたとは」

 琉里は意外そうに目をしばたかせている。
 気恥ずかしさに伊明は無理やり話題を変えた。

「そんなことより。結局なんだったわけ? 昨日の。遠野先生、なんか言ってた?」

「ああ、うん」

 琉里が顎に指をあてて視線をあげた。記憶の中の言葉をたどるように。

「なんか私、もともと貧血気味なんだって。生まれつき――えっと、赤血球の数が少なくて、急に立ちあがるとクラクラしたり、倒れちゃうこともあるみたい」

「……はあ?」

 ――貧血? 昨日のあれが?
 思いきり眉をひそめた伊明に、琉里はちょっと戸惑ったらしかった。

「遠野先生は、そう言ってたけど」

「いや、……っていうか琉里、昨日のこと憶えてる?」

「ぼんやりと、なんとなく」

「どこまで憶えてる?」

「どこまでって……えっと、伊明が指切って、手当てしようとしたときに……倒れちゃったんだよね、私」

 ――憶えてないのか。

 あの奇妙な現象の部分だけが、どうやらすっぽ抜けているらしい。

 だからごまかしたのだ、遠野は。
 琉里の記憶がないのをいいことに、貧血なんて言葉を使って。
 あのクソ親父と同じように。

「伊明、私――」

 腕に触れようとした琉里の手が、ぴたと止まった。伊明の表情を見た瞬間に。

「……ごめん琉里。ちょっと待ってて」

 できるだけ感情を乗せないように言い置いて、伊明は病室を出た。遠野がいるだろう診察室の扉を睨みつけながら、受付に向かう。

 待合室にほかの患者の姿はなかった。
 カウンターの中に柳瀬だけがぽつんと座っている。なにか考えこむように難しい顔をして、伊明にも気づかない様子である。

 伊明はカウンターを指の背でゴツゴツと叩いた。
 柳瀬が驚いたように顔をあげる。

「あら。どうしたの、伊明くん」

「遠野先生と話したいんですけど」

 笑みかけた柳瀬の顔が、ほんの一瞬引きつった――ように見えた。

「今、診察中だから」

「わかってます。今じゃなくていい」

「ごめんなさいね、このあとも予約が詰まってるのよ。今日は難しいと思う」

 言いながら、柳瀬は伊明に背を向けるようにしてカウンターの左側に置いてあるノートパソコンをいじりだした。

 細い肩越しに、画面が見える。
 カタカタと文字を打っては消して、打っては消してを繰り返している。手元に意識がいっていないのは明らかだ。

 ごまかそうとしていると感じれば尚のこと、伊明は引かない。

「ちょっと訊きたいことがあるだけです。そんなに時間掛かんないんで」

「でも――」

「二、三分でいいんですけど」

「ごめんなさい、今日は無理なの」

 はっきりとした拒絶。かッと頭に血がのぼった。

「……あんたもかよ」

 うめくようにして呟いた伊明は踵を返した。

「伊明くんッ」

 柳瀬が慌てて立ちあがる。

 制止するような声にも振り返らずに受付を離れ、来たばかりの通路をとって返す。と、診察室の扉があいた。柳瀬の声が聞こえたのだろう、遠野がひょこりと顔をだした。

「おう伊明か、どうし――」

 伊明は暢気な遠野の顔を思いっきり睨みつけると、開いたばかりの扉を片手でぐいと押し返した。

「おお、なんだおい。おい、伊明!」

 どうせ無駄なのだ。
 大人たちに訊いたってなにも教えてくれやしない。今じゃないの必要ないのと、勝手な判断でごまかされてしまうのだから。

 病室に戻ると、琉里が不安そうに瞳を揺らしている。伊明、と呼ぶ声があまりにか細い。胸が握りつぶされるような感覚に、伊明は顔をゆがませ、琉里の手首をおもむろに掴んだ。

