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『トガノイバラ』 -3.異端者たち

3.異端者たち


#1 『変わらない』


 あくる日の、月曜日。

 前夜の大騒動からくる身体的な痛みと、父の心ない一言による精神的ダメージ――怒りのあとに残ったのは、むなしさだった――から、伊明いめいは学校をさぼった。

 着替えもせず、顔も洗わず、もちろん食事なんてとる気にもなれず、朝からたびたび鳴る自宅の電話もすべて無視して家でひたすらのたくたしていた。

 昼を少し過ぎたころのことである。

 ――ぴんぽーん。

 インターフォンが鳴らされた。

 伊明は居留守を決めこんだ。リビングのソファに体を沈め、頭を背凭れに預けたまま、色のない瞳を天井に投げていた。聞こえもしなかったように。

 ――ぴんぽーん。

 もう一度鳴らされる。

 ――ぴーんぽーん。

 もう一度。――さらにもう一度。

 それでも伊明は動かなかった。諦めて帰るのをただひたすら待っていた。

 が、諦めるどころかその人は、伊明の居留守を知っているかのごとく、インターフォンを猛烈に、勢い任せに連打してきた。かと思うと今度は自宅の電話が根気強く鳴らされて、それが途切れるとふたたびインターフォンの猛烈連打。

 力押しのすぎる暴挙に、さすがに知らん顔もできなくなった。

 まさか御木崎みきざき家の誰かが――とも頭によぎり、足音を忍ばせて玄関へ、そっとドアスコープから覗いてみると。

 たんぽぽのわたげのようなふわふわした金髪が、揺れていた。

「いーめーいーくーん」

 計ったかのようなタイミングで、どん、どん、どん、と荒いノック。親しげな、伊明を呼ぶ声。

「いなぁいのー?」

 ――無視すべきか応答すべきか。

 迷った末、伊明はドアロックをしっかり掛けてから薄く扉をひらいてみた。「あっ!」という礫のような鋭い声が、その隙間から飛んでくる。

「やっぱりいた! ひどいよ伊明くん、居留守使うなんて……ああっ、ロックまで掛けてる! ひどいひどい、僕はアヤシイモノじゃありません」

 とても――個性的な喋り方。

 地団駄を踏まんばかりにひどいひどいと訴えているのは、大学生くらいだろうか、小柄な青年である。

 紺のカーディガンに白地のTシャツ、緩いシルエットのサルエルパンツといういでたちに、緩くパーマの掛かったマッシュカット。幼い造りの丸顔にどんぐりみたいな目や雰囲気や――なぜだろうか、不思議と伊明に親近感を抱かせる。

 とはいえ、伊明くん伊明くんと友達のように呼んでくる彼に見覚えはない。

「どちらさまですか……?」

「和佐だよ、僕が和佐」

「かずさ?」

「ほら、伊生いきさんの事務所で働いてる――って、あれ? 今日僕が来ること、伊生さんから聞いてない?」

「いや、なにも……っていうかあの人、昨日から帰ってきてないんで」

「あ、うん。それは知ってる。でも連絡入れとくって言ってたけどなー?」

 人差し指を唇にあてて、首を傾げる。

「……あー」

 もしその連絡がスマホに入っているのだとしたら知らなくて当然だ。昨夜、御木崎邸の庭で落とし、回収し忘れたまま戻ってきてしまったのだ。自宅の電話であれば無視し続けていたから尚のこと。

 それをごく手短に伝えると、和佐と名乗るその人は「そうなんだ」と納得したように頷いて、

「朝の電話は、僕。昼ごろに行くから家に居てねーって言おうと思って」

 自分を指差し、屈託なく笑う。
 伊明が学生であることも、今日が平日であることもお構いなしといった様子だ。

 とりあえず変な人だが悪い人ではないらしい。
 伊明はロックを外して、彼を家の中に招き入れた。


「麦茶でいいですか?」

「あ、お構いなくー」

 リビングのソファに落ち着いた和佐は、背負っていたメッセンジャーバッグから500mℓのペットボトルを取りだした。『ノドからハジけろ』というキャッチコピーが有名な――まさしく喉が焼けるほどの強炭酸を売りにしているコーラである。

 それをごくごくと喉を鳴らして一気にあおり、ぷはー、とおじさんじみた息を吐きだした、そのタイミングを見計らって、

「それで、うちに来たのはどういう……?」

 遠慮がちに声を掛けてみる。

 伊明自身は、お茶の入ったグラスを片手にダイニングチェアに横向きに腰かけている。

 リビングには二人掛けのソファしかない。初めましての彼と横並びになるのも気が引けて、伊明はあえてそこに座り、その横顔を正面に見る形をとっていた。

「伊生さんに頼まれたんだ」

 口元を拭いながら、和佐が答える。

「君たちのこと」

「俺たちの……?」

 なにを、だろうか。
 すると和佐はコーラのペットボトルをテーブルに置いて、改まるように伊明のほうへ体を向けた。

「昨日、大変だったんだってね」

「……父さんから聞いたんですか」

「うん」

 神妙な顔で和佐が頷く。
 かと思うと、ふいにぱっと両腕を広げて、

「映画もびっくりの大乱闘だったんでしょ? おさぼり魔の伊明くんが筋肉痛で動けなくなってるかもしれないからいろいろ面倒見てやってくれって――……いうのは、まあ嘘なんだけど」

「はあ?」

「いろいろ、話してやってくれって」

 独特の話運びに伊明はちょっと面食らったが、いろいろというのは、つまり――。

「……知ってるんですか」

 なにを、と言わなくても和佐には伝わったらしい。すんなりと頷いた。

「だって僕もギルワーだから」

「え?」

「生粋のギルワーなんだ、僕」

 自分を指差し、へらっと笑う。彼の癖らしい。

「ついでに言うとね、琉里ちゃんと僕は親戚同士でもあるんだよ。僕の姉が、琉里ちゃんのお母さんなの」

「琉里、の……」

 ――実の母親。の、弟。

 なかなか衝撃度の高いことをごくあっさりと言ってくれる。とっさに反応できずに言葉を失う伊明を見て、和佐は心持ち眉を下げた。

「やっぱり伊生さん、話してなかったんだね。そうだろうなーっていうのは、思ってたんだけど。あの人、必要最低限のことしか喋らないもんね。こっちから聞かないと必要なことも言ってくれないとき、あるし。不器用なんだなーっていうのはわかるんだけどね――」

