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『トガノイバラ』 -4.悲哀の飛沫 ➁/終章


4.悲哀の飛沫


#4 沁みた狂気


 地下室を出た伊生いきは、御影みかげとの約束を果たすためにまず卦伊けいの部屋に行った。卦伊の、というより代々当主が使用している部屋である。

 近年の狩りの記録は当主の部屋に、過去の記録は蔵に保管されている。
 蔵には他にも昔の系譜や、国に提出した昨年以前の書類の写しなど、御木崎みきざき家の重要書類がすべて揃っている。
 当主の許可なく出入りができないように厳重に施錠されており、その鍵の管理もやはり当主が行っている。

 しかし卦伊は部屋にはおらず、目的のものもどこにも見つからなかった。

 先代のときには書棚に整然と並べられ、蔵の鍵も、文箱のような箱のなかに入っていたのだが――訪れてみると、書棚ごとごっそりなくなっていた。かわりに、床の間にパネル式の金庫がどすんと置いてあった。試しにいくつか数字を打ち込んでみたが、開かなかった。

 伊生はひとまず部屋を出た。

 卦伊が外へ出ているだろうことは予想はついたが、あえてその姿を探すことはせず、一間空けた先にある、実那伊みないの部屋の襖を開けた。

 たしかに卦伊は当主代理という立場にある。だが実質、この家を動かしているのはおそらく実那伊だ。彼女ならあるいは金庫の番号も把握しているかもしれない――そう踏んでのことだった。

伊明いめいたちが乗りこんできたそうね。なにやら品のない、あうとろう・・・・・のような集団を引きつれて」

 実那伊は振り向きもせずにそう言った。
 口慣れない横文字が舌に甘えるような響きを持たせる。

 ――伊明が?

 それを聞いた伊生は固まった。
 遠野はともかく、よもや保護を頼んだ伊明までもがここにいるなんて思いもしなかった。

「伊明のお友達にしてはずいぶん年齢層が高いようだって、うちの者が言っていたけれど。お知り合いのお医者様の御友人かしら。それとも――あなたの?」

 部屋の中央に置かれた小さな座卓に、実那伊は片方の肘をつき、しなだれかかるようにして閉じた障子を眺めている。物憂げな背中。くずした足。常にぴしぴしと振る舞っていた彼女からは想像もできない、無防備な後ろ姿である。

 そのせいもあるのだろうか。
 この部屋だけが、まるで隔絶された世界のように感じる。外の喧噪が遠く聞こえる。

「どうやって出ていらしたの、地下牢から。錠がしてあったでしょう。内側から外せるようなものではなかったはずだけれど」

 実那伊はやはりこちらを向かない。微動だにもしない。返答を待つでも求めるでもなくただ言葉を重ねていく。絵画から自動音声が流れているかのようである。

 伊生は答えなかった。

 すると実那伊は、

「あの子の仕業ね。――そうなんでしょう」

 そういって小さく嘆息した。
 絵画のなかで、細い肩だけが上下する。

「困ったものだわ。あの子も、末の子も……おかしな言動ばかり。聞いてくださる? 伊生さん。さっきもね、末の子がここに来てよくわからないことを言っていたの。良いギルワーがどうの悪いギルワーがどうの……おかしいでしょう? ギルワーに良いも悪いもないものね?」

「…………」

 識伊しきいは止めたと言っていたが――その後か。由芽伊ゆめいという末娘は結局、実那伊に話してしまったらしい。張間はりまや卦伊ならまだしも、よりにもよって、彼女に。

 おそらく識伊は母親の耳に入ることを怖れていた。

「やっぱりだめね、血の薄い子は」

 ――この言葉を、怖れていた。

 苦々しい思いで伊生は襖のほうを盗み見る。

「ねえ、伊生さん。私ね――」

「実那伊」

 無理やり遮った。
 机上にあった細い指がぴくんと跳ねる。

「お前に訊きたいことがある」

 実那伊はなんの反応も示さない。

 冷酷であることは自覚している。
 ただ、少しだけ口にするのに躊躇した。

「……金庫の番号を、知っているか」

 実那伊がゆっくりと振り返った。穴ぼこのような対の眼が伊生を捉える。飲みこまれそうな暗闇に、眉間が微かにこわばるのを感じた。それでも瞳は逸らさない。

 実那伊の両目が三日月みたいに細められた。

「うれしい」

 ――うれしい?

「それでこそ伊生さんだわ」

「……何を」

 遥かに予想を外れる反応に、少なからず戸惑った。

 実那伊は答えないまま、流れるような動作でこちらに体を向けた。その胸元に目を留めてはっとする。

 背を向けられていたから気づかなかったが、そこには宗家の象徴ともいえる懐剣が、抱かれていた。錦袋は外されている。鞘には収まっているが――なんだろうか、いまにも抜きかねないような危うさを、実那伊は湛えていた。

「あなたがあなたのままでよかった。私、とっても安心したわ」

 実那伊は片手に抱いていたそれを、意外にも、呆気なく手放した。ごと、と音を立てて卓上に置き、するりと立ち上がる。

「でも、そう――そうだわ。少し考えればわかることだった。伊明が会ったこともない私に縋った時点で気づくべきだった。伊生さんにとって『他人』なんて路傍の石みたいなもの――私も、伊明も、この家も。あのときとなにも変わらない。正しくても間違っていても、自分の気の済むまで、思うままに突き進む――独裁者の鑑なんだってこと」

 恨み節のようにも聞こえるそれを、実那伊は嬉しそうな顔で言う。地下室で話したときとは、まるで別人のようだった。なにを考えているのかわからない。

 つま先を滑らせるようにして近づいてくる彼女に、つい、わずかばかり体が引ける。

「いいのよ伊生さん、それで。あなたはそのままで。独裁者でなければ御木崎家の当主は務まらないもの」

 実那伊が笑みを深める。

「道が変わったのなら、ふりだしまで戻せばいいの。書き換えられてしまった地図は、白紙に戻してしまえばいい。―― 一度捩じれた針金は、捨ててしまえばいいんだわ」

 実那伊が、目の前に。腕が持ちあがる。すみれ色の袂が肘まですべる。あらわになった腕が白蛇のように伊生の首に絡みつく。

 光を吸い込む黒い瞳に、縛られる。

「聞いて頂戴、伊生さん。私ね、その方法を思いついたのよ」

 囁く声が、吐息が、唇に掛かった。

 伊生はとっさに後退った。しかし実那伊の腕はほどけず、縺れるように畳の上にしりもちをついてしまった。開いた膝のあいだには彼女がやはり離れずに収まっている。

「伊生さんのそんな顔、初めて見たわ」

 くすりと笑う。
 なんという狂気的な微笑みか。

「……なにを考えてる、実那伊」

「言ったでしょう。全部捨てて、白紙に戻してやり直すの」

 おそろしく無邪気な声で実那伊はいう。

「伊明には死んでもらう。識伊にも由芽伊にも死んでもらう。――私の血を、返してもらうの」

 伊生が目を見開いた。
 実那伊は少女のように瞳を輝かせて、

「あの子たちの血を一滴残らず飲みほせば、薄まった血は戻るでしょう? もちろん一度には無理だから、ゆっくりと、時間を掛けてになるけれど」

 シャツの上を這う実那伊の手。心臓をなぞられるようだった。その鼓動を肌で確かめるように実那伊は伊生の胸元に頬を寄せる。

「大丈夫よ、伊生さん。伊明のときと同じ人工授精方法でも、私、構わない。年齢的な不安もあるけれど――それもへいき、一流のお医者様を手配させるから」

「なに、を……」

 ――なにを、言っている。

「そうして立派な子供を産むわ。今度こそ宗家に相応しい子を育てましょう。私とあなたで」

 気づけば実那伊の肩を力任せに掴んでいた。胸元から引きはがす。

「本気で……」

 声が掠れた。

「本気で言ってるのか。お前、本気で――」

「ええ、もちろん」

「卦伊は、……そんなこと、卦伊が許すはずがないだろう」

「許してくれたわ。それどころか、よろこんで協力すると言ってくれた」

 絶句、した。

「彼も宗家をまもりたいのよ」

 口の中で、まるで呪文でも紡ぐようである。

 あまりにもおぞましい実那伊の言葉に圧倒されて、忘れていた。
 忘れるべきではなかったのに、忘れてしまっていた。

 ――識伊の存在を・・・・・・

 気づいたのは卦伊の部屋である。
 地下室を抜けたときからか、それとも途中からかわからないが、彼は、ずっと後ろをくっついてきた。声を掛けるでもなく、止めるでもなく、報告するでもなく、ただ伊生の行動を見守っていた。だから伊生も放っておいた。

 けれど――。

「……かあ、さま……」

 識伊が、襖の前で立ち尽くしている。青ざめた顔。大きく見開かれた目が、信じられないものでも見るように凝然と実那伊を見つめている。

 実那伊は一瞥をくれただけだった。その眼差しも、我が子を見るものではない。つめたささえ感じられない無機質さ。伊生へ戻ってきてようやく、笑みの形を取りもどす。

「だいじょうぶ。次は失敗しないわ」

「母様!」

 悲痛な叫びだった。堪らずといった様子で駆け寄ってきた識伊は、伊生と実那伊のあいだに体を割り込ませ、母親の肩に両手で縋る。

「いったい……いったいなんですか、今の話は! どうして……なんでッ」

 声がふるえる。背中がふるえる。

「殺すんなら伊明とルリだけでいいじゃないですか。なんでぼくや由芽伊までッ」

 実那伊は煩わしそうに手を払おうとする。識伊は離すまいとする。肩に指が食いこんだ。実那伊が顔をゆがめて小さく身をよじるのに構わず、識伊はなおも縋りつく。

「母様。ねえ母様」

「離して」

「ぼくがなります。ぼくが……宗家の当主として恥じない立派なシンルーに、ぼくがなります。そのために死ぬ気で勉強してきたし、黎光にも入った、成績だっていつも――」

「離して頂戴」

「聞いてください、母様。学校だけじゃない、シンルーやギルワーのことも、御木崎家の歴史についてだって、いろいろぼくは学んできた。ちゃんとやってきた――やってきたんですっ」

 命乞いでは、むろんない。
 この少年が訴えているのは、そんなことではきっとない。

「伊明にもこの人にもぜったい負けない。ぼくが立派な当主になってみせますから、だから」

 識伊の手が緩む。悲しげに、声が濡れる。

「だから……」

 ぱぁんッ――。

 凄烈な音が、響き渡った。

 実那伊が識伊の頬を平手で打ったのだ。

「……あなたが誰を超える、ですって?」

 無機質だった実那伊の瞳に烈しい怒りが宿っている。

 畳の上に倒れこんだ識伊は頬をおさえ、愕然として実那伊を見上げた。かあさま、と掠れた声をこぼす。

 実那伊はまさしく鬼の形相だった。黒々とした目を剥き、わなわなと震える唇をひん曲げて、拳を握る。

「よくもそんなことが――」

 忌々しげに、握った拳を振り上げた。これでもかこれでもかと言わんばかりに、身をよじる少年の肩を、背中を、顔をかばう腕を、遠慮容赦なく無慈悲に何度も打ちすえる。

「わかっているのよ識伊。あなたなんでしょう地下の錠を外したのは。私に黙って。私に隠れて。由芽伊もこの二日で二度も私に逆らった。宗家の意思に逆らった。いらないのよ、そんなもの。いらないの。いらないの!」