 体の中がざわついた。甘い匂いが感情を揺さぶる。眩暈がするのは激情に抱かれているせいだろうか。それとも。

 ――どうでもいい。なんでもいい。

 一刻も早く、ここから出たかった。琉里を連れ出したかった。

 足をもつれさせる妹の手を力任せに引っぱりながら、伊明は裏口から外へ出た。



「はい」

 冷たいココアが差しだされる。夏の名残を思わせる、涼やかな水色の缶が目を惹いた。伊明は琉里の顔を見れぬまま、さんきゅ、と呟き受け取った。

「落ち着いた?」

「ん」

 ココアの缶を両手に握ると、人工的な冷たさに、裡で昂った熱やざわざわと逆立っていた神経がゆっくり鎮められていくようだった。

 やっと、熱に浮かされていた脳みそが正常なはたらきを取り戻し始めた気がする。

 遠野と柳瀬への不信から爆ぜるがごとく噴火してしまった伊明は、診療所を飛び出してから無我夢中で歩いていた。琉里の声も、聞こえてはいたが届かなかった。

 はたと気づいて足を止めたのは、自宅にほど近いこの小さな公園に差し掛かったときである。

 茫然自失となった兄の手を今度は琉里がひっぱり園内のベンチに座らせて、兄のスクールバッグにくっついているパスケースから、兄のICカードを取りだして、近くの自販機で二人分の飲みものを買って戻ってきた――ところだった。

「伊明って、なんかよくわかんないところで怒りだすよね」

 隣に腰を下ろしながら、琉里が言った。

 はたから見ればそうなのかもしれない。
 でも怒りのスイッチは伊明の中にもちゃんとあるし、怒りの導線だって短かろうが伸びている。理由もなく点いたり消えたり、また爆発したりするわけではないのだ。

 ただ――。

「でも、なんで怒ってるのかいっつも謎。話してくれないんだもん」

 ――まあ、その通りである。

 ぷし、と琉里の手元で音がした。ポップなデザインの紫色の缶が、琉里の口元まで上がっていき、傾く。ぶどう風味の炭酸飲料だ。

 伊明はココアを握ったまま憮然と正面を見つめていた。

 小さな公園には遊具らしいものはなにもない。あるのは、二人が座っているのを含めてベンチが二つ、大きな桜の木が一本、ぽつぽつと雑草の生えた焦茶色の土ばかり。

 公園というより整備した空き地といったふうで、ここで子供が遊んでいる姿を伊明はほとんど見たことがなかった。

「ね、みてみて」

 黙っていた琉里が、ふと、伊明の足をつっついた。つま先を揺らす。

 土の上に白い院内用スリッパが仲良く並んでいる。

「……マジか」

 額を押さえる伊明の横で、琉里がくすくすと笑いだす。

「遠野先生に怒られちゃうねえ」

「……知るかよ、そんなの」

「とかなんとか言ってー。ほんとは怖いくせに」

「なにが?」

「怒りくるった遠野先生」

「怖くねーよべつに」

「そう? じゃあ伊明がキレイに拭いて、伊明が返しに行ってね? 私こわいし――そもそもコレ伊明のせいなんだからね?」

 嫌だと言えない話の流れ。
 言葉に詰まって琉里を見ると、彼女はにぱっと無邪気に笑って「たのんだぞー」とのんきに缶を傾ける。
 物言いたげな瞳を向けつつも伊明はひっそり嘆息しただけだった。

 宵の匂いの混じりはじめた秋風が、二人を静かに撫でていく。
 さわさわと桜の梢が揺れ動く。

「――で?」

 唇から缶を離した琉里がおもむろに口をひらいた。

「伊明サン。そろそろ説明してくれてもいいのでは?」

 なんのことかと目だけで問うと、

「どうしたの、さっき」

 にわかに真摯な声が返ってくる。

「ああ、べつに……なん――」

「なんでもねーよ、は禁止」

 先手を打たれて、ぐ、と詰まる。

「……大したことじゃない。なんか……いろいろ、納得できなかっただけ」

 ようやくココアのプルタブを引き起こした伊明の横で、琉里はふんと息の抜けるような相槌を打った。それから顎に指先をあて、思案気に空へと瞳を上げて――。

「もしかして、遠野先生が『貧血』で片づけようとしたから?」

「え?」

 ココアの缶を傾けようとした手が、止まる。
 琉里はふにゃりと笑って言った。

「さすがにね、わかるよ。貧血のせいじゃないってことくらい。貧血って、もっとこう――うまく言えないけど違うんだよね、ああいう感じじゃないもん。……昨日のあれは、どっちかっていうと……小さいころの感覚に似てたんだよね、すごく」