 和佐は、よく喋る。

 一の内容を十の容量で、それもたぶん思いつくままに口にしてくるので、もともとなんの話をしていたのか忘れそうになるくらい、本当に、よく喋る。

 その顔を眺めながら、伊明は、ああなるほどと他人事のように気がついた。最初に見たときに親近感を抱いたのは、彼がどことなく琉里に似ているからなのだ。

 けれど――そんなふうにぼんやり眺めていられるのも、途中までだった。和佐の話が進むにつれ、伊明の顔がこわばっていく。

 その十の容量を一にまとめると、こういうことだった。

 昨夜遅く、伊生が和佐の自宅を訪ねてきた。御木崎家での出来事を簡単に説明し、自分はこれから用事があって少し家を空けるから、伊明と琉里をどうか頼む、と言って出て行った。その際に、ギルワーについて話してやってくれとも言っていたらしい。

「伊生さんも詳しいっちゃ詳しいけど、やっぱりシンルーとギルワーって根本からして違うから……あれ、伊明くん? どうかした?」

 伊明の表情の変化に気づいたらしい。和佐が首をかしげる。

「……少しのあいだ家を空ける、って?」

 こんなときに。
 琉里があんな状態だというのに。
 たかだか用事で――?

「あ、それもたぶん、僕が行くっていう連絡と一緒に――」

「和佐さん、用事って?」

「……それは僕にもわからないんだ。一応ね、訊いてはみたんだけど……伊生さん、話したがらなくって」

 申し訳なさそうに、和佐の眉がいっそう下がる。

「ごめんね」

「いや、いいですべつに。和佐さんが謝ることじゃないし。いつものことなんで」

 ――そう、いつものことだ。

 吐き捨てるように言って伊明は立ちあがった。時計を見ると、時刻は午後一時半を回っている。

「和佐さん、腹減ってます? なんか食いますか?」

 よどみかけた空気を変えるためでもあった。キッチンに入り、冷蔵庫を覗く。

「伊明くんは?」

「……俺は……まあ」

 曖昧に答える。朝からなにも食べていないが、食欲は今もあんまりない。

 すると和佐はなにか思いつきでもしたように、ぽん、と軽快に手を打ってソファから元気よく立ちあがった。

「じゃ、みんなで食べよう」

「みんな?」

「琉里ちゃんのお見舞い、行くでしょ? 伊明くんに用意させるなんて僕も気が引けちゃうし、ゴハンは大勢で食べたほうがぜったいおいしいしね。よし、そうと決まったら行こう行こう。ほら、伊明くん、はやくはやく、準備準備」

 一人で喋って一人で納得したらしい和佐がとんできて、急き立てる。

 琉里の意識は戻っているのかとか、自分が行って大丈夫なのかとか、いろいろと思うところはあったものの、「はやくはやくおなかすいた」と言葉で押されて急かされて、伊明はひとまず簡単に身支度を整え、和佐に連れられるようにして家を出た。

 意外にも和佐は車で来ていた。
 家から二、三分ほど歩いた先の狭いコインパーキングに停めてある、季節外れの初雪のような、白の小さな軽自動車がそれだった。

 伊明と和佐を乗せた白い軽は、するするとコインパーキングを抜け、矢方町やかたちょう駅前のファストフード店を経由して、またするすると診療所の狭い駐車場へと入っていく。

 彼は、ここへ来慣れているらしかった。
 車を停めると表へ回ることはせず、

「失礼しまーす。こんにちはー」

 と、迷うことなく裏口の戸を陽気に開ける。
 遠慮なく入っていく和佐に続き、伊明もおずおずとあとに続く。

「おう来たか、和佐。……伊明」

 事務机に向かっていた遠野が振り返った。

 伊明がきまり悪く会釈するのと前後して「うわ、なにこれどうしたの」と和佐が声を上げた。新聞紙とガムテープの貼られた――昨夜、伊明が激情のままにヒビを入れた窓硝子。

 遠野は苦く笑っただけだった。

「お前らこそ、なんだそれは」

 二人が両手にぶら下げている紙袋に目を留めて、遠野が訊く。

「ああ、みんなで食べようと思って買ってきたの。先生も食べるでしょ?」

 ファストフード店のロゴを示すように和佐はちょっと紙袋を持ちあげてみせ、ごく自然に、応接セットの奥のソファに座った。がさがさと鳴らしながら、テーブルに袋の中身――ハンバーガーだのポテトだのナゲットだの――を並べていく。

 室内に一気に広がっていく独特のにおいに、遠野が眉をしかめた。

「お前な。一応ここ病院だぞ」

「よく言うよ。煙草ばかばか吸ってるくせに」

「ちゃんと無煙のにしてんだろうが」

「昔はモクモク煙だしてた」

「患者の前では吸ってねえよ」

「そういう問題じゃないと思う。――あ、これゴミ用ね」

 手際よく中を空けた紙袋を一つ、ゴミ入れとしてテーブルの横に置いた和佐は、もう一つの紙袋から、今度はミニサラダだのデザートだのを取りだしてはまた並べていく。

「……っつうかお前、それ何人分だ。どんだけ買ってきてんだよ」

 呆れ果てたように遠野が言った。

 ちなみに伊明の持つ袋の中には飲みものの類が入っている。

 店で注文したのは和佐である。カウンターの向こう側が一時てんてこまいになるような頼み方だったが、伊明はいっさい口をださなかった。多すぎないかとはもちろん思ったけれど、それでも沈黙を貫いた。