 識伊がうめく。女性の細い腕だ、さほどの威力もないだろうけれど――ヒステリックな声が、言葉が、しなる鞭となって識伊の心を痛めつける。

「やめろ、実那伊」

 今度は伊生が二人のあいだに割り込んだ。振り下ろされた左右の拳を、手首を掴んで受け止める。

「やめろ。――お前の子だろう」

 憑物がおちたように、尖りきっていた実那伊の肩がすとんと落ちた。

「……違うわ」

 腕から力が抜ける。

「卦伊さんの子供よ」

「実那伊」

 黒い瞳は焦点をなくし、ただ虚空を見つめている。

「……やはりだめなんだわ……卦伊さんの血では……出来の悪いのしか生まれない」

 後ろで、識伊が起きあがった気配が、した。


◇  ◆  ◇  ◆


 ただ突っ立っていることしかできないのが、琉里には悔しい。

 伊明の血の匂いに、また意識が持っていかれそうになる。せめて視界に入れないようにするしか、琉里にはできない。

 彼の――張間の強さは診療所で痛感している。自分では歯が立たないだろうこともわかっている。遠野でも、父ですら、勝利が見えないと思うほどの相手だった。

 技術的なものもある。実戦の慣れ方も違う。
 でもそれ以上に、己のもつギルワーへの憎悪と、御木崎家というシンルーの一族に対して、忠実すぎるほど忠実なのだ。

 だからこそ、これほど冷酷無慙になれる。たとえ相手が伊明でも、御木崎家の意にそぐわないのなら少しの手心も加えない。

 私も闘う、と何度訴えたことか。
 でも口に出せばそのたびに「下がってろ」と退けられる。

 張間との伊明の闘いは、倒されては立ち上がり、立ち上がってはまた倒され――その繰り返しでしかなかった。

 たぶん、伊明が従うと言うまで終わらない。
 自ら琉里を差しだすまで終わらない。

 でも伊明はきっと、絶対、それを言わない。そうしない。

 ――それが、琉里には悔しくてたまらない。

「琉里」

 伊明の声にはっとして振り返る。

 血の混じった唾を吐きながら、伊明は地面に膝をついたままうざったそうに耳に手をやった。インカムだった。ポケットから取り出した受信機とひと纏めにして、琉里のほうに放り投げる。

「つけてろ」

 その動きに合わせて、左腕の――適当としか言えない巻かれ方をした――包帯の両端がひらひらと揺れる。張間との一騎打ちを前に、伊明が自ら右手と口を不器用に使って巻き直したのだ。琉里は手伝えなかった。張間は律儀に終わるのを待っていた。

 琉里はインカムを拾い、耳にあててみる。

 ――……ジジ……ジジ……。

「無駄ですよ。この敷地内ではすべての無線機器が通信不能となります」

 確かに張間の言うとおり、聞こえてくるのは耳障りなノイズだけだった。

「なんのためにつけているのか知りませんが――」

 言い終わらぬうち。
 伊明が身を起こすと同時に地面を蹴った。
 張間の胴に組みつくように突進する。しかし張間は難なくいなして、伊明の後ろ首にとんと軽い手刀を落とした。

「くっ――」

 伊明の膝がかくんと抜ける。体が沈みかける。

「……ッそがぁ――!」

 普段の伊明からは考えられないような声が、姿勢が、琉里の身を心をそばだたせる。高揚する。シンルーの血がそうさせるのか伊明の気勢に感化されているのかわからない。目をそらすことができなくなって、より意識がもっていかれそうになる。悪循環もいいところだが――琉里は懸命に、唇を噛み、耐えた。

 伊明は不安定な体勢から強引な反撃に出た。両手を地面につっぱり、無理くり腰をねじって上体を反転させ、かかとで空気を浚うような回し蹴りを放つ。

 脇腹に、入った。

 張間の顔がにわかに歪む。伊明は汚れた顔にしてやったりの笑みを浮かべた。琉里も思わず、やった、と叫びそうになった――けれど。

 次の瞬間には、張間は伊明の足を捕らえていた。足首を脇に挟み、体を引くようにして横を向く。自然、伊明は引きずられる形になってバランスをくずし、地面に尻をついた。

 振りほどこうと伊明がもがく。張間の腕はびくともしない。

「御存知ですか、伊明様。膝というのは複雑な構造をしているわりに、案外脆いものなんです。しかも一度壊れるとそう簡単には戻らない」

 張間の拳がとつとつと伊明の膝をたたく。

「……脅しのつもりかよ」

「いいえ。リスクの説明です」

 淡々と、張間は告げる。

「あなたがギルワーごときのためにここまで粘るとは、正直、私も思っていませんでした」

「妹だっていってんだろ」

「どちらでも構いませんが。――あまり遊んでもいられませんのでね、そろそろご決断いただきたい」

 伊明は張間を睨み据えている。降参する気のないことは、その表情を見れば瞭然だ。張間の顔にもまた情はない。

「二択ですよ、伊明様。膝を壊された上で『妹』も奪われるか、壊す前に『妹』を奪われるか。遠回りするか近道をするか――過程を選ぶだけの無駄な二択、行きつく先はひとつですが、さて、どうされますか」

「いいよ伊明、私――」

「黙ってろ!」

 鋭い制止。でも、と琉里は口の中でつぶやいた。

 このままなにもしないで捕まるくらいなら――。

「あんたらほんとに底意地悪いな」

「不本意ですが、致し方なく」

 は、と伊明は吐き捨てるように笑った。

「琉里。こいつはお前を挑発してる」

「え……?」

 ――私、を?

 張間が軽く肩をすくめた。

「できることなら伊明様ご自身に御決断いただきたかったのですがね。……彼女の実力は私も存じておりますよ。診療所で部下が何人か蹴散らされましたから」

「あたりまえだろ、俺ですら手合わせのたびに手焼いてたんだ。そいつらじゃろくろく相手にもならねーよ」

 伊明は黒服たちを一瞥してふんと鼻を鳴らした。小馬鹿にされた彼らが色めきたつのを、張間がすかさず視線で制する。その瞳が琉里へ向いた。ふたたびとつとつと、これみよがしに膝をたたく。

 つまり――。

 完全に無防備な状態である琉里を放置しているのは、ほかの黒服たちでは力が及ばないと踏んでいるから。
 張間自身が動こうにも伊明が邪魔をするからそうもいかない。
 シンルーとしての決断は伊明には期待できそうもない、だから琉里が自ら張間のもとへ飛びこんでくるのを待っている――そのための挑発であると、いうことか。

 張間はきっと、琉里に対しては容赦はしないだろう。それこそ虫を叩き潰すみたいに、全力で応戦する。

 結果として琉里は動けなくなり、それを目の前で見せつけられた伊明は――たぶん、こわれる。

「伊明様はお前のために膝を壊してもいいと言っているが――」

「琉里」

「――お前はどうだ」

「琉里、挑発に乗るな」

「でも、伊明」

「動くな」

 琉里は唇をかんだ。悔しくってたまらない。
 それでも伊明の目は動くなと言っている。

「ひとつ言っておきますが。片膝だけで済むと思わないほうがいい」

「殺されるのがわかってて妹を差しだすくらいなら、俺が死んで奪われたほうが百倍ましだ」

「……たしかに死んで奪われるのなら楽でしょうが」

 死ねないでしょう、あなたは――。

 張間の肘が、持ちあがった。

 限界だった。
 琉里は張間に向かって駆けだした。

 黙って見ているなんて、どうしてもできなかった。
 それは――それだけは、琉里のなかのなにかが許さなかった。

 地面を蹴り、跳躍する。

 すばしっこさとこのバネこそが「たいしたものだ」と父を言わしめ、伊明に舌を巻かせることのできる、女性であり小柄な彼女の体術における長所だった。

 張間の肩を横から蹴りこむつもりだった。が、予期していたかのように太い腕で防御され、そのままぐいと押し返される。

 ――逆らうな。利用しろ。

 父の教えがよみがえる。口酸っぱく言われていた。琉里は押し返してくる力を借り、空中で身を反転させた。着地するなり軸足を変え、今度は背中の一点をつま先で狙う。

 ――肺の、後ろ。

 みしりとした手応えはあった。でも、手応えだけだった。

「っ……!」

 ――なんて頑丈。大木みたい。

 張間の体勢は少しもくずれなかった。
 琉里はすぐさま飛びのき、間合いを取る。

 張間は伊明の足を離した。琉里へ向き直る。
 まったくの無表情であるのに、心理的な作用なのか、口の端にほんの微かに笑みをいているように見える。

 伊明が慌てて身を起こした。

「バカお前ッ……」

「バカだもん!」

 わかっている。張間の思うつぼであることも、伊明がこの状況を何よりも避けたがっていたことも――。

 でも。

「バカでいいよ」

 小さいころはいじめられて、何もできなくて、さんざん伊明に助けられた。そのせいでずいぶん無茶もさせた。

 あのころとは違うのに、あのころと同じなんて――そう、死んでも嫌だ。

「下がれ琉里! 俺がっ――」

「伊明はずるい!」

「……は……?」

「ずるいよ。私のこと思うふりして、自分のことばっかりじゃん! ……同じなんだよ。私だってつらいんだから。伊明が――お兄ちゃんが傷つくの黙ってみてるの――つらくてできないの、同じなんだから。ちょっとくらい無茶させてよ。一緒にがんばらせてよ」

「……でも、お前は……」

 しかし兄妹の会話は、それ以上続けられなかった。

 張間が、仕掛けてきた。

 その動きは伊明を相手にしているときとはまるで違っていた。
 琉里に反撃の暇を与えぬ猛攻。一撃一撃が、琉里の意識を奪うため、動きを封じるために繰り出されているのが、琉里にもわかった。殺気も格段に増していて、物理的にも精神的にもダメージを与えようとしてくる。防戦一方にならざるを得ず、琉里は、徐々に伊明から離されていった。


 一方、伊明は伊明で、琉里に手を貸したいのに黒服たちに阻まれていた。待ってましたと言わんばかりに、二人の黒服にとらわれる。

 普段なら簡単に蹴散らせるのに、それができない。

 ここに来るまでにいろいろありすぎたのだ。血も流しすぎたし、直前の張間との一騎打ちも大きかった。伊明の体はすでに限界を超えている。

 それでも――。

「琉里! ……くそ、邪魔だ、どけよ!」

 抑えこまれた腕を振るい、身をよじり、抵抗する。

 その姿が琉里にも見える。彼女のなかに迷いが生じた。
 やはり大人しくしているべきだったか――でも――と、その逡巡が、ほんの一瞬、動きを鈍らせた。

 張間は、それを見逃さなかった。頑健な拳がみぞおちに迫る。はっとして、琉里はとっさに両腕で腹部をかばい、受け止めた。まともに受けてしまった。

「……ッ……!」

 手首に痺れるような痛みが走った。一撃が重い。父や伊明のそれとは比べものにならないくらいに。

 琉里の体がわずかに浮く。弾かれたみたいに後方に流れる。

 気づいたときには、顔のすぐ真横に張間の太い足首が迫っていた。腕で防ごうとしたけれど――間に合わない。


「だめえ――――!」


 突然、庭中の空気をつんざくような叫びが響き渡った。

 張間の足がぴたと止まる。覚悟していた琉里の頬には、風圧の名残が当たっただけ。

 母屋から小さな影がとびだしてきた。
 桜色の袂が、蝶の羽根みたいに宙に踊り、張間の腰のあたりにとまる。

 ひしとしがみついたのは、由芽伊だった。

 石膏像のような張間の顔に明らかな狼狽が浮かんだ。伊明が突進してもびくともしなかった強靭な体が、桜色の小さな体に押されて横に流れた。琉里の顔の真横にあった太い足が、惑いながら引っ込められる。