「小さいころの? 体弱かったときのってことか?」

「そう。いきなり具合悪くなったり、熱が出たときの感じと似てた。風邪とかとも違う――なんか、変な感じの」

「……じゃあ、なんでさっき」

 うーん、と琉里は言いにくそうにして、

「……ほんとは、ね。憶えてないわけじゃないんだ、昨日のこと」

 紫色の缶の上に、そっと瞳が落ちる。

「夢だと、思ってたんだよね。伊明と話すまで」

 そう言ったきり、琉里は口をつぐんだ。

 伊明もなにも言えなかった。

 幻覚だとか夢だとか、そういう類のものであってほしい、現実に起きたのでなければいい――と、たぶん琉里も思っていたのだろう。

 言うなれば、不穏な直感。
 あれは日常を軋ませる、なにかよくない前兆だ。

 だから琉里は目をつむろうとし、伊明は逆に説明を求めた。直感を否定するための材料が欲しかったから。なのに――。

 ココアの缶がベコ、と音を立てた。

 琉里がちょっと伊明を見たが、とくになにを言うでもなく、ふいと顔を背けた。園内を見まわす。

「この公園」

 やや声を明るくして、

「昔よく来てたよね。健診が終わったあと、伊明とお父さんと、三人で。……憶えてる?」

 伊明は手元に落としていた瞳を、ただ前方に上げただけだった。

「私、あのころは定期健診がほんッとーに大ッ嫌いだった。採血も痛いし、遠野先生も見た目あんなだからめちゃくちゃ怖くって――」

 琉里がぱっと振り返る。

「あのひと小児科向きの顔じゃないよね、ぜったい。シシマイ顔っていうかナマハゲ顔っていうか」

「……シシマイとナマハゲって、顔、ぜんぜん違うんじゃねーの?」

「一緒だよ。赤いもん」

「そこかよ」

 普段どおりの会話のテンポ。伊明の表情がにわかに和らぎ、それを見た琉里も満足そうに笑みを浮かべた。

 けれどすぐに、大げさなくらいの渋面をつくり、

「遠野先生の顔はしょうがないとして。――なにより、終わったあとがツラかったんだよね。採血のあとって、体、すっごく怠くなるんだもん。家、近いはずなのにずーっと遠くにあるみたいに感じてさ、歩いても歩いてもたどり着けないような気がしてくるの。それが苦しくて――ちょっと怖くもあって……帰り道で私、いつも泣いてた」

「行きも泣いてたけどな、お前。健診やだって」

 言ったとたん、思いっきり睨まれた。

「もう。なんで伊明ってそーなの?」

「え、いや……」

 琉里の沸点も、伊明にはよくわからない。
 たじろいでいると、琉里は口をとがらせたまま結論を急くように続ける。

「私が言いたかったのは、お父さんがいつも健診の帰りに休ませてくれたよねって話。……こんなふうに、私たちをこのベンチに並んで座らせてさ。小走りに公園を出て行って、小走りに戻ってくるの。缶ジュース持って」

 琉里は懐かしむように目を細めた。
 とがっていた口も笑みの形に直っている。

「伊明はいつもココアで、私はオレンジとかピーチとか――フルーツ系のジュースだった。あ、冬におしるこの缶買ってきたこともあったよね。私も伊明も嫌がって、結局もう一回、お父さん走らせちゃった」

「……よく憶えてるな、そんなことまで」

「憶えてるよ。いい想い出だもん」

 沁みこませるように琉里はそっと目を閉じた。

「お父さん、無口だからなんにも言わなかったけど、……いつも頭撫でてくれた。よくがんばったな、って褒めてくれるみたいに――あのおっきい手で。あれが嬉しかったんだ、私」

「ふーん」

 伊明の相槌はそっけない。
 琉里はぱちりと目を開けると、いたずらっぽく伊明を見た。

「ちなみに伊明はいっつも変だった。テンション上がりまくりで」

「……そうだっけ」

「そうだよ。わざとココア一気飲みしてさ、『飲みおわってひまだから、とうちゃん、シュギョウしよう』『タンレンしよう』って――お父さんの足にいっつも纏わりついてたじゃん。お父さん、すごく微妙な顔してさ、伊明のこと、こう、べりって引っぺがすんだけど、ぜんぜん落ち着かなくて――」