 じつはスマホとともに、財布も御木崎邸の庭に落としてきてしまっている。

 金を出さざる者、口を出すべからず。

 ――にしても、こうして見るとやはり多い。飲みものまで全部並べると、テーブルが狭いせいもあるのだろうが、アリさえ歩けないほどだった。

「ところでせんせ、琉里ちゃんは?」

 空っぽになった紙袋を丁寧に折りたたみながら、和佐が訊いた。
 遠野はアイスコーヒーをお供に食前の一服を愉しみつつ、病室のほうへ顔を向ける。

「まだ目ェ覚まさなくてなあ」

「琉里は大丈夫なんですか?」

 と、今度は伊明。すると遠野は笑みをもって、

「ああ。心配ない」

 めずらしく、白衣を着ていない。椅子の背もたれに引っかけたままにしている。予約はないのだろうかと思ったが、考えてみれば月曜日は週に一度の休診日である。柳瀬の姿が見えないのも、だからなのだろう。

 和佐は柳瀬に会えないことを残念がった。
 残念がりつつ、柳瀬もおらず琉里も目を覚ましていないとなるとさすがにちょっと余るかなあ、とようやくテーブルにぎっしり並んだハンバーガーだのの類を見て不安そうにする。

 ちょっとどころではないだろうし、二人がいても余るだろう――と、伊明が思ったことを遠野が荒い口調で言う。「買いすぎだ馬鹿」と呆れながらも、財布から取りだした紙幣を数枚、和佐に渡してやっていた。ついでに「一応、昼過ぎから来るとは言ってたぞ」と柳瀬の出勤してくるらしい情報も。

 伊明は和佐の向かいに腰を下ろし、そんな二人のやり取りを眺めていた。

 やはり、距離が近いように思う。

 その理由はすぐにわかった。

「僕ね、ここに通ってたんだ、昔」

 二つ目のハンバーガーにかじりつき、口をもごもごさせながら、和佐が言った。

「十八歳から五年間。ね? せんせ」

 振り返った和佐に、遠野が頷きだけを返す。遠野はあいかわらず事務机の前でふんぞり返って、マスタードソースをたっぷりつけたナゲットを食んでいる。

 ――十八歳から五年間が、昔?

 ちびちびとポテトをつまんでいた伊明は、ふと首をかしげた。

「和佐さんっていま何歳なんですか?」

「僕? 三十二」

「はッ!?」

 大学生くらいだろうと踏んでいたから驚いた。
 すっとんきょうな声を上げる伊明に、和佐が苦笑をこぼす。

「ギルワーの歳のとり方って、ちょっと変わってるんだよ。若く見えるでしょ、僕」

「……かなり」

 伊明は呆然としたまま頷き、

「ちょっと、びっくりしました――けど、まあそうですよね考えてみたら」

 和佐は、琉里の母親の弟なのだ。
 彼女と父にどの程度の年齢差があったかわからないが――父や自分たちの歳からみても、和佐が二十代前半ってことはないだろう。

 そういえば琉里もやたら童顔である。
 それもギルワーの血が影響していたということか。

「あの、和佐さんは……琉里に会ったことあるんですか?」

 幼いころに伊明が御木崎の家にいたように――。

 和佐は、ないよ、とあっさり否定した。

「会ってみたいなって、ずっと思ってはいたんだけどね」

「やっぱり、父さんが会うなって?」

「ううん、僕の意思だよ。……僕ね、ちょっとおしゃべりなところがあるんだよ」

「ちょっとどころじゃねえな、お前は」

 遠野が横やりを入れてくる。
 伊明も思わず頷きそうになったが、和佐が「人に言われるのは嫌」と不愉快そうに言ったので、縦に動かしかけた首をぴたりと止める。

「――まあ、でも本当に余計なことまで言っちゃうこと、あるからさ。琉里ちゃんの前で変に口をすべらせるとまずいなーって思ったんだよね。……琉里ちゃんがね、もしも自分のこと――つまりギルワーの性質とか、そういうのに疑問をもったり、知りたいって思うようになるまでは我慢しようって」

「そう、ですか。……あの、琉里の母親って」

 二つ目のハンバーガーをぺろりとたいらげた和佐は、ソースのついた指を舐めながら、

「もちろん僕と同じ、生粋のギルワーだよ」

「いやそうじゃなくて。その、いまどこに……?」

 和佐の表情がにわかにこわばった。遠野と顔を見合わせる。「うん」とも「うーん」ともつかない重たい声を出しながら、紙ナフキンで指を拭った。

 唇に乗った微笑はどこかさびしげに。
 今まで翳ることのなかった目元に陰が落ちる。

「それについては――まず、琉里ちゃんに話すよ。彼女、まだなんにも知らないんでしょ?」

「説明する暇もなかったからな」

「説明する気がなかったんだろ」

 遠野の言葉に、伊明がかみつく。

「……あのなあ」

「まあまあ」

 眉をひそめる遠野の声を、和佐が明るく遮った。

「しょうがないよ。ギルワーって結構むずかしいんだ、説明の仕方とか誰が説明するかとか――それ次第でショックを軽減させることもできるし、逆に何十倍にもふくれあがらせちゃうこともある。伊生さんが話さなかったのは、だからなんだよ。……伊明くんだって、もしも関係ない人からいきなり『あなたは欲求で人を殺めてしまう可能性があります、それは遺伝によるものです』なんて言われたら、どう受け止めていいかわからないでしょ?」

 奇しくも昨夜の、父との会話と重なった。

 一瞬にして感情が濁る。
 処理しきれずに伊明は凍りついたみたいに固まった。

 和佐はその沈黙を肯定と捉えたようで、だからね、と静かに続ける。

「琉里ちゃんが目を覚ましたら、まずは二人きりで話をさせてもらえないかな。――ギルワー同士で」

「……俺は……いないほうがいいってことですか」

 和佐は言いにくそうに、うーん、と唇に指をあて少し考えるようにしてから、

「僕はね、――僕は、わりと素直に受け入れられたんだ、自分がそうだっていうこと。本当の意味でギルワーの性質を自覚したのは中学生のときだったんだけど――環境がよかったんだよ。
 小さい頃から『自分たちはこういう人間だから気をつけなさい』って父がよく話してくれてたし、姉が血への欲求で悩んでるのもそばで見てたし……だから、初めてそういう性質が僕自身にあらわれたとき――もちろん戸惑いはあったよ、あったけど、『ああこういうことか』って素直に思うことができたんだよね。
 親戚もギルワーばっかりだったし、知り合いも多かったからさ、悩んだときは話を聞いてもらえたし困ったときは助けてもらえた。不安なときには支えになってくれたりもした。
 ……でも……琉里ちゃんは、違うよね。僕にあったものが、琉里ちゃんにはひとつもない」