「由芽伊、様」

「だめ、はりま、だめ」

 驚いたのは琉里も同じだった。ぽかんとしたまま、由芽伊ちゃん、と呟くと、きッと張間に睨まれた。気安く呼ぶなと言わんばかりに。

「……由芽伊様、手をお離しください」

「いやっ」

「由芽伊様」

「いやっ!」

 ぶんぶんと首を振って梃子でも動かないといった様子。
 張間は所在なげに手を浮かせたまま、宥めるように言った。

「いったいどうされたのですか。だめとは――」

「ルリは、ゆめの姉さまなの」

「……は……?」

 張間は一瞬、きょとんとした。

「……なにを、仰るのです。その女はギルワーですよ」

「でもいいギルワーだもん。それに伊明さまの妹で、伊明さまはゆめのもう一人の兄さまで」

「由芽伊様」

「だから、だからルリはゆめの姉さまでっ」

「おやめください。また実那伊様に叱られますよ」

 びく、と由芽伊の肩がふるえた。それでも由芽伊は張間から離れない。どころか、ぎゅうっといっそう強くしがみつく。

 傍目にもわかるほど、張間は困り果てていた。邪険にすることもできずにいる。宗家の娘が相手だから――だけでは、なさそうだった。

「琉里!」

 伊明の声に、振り返る。

「こっち来い、琉里!」

「待て!」

 張間が止めようとするのを、

「だめっ」

 由芽伊が止める。

「由芽伊様……!」

「だめ、はりま。だめ」

 思わぬ加勢に、救われた。

 琉里は由芽伊に感謝しながら、身をひるがえした。伊明のもとへ戻って黒服の一人に思いっきり蹴りを打ち込んでやる。片腕が解放された伊明もすぐに気勢を取り戻し、もう一人に力任せに拳を叩きつけ、地面に沈めた。

「伊明、大丈――」

「なに考えてんだお前!」

 いきなり怒られた。ほとんど無意識に肩を掴んできた伊明は、しまったという顔をして手を離す。不機嫌そうに顔をそむけて、

「手ぇ出すなって言っただろ」

「だ、だって」

「だってじゃねーよ、ここは宗家のど真ん中なんだぞ。勝手なことすんな、無茶すんな」

「どっちがっ……」

 どっちが無茶なのか――言いかけて、言えなかった。

 腹をかばうように片腕で抑える伊明の顔色は、暗がりでもわかるくらいに悪かった。丸めた背中。張間にさんざん痛めつけられた体。くそ、と毒づく声も細い。

「ともかくあの子のおかげで助かった。今のうちに遠野先生たちと合流しよう。あいつ・・・も探さなきゃなんねーし」

「……お父さんのこと?」

「ああ。勝手にここに乗り込んで、勝手に身動き取れなくなってるらしい」

「え!?」

 伊明がちらと琉里を見て、

「心配すんな。無事だよ、たぶん」

 そういって母屋に顔を向けた伊明の顔が、とたんにぴしと音の聞こえてきそうなほどに強張った。腹をおさえていないほうの腕で、琉里を後方に押しやる。互いの血が反応しあうのも構わずに。

 ――先ほどから、ちらちらと琉里の目にも入ってはいた。

 色彩を失ったような薄灰色の着物。外廊下の壁に背中をつけ、腕組みをし、自分たちを見下ろしていた細長いシルエット。どことなく父と似ている面立ちの、眼鏡を掛けた和装の男。

 傀儡人形みたいにすうと動きだし、草履を引っ掛けて庭に降りた。

 伊明を包む空気がぴりぴりと緊張する。
 張間以上に、彼を警戒している。

 琉里は対峙するのは初めてだった。

 宗家当主代理にして伊生の実弟――卦伊。

「構わないよ、張間」

 外廊下から庭に降り、二、三歩進んだところで足を止め、おもむろに卦伊が言った。場違いなほど涼しい顔をして、庭をぐるりと見まわしながら。

「は、構わない、とは……?」

 真意が掴めず、張間が訊き返す。
 腰にくっついていた由芽伊は、卦伊を――父親を見るなり逃げるように張間の影に隠れてしまった。顔半分をのぞかせて、卦伊の顔色を窺っている。

「構わないとは、構わなくていいということだよ。由芽伊が邪魔なら、由芽伊ごと片付けてしまっていい」

「……は?」

「ああそれからね、伊明君のことも、もういいよ」

「もう、いい……?」

「消していい」

 張間は小さく息をのんだ。卦伊は淡々と告げてゆく。

「由芽伊も、伊明君も、識伊も、ね。もういいんだ。必要なくなった」

「……なにを……お待ちください、卦伊様。仰っている意味がよく――」

「できることなら穏便に済ませたかったんだ、僕としては」

 卦伊のそれは問答ではなく、ほとんどひとり言だった。

「張間が相手ならあるいは――とも思ったんだけれどね。やはりこうするしかなさそうだ。……残念だよ、本当に」

「お待ちください」

 張間が制止を繰り返す。無意識だろうか――伊明が琉里にしたのと同じように、張間もまた、腕で由芽伊を庇っている。その瞳が戸惑いに揺れている。

「卦伊様。我々は宗家の方をお護りし、微力ながらも御役目の助力となるよう設立された警護団体です。ギルワーが相手ならともかくも――」

 張間がちらと琉里を見た。眉頭をこわばらせて言い淀む。

「――いえ、ギルワーにしろ……やむを得ない場合を除き、我々の手で命を奪うことは禁止されております。シンルーがその血でもって裁くのと、我々が殺すのとではわけが違う。……御存知でしょう、あなただって」

「もちろん。知っているよ」

「……ましてや、伊明様も由芽伊様も、宗家の血を引く御方です。少々無茶はいたしましたが――それでも我々にとって警護対象であることには変わりありません」

「わかっているよ、お前に言われなくとも」

「でしたら――」

「特例として」

 言い募ろうとする張間の言を、きぱりと卦伊が遮った。

「僕が許可する。宗家の当主代理として」

「卦伊様」

「これは宗家の意思だよ」

「しかし」

「仕方がないんだ、張間。一度ねじくれてしまったものを直そうとしたって、そう上手くいくものじゃない。元には戻らないし、無理に矯正をしたところで遺恨が残って、より大きな捩じれを生むだけだ。ここまできたら、もう白紙に戻すしかない」

 張間はしばらく黙っていたが、やがて、

「……我々は、殺戮者ではない」

 絞りだすようにそう言った。

「お前はできないというんだね」

 卦伊は肩をすくめ、

「まあ、構わないよべつに。他の者にやらせるだけだから」

 無情な瞳を伊明たちのほうへ向ける。

 近くには、二人の黒服がいた。先ほど伊明と琉里にのされ、卦伊の出現によって慌てて身を起こした彼らであるが――宗家の意思とやらに進んで従う気にはなれないらしい。二人とも、意識的に卦伊から視線を外している。

「――意気地がないな」

 嘆息した卦伊は、今度は庭に散らばっている黒服たちを物色するように見回している。

 伊明の我慢も限界だった。じっと沈黙を守っていたが、

「なあ」

 おもむろに卦伊に向かって呼びかける。

「あんたがやれよ、卦伊さん。宗家の意思・・・・・なんだろ」

 卦伊は苦笑した。命のやり取りを話題にしているとは思えない、客間で見たのとまったく同じ柔和な苦笑。

「残念ながら、僕には無理だ。兄さんと違って能が無くてね、満身創痍の君にさえ勝てる自信がない」

「意気地がねーな」

 吐き捨てるように言ってやると、

「そうだよ」

 至極あっさりと卦伊が頷く。

「だから言ってるんだよ。僕に当主は務まらない、兄さんこそが相応しい、ってね」

 普通は――劣等感のひとつも抱くものではないのだろうか。

 伊明でさえ琉里に対してわずかながらも、ある。父を褒めさせる体術のセンスや、部活に打ちこめる情熱、忍耐力、友人知人の多さに比例するコミュニケーション能力の高さや、明るさ――父に対する素直さ。

 自分はそういう柄ではないと思いながらも、引け目を感じる時もある。

 けれど卦伊は、そんな感覚など麻痺しているみたいに、

「あの人さえいれば、いくらでもやり直せる」

 純粋な瞳でもってそう言いきる。ふたたび庭を見回した。目ぼしい人物でも見つけたのか、ああ、と頷きがてらに声をもらして、軽く片手をあげている。

「……あんた、言ってること滅茶苦茶だぞ」

 苛立ちをあらわに、伊明はなおも食って掛かる。
 卦伊がうるさそうに振り返った。

「あいつだろ、あんたの言うねじれの大元って。なのに消すのは俺たちで、あいつは生かして当主様かよ。それで白紙? 遺恨が残らない? あんた、本気でそう思ってんの?」

「思ってるよ」

 卦伊は、そうだな、と少し首をかしげて考えるような間を置いた。

「リセットするのに機械ごと捨てる馬鹿はいないだろう。初期化だよ、伊明君。若い子にはこういう言い方のほうがわかりやすかったかな」

 張間に感じたものとはまた違う悪寒が、ぞっと背中を走っていく。

 ――まともじゃない。

「……あの人は……実那伊さんは、そのこと……」

 知っているのか。許したのか。
 実の母親であり、あれほど伊明に執着を見せていた彼女は――。

 卦伊の独断であると、せめて言ってほしかった。

 しかし卦伊はそんな伊明の心を見透かすように目を細め、穏やかな微笑を唇に湛えたまま、

「彼女が決めたんだよ」

 足元がぐらついた。
 傾いた体を支えるように、背中に触れる手があった。

 琉里だった。伊明、と気遣わしげな声も、指もふるえている。
 ぞわぞわと肌があわだつのは、彼女が触れたからか、それとも。

 卦伊のもとに、一人の青年が駆けてきた。

 彼が呼び寄せたのは――よりにもよって――来海くるみだった。御影みかげなにがしから奪ったのだろう片手にぶら下げた角材は、ところどころ赤く染まっている。

 遠野と御影佑征ゆうせいが、対峙していたはずである。

 伊明はのろのろと首をめぐらせた。

 庭の一画。
 打ち棄てられたかのごとく。
 うつ伏せで倒れている遠野と、仰向けに転がっている柳瀬の姿が、あった。二人とも意識があるようには、到底見えない。

 琉里が悲鳴のような声を短くあげた。二人のもとに駆け出そうとするのを、わずかに残った伊明の理性が反射的に、無理やりに、押しとどめる。

「先生っ、柳瀬さんっ――!」

 己の感情を代弁するような悲痛な声。

 けれど伊明には、それもどこか遠くに聞こえる。

 御影佑征の姿は見当たらなかった。逃げたのか――。

 来海はやってくるなり、主たる卦伊に慇懃に頭を下げた。卦伊は笑みで応じ、張間が拒絶した『宗家の意思』を伝え、命じる。来海は意外そうに眉を持ちあげて「はァ」と気の抜けた返事をしてから「いいンですか」と首を傾けた。

 むろん答えは決まっている。

 、だ。

 来海は血の付着した角材で肩をとんとん叩きながら、張間の後ろに隠れている由芽伊を見、伊明を見る。その顔には迷いもなければ躊躇もない。品定めをする。獲物を選ぶ。――ただそれだけ。

「どっちが先がいいですかね」

「任せるよ」

 来海にとっては卦伊の命令こそ絶対で、相手が誰かなんてまったく関係ないらしい。たとえ宗家の人間だろうが、女だろうが、子供だろうが――和佐かずさや柳瀬にしたのと同じことを、きっと、平然とやってのけるのだ。

 虚無になりかけた伊明の感情が、
 まもの・・・のような来海の顔を見れば見るほど、
 ふつふつと、
 熱を、はらむ。

「伊明だめ」

 琉里は来海と対峙するのは初めてのはずである。それでも、彼が只者でないことは一目見ただけでわかったらしく、緊張した声が、服を掴む手が、今にも向かっていかんとする伊明をその場に留めようとしている。

 伊明自身もわかっている。今の状態で勝てる見込みがないことくらい。わかっている、頭では。

 ――けれど。

「来海」

 伊明の理性が切れる寸前だった。
 張間が鋭く短く、牽制するように彼の名を呼んだ。

 来海はうざったそうに張間を一瞥し、

「なンですかァ?」

 そらっとぼけた返答をする。

 張間は眼光を鋭くしただけだった。
 彫りの深い彼の目許に落ちた陰は異様に濃く、その双眸は殺気で墨を引いたかのように昏く見える。

 激した伊明でさえ冷水を浴びせられるような、無言の圧。

 しかし来海は臆するどころか、

「あのですねェ、張間サン」

 と、これみよがしな溜息をつき、角材を持っていないほうの腕を軽くあげて肩をすくめた。馬鹿にするような仕草だ。

「俺いつも言ってるじゃないですか。そもそもKratクラートの規則自体がぬるすぎンですよ。まあアンタはシンルーでもなんでもない普通の人間・・・・・・・・・・・・・・・・・なわけですからァ? 無駄を承知で言いますがね。俺たちは御木崎家の――宗家の手足であり、武器なンですよ。ギルワーも、ギルワーに味方する阿呆共も、まとめてぶちのめしちまやァいいじゃないですか。少なくともシンルーの血を引く俺らなら、ソレは殺人行為じゃない。正当な裁きですよ」