 伊明は正面を見つめたまま、複雑な表情で聞いている。

「『いまならとうちゃんに、おれ、勝てる。みてみてー』とか言って、ひとりでシャドーボクシングみたいなことやってた。……憶えてない?」

「ない」

 即答だった。
 琉里は、なぁんだそっか、と残念そうに言って、背もたれに体を預けた。

 ことさら明るく喋りたてていた琉里の横顔に滲む翳りに、伊明はこのとき、ようやく気がついた。

「……でも」

 今度は伊明がぽつんと言う。

「ここでよくお前に言ってた言葉は、ちゃんと憶えてる」

「うん?」

 伊明はそれ以上、言う気はなかった。
 思いだすのも恥ずかしく、口に出すのはもっと恥ずかしい、幼稚な科白セリフなのだ。

「『いじめっこはお兄ちゃんがぜんぶやっつけてやるからな』?」

 琉里が言う。
 一言一句違わずに、しれっとした顔で。

 伊明は肯定も否定もせず、耳が熱くなるのを必死に耐えた。
 我ながら、よくもまあ臆面もなく言い切ったものだと――今になって思う。

 当時の琉里は性格も控えめでおとなしく、双子だの虚弱体質だのとなにかと揶揄われることも多かったせいで、よく一人で泣いていた。

 そんな妹に、伊明は、健診終わりの異様なテンションに任せヒーロー気取りで豪語していたのである。守ってやるから、と胸を張って。子供というのはまったく、おそろしいものである。

 ――でも。

 ただの大口というわけでもなかった。

 実際伊明はすこしでも琉里の助けになろうと奮闘していたし、窮地を救ったことも何度かあった。

 取っ組み合いのケンカにまで発展して父が呼びだされたこともあったが――ただでさえ迫力満点の父である、一度頭を下げ「申し訳ない」と低く唸れば、それ以上騒ぎ立てられることもなかった。良いか悪いかは別として。

 いつのまにか伊明自身も幼いころの記憶に馳せていた。
 無人の園内を眺める瞳に昔の影と今の影が映じている。

 ふと、桜の木がざわっと大きくうごめいた。
 ひと際強い風が二人の横顔に吹きつけ、通り過ぎていく。

 濡れた匂いをはらんでいた。

「雨、降りそうだね」

 琉里が言った。

「そろそろ行こっか」

 立ちあがる妹を追いかけ、伊明もベンチから腰を上げた。ココアはずいぶん残っているが、これ以上飲む気にはなれなかった。

「ねえ、伊明」

「……ん?」

 二、三歩ばかり前に進んだ琉里が背中を向けたまま、

「お父さん、なにか言ってた?」

 両手を後ろで組み、頭を上向けて、ことさら明るく訊いてくる。なんでもないことのように。

 眉間のあたりが強くこわばるのを伊明は感じた。琉里がこちらを向いていなくて助かった。

「いや」

 普段どおりの声音を意識しながら首を振り、

「いずれ話すけど、いまは必要ないって……言われた」

「ってことは、やっぱりお父さんもなにか知ってるんだね」

 お父さん、も。

「なんにも知らないのは、私たちだけか」

 すくめられた肩が、ふと落ちる。上向いた頭がうつむく。

「私だけ、かな」

「……俺も知らない」

 うん、と静かに琉里がうなずく。

 ――そういえば。

 琉里は、あのとき伊明にも異変が起きたことに、気がついているのだろうか。いままで琉里にばかり意識がいっていたけれど、おかしかったのは伊明も同じだ。

 父は訊いた。

 お前はなにを感じたか、と。
 琉里は自分から・・・・口をつけたのか、と。

 奇妙な高揚感が琉里に向かって動いていく、あの感覚。

 でもそれは、あくまでも自分の内側だけで起こっていたことであり、表面上は伊明もただ固まっていただけだ。こちら側の異変を知っているのはおそらく自分と、無口な父だけ。

 琉里の不安は、横顔に視たあの翳りは、無知に対するものではない。

 私だけ知らない・・・・・・・、じゃない。
 私だけが普通じゃないのか・・・・・・・・・・・・――だ。

「琉里」

 悄然とした妹の背中を、追い抜きざまにぽんとたたく。

俺たち・・・だ」

 ――普通じゃないのは。

 触れるたび、触れた箇所から身の裡へ、小さなざわめきが広がっていく。

 伊明はそれを押し隠すようにスラックスのポケットに手を突っこんだ。

 帰るぞ、と促すと琉里は一瞬不思議そうに見あげてきたが、うん、と唇にだけ笑みを乗せて伊明の少し後ろにくっついた。シャツの裾をつんとつまむ。
 あのころに、していたように。

 ――教えてくれる人がいないなら、見つければいい。

 指先に触れた紙切れを、伊明は強く握りこんだ。

 ポツ、と雨粒が頬にあたる。
 静かな雨が、薄暗い町を撫でていく。



≫[エピソード記事一覧]


序章 還る/1.血の目醒め



2.神の矢


3.異端者たち


4.悲哀の飛沫 -①-


4.悲哀の飛沫 -➁-/終章 橙色の嘘


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