 ――胸を、えぐられるようだった。

「ごめんね。ひどい言い方だとは思う。けど、伊明くんなら――わかるでしょ? 普通の人間として育ってきた子にとって、僕たちの世界ってかなり特殊だと思うんだ。……自分が吸血鬼みたいな存在だって知ったらショックだろうし、生い立ちもちょっと込み入ってるし、さ。伊明くんや遠野先生がそばにいることがプレッシャーになる可能性もあるし、できるなら僕が――同じ血をもつ僕が、一対一で、ちゃんと話してあげるべきだと……思うんだけど」

 どうかな、と和佐が首をかしげる。

 わからなくはない、けれど。
 ――いや。けれど、じゃない。

「……わかりました」

 伊明はやっとの思いでそれだけ言った。

 自分でさえ実那伊みない卦伊けいから聞かされた話にパニックを起こしたのだ。ましてや琉里は、なにも知らない状態でさんざんな目に遭っている。

 ――私だけ、かな。

 公園で見た琉里のさびしげな、小さな背中。
 妹を理解し支えてやれるのは――たぶん、自分じゃない。少なくとも、いまは。

「よかった。ありがとう、伊明くん」

 和佐は心底安心したように微笑んだ。

 話にひと段落がついたのを見計らって、遠野が琉里の様子を見に病室へ入った。十分ほどしてからドアから顔をのぞかせ、

「琉里、目ェ覚ましたぞ」

 静かに告げた。

 和佐が立ちあがり、伊明に目配せをひとつしてから病室に入っていく。間もなく、遠野だけが戻ってきた。

「琉里は?」

 伊明は声をひそめ、けれど急きこむように訊いた。

「体調面だけで言や、ずいぶん良さそうだ。……ただなあ」

 加熱式煙草を噛みながら、遠野が言いにくそうに口ごもる。

「ただ、なんですか」

「ところどころ記憶が抜け落ちてるらしい。お前が助けに来たことは憶えてるが、その前後がかなり曖昧になってる」

「……鳥の、ことは」

 遠野は短く沈黙してから、訊かなかった、と低く言った。

「っつうか、必要最低限のことしか訊かなかったんだ、悪いな」

「――いえ、いいです、そのほうが」

 わざわざ混乱に繋がるような記憶を呼び起こす必要はない。

 なにを思ったか、遠野がふと小さく笑った。顔をあげた伊明に肩をすくめる。

「あいつ、お前の心配してたぞ。開口一番、伊明は無事かって」

「……昨日も、そうだった。人の心配してる場合じゃねーのに」

「お前らはほんと、よく似てるよ」

 遠野の言葉に伊明はわらった。わらうくらいしかできなかった。
 いくら耳を澄ましてみても、病室の話声は――琉里の声は、聴こえてこない。


 一時間ほどして柳瀬が出勤してきた。

 「やだすごいにおい」と入るなり顔をしかめはしたものの、昼食をとっていないということで、彼女は嬉々としてハンバーガーだのミニサラダだのをまぐまぐと食べ始めた。

 食べながらも「琉里ちゃんはどうですか」と遠野に訊くことも忘れない。「伊明くんは大丈夫?」と心配までしてくれる。

 ちなみに彼女、食べ方に女性らしい品はあるが、一口の量とスピードがすごい。彼女がフードファイターレベルのスキルと胃をもつことを、伊明はこのとき初めて知った。

 そこからさらに三十分が経って、和佐がやっと、病室から顔を出した。出したまま、伊明を見、遠野を見、柳瀬には挨拶がてら軽く手を振って――、なにも言わないままちょいちょいと手招きをしてまた病室に引っ込んでいく。

 ――うまく、いったのだろうか。

 遠野が立ちあがり、一緒に来いと目で促される。柳瀬は行ってらっしゃいと片手を振る。

 伊明は遠野の後ろについて、おそるおそる、一歩足を踏み入れた。

 カーテンの引かれた、薄暗い病室の中。

 琉里はベッドに座っていた。

 ぶかぶかのスウェット――あとから知ったが、病院に常備されている着替えらしい――に身を包み、枕をクッションにして低いヘッドボードに背中をもたせかけている。腰までかけた布団。その上に行儀よく重ねられている両手は、部屋の暗さのせいなのか――やけに青白く、力なく見えた。