「……相手が宗家の人間でもか」

「それが『宗家の御意思』なら」

「特例だよ、来海」

 卦伊が念を押すように言葉を添えた。

「Kratの狩りを許可するわけじゃない。あくまでも特例だ」

「――前例ですよ」

 そう呟いた来海が、次の瞬間、動いた。

 目にも留まらぬ速さだった。つい今まで張間と話していたとは思えない。気づいたときには、伊明のすぐ目の前に迫っていた。

 両手で握った角材を振りかざし、跳びあがった姿で――。

「伊明!」

「伊明様ッ……」

 琉里と張間の声が重なり、鼓膜を打つ。
 聴覚は正常な時を刻んでいるのに、視覚だけはまるで違っていた。コンマ一秒が二秒三秒に思える。頭目掛けて振り下ろされる角材の、わずかなしなりさえもが鮮明に見えた。

 避ければ琉里に当たる。

 腕で防ぐしかなかった。

 角材は、伊明の左前腕を激しく打ちつけるや折れて飛んだ。それ自体がだいぶ傷んでいたようではある――が、それでも、容赦のない殴打は骨の髄から痺れる痛みを伊明に与えた。

「くッそ……」

「はッはァ――」

 来海の嗤い声は、やはり狂気に満ちていた。

「張間さん!」

 思わず動きかけた張間を止めたのは、母屋から飛びだしてきた一人の部下だった。焦りきった表情に、今にもつんのめりそうな動転しきった走り方である。

 敷地内での有事の際には、司令塔である張間のほかに、動向を見守る人間をかならず一人は置いている。無線連絡が不可能であるがゆえの、アナクロな言い方をすれば伝令役だった。彼は御影たちの動きを見張っていたはずである。

 張間は渋い顔で、その伝令役たる部下を迎えた。

 彼の様子もさることながら、こういうにっちもさっちもいかない状況でもたらされるのは、経験則からいっても、ことごとく凶報である。

「あの、奴らが――」

 耳打ちされたのは、しかして御木崎家にとって最悪の一報だった。

 沈着冷静を地でいく張間も、さすがに汗のにじむ顔を撫でまわし、苦悩を隠すように口元に手を置いた。

 部下が落ち着きなく指示を待っている。由芽伊の小さな手が、きゅ、と自身のスラックスを不安そうに握ってくる。卦伊の視線が刺さる。来海は気づかぬ様子で嗤っている。

 さっきの一撃で負傷したか左腕をぶら下げたまま防戦一方の伊明、それを気に掛けながらもこちらに――いや、由芽伊にか、気遣わしげな視線をたびたび向けてくる琉里。

「――どうした、張間」

 問うてきた卦伊に瞳を向ける。

「…………」

 これは、叛逆だ。
 忠誠を誓った御木崎家に対する――。

 張間は軽く唇を湿してから、口元から手を離した。

「奴らが――御影と思しき連中が、一部――」

 言葉を切り、そして、

「逃走したようです」

 部下が驚いたように張間を見た。
 その視線を、張間は睨みでもって牽制する。

「逃走?」

 怪訝そうに訊き返してくる卦伊に「ええ」と頷く。

 ――嘘だった。彼らは逃走などしていない。それどころか、御木崎家の心臓にナイフを突き立てようと動いている。

 しかしそれを伝える気は、張間にはもうなかった。普段どおりの冷静さを取り戻した何食わぬ顔で部下を見下ろし、

「お前は向こうの加勢を頼む」

 いまだ庭で暴れている御影たちを視線で示す。

「数が減ったのなら鎮圧にそう時間も掛からんだろう」

 もともと言葉の少ない上司の指示を、なにか策あるものと解釈したらしい部下は「では先にそちらを」と口早に答えて頭を下げ、急ぎ去っていった。

 伝令役というシステムを知っていれば、張間の嘘は容易にばれる。母屋から出てきた時点で『逃走』でないことは明らかなのだ。

 しかし卦伊は――それを知らない。先代や伊生と違って、大まかな規則やなにかは知っていても細々とした部分には興味を示さず、ゆえに張間もいちいち説明していなかった。だからこそ通せる嘘でもあった。

 とはいえ、露見するのは時間の問題だろう。

 張間は腰にしがみつく由芽伊に瞳をおろした。

「由芽伊様」

 幼い顔が不安そうに張間を見あげる。

 長年仕えてきた御木崎家のやり方に疑問を持ったことなど、今までない。今でもそうだ。けれどそれはあくまで正当な裁きを下す従来の宗家のやり方に対してであって、この一件、すなわち実那伊と卦伊の下した『特例』に関しては到底納得できるものではなかった。

 ――白紙に戻すべきは、なにか。

「あなたにとってあれは――あのルリという娘は、たとえギルワーであっても信頼に値すると、そう仰るのですね」

「あたいする」

 由芽伊がこくこくと頷く。

「だって姉さまだし、それに……それにね、ゆめのことちゃんと見て、ちゃんとお話ししてくれた。はりまとおなじだったよ」

「……私と同じ、ですか」

 唇が微かに緩むのが、張間自身にもわかった。

「少しでも……ほんの少しでも危険を感じたらすぐに私を呼んでください。必ずですよ。宜しいですね」

 そっと、由芽伊の頭を撫ぜる。

 そして――。

 背中を押した。とん、とやわらかく。琉里に向けて。

「はりま」

 小さな手がほどける。
 張間が由芽伊の傍から離れた。

 解き放たれた大砲が――来海に、向かう。

◇  ◆  ◇  ◆



 一方、庭の中央あたりである。

 地面に突っ伏していた遠野が、うめきながらのっそりと起きあがった。

「あんのクソガキ……」

 ずいぶんと気軽に、人様の頭だの腹だのを棒切れでぶん殴り、蹴ッとばしてくれたものだ。人体には脳みそやら内臓やらがぎっしり詰まっていることを奴は理解わかっているのだろうか。壊れたテレビやなにかと勘違いしてないかとボヤきたくなるくらい、奴――クルミだかピスタチオだか知らないが、一撃一打に容赦がなかった。

 伊明を琉里のもとへやったのとほぼ同時に、遠野は、御影佑征と一緒に来海の撃退を試みた。というか、試みようとしたのだ。

 しかし御影佑征はなにを思ったか、来海を華麗にスルーして、どたどたと贅肉を揺らしながら一人で走り去ってしまったのである。

 結果、瞬間的に呆気に取られた遠野は角材で頭をぶん殴られ、前述のとおりのサンドバッグ状態に陥った。

 来海は完全に遊んでいた。遠野が倒れると柳瀬を蹴ってつついていじくりまわして挑発し、この野郎と向かっていけば迎撃されてまたサンドバッグ。

 彼の心境をありのままに語るなら――クソガキに弄ばれるのはとんでもない屈辱だった。

 学生時代(といっても高校に上がるまでだったが)、結構ヤンチャもしてきた遠野である。そこらの一般人に比べれば腕っぷしにも自信があった――が、来海はそれを遥かに凌ぐ凶暴性を持っていた。

「……なんてザマだ、情けねえ」

 遠野は口内に溜まった血を吐き捨てて、舌打ちとともに口を拭った。仰向けに転がっている柳瀬に近づき、その頬をぺちぺち叩く。

「おい、柳瀬。大丈夫か。おい」

 柳瀬は目をあけなかった。完全に意識を失っているようである。

「……だから残れっつったんだ、馬鹿野郎が」

 なにが衛生兵だ、真っ先にやられちゃ世話ないだろうに。

 ぐるりと周囲を見回した。アロハを羽織った御影佑征の姿は、やはり見当たらない。暴れている御影なにがしたちも数が減っているように思える。やられたか、あるいは尻尾を巻いて逃げだしたか。

 庭の奥のほうには伊明たちの姿があった。

 琉里とは無事に合流できたようだが――いったいあれは、どういう状況なのか。

 左腕をおさえてうずくまっている伊明がいる。そのすぐ後ろに、琉里がしゃがんでいる。そのまた後ろには、幼い女の子が琉里に護られるようにして立ち尽くしていた。桜色の和装――宗家の子だろうか。

 そんな彼らの盾になるように立ちふさがっているのが、あの張間だった。来海と対峙し、間髪入れずに繰りだされる拳を、足を、腕や肘を使って器用にかわしている。

 来海の後方、少し離れた位置から見守っている、眼鏡を掛けた薄灰色の和装の優男。おそらくあれが、噂に聞く伊生の実弟、卦伊なのだろう。

 なぜ卦伊と来海VS張間と伊明たちという構図になっているのか、遠野にはまったくわからなかった。が、理由はともかく張間がこちら側についている以上、伊明たちがすぐにどうこうされる心配はなさそうである。

 ギルワーの血を引く柳瀬を、ここに放置していくわけにもいかない。

 いったん車まで戻るか――それとも――。

 低い庭木が、塀に沿うように植わっている。ひとまずあの辺に隠しておくか、と遠野は立ちあがるついでに柳瀬を肩に担ぎ上げた。

「――……女性相手に、これですか……?」

 肩の上でくの字――どころかVの字に折れた柳瀬の体。背中のほうから彼女のくぐもった声が聞こえてきた。

「この体勢、おなか苦しいんですけど」

「贅沢言うな」

 一応担ぎ直してやるが、肩の当たる箇所がちょっと変わっただけである。

「こういうときって、普通、横に抱くものじゃありません? お姫様抱っこっていう……」

「気色悪いこと言うんじゃねえ、いい歳こいて」

「そんなだから結婚できないんですよ、院長」

「うるせえ」

 減らず口も健在だ。内心ほっとしつつも口をひん曲げ、のっしのっしと塀に近づいた遠野は、庭木の陰に隠すように柳瀬を――やや乱暴に――下ろした。

 そのときである。

「院長センセイ、院長センセイ!」

 母屋のほうから手を振りつ振りつ、どたどたと走ってくる者があった。忘れもしないアロハを羽織ったコグマ体型。

 御影佑征である。

 とたんに遠野は目を剥いた。

 遠野の前までやってきた彼は、膝に手をついて「はあ」と大きく肩を上下させた。それから顔をあげ、もう一度「院長センセイ」と――言いかけた、その語尾が消えた。

 遠野が力任せの鉄拳制裁を加えたからである。

「痛ッ! な、ちょ、いきなり殴りますか普通!?」

 しりもちをついた御影佑征は、殴られた頬をおさえながら目を白黒させている。

「てめえこそ――」

 節くれだった拳に、太い腕に、青い血管を浮き上がらせた遠野が、地を這うような声を出す。

「あの場面で逃げるか普通。今までどこに隠れてやがった」

「違います、違います」

 御影佑征が慌てて手を振る。

「逃げたんやないし、隠れとったわけでもない。作戦通りに動いてただけで」

「ああ!?」

「ちょ、ちょお、落ち着いてください。仲間割れしとる場合やないでしょう」

 一気に噴き出した汗を拭い拭い、御影佑征が立ちあがる。完全に腰が引けていた。

「たしかにあの状況で、なにも言わずにあの場から離れたんは申し訳ないと思います。でも来海の前で説明もくそもないし、タイミング的にもあそこしかなかったんです」

 御影佑征の言い訳を要約すると、こうである。

 Kratはそもそも腕の立つ者が多く、中でも張間・来海の両人は――あくまで御影側の仕入れた情報によるそうだが―― 一騎当千レベルの強さを誇る、非常に厄介な存在である。数と奇襲の利をもってしても、彼らが機能しているかぎり作戦遂行は困難だった。