「どうだ、琉里」

 ベッドサイドに寄った遠野が、まず訊く。
 琉里はうつむかせていた顔をあげて、

「大丈夫です。……ちょっと、いろいろびっくりしたけど」

 肩をすくめ、首をかしげて笑う。その笑顔があまりにもはかなげで、伊明は思わず足を止めた。動けなくなる。

 琉里の枕元に立つ遠野。
 和佐はベッドのふちに、琉里と向かい合うように腰かけている。

 この中で、自分だけが異質なのだと――思わずにはいられなかった。

 自分には穢れた血が流れているのだと。
 琉里を苦しめる、異質な血が。

 彼女の瞳がそっと動いた。立ち尽くしている伊明に向く。

「伊明」

 琉里が微笑む。

 伊明は――なんとか、笑みをつくった。ぎこちないものに、なってしまったけれど。返事ひとつできなかったけれど。

「……遠野先生、和佐さん。すこしだけ、伊明と二人にしてもらってもいいですか?」

 和佐と遠野はちょっと顔を見合わせたが、すぐにそれぞれ頷いた。

「――なにかあったらすぐ呼べよ」

「触れると強く反応でちゃうこともあるから――気をつけて」

 通り過ぎざま伊明にそう囁いて、二人は院長室へと戻って行く。ぱたん、と静かに扉が閉まった。

 伊明は一歩も動けなかった。琉里のもとへ進めない。
 どう接したらいいのか――いままでどう接していたのかさえ、わからなくなっていた。

 琉里はなにも言わなかった。伊明も固まったままでいる。

 無言の時が、しばらく流れた。

「――私たち」

 やがて、琉里がぽつんと言った。

「双子じゃなかったんだね」

 そして、笑う。肩をすくめるようにして、笑う。首をかしげ、眉をさげて。

 その奥に押しこめられた感情が空気を伝って流れこんでくるようだった。それが伊明を強く揺さぶる。堰を切ったように溢れだす罪悪感。口が勝手に、動きだす。

「ごめん、琉里。ごめん。こんなことになったの、俺のせいだ」

「……伊明?」

「俺が実那伊さんに会わなかったら、あの家に行こうなんて思わなかったら……こんなふうにはならなかった。琉里があんな目に遭うこともなかった。俺たちは、俺たちのままでいられたはずなのに。俺が全部ぶっ壊した。全部俺のせいだ」

「違うよ、伊明。昨日は、―― 一人で行くって言ってた伊明に、私が勝手についっていったんだもん。伊明のせいじゃない」

「けど」

「伊明」

 琉里の声はどこまでも穏やかだった。
 入口に立ち尽くしている伊明をじっと見たあと、琉里はおもむろに、ベッドのふちをとんとんたたいた。こっちに来て。隣に座って。そう言っている。

「でも」

「大丈夫だから」

 もう一度、とんとんたたく。
 伊明はためらいがちに足を進めた。琉里の足元、ベッドのいちばん端に腰掛ける。

「大丈夫だってば」

 三度みたび、琉里は同じところを同じようにたたいた。

 触れるとまずい――和佐の言葉が耳に残っている。室内は静かだ、たぶん琉里にも聞こえていただろう。

 伊明は琉里の望む位置に移動こそしたものの、背中を向け、ともすれば尻がずり落ちそうなくらい浅く腰掛けた。

 琉里が微かに笑ったのが聞こえた。

 ――自分でも情けないと思う。本当に。

「和佐さんから聞いたよ。いろんなこと」

 穏やかに、琉里が言う。

「すごく驚いたけど、でもね、あんまりショックは受けてないんだ。なんていうか……かなり、現実離れした話じゃない? だからまだうまく消化しきれてないっていうか。自分のことなんだけど、他人事みたいっていうか」

 うん、と。相槌だけを小さく打つ。

「……でもさ。でもね、伊明」

 背中に、小さな重みが乗った。
 琉里の頭だと、すぐにわかった。触れたところから神経がさざめいていく。微かに匂いたつ甘い薫り。

 ――触れるとまずい。

 でも、その重みを払うことは、伊明にはできなかった。琉里の声が縋るようなものに変わっていたから。

「ギルワーとか、本当のお母さんのこととか……そんなのより、いままでずっと傍にいた伊明が――双子のお兄ちゃんが、急に、ものすごく遠い存在になっちゃったみたいな気がして……それがね、なんかすごく……すごく、いやだなって――思った」

 すこし掠れた声。渇いた吐息。
 まとわりつく、血をふくんだようなユリの薫り。

「……関係ねーよ」

 呟くように伊明が言った。

「シンルーとかギルワーとか、関係ない」

 琉里に、というより――自分自身に。

 ベッドから立ちあがった伊明は琉里に向き直った。両手で妹の頭を鷲掴みにしてわしゃわしゃわしゃと撫でまわす。琉里がひゃあと気の抜けた声をあげたが、伊明は構わず、

「忘れたか? ガキのころさんざん守ってやった。約束もした」

 守ってやると――兄として。

「変わんねーよ、俺たちは。心配すんな」

 最後に、ぽんとこづくようにして手を離す。
 琉里は乱れた頭に手をやりながらぱちぱちと目をしばたかせた。

「……さっきまで泣きそうになってたのに」

「なってねーよ」

「なってたよ」

 ふふっと、琉里がおかしそうに笑った。

 ――たぶん、互いに分かっている。
 変わらないなんて、有り得ない。

 それでも琉里は頬をほころばせる。伊明の顔のこわばりも溶けていく。両手のひらに残った不穏な感覚は、拳を握り、爪の食いこむぴりッとした痛みで掻き消した。

「そういえば、しばらく入院するんだって?」

 なにげない調子で訊いてみると、琉里は笑顔を少しだけくもらせて、

「入院ってほど大げさなものじゃないんだけどね。昨日、閉じこめられてたときに、ちょっと――いろいろあって」

 瞳を外す。言いよどむ。けれどすぐに声を明るく、

「だからだと思うんだけど、一度大きい病院で検査を受けたほうがいいって、さっき、遠野先生が」

 彼いわく――知人が働いている大学病院がある。向こうの都合と琉里の体調次第でもあるけれど、連絡自体はすでに取れており返事待ち、早ければ今日の夕方には行けるだろう。学校は少しのあいだ休んだほうが、たぶんいい。家に帰るタイミングは様子を見て決めよう――とお医者さんの顔をして事務的に告げていった、と琉里は話した。

「……そっか」

 いろいろあって――のいろいろが、なにを示すのか。
 学校を休むということはもちろん部活も――。

 枕元に目をやると、スマホが死んだみたいに投げだされていた。

「充電、切れちゃったんだ」

 伊明の視線に気づいたらしく、琉里は口早にそう言って手の中に隠した。

「……あとで、充電器とか持ってくる。着替えも要るだろ」

「うん、ありがと。やー、携帯使えないのってフベンだねぇ、誰にも連絡できなくってさぁ」

 たははと笑いながら頭をぽんとたたいてみせる。必要以上におどける琉里に、伊明はかたちばかりの笑みを返すしかなかった。

 ぎこちない空気の中で、二、三言、当たり障りのないやり取り――充電器は部屋のどこそこにある、とか、いついつのテレビドラマの録画おねがい、とか――をかわし、伊明が病室を出ようとしたとき。