「しかもこの二人、バランスがいい。来海は特攻タイプ、張間はラスボスタイプなんですわ」

「はあ?」

「わかりませんか? 要は出てくるタイミングが見事に違うんです。前菜とデザートばりに違うんですよ。――いいですか。院長センセイも見ていたからわかると思いますけど、好戦的な来海は囮を放てば喜んで釣られてくれるんです。対して張間は、腰が重い。よう上げんのです。おそらくいざというときに備えとるんやと思いますけど、まず簡単には囮に釣られてくれません。二人同時に、意識を逸らさせる必要があったんです」

 御影佑征はそこで一呼吸おき、母屋を振り返った。

「じつはKratのなかに一人、御影家うちのもんが紛れてます。スパイっちゅうやつですね。情報によれば、どうも母屋の一角に無線機器の通信をジャミング――つまり妨害する、抑止装置が設置されとるらしいんですわ。インカムが使えないのは僕らにとっても痛いわけで……」

 遠野はポケットに入れっぱなしの受信機から、だらんと垂れ下がっているイヤホン部分をあらためて耳に当てた。来海との死闘でいつの間にか外れていたのである。

 ここに着いてから、そして今も、不快なノイズ音しか聞こえてこない。

 ――成程、それでか。

 そういえば昔、伊生ともそんな話をした憶えがあった。抑止装置云々とは言っていなかったが、うちは圏外になるから携帯に連絡をもらってもどうのこうの。
 山の中に建っていると聞いていたから、当時はそのせいだろうと解釈していたが。

 それにしてもこの男は、敵地においても話が長い。

「要点を言え」

 怒鳴りつけたくなるのを精一杯に我慢して言うと、

「つまり、あのときが、僕らが母屋に乗り込む最良のタイミングやったんです」

 結果だけが返ってきた。
 が、長い前段からでも推察できる。来海が遠野に、張間が琉里に、ほとんど同時に意識が向いたタイミングが、ちょうどあの時だったということだろう。

「抑止装置を切るためか」

「破壊ですね。あと、二つのおたから・・・・AとB、つまり御木崎家の重要書類と姿の見えん伊生さんを捜すためでもあります。今、うちの征吾せいごが――ああ、さっき話したスパイの子ですけど――彼の指揮で、二手に分かれて動いてます。僕はひとまず院長センセイに加勢するために戻ってきたんで――」

「わかった」

 皆まで言わせず、遠野が頷く。インカムを耳に差しこんだ。

「そのジャミラだかジャグリングだかって装置が――」

「ジャミングです」

「ソレが壊れたらコレが使えるようになって――」

「インカムですね」

「で、御木崎の居場所がわかったら連絡が入るってことでいいんだな?」

「そうです。それと」

「もういい」

 知りたいことは大体わかった。これ以上、無駄なお喋りに付き合っている暇も余裕も、遠野にはない。

「加勢はいらん。柳瀬を頼む」

「いや、待ってください。まだ話は――」

 最後まで聞くことなく、踵を返して駆けだした。やや足元がおぼつかない感覚はあったが、遠野にとってはそんなもの足を緩める理由にはならない。伊明たちのもとへ、急ぐ。



◇  ◆  ◇  ◆


 ――……ザザ……――……ザザザ……――
 ――……ちら……、こ……かげ……、……がい……ます……――
 ――……こちら……御影……です、……応答……い……ます――
 ――……こちら御影征吾です、応答願います。聞こえましたら応答を――


『よっしゃあ! ――俺や、佑征や。ようやった征吾、報告せえ』

『佑征さん。ジャミング装置の破壊は、あ、指揮とってるの俺やないですけど、このとおり成功したようです。僕らは佑征さんの指示どおり、おたから・・・・探しをしとるんですが――』

『うまくいきそうか? みんな無事なんか』

『無事です。なぜか誰も追ってこんのです・・・・・・・・・・・・・。……おたからA・・・・・は、御木崎卦伊の部屋にあるんは以前から確認済みですが、金庫にしまわれとって――その、暗証番号がどうやら変えられとるらしく、開きません』

『金庫ごと担いで――』

『重たすぎますわ』

『……まあ、そうか』

『やから御木崎卦伊に直接聞くしかないと思います。奴は外におるようなんで、佑征さん』

『任しとき。そんでおたからB・・・・・は? 見つかったんか』

『一応、御木崎実那伊の部屋におるんは確認できました――けど、なんちゅうか……ほんまもんの修羅場です。――どうします? 佑征さん』



◇  ◆  ◇  ◆



「俺が行く」

 不意に、遠野が言った。
 それは遠野が合流してから間もなくのことだった。

 家庭医ファミリードクターはやってくるなり一も二もなく琉里と伊明の怪我の具合を確認した。

 来海に対して、巨木のような張間と丸太のような己の背中で二重構造の壁をつくり――なぜ張間がこちら側についているのかを訊くでもなく、そんなことなど後回しだと言わんばかりに――てきぱきと、琉里は手首の打撲、伊明にいたっては左前腕と肋骨にヒビが入っているかもしれんとの診断を下した。

 インカムから声が流れてきたのは、その直後だった。

 御影佑征、征吾のやり取りは、インカムを琉里に預けてしまった伊明にはまったく聞こえていない。だから遠野の不意の言葉にも、ただきょとんとするしかなかった。

「その部屋ってのはどこにある?」

 遠野がインカムに向かって続ける。
 伊明は説明を求めて琉里を見た。しかし琉里もまた、理解しているようでしていないような微妙な顔で見返してくる。

「伊明、簡単に説明するぞ」

 回答を得られたらしい遠野が、琉里に代わって言った。宣言通り、彼の説明は二言で終わった。

 伊生が母屋にいること、厄介な事態に陥っているらしいこと。

「おたからって、お父さんのこと? 修羅場って言ってたけど」

 遠野に問いつつ、琉里が不安そうな瞳を向けてくる。

 修羅場――。

「それがどの程度のもんか見当もつかねえが、とにかくお前らの父ちゃんは、俺が行って引きずりだしてくる。ここで待ってろ」

「俺も行く」

 この科白を言うのは二度目である。遠野は辟易したような顔をした。

「修羅場だっつってんだろうが。骨折してるヤツになにができる」

「ヒビ入ってるだけなんだろ」

「ヒビったってくしゃみ一つで激痛だ。必要なのは安静であって、暴れまわっていいわけじゃない。大体、お前までここを離れたら誰が琉里を――」

「私も行く。それならいいでしょ?」

 すかさず琉里が言った。遠野はさらに顔をゆがめる。

「なにがいいんだ、もってのほかだ。そもそもお前、動けなくなっちまうんだろうが」

「それが、よくわかんないけど大丈夫みたいなの。シンルーの血の匂いをがっつり嗅いだり、頭にかっと血がのぼったりすると、ちょっと――あれだけど。いまは平気。むしろ元気」

 ぐっと胸の前で拳を握る琉里を、遠野は疑わしげに眺める。
 ふとその後ろに視線をやり、

「その子はどうすんだ」

 と由芽伊を顎で示す。

 すると。

「私が」

 来海の猛攻を防いでいた張間が、そうとは思えない平淡な声で言った。伊明をちょっと振り返り、

「どうぞ、私どものことはお気になさらず」

「でも」

 琉里がいった。さすがにここにポツンと残していくわけにはいかないと、伊明も思う。卦伊の抹殺命令もあるのだ。

「よそ見たァ余裕ですねェ――」

 愉しんでいるようでさえある来海の声。足が鋭く空を切った。

「はりまっ……」

 ぱしん。
 首目掛けて飛んできたそれを、張間は手のひらで受け止めた。

 対峙してから初めてだった。ここまで押しもしなければ押されもしないまま、来海の攻めをただかわし、受け流していただけだったのに――と、思った直後だった。

 どんなステップを踏んだのか、張間はほんの瞬くあいだに来海の眼前に迫っていて、次の瞬間には頑健な拳が、来海の顔面に叩きこまれていた。

 見るからにとんでもない一撃だ。
 来海は鼻から血を噴き出しながら、軽々と吹き飛ばされた。

 張間はわずかに眉をひそめて、ひらいた拳を振りながら改めて伊明を振り返り、

「片付きましたので、どうぞ」

 相変わらず平淡な声である。

「えげつねえパンチだな……」

 呆気に取られたように遠野がいう。パンチなんてポップな響きでは片づけられない、それこそ砲丸を近距離で打ち込むような殴打だった。

 来海は仰向けに転がったまま、びくびくと体を痙攣させている。死にかけの虫みたいに、四肢が無意味に土を掻いている。意識はあるが思い通りに体が動かない、そんな感じだった。

 さすがとしか言いようがない。
 が、これができるのなら――。

「なんでわざわざ……あんな、時間稼ぎみたいな」

「深い意味はありません。ただ――彼の性格上、持久力不足で自滅するか、激昂して殺すつもりで向かってくるか、どちらかに針が振れるだろうと思っていましたので」

 言いながら、張間は落ちていた上着を拾いあげ、襟元に手をやった。
 黒服たちが一様につけている白銀のピンバッジを外し、

「そのほうが私としても有難かったのですがね」

 手の中にそっと握りこんで、静かに言った。

 どういう意味かと問うよりも早く、肩を引かれる。

「呑気に話してる場合じゃねえぞ」

 遠野に促され、支えられるようにして立ちあがる。

「じゃあ……由芽伊ちゃん、私たちも行くね」

「ルリ」

「助けてくれてありがとう。――いつか、一緒にお買いもの行こうね」

 不安そうだった由芽伊の瞳がきらめいた。琉里に促され、少女も張間に駆け寄る。

「はりま」

「由芽伊様、お怪我は」

 そんなやり取りを聞きながら、遠野、琉里と頷きあう。

 遠野とも合流できた、琉里も助けだせた。

 あとは一人――父だけだ。


#5 悲哀の飛沫


「来海、なにをしている来海! ……くっ。彼らを中に入れるな、絶対に入れるな!」

 張間の裏切りにあい、頼みの来海も殴り倒され、卦伊はほとんど半狂乱になっていた。ようやくうめき声を上げはじめた来海を叩き起こそうとし、母屋を護る襷掛けの女性陣に声を荒げて命令する。

 母屋まであと一歩というところで、伊明たちの行く手がふさがれた――といっても、六尺棒を構えた女性がたった二人。ほかの女性陣は、おそらく御影たちが侵入するときに倒してしまったのだろう。それを見ていたからか、二人の顔には緊張と恐れがないまぜになって浮かんでいる。

 遠野が、う、と小さくうめいて足を止めた。

「……女相手ってのはどうも……」

「私がいく」

 後ろにくっついていた琉里が前におどりだす。

 と、突然、目の前の障子がすぱーんッと威勢よく開けられた。
 驚いて女性陣が振り返る。伊明たちの意識も根こそぎもっていかれた。

 現れたのは風船のような男だった。見覚えがある。来海とともに安良井あらいの事務所にやってきて、和佐を押さえつけていた黒風船――いや、今は上着を着ていないから白風船か。

 白風船は、あのときとは打って変わったすばしっこい動きで庭に飛び降りた。
 女性二人に安堵の表情が浮かび、琉里がとっさに身を引き、伊明と遠野がほとんど同時に琉里を護るべく踏みこんだ、そのときだった。

 どういうわけか白風船は、素早く器用に女性の一人から六尺棒をひったくり、映画さながらの慣れた手つきでぶんぶん振り回した。もう一方の女性の持っていた六尺棒が弾き飛ばされる。かと思うと次の瞬間には、二人の女性はもう地面に沈められていた。