「伊明」

 ふと、琉里が呼びとめた。

「あのさ――」

 ためらいがちに口のなかでもごもごする。
 伊明はちょっと顔を向けただけで、目を合わそうとはしなかった。

「……ごめん、なんでもない。家のこと、たのんだ」

 また、わざとらしいくらいに明るく言う。伊明は「ん」と頷いた。

 たぶん――父のことを訊きたかったのだろう。どうしてる、とか、なにか言ってなかったか、とか――察することできたけれど、あえて気づかないふりをした。

 どう答えればいいのか、伊明にはわからない。


 院長室に戻ると、今度は柳瀬が、ファストフードの紙袋をぶら下げて、入れ替わりに病室に入っていった。

 「琉里ちゃーん」「柳瀬さーん」「どう、具合は。おなかすいてない? ゴハン食べる? 和佐くんが買ってきてくれたのよー」――と、女性ならではの甘く高い声を聞きながら、伊明は病室の扉をそっと閉めた。

 和佐と遠野の、窺うような視線をひしひし感じる。

 伊明は二人と目を合わせないようにしながら、テーブルに放置されていた飲みかけのコーラの紙カップを手に取った。

 終始握りしめていた手のひらには爪の痕がくっきりと残っている。指先に痺れる感覚があるのは、そのせいだろうか。

「――どうだった、伊明」

 遠野が声を低めて訊いてくる。

「べつに。いつもどおりの琉里でしたよ」

 時間の経ちすぎたコーラは完全に酸が抜けているうえ、なまぬるい。伊明は口に含むなり、顔をしかめてカップを置いた。

「伊明くんは? 大丈夫だった?」

 今度は和佐。伊明は無言で頷きを返す。
 すると何を思ったか――ソファに座っていた和佐が突然、手首をがしりと掴んできた。

 神経が、一気に逆立つ。

 伊明はとっさに腕を引き、自分でも思わぬ乱暴さで和佐の手を振り払った。

「なん……ですか、いきなり」

「大丈夫なわけないでしょ」

「は?」

「僕はギルワーだけど、伊生さんを見てるからシンルーのこともちゃんと知ってる。……大丈夫なわけ、ない」

 大きな瞳がわずかに、悲しそうに細められる。

「僕たちは味方だよ。壁をつくらないで、伊明くん」

「……いや……」

 ――そんなつもりは、なかったのだけれど。

「っていうか……和佐さんこそ平気なんですか、俺に触れて」

 戸惑いがちに訊くと、和佐は「平気じゃないけど、まあ平気」とよくわからない答え方をして、伊明に触れたほうの手をぷらぷらさせた。

「ああ、ちょうどいい」

 思いたったように、遠野が椅子から立ちあがった。事務机の引き出しから鍵の束を取りだして、ファイルの詰めこまれた戸棚の前に移動する。

「近いうちに話そうと思ってた。ついでだから、いま話す」

 硝子戸の鍵を開け、分厚いファイルを一冊引き抜く。ほれ、と放り投げるように応接セットのテーブルに置いた。

 ちなみに、先ほどまでそこを占拠していたおびただしい量の食料は、どう処理されたのか――いくらかは琉里のもとに運ばれ、いくらかは誰かしらの胃袋に収まったのだろう、その割合はわからないけれど――三分の一近くまで無くなっていた。

 すっきりした机上に今さらながら驚きつつ、伊明はファイルを手に取った。

 A4判のダブルリングファイルである。表にも背表紙にもなにも書かれていなかった。ひらいてみると、どうやら患者のカルテらしい。

「せんせ、これ見せていいの?」

 言いながら、和佐が横から覗きこんでくる。

「どうせ何書いてあるかわからんだろ、お前らには」

「でも個人情報」

「じゃあお前は見るな」

 無慈悲な一言に、なんでー、と不満の声が上がるのを聞きながら、伊明はそのカルテらしきものをめくっていった。

 ギルワーのものだろうことは、わかる。
 だが遠野の言うとおり、名前や年齢、住所など患者本人が記入したらしいもの以外はまったく読み取れなかった。ミミズが踊っているような、何語だかもわからない走り書きばかりである。