 本当に、あっという間の出来事だった。

「え……?」

 その場にいた全員が――卦伊でさえも呆けた声をこぼしていた。

 白風船は、手の中で六尺棒を器用に回転させながら伊明を振り返った。とたんに申し訳なさそうに眉を下げる。

「さっきはなんもできず、すんません。なんせ、正体がバレたらあかんもんでしたから」

 伊明がぽかんとしていると、なにか気づいたらしい遠野が「あ」と低い声をもらした。

「お前か、御影のスパイってのは」

「スパイ……?」

 白風船がこっくりと頷く。

「御影征吾です。スパイやなんて、そんな格好いいモンでもないですけど」

 照れくさそうに付け加えて頭を掻く。

「なんだって――……?」

 愕然とする卦伊に、白風船――征吾は向き直り、

「ギルワーに恨みをもつ一般人として、潜入させてもろてました。細工に金も時間もえらい掛かりましたし、東京弁にも難儀しましたけど――無口な人が多くて助かりました。……感謝しておりますよ、卦伊様」

 後半は関西のイントネーションを完全に消して、にやりと笑う。

 顔面蒼白になった卦伊がわなわなとふるえだすのを後目に、

「さ、行きましょ。伊生さんのとこへは僕が案内しますんで。さっきも言いましたけどほんまもんの修羅場です、覚悟しとってくださいね」

 そう言って、征吾は外廊下へ跳びあがり、開け放った障子の中へ入っていく。

 状況把握がまるで追っつかない伊明だったが、だからといって馬鹿みたいに呆然と突っ立っているわけにもいかない。征吾を追って、遠野や琉里とともに急いで母屋へ上がった。

◇  ◆  ◇  ◆


 伊明たちの背中を睨みつけていた卦伊は、不意に身をひるがえし、憤然と張間に詰め寄った。

「お前のせいだぞ、どうしてくれる!」

 拳を握ることすら知らない華奢な両手が、広い胸ぐらを掴む。張間は感情の読めない瞳で卦伊をただ見下ろした。

「張間、お前の仕事はなんだ。Kratはなんのためにある。御木崎家に――宗家に仕え、護るのがお前たちの役目じゃないのか!」

「父さまやめて、やめてください!」

 由芽伊が二人の脚の間に小さな体をねじこんだ。張間をかばうように、卦伊の腰を懸命に押しやる。

「ちがうのです、はりまは悪くないです、ゆめが、ゆめが――」

「由芽伊……!」

 卦伊の双眸が鬼のように吊り上がった。
 振り上げられた手は、けれどすぐに、張間に抑えられて宙に留まる。

「罰を受ける覚悟はできております。しかし今は――この厄介な事態を収束させることに全神経を注がれたほうが宜しいのでは」

「お前がややこしくしたんだろう!」

「返す言葉もございません」

「……ぬけぬけと……!」

 憎々しげな卦伊の視線を、張間は相変わらず静かな瞳でただ受け止める。
 卦伊は掴まれた手を乱暴に振り払うと、今度は庭に散らばって御影たちと格闘しているKratたちに向かって声を荒げた。

「有象無象を相手にいつまで掛かってる、この役立たずども!」

 普段、穏やかな彼からは想像もつかない剣幕に、振り返ったKratたちは虚を突かれたような顔をした。御影の面々も「なんやあ?」とばかりに動きを止める。

「もういい、そんな奴らは放っておけ! こっちをなんとかしろ!」

 と、卦伊は母屋を指さす。

「侵入者だ! なんとしても叩きだせ、喰い止めろ!」

 もはやちゃんとした命令にすらなっていない。
 しかし従順なKratたちは互いに目を配せ合い、ぱらぱらと母屋へ向かいだす。

 むろん、御影たちがそれを許すはずもない。

 あちこちにできた闘争の小さなかたまりは母屋側へ少し移動しただけでふたたび膠着した。なかなか卦伊の思うとおりの動きには繋がらない。

「なにをしている、早くしろ! 早く!」

「ちょぉっと待ったあああああ!」

 卦伊の苛立たしげな声を飲みこむように、突然、庭に響き渡った声があった。

 塀のほうから竹刀を片手に、どたどたと駆けてくる小太りの男――御影佑征である。

 卦伊の前で足を止めた彼は、仁王立ちよろしく片手を腰にあて、竹刀を肩に置いて真っ向から卦伊を見据えた。

「あんたが御木崎卦伊さん、ですね」

「……なんだ、お前は」

「今回の作戦の陣頭指揮を執っとるモンです。御影、とだけ名乗っときます」

「貴様が……!」

「そんなことより卦伊さん」

 怒りで顔をゆがめる卦伊などものともせずに、御影佑征は平然と続ける。

「Kratの諸君をいま中に入れるんは、悪手ですわ」

「悪手、だと?」

「まあなんも知らんのやから仕方ないと思いますけどね」

 肩をすくめる。軽薄な態度と口調に、卦伊の表情はますます険しくなっていく。

「どういう意味だ」

 御影佑征がにやりと笑った。
 おもむろにインカムに片手をやり、

「僕らは今から、この家に火ィつけます」

 そう宣言した。
 卦伊の目が大きく見ひらかれる。

「家の裏手で、うちのモンがすでに待機しとります。いま中に入ったらKrat諸君はみんな丸焼きですよ。さすがにそれは、宗家としても痛いんと違いますか?」

「……貴様、本気で言ってるのか。中には伊明君たちだっているんだぞ。兄さん――伊生兄さんだって」

「ご心配には及びません。僕の声は、このインカムを通してちゃんと聞こえとるはずですから。火をつけるタイミングも、逃げるタイミングもちゃんとお知らせできるんです」

「馬鹿な。この家ではそんなもの、なんの役にも――」

「面倒なんでその辺の説明は省きますね」

 にべもなく御影佑征が切り捨てた。

「そちらさんは『歴史』を大切にする一族やと聞いてます。先祖代々受け継がれてきた由緒正しいこのお屋敷を、僕らみたいなもんに焼き払われたら、そら末代までの恥でしょう。僕かて、放火なんて犯罪行為、できるだけしとうないんですわ」

「……なにが狙いだ」

 ひゅう、と御影佑征が口笛を吹く。

「さすが御木崎家の当主様、話が早くて助かります。……おたくの部屋にある金庫の番号、教えてもらえませんか?」

「――……そういうことか」

 伊生の忠告、御影の要望――卦伊のなかでようやくすべてが繋がった。血が凍っていくように、その顔からすうと表情が消えていく。

「お前たち御影家は、社会的に御木崎家を潰すつもりでいるんだな」

 鼻梁に落ちた眼鏡のグリップを押し上げる。色を失くした卦伊の瞳がおおわれる。

「物理的にも潰すつもりやったんですけどね」

 卦伊の動作につられるように、御影佑征も小さな眼鏡をくいっとやった。

「金庫から書類を奪ってボヤ騒ぎを起こしてトンズラ、っちゅう作戦やったんですわ、本来は。けど金庫が開かんとどうしようもないんでね」

 卦伊は眼鏡をおさえたまましばらく沈黙していた。考えこむというよりも、ただ黙って突っ立っているだけといったふうである。

 やがて、ぽつ、と声を落とした。

「ひとつ条件がある」

 おどろくほど静かな声だった。

「……聞きましょう」

「僕は君たちが信用できない。今ここで番号を教えたとして、その後放火しないという保証はどこにもないし、君がいくら約束すると言ったところで信じることは到底できない」

「まあ、それは――」

「だから」

 卦伊は静かに、強く言った。

「僕をそこへ連れていってくれ。火のそばで待機しているという、君の仲間のところへ。彼らが完全に離れたら、君だけに番号を教える。――どうだろう」

「…………」

 先ほどまでとは打って変わった、ずいぶん穏やかな調子である。卦伊は眼鏡から手を離そうとせず、表情を読もうにも、御影佑征からはほとんど見えない。不気味な静けさに眉をひそめながらも、

「……わかりました」

 御影佑征は頷いた。

「なんやったら、兵隊さんを二、三人、連れてもらっても構いませんけど」

「僕一人でいい」

「――そうですか」

 御影佑征はインカムから手を離した。が、すぐには動こうとせず、肩に置いた竹刀をおろし、やや声をやわらげ、

「……先に言うときますね。伊生さんは、自分と先代がすべての罪を被るべきやって言うてました。実那伊さんや卦伊さんは、嫌々自分たちの指示に従っていたと――そう証言してほしいそうです。卦伊さんは、まあ、立場もありますから多少罰は受けるやろうと思いますけど、実那伊さんや息子さんたちは……経歴に傷はつくやろうけど、実質的にはお咎めなしで済むんやないですか」

「…………」

 卦伊は、なにも言わなかった。


◇  ◆  ◇  ◆



 外廊下から入ったのは二間続きの大部屋で、征吾の説明によれば『家族が食事に使う座敷』だという。そこから奥へ、二つ部屋をはさんで由芽伊の部屋、識伊の部屋と続き、さらに一つ空き部屋を挟んで実那伊の自室、また一つ挟んで卦伊の自室となっているとのこと。

 伊生がいるのは実那伊の部屋だ。

 内廊下を進み、由芽伊の部屋に差し掛かったあたりで、御影佑征の放火宣言がインカムから流れてきた。琉里に渡してあったそれは、すでに伊明の耳に戻ってきている。

 征吾とはそこで分かれた。彼にも彼の役目がある。金庫のそばで待機していなければならない、とのことである。

 申し訳なさそうに内廊下を戻っていこうとする征吾に、遠野が「卦伊の部屋だろ、こっちじゃねえのか」と自分たちの進行方向を指さしてみたが、征吾は複雑そうな顔をちょっと見せつつ「急がば回れ言いますから」とよくわからない理由を述べて、結局、座敷のほうへ戻ってしまった。

 遠野を先頭に、内廊下を慎重に進む。

 気は急くばかりだが、伊明の負傷もあるし、足音を立てることはおろか息をするのも憚られるほどのおそろしい静けさに、邸内は包まれている。幽玄の世界に迷いこんだみたいな心許なさがあった。

 静寂がまとわりつく。喉の奥まで入り込んでこようとする。
 インカムから流れてくる御影佑征の陽気な調子が、今はただただありがたかった。

 識伊の部屋を越えた辺りだった。

「う……」

 不意に、琉里が小さく呻き声をあげて鼻をおさえた。
 とたんに広がる甘い匂いに、続けて伊明も低く呻く。

 互いに反発しあうように――というより、とっさに互いが互いを避けるように――二人はよろけ、琉里は襖に、伊明は壁に肩をぶつけた。

 それを見れば遠野にも、『修羅場』の様相が嫌でもいくらか察せられる。

「俺が見てくる。ここで待ってろ」

 声をひそめて言い置いて、遠野は一人、足音を忍ばせて実那伊の部屋に向かった。

「すごい、匂い……」

「ああ……」

 琉里が言い、伊明が頷く。

 静寂に満ちた血の匂い。血に濡れたユリの薫り。
 ともすれば搦めとられそうになるのを、鼻をおさえて唇を噛み、あるいは痛む腕に爪を立て、二人は懸命に堪えた。進んでいく遠野の背中を見送る。

 実那伊の部屋の襖が開いているのが、伊明たちの位置からでもわかった。

 声はまったく聞こえない。
 物音ひとつ、まるでしない。
 人の気配さえないようだった。

 遠野が襖の陰に身を隠し、そっと中を覗いた。とたん。

「なっ……」

 絶句したかと思うと、慌てふためき室内へ飛び込んでいった。

「――どういうことだ、なにがあった!」

 間を置かずして聞こえてきた声に、伊明も琉里も、どちらともなく互いを見合い、転がるように実那伊の部屋に向かった。

 その足音を聞きつけたか、

「――お前ら来るな!」

 遠野の鋭い制止だけが飛んでくる。

 しかし琉里も伊明も止まらなかった。止まる気もなかった。頭に浮かんでしまった最悪のシナリオを払拭したい、その一心だった。

 部屋の中は――修羅場、どころではなかった。

 惨劇だった。
 まさしく、血の沼。

 実那伊が手前に、うつ伏せに倒れている。
 すみれ色の着物は、帯の上に大輪の牡丹を咲かせたかのごとくに紅く染まっており、畳にも同様のしみが広がっている。瞼は閉じられ、頬は血の気が失せている。

 その奥に、識伊が横向きに倒れている。彼の周りには飛沫を上げたように血が飛び散っていた。遠目からでも、首にぱっくりとした傷があるのが、わかる。実那伊とは比べものにならない出血量だった。