 作成日を見るに、新しいものから順に並んでいるらしい。住所はこの辺りのもが多く、年齢はまれに二十代、三十代が混じってはいるが、ほとんどが十八歳と記されている。

 伊明はふと手を止めた。

 ――佐伯さえき和佐かずさ

「あ、僕の」

 隣で和佐が声をあげた。身を乗りだして覗きこんではきたものの、「なに書いてあるか全然わかんない」と早々に放棄してするりと伊明から離れていく。

 不思議なのだ。

 いま、和佐の体が腕に触れた。さっきもそうだったが、触れたときの神経の逆立つ感覚は琉里のときよりはるかに強く、鼻腔に残るあの匂いも同じく強い。

 なのに彼は――純血のギルワーであるはずの和佐は平然としている。我がもの顔で冷蔵庫を開け、コーラの缶を取りだしてぐびぐびやっている。

 平気じゃないけどまあ平気――と和佐は答えていた。

 遠野がこのファイルを出したタイミングからいっても、答えはきっとこの中にあるのだろう。伊明は遠野に顔を向け、説明を求めた。

「毒薬変じてなんとやら――っつう言葉が、まあ、あるわけだが」

 いつもよりいくらか濃く見える無精ひげだらけの顎をさすりながら、考え考え遠野が言う。

「シンルーの血ってのも、扱い方次第では役に立つんだよ」

「俺たちの血が……?」

「僕がここに通ってたのはね」

 和佐が声を割り込ませた。コーラの缶を唇に置いたまま、

「シンルーの血に対する免疫・・をつけるためなんだよ。そのカルテ、たぶんそのときのやつだと思う。十八歳のときのだし」

 ちょいちょいとファイルを指差す。導かれるように伊明の視線はカルテを経由し遠野へ向く。

「できるんですか? 免疫をつけるなんてこと、ほんとに」

 それが可能なら、琉里はもとの生活に戻れるはず。ファイルを持つ手に力がこもった。上擦った声が縋るような響きを帯びる。

 答えたのは――というよりいち早く応じたのは和佐だった。

「結構ハードなんだけどね。少しずつだけど、定期的にシンルーの血を口に入れなきゃいけないから」

「え……?」

 どういうこと、なのか。説明になっていない説明に振り回される。

 遠野は「ちょっと黙ってろ」と和佐を横目に睨んでから、伊明の理解度をはかるように、ゆっくりと、順を追っての説明を始めた。

「厳密には『免疫』とはまったく違うんだが、まあ、苦しまぎれの対抗策みたいなもんだ」

「苦し、まぎれの……」

「そうだ、簡単に言うとな。昨日も話したとおり、そもそもギルワーにあるのは血への欲求だ。水だの食事だの生きていくうえで必要不可欠なものじゃなくて、あくまでも欲求」

「僕たちの感覚的には、渇き、って言葉のほうが近いんだけどね、欲求よりも。血が渇くって感じ」

「それをふくれあがらせるのがシンルーの血、なんですよね」

 そこまでは昨日の話で理解できている。
 遠野はさらに一歩踏み込むように「そう、ふくれあがらせるのが、な」と強調し、続ける。

「極端な話、俺の血を見ても伊明の血を見ても、和佐は吸血衝動に駆られるはずだ。ただ俺の血である場合――」

 右手で拳銃を握る真似をして、人差し指を軽く動かす。見えない銃口は天井を向いている。

「引鉄で言うならあそび・・・みたいなもんだ。軽く引けるし簡単に戻せる。だが伊明の、つまりシンルーの血である場合――」

 銃口が遠野自身のこめかみに向く。指に力が込められる。

「一度引かれりゃ最後、もう戻れない。血を摂取するか昏倒するかしないかぎり、欲求は増す一方、渇きが癒えることはない」

 そうだな、と確認するように、遠野は和佐に顔を向ける。

「吸血か昏倒かっていうのは本当に極端なんだけど……」

 和佐は苦笑めいた笑みを浮かべながら、

「でもたしかに、僕みたいに血の濃い人間は、結局その二択になっちゃうんだよね。シンルーから離れた状態で、それなりに時間をおけば、渇きも少しずつ薄らいではいくんだけど――禁断症状っていうのかな、すごく重くて苦しいから、途中で気を失っちゃう。
 でも気を失ってるあいだは、まあ当たり前なんだけど吸血できないわけだから、逆に言うと、自制さえできれば昏倒っていう逃げ道もある――ってことでもある」

「その逃げ道を選べるようにしてやるのが、ソレだ」

 伊明はファイルに目を落とした。

 ――苦しまぎれの、対抗策。

「具体的にはどうするんですか? さっき、シンルーの血を口に入れるって、言ってたけど」

「言葉のままだ。一定期間、定期的に少量ずつ――ほんの数滴程度だが、口の中に入れるんだよ。そうするとな、症状やその重さには個人差があるが――」

 遠野の説明をまた遮って、和佐がハイと手を挙げる。

「僕の場合はね、ひどい吐き気とめまいだった。あと高熱。まったく動けなくなっちゃうんだよ。口に入れてから二日くらいで熱はおさまるんだけど、それから一週間は頭痛も続いてね。つらいんだぁこれが」

 腕組みをして、うんうん一人で頷いている。それを横目に睨みつつ、遠野があとを引き継いで、

「そのつらさ・・・を体に覚えこませる」

「……つらさを」

 なんだそれは、と思ってしまった。
 理論の積み木にいきなり精神論をぶっかけられたみたいな違和感である。

 伊明がぽかんとしていると、

「僕たちは勝手に免疫って呼んでるけど……シンルーの血を入れたからって耐性ができるわけじゃないんだ。――できないんだって、どうしても。どんなにがんばっても、ね。残念だけど」

 眉を下げて和佐が笑う。それでもね、とすぐに明るい調子を取り戻し、

「シンルーの血への欲求っていうのは、少しずつなくなっていくんだよ。たしかに渇きは覚えるんだけど、口にしたいとは思わなくなる。
 たとえば、ケーキが好きだとするでしょ? でも『どうしてもケーキが食べたい!』ってときにヘドロみたいな味のケーキばっかり食べさせられて毎度毎度吐いてたら『なんかもういらない』ってなるじゃない。見ただけでうえッてなるの」

「……その喩えはどうなんだ」

 さすがに遠野がツッコんだ。けれど和佐は澄ましたもので。

「わかりやすいでしょ?」

 あんまりわかりやすくはなかったが――。

「つまり、体が拒否するようになるってこと?」

「まあそうだな」

 遠野が頷く。和佐の手綱を握るのは完全に諦めたらしい。僕ねー、とまたすぐ和佐が口をひらいたが、さっきみたいにたしなめようとはしなかった。

「伊生さんや伊明くんのそばにいると、どうしても引鉄が引かれそうになるんだよ。僕の血が濃いのもあるし、二人の血が濃いのもある。伊明くんの近くにいると喉が渇いて仕方ないし歯もすごくむずがゆいし」

 言いながら、和佐は唇を横に伸ばして犬歯を指さした。昨夜の遠野の言葉を思いだす。これは、伸びている――のだろうか。ちょっと大きめの犬歯だと言われれば納得できるくらいの存在感だ。

「でもね、あの苦しさをおぼえてるから、できることなら口にしたくないって、ちゃんと思えるの」

 ――それが、自制による逃げ道、ということか。

「今の説明でわかったか?」

 肩をすくめる遠野に訊かれ、「大体は」と頷いた。ならばよしと頷き返して遠野は話を先に進めた。

 いわく、琉里に関してもこれが有効かもしれないとのことである。かもしれない、というのはやはり琉里が純血のギルワーではないからだ。普通の人間との混血ならばまだしも、流れているのがシンルーの血である以上どう影響していくかわからない。