 少年は血だまりの中に頭を沈め、薄くひらいた瞼の中から――母親を見つめていた。生気の失われた、色のない瞳。手元には、抜き身の懐剣が転がっている。

 そして――そんな二人のそばに伊生が力なく座っていた。彼こそ死んでいるのではないかと思うほど、項垂れたまま、微動だにしない。

「……父、さん……」

 ぴく、と伊生の肩が反応した。
 だが伊明たちを振り返ることはなく、ただ額に手をやっただけである。

「来るなっつったろうが」

 実那伊の脈を診ながら、遠野が苦々しく言った。

「……遠野先生……」

 遠野はちらと伊明を見てから識伊のほうへ目をやって、「あいつはもう無理だ」と唸るように首を振り、それから実那伊を見下ろして、

「こっちはまだ息がある。ほとんど虫の息だが、とにかく伊明、救急車を――」

 言いながら、遠野がスラックスのポケットをまさぐった。その腕を、伊生が掴む。

「……御木崎?」

「やめてくれ」

「やめてくれ?」

 眉を寄せて訊き返す遠野。
 伊生はやはり項垂れたまま、

「もう無理だ」

 と呟いた。とたんに遠野が手を振り払う。伊生の胸ぐらを掴んだ。

「なにが無理なんだ、御木崎。助かるかもしれねえっつってんだぞ。それをてめえは――」

「違う、遠野」

「ああ!?」

 伊生がようやく、遠野を見た。

「無理なんだ」

 額に落ちた前髪。憔悴しきった目。眼窩が落ちくぼみ、頬が一気にこけてしまったようだった。

 ――遠野にとってそれは、まるであの日の、文音を亡くした日の再現だった。あのときにはなかった濃く刻みこまれた皺が、彼の顔の陰影をより深く、より悲愴に見せている。

 その姿が、遠野から言葉を奪った。

「――それよりも、琉里を頼む。この部屋から遠ざけてやってくれ」

 凄惨な光景に動揺し、ただ二人のやり取りを見ているだけになっていた伊明は、伊生の言葉に揺り起こされるように琉里を見た。

 琉里は襖に寄りかかったまま片手で頭をおさえていた。呼吸が、浅い。

「琉里」

「……伊明……」

 掠れた声に渇いた吐息。唇からのぞく犬歯。
 瞳の色は、すでに青灰色に変わっている。

「……お父、さん……」

 喉に手をやる。自分を衝き動かそうとする一方の『血』を抑えているようだった。定まらない瞳が懸命に父の姿を捉えようとしている、けれど。

 ずるずると、琉里はその場に崩れていく。

 伊明はとっさに支えようと手を伸ばしたが、すぐにそれを引っ込めた。
 うずくまる琉里と和佐の姿が重なった。
 彼は、自分が触れた瞬間に豹変したのだ。

「遠野先生」

 はがゆそうに伊生を睨みつけていた遠野が、振り返る。

「俺じゃ、駄目だ」

「……くそッ」

 遠野は伊生を突き飛ばすようにして立ち上がった。実那伊を見下ろし、伊生を睨みつけ、琉里の前にしゃがむ。呼びかけながらぱちぱちと顔の前で指を鳴らし、反応を確かめてから抱き上げた。

 琉里は力なくも抵抗した。遠野は腕の力を強めただけだった。

「いいか伊明。なにがなんでもお前の馬鹿親父を引きずりだしてこい。言いてえことが山程あるし、一発殴ってやらなきゃ気が済まん」

「遠野。隣の部屋からも庭に――」

「うるせえ馬鹿野郎!」

 伊生を怒鳴りつけた遠野は、どすどすと足音を響かせて隣の空き部屋に消えていった。

 残されたのは、伊生と伊明の二人だけ。
 伊明はいまだ部屋に足を踏みこめずにいた。開いた襖に手を掛けたまま、父の横顔を見つめる。

「……父さん」

 いったいなにがあったのか、と訊くのがなんだか怖いような気がした。

「どうしてお前まで来た、伊明」

「……俺のせいで琉里が攫われたから。それに、……それに、和佐さんも……俺が」

「言わなくていい」

 伊生が首を振る。

「実那伊から聞いた」

 伊明は唇を噛んだ。相手が違えばすんなりと出てきそうな言葉が、喉の真ん中でつっかえる。左腕に手をやり握ると、皮膚と骨、嫌な痛みが二重になって神経を突き刺してくる。少し顔をゆがめただけで、伊明は腕から手を離さない。

 伊生はそんな伊明を横目に見、室内を見回した。
 少し黙ったあと、

「俺だ」

 ぼそりと言う。

「……え?」

「俺がこの二人を殺した」

 その惨劇は、伊明が庭で張間と格闘していたときに起こった。実那伊が識伊を叩いたすぐあとのことでもある。

 カメのように身を丸めて体を震わせていた識伊は、なにを思ったかいきなり跳ね起き、卓上の懐剣を鞘から抜きはらって、実那伊の背中に突き立てた。

 実那伊は、すでに魂の抜け殻みたいになっていた。
 後ろからの衝撃に目を見ひらき、痛みに顔をゆがめたものの、およそ感情らしい感情はいっさい表われてこなかった。

 識伊は実那伊の背中から無理くり刃を引き抜いて、転がるように後ろに下がった。楔を解かれた実那伊の体は、抵抗もなく伊生のほうに倒れ込んでくる。

 今、なにが起きたのか――。

 惑ったのは一瞬だった。
 状況に頭が追いつくと、全身から冷たい汗がふきだした。

「――識伊」

 できるだけ、動揺を殺して低く呼びかける。

「来るな!」

 伊生は近づく素振りすら見せていない。なのに識伊は、ヒステリックに叫んでぶんぶん懐剣を振り回した。声が耳に入るのすら拒絶するみたいに。

 動揺、焦燥、困惑――いろんなものが汗となって、伊生の頬をすべっていく。

「識――」

「うるさい!」

 伊生は口を噤み、片手をあげる。わかったと仕草で示す。

 忙しなく揺れる識伊の瞳。わなわなと震える渇いた唇。
 食いしばった歯の隙間から、す、す、と断続的に息が漏れる。

 彼の目には、伊生の姿など見えていないようだった。赤く染まっていく母親の背にひたすら注がれ続けている。

「やりなおす」

 かちかちと歯を鳴らしながら識伊が呟いた。

「そうだ、やりなおすんだ、はじめから。最初から。ぜんぶ。もういちど」

 識伊の顔がぐにゃりとゆがんだ。

「白紙にもどして」

 目は泣いているようにも見えるのに、口元は笑っている。懸命に、笑っている。

「俺はもう一度、母様の子供として生まれるんだ。まっしろになった母様の、子供として、この家に、宗家に、長男として」

 言葉と一緒に、ぼろぼろと涙が落ちていく。
 懐剣を握りしめた手がより大きくふるえだし、頸筋へ――。

「やりなおすんだ」

「待て、識伊」

「さいしょから」

 ――間に合わなかった。

 伊生が身を乗りだしたときにはもう、血飛沫が上がっていた。止めようと伸ばした手は無意味に宙に留まって、やがて、畳に落ちた。

 こと切れるその瞬間まで、識伊の瞳はただただ一心に――まるで己の魂をその体に注ぎこもうとするかのごとく――母親に、向けられ続けていた。

 その一部始終を、伊生が詳らかに説明したわけではなかった。
 ぽつぽつと核の部分を口にしただけだったが、それでも伊明は、目に見るようにその光景を浮かべることができた。

 父があえて「俺が殺した」と言った理由も――伊明には、理解わかる気がする。伊明が理解わかることを、理解わかった上で、父が話しているのだということも。

 伊生は続ける。

「和佐を死なせたのも、お前をそんな目に遭わせたのも、俺だ。むろん琉里のことも――俺が、実那伊たちにそうさせた。……過ちを重ねた皺寄せが、俺以外のすべてに、いった」

「……過ちってなんだよ」

 声がふるえた。

「琉里の母親とのこと? この家、出たこと?」

 伊生は答えない。

 もしも――もしも伊生が、決められた道筋を決められた通りに歩んでいたら、たしかにこんなことにはならなかったのだろう。

 琉里も生まれず、識伊も生まれず、和佐とも出会わぬまま。

 伊明はきっと、この家で、殺人鬼になっていた。

 気の置けない妹と他愛のない話をしたり、よくわからない父親に苛々したり、そんな――もしかしたら誰もが経験する――普通の生活を知らないままに。

「……俺は」

 感情が、喉で言葉に反発する。

「――……あんたのこと、好きじゃない」

 伊生が、ふ、と小さく笑った。ああ、と返ってきた声があまりにも深く、やわらかくて――伊明は左腕を握り締めた。いたみを、痛みで掻き消す。

「でも俺は――」

 閉じようとする喉を無理やり押し広げるようにして声を発した、そのときだった。

 今まで静かだったインカムが、突然ザッと雑音を立てた。
 切迫した御影佑征の声が鼓膜を叩く。

『あかん! 伊明君、征吾、聞こえるか!?』

「……佑征さん?」
『佑征さん?』

 伊明と征吾の声が重なった。

『征吾! 伊明君は? そこにおるんか!』

『いや、実那伊の部屋におるはずですけど――』

 そのやり取りで、伊明はインカムに触れてさえいないことに気がついた。慌ててマイクのボタンを押す。

「俺です、います」

 妙な返答になってしまったが、御影佑征は気にも留めなかった。
 応答を確認するや、ふたたび声を叩きつけてくる。

『伊明君! そこからすぐ出ぇ!』

「え?」

『征吾、お前もや! 家ん中におるんやったら早よ出ぇ!』

『どないしたんです、佑征さん』

『あかん、御木崎卦伊にやられてもうた。あいつ頭おかしいんちゃうか、信じられへん!』

『佑征さん、ちょお、落ち着いてください』

『落ち着いてられるか! 早よ出ぇ!』

「……佑征さんが、家から出ろって」

 怪訝そうにこちらを見てくる伊生に、戸惑いながらも伝える。そのあいだにも、『暗証番号は』『聞けへんわ!』という短いやり取りが交わされた。さらに御影佑征の声が続く。

『それどころやないねん、あの阿呆、自分で家に火ィつけよった! 俺らの持って来とったアブラ全部ぶちまけて!』

「――はあ!?」

 素っ頓狂な征吾の声は、インカムからではなく屋内からじかに聞こえてきた。卦伊の部屋で待機していたらしい。

『俺も掛かってもうたから助けに行かれへん。最悪や。あっちゅうまに火の海やで、伊明君も征吾も避難せぇ!』

 御影佑征ががなり立てる中、ばたばたと廊下を駆けてくる足音が聞こえた。征吾かと思って振り返る。

 しかし――。

「実那伊、実那伊!」

 妻の名を呼びながら向かってくるのは、件の人物――卦伊、その人だった。

 伊明はとっさに言葉が出ず、伊生を見た。
 室内にいる伊生からは見えようもないのだが、声の主が誰であるのか察したらしい。眉間に寄せた皺に憐憫の色が濃く乗った。

 伊生は、弟が火を放ったことを知らない。
 卦伊は、妻と息子になにが起きたのかを知らない。

 この場ですべてを知っているのは伊明だけだった。

「卦伊さ――」

「どいてくれ!」

 卦伊は、伊明を押しのけて部屋に入ろうとした。が、そこに広がる光景に愕然として足を止める。

 実那伊、とふるえる声で呟いた。

 灰色の着物はずいぶん着崩れている。髪もあちこち跳ねていて、眼鏡も斜めに傾いていた。微かに灯油の臭いが漂ってくる。

「実那伊!」

 彼女のそばに、卦伊が駆け寄る。

「ああなんてことだ、いったいなにが……どうしてこんな――」

 おろおろと――まるで初めて触れるみたいな仕草で――血に染まった着物に触れ、肩に触れ、頬に触れた。上半身を抱き起こす。実那伊、実那伊と繰り返される声がだんだん悲痛な叫びに変わっていく。

 その口から、識伊の名は、一向に出ない。
 卦伊はそちらに顔も向けない。

 部屋のすみにぽつねんと横たわった識伊の亡骸は、閉じそこねた目で両親の姿を見つめている。

 実那伊が小さく咳きこんだ。口の端から血があふれ、白い顎に紅を引く。痙攣した瞼が、薄っすらひらいた。

「実那伊」

「――……伊生……さん……?」

 とたんに卦伊の顔がこわばった。

 実那伊は、ほとんどなにも見えていないようだった。焦点の合わない瞳がぼんやりと卦伊を見あげ、口元には微かな笑みが浮かぶ。ふるえる手が、彼の頬に伸ばされる。

「…………」

 卦伊は何も言わなかった。実那伊の手をそっと握る。彼の手も、ふるえていた。

「ごめんなさい……私……すこし眠っていたみたい……」

「……」

 血の気の失せた手に、卦伊は自ら頬を寄せた。
 実那伊が嬉しそうにまなじりを下げる。

「……私……どのくらい、眠っていたの……この家は……寒くていけない……赤ちゃんに……よくない……。ね、伊生さん……やりなおしましょうね……私と、あなたで……」

 ね、伊生さん――譫言のように紡がれる声から、ゆるやかに生気が失われていく。黒い瞳はやがて、死の深淵に満たされる。
 卦伊は丸めた背中を引きつらせ、声ひとつもらさず、静かに彼女の体を抱き締めた。

『伊明君! まだ中におんのんか!』

『おい伊明、なにやってんだ。御木崎連れて早く出てこい!』

 インカムから、御影佑征と遠野の声が続けざまに流れてくる。二人は合流したらしい。遠野が母屋に飛びこもうとしているのか、それを止める御影佑征と征吾の声も聞こえてきた。

『伊明! おい!』

「……いま、行きます」

 インカムに向けかろうじてそれだけ告げると、伊明はのろのろと父のほうへと顔を向けた。

「父さん、行かないと」

 びっくりするほど力のない声がでたが、びっくりできるだけの気力も残っていなかった。

 家に満ちたつめたい狂気は、家の者たちを取りこんで悲惨な運命を辿らせた。悲惨な運命――誰が殺したの誰が死んだのなんてことでは、ない。それはあくまで終着点にすぎない。

 彼らの道はあたかも彩のない砂漠にまっすぐに、並行して引かれたレールだった。彼らはしきたりや役目という檻の中に押しこめられ、右にもゆけず左にもゆけず、止まることも許されず、色のない景色のなかをただただ走らされ続けた。互いの姿は見えているのに――互いの想いにも気づいていたろうに――けっして交わることはない。通じ合うこともできないまま終着点に突っ込んだ。

 そして――。

 狂気の残滓は、伊明と伊生をも運んでいく。

 そのことに、伊明はまだ気づいていない。

「父さん」

 反応のない父に、もう一度呼びかける。

「さっきの、佑征さんからの連絡……家に、火がつけられたって」

「佑征がやったのか」

 伊明は首を振った。ちら、と卦伊を見る。

 そうか、と伊生は呟いただけだった。立ち上がろうとはしない。
 それは卦伊も同様で、実那伊を腕に抱いたまま少しも動こうとしなかった。

 伊明は躊躇しつつも部屋に踏み入り、言葉で二人を促そうとした。

「だから……だから、早く出ないと。卦伊さんも――」

「先に行け」

 一瞬、なにをを言われたのかわからなかった。
 伊生はこちらも見ずにただ繰り返す。

「行け、伊明」

「……は……? なにいってんだよ、あんたも行くんだろ」

 返ってくる言葉はない。
 けれどその沈黙が、その沈痛な横顔が、すべてを物語っている。

 虚ろになりかけていた伊明の中で、感情が再燃する。無意識に両の拳を握りしめた。びしりと腕から駆けのぼってくる鋭い痛み。
 左腕をおさえ、詰めた息を吐きだすようにして伊明は言った。

「……言っとくけどな、俺たちはあんたを迎えに来たんだぞ。琉里だってさんざんな目に遭ったのに、あんたを心配して、この部屋までついてきて――あんなふうになっても『父さん』って、あんたのこと呼んでた。遠野先生だって柳瀬さんだって、この家とはなんの関係もねーのに、あんたを助けるためにここまで来てくれてッ」

「わかってる」

「なにがッ……!」

 声を荒げたとたん、今度は腹部がみしりと軋んだ。
 伊生の瞳がようやく、小さくうめき声をあげた伊明に向いた。ほんの一瞬、ほんの微かに、目元がゆがんで皺が寄る。

「あとから行く。……かならず、帰る。だから先に行ってくれ。頼む、伊明」

 ――行ってくれ、なんて。
 ――頼む、なんて。

 いつも一方的に命令してくるだけだったのに、そんな声で、そんなふうに――懇願するみたいに言われるなんて。

 伊明は顔をゆがめ、父を睨みつけた。着けていたインカムをもぎとり、ポケットに入れてあった受信機ごと、伊生に向かって投げつける。肩にぶつかって畳に落ちるのを横目に、伊明は部屋を横断して力任せに障子を開けた。

「伊明」

 耳に沁みこむ父の声。

「こんな父親で――すまん」

「――……ほんとだよ、クソ親父」

 吐き捨てるように言って、伊明は振り返ることなく外廊下から庭へ降りた。


終章 橙色の噓



 すべての感覚が麻痺している。

 なにもかもが膜を通したように遠く聞こえ、なにもかもがスクリーンに映しだされる映像みたいに見えていた。

 心と体が分離している。
 他人事のように、頭のどこかがそんなふうに考える。

 遠野たちと合流した伊明は、彼らに事情を説明した。
 といってもこのときの伊明には筋立てて話すことなど困難で、見たものを見た順に、端的に口に出すくらいしかできなかった。

 先に行けと父が言った――そう伝えたとたんに、遠野は激昂して御木崎兄弟を引きずりだそうと母屋へ向かった。
 が、やはり御影佑征と征吾の制止にあい、加わった張間に呆気なく押し戻されていた。

 そのやり取り――おそらく遠野の咆える声――が届いたのだろうか。伊生が、インカムを通して語りかけてきた。それを教えてくれたのは御影佑征である。

 伊明はさして驚かなかった。
 そうさせるつもりで渡したのだ。

 遠野は黒煙を噴き始めた家屋を睨みつけたまま少しのあいだインカムに耳を傾けたあと、苛立たしげにそれを外して琉里に渡した。

 目の色こそ戻っていたが、琉里は自力では立てないほどに憔悴しているらしかった。地面にぺたんと座って、柳瀬に上半身を預けている。彼女に代わって柳瀬がインカムを受け取り、琉里の耳に宛がってやる。

 琉里はやがて涙をこぼし、柳瀬の胸に顔をうずめた。

 御影佑征も征吾も、いつのまにかインカムを外していた。
 父がそうするよう頼んだのか、彼らが遠慮してくれたのか、伊明にはわからない。

 庭には、彼らのほかに由芽伊と、気絶した来海――あの後、怒り狂って襲い掛かってきたので、張間が完全におとした・・・・そうである――以外、誰も残っていなかった。

 御影なにがしたちとKratの面々は、張間と御影佑征両名の指示に従って、すでに山を降り始めていた。

 御影一行はもちろん自分たちの車を使って。
 Kratの足は例の黒塗りセダンであるが、台数が足りず、歩ける者はほぼ自力での下山となった。張間いわく、その程度で音を上げるようなやわな連中ではない、らしい。

 とにかくこの場を離れよう、との御影佑征の言葉に押されて、伊明たちはそれぞれの車に向かった。

 張間も、来海を担ぎ由芽伊を連れて――由芽伊は驚くほど静かだった、伊明たちのやり取りを聞いてある程度はわかっているはずなのに――、一台だけ残されていた黒のセダンに乗り込む。

 その奥に、シルバーのレクサスが停まっているのが見えた。

 思わず足が止まる。

 伊明君――と御影佑征が呼んでくる。

 置いていくわけやない、車があるから脱出できる、大丈夫や――そんなことを、言っていた。

 ――父は、彼らになんと言ったのだろうか。

 自分に言ったのと同じように「帰る」と告げたのだろうか。

 帰る気は、あるのだろうか。

 そんなふうに、やっぱりぼんやり考える。心と体だけでなく、頭までも切り離されてしまったみたいだった。感情が少しも動かない。

 たった一日で乗り慣れてしまった、遠野の車。後部座席に、琉里と並んで座る。助手席に柳瀬を乗せ、運転席に遠野を据え、御影佑征の車に先導される形で山を下る。後ろには、張間たちがついている。

 誰も口をひらかなかった。遠野も、柳瀬も。琉里も。
 もちろん伊明も、窓枠に頬杖をつき夜で塗りつぶされた窓の向こうをただ眺め続けていた。

 橋を渡り町に入ってから、消防車とすれ違った。

 目を射る赤い車体と甲高いサイレンが膜を突き破って伊明を穿つ。

 耳を塞ぎたくなる、目を瞑りたくなる、――なのに、振り返って後ろを確認したくなる。

 町の向こうにある椀型の山。
 噴きあがる黒煙、ちらちらと燈火みたいに炎が見えたりするのだろうか。

 そんなイメージが頭をよぎった瞬間、伊明は声を発していた。

「遠野先生。ごめん。停めて」

 車が路肩に寄せられる。
 前を走っていた御影佑征の車が離れていく。張間が伊明たちを追い越していく。助手席で泣きじゃくる由芽伊の姿が、一瞬、見えた。

 伊明は頑として後ろを見ることだけはしなかった。
 じっと窓の外を睨みつける。

 柳瀬も遠野もなにも訊いてこなかった。
 琉里も、窓に頭をもたせかけたままでいる。

 車が次々と横を通りすぎていく。

 そのなかに、見慣れたものは、ひとつもない。

「……琉里」

 伊明がぽつりと言った。
 ん、と優しい声が返ってくる。

「あいつ、お前になんて言ってた?」

 琉里がすこしだけ、顔をこちらに向けた。

「私の名前の由来、話してくれた。お母さんが大好きな花からとってつけてくれたって、……最後の手紙にそう書いてあった、って。あと、私、お母さんによく似てる、って」

 琉里の声は落ち着いていた。
 微笑んでいて、やわらかかった。

 琉里の声が涙にふるえない代わりに、前のほうから、クソ、とつぶやく遠野の声が聞こえてきた。煙草を点ける音がする。

「……ほかには?」

 ん、とまた優しい声が返ってくる。

「伊明のこと、頼むって。……あいつは俺に似てるから、って……言ってたよ」

「…………」

 ――やっぱりそうだ。
 帰る気なんか、最初はなからなかった。

「……ふざけんなよ……」

 伊明は窓をどんと叩き、低く、うめく。


「あのクソ親父、最後の最後にまた大嘘吐きやがった」


 言葉じりがぶざまにふるえた。こめかみを強く押さえるようにして右手で目元を覆い隠す。どれだけ唇を噛んでも、噛んでも、左の拳を握りしめて壊れかけた骨を、破れた皮膚を軋ませても――

 いたみが、消えない。

 左手に、そっと琉里の手が重ねられた。そして、静かに歌いだす。

 ――聞き覚えのある唄だった。

 とたんに目の前が橙色に染まっていく。


 幼いころの記憶だった。

 定期健診を終えた、小さな公園からの帰り道。
 あばれまわって疲れた伊明は、父の背中でねむっていた。
 ふと目が覚めたとき、父が調子はずれに、どこか照れくさそうにその唄を口遊んでいた。それをリードするように、琉里も一緒に歌っていた。

 うとうとと、夢を見ているような感覚のなか――父の広い肩越しに、橙色に染まった空が、見えていた。


 ぐ、と喉が引きつるのを止められない。
 伊明は血がにじむほど唇を噛んだ。

 それでも――。
 頬を伝うしずくを止めることだけは、どうしても、できなかった。


【了】

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