「和佐や他の連中とはまったく違う反応が出るかもしれんしなあ」

「この前はどうだったの?」

「この前?」

「ほら、伊明くんの血の――」

 和佐は、すべてのきっかけになったあの夜のことも知っているらしかった。伊生が語ったのか琉里が話したのか――。

 いずれにせよ、好きに喋り始めると厄介だが、聞き手にまわると案外スムーズに話が進む。伊明は二人の会話に注意深く耳を傾けていた。

「ああ、回復は早かったな。夜のうちに熱も下がったし、翌日には元通りだった」

「悪くはなさそうだね。僕や他の子はもっと掛かるもの」

 けれど遠野は、しかしなあ、と晴れない顔つきで顎を撫でまわす。

「昨日の感じを見ると、どうもなあ……。御木崎家の空気にあてられただけで引鉄トリガーが引かれたとなると……」

「あ、違うよ、せんせ。琉里ちゃん、たぶん空気にあてられたからじゃない」

 小さな女の子の血を見てから急にひどくなった――と、琉里は和佐に話したらしい。宗家の子供だと思うけど、と彼自身の見解も付け加えられる。

 伊明も憶えている。
 逃げる直前、実那伊と一緒に振袖姿の少女がいた。

「なるほどな」

 呟いて、遠野は少し考えるようにしていたが、

「いや、まあ今はいい。その辺は本人に直接確かめるとして、だ。――いいか、伊明」

 免疫云々の話は、あくまでもそういう方法もあるというだけの話である。そもそもシンルーの血を口に入れること自体、相当な苦痛と危険を伴うのだ。
 一歩間違えれば最後。死と隣り合わせという表現も決して大袈裟ではない。

「だから、琉里自身がそれだけの覚悟をもてるか、耐えられるかどうか、本人がどうしたいかってのが重要になってくる。そこにお前や御木崎の意思は介入できない。良い意味でも悪い意味でもな。……つまり自己判断ができる、自分で責任を負える年齢になるまでは、俺はいっさい手を貸さない」

 ――そういうことか。
 伊明はあらためて、カルテを見やった。

 十八歳。
 年齢が一つの――そして最低限の基準なのだ。

「……琉里には、話したんですか」

 和佐に訊く。和佐は首を横に振って、まだ、とだけ言った。

 ――琉里は、どうするだろうか。
 これを聞いたら、どう思うだろうか。どうしたいと言うだろう。

「琉里はいま、十七歳だ」

 ぽつと伊明が呟いた。

「わかってる」

 遠野が静かに答える。

「もし今すぐやりたいって、琉里が言っても――」

「やらん」

「……でも、たった一年だし。自己判断がどうのっていうなら、あいつ――ちょっと抜けてるとこもあるけど、俺なんかよりよっぽどしっかりしてるし」

「それも十分わかってる」

 でも、やらない。遠野はそう言っている。

 伊明はぱらぱらとファイルをめくっていった。
 最後のページまでいっても、やはり十八歳未満の患者はいない。

 いくら付き合いが長くても、旧友の娘であったとしても、遠野にとっては関係ないのだ。例外に結びつく要素にはならない。

「琉里に話すときは俺が同席する。話しておいてくれっていうんなら、様子を見て話しておく。先にお前に知らせたのは、そのタイミングを御木崎と――」

 言いかけて、遠野はなぜか一瞬まどうように瞳を小さく揺らした。

「――まあ、相談するなり……お前なりに考えるなりしておいてほしかったからだ。どっちにしても、琉里に話すにはまだ早い。あいつが自分の状況を完全に理解して、受け入れられるようになるまで待ったほうがいいと、俺は思うが」

「僕もそう思うよ、伊明くん。焦ったって仕方ないことだし、これは琉里ちゃん自身の――」

「わかってます」

 和佐の言葉を強く遮る。

「言われなくても、わかってる。俺の意思でどうこうしようなんて、最初はなッから思ってないですよ。琉里にとってなにが一番いいのか――考えます、俺なりに」

 ファイルを閉じて、テーブルに置く。思いのほか大きい音が立った。伊明は深く息を吐きだす。くすぶったものを押しだすように。

「とりあえず、一度家に帰ります。琉里の着替えとかもあるし」

「あ、僕も」

 伊明の機嫌などお構いなしに、屈託なく、和佐が後ろにくっついてくる。「僕も」のあとに「行く」が続くか「帰る」が続くか判じかねたが、どっちでもいいと投げやりに裏口のドアに手を掛けた。

「伊明」

 呼びとめられる。

「御木崎のことだけどな」

 戸棚にファイルを突っこみながら遠野が無雑作に言った。お前の父ちゃん――とは、いつのまにか言わなくなった。

 伊明はドアノブを握ったまま横顔を向ける。

「頭いいクセして馬鹿なんだ、昔っから。あんま、悪く思ってやるなよ」

 伊明は口を引き結ぶ。頷きさえもしなかった。
 和佐の視線を背中にひしひし感じながらも、伊明はすべてを振りきるように駐車場へ出た。


#2 異端者たち


 診療所を出発してから約三十分。
 まるで狐につままれたような――つままれ続けているような気持ちである。

 ぱちぱちと瞬くたびに、脳内にぎっしり詰まった『?』が目の前に再生産されるような感覚を、伊明はいま、味わっている。

 駐車場を出たとき、和佐はたしかに「家まで送る」と言って、伊明を愛車へ導いた。というか、押しこんだ。「いいです歩いて帰れるから」と断る伊明を、「遠慮しないで」と笑いながら「送る送る」とたしかに言って、助手席に押しこんだ――はずである。

 なのに車を発進させるや、

「そういえば伊明くん、伊生さんの事務所行ったことあるー?」

 という問いかけとともに、なぜか自宅とは反対方向にハンドルを切りだし、矢方町を抜け、環状道路に入って――たぶん、おそらく今、安良井あらい方面に向かっている、と思われる。

 安良伊は父の事務所のある街だ。
 ああ訊かれたのだからそうだろう、と踏んではいるが何故そこを目指すことになったのかは、はなはだ謎だ。

 それでも大人しく揺られているのは、和佐がこちらの文句を笑ってスルーするからでもある。引き返す気がまったくないのが見て取れるからでもある。

 少しだけ――ほんの少しだけ食指がうごいた、というのも、実はある。

 私立あらい探偵事務所。
 街の名を苗字のごとく冠に拝した、父の事務所。

 子供のころは『探偵』というミステリアスな職業に憧れて、事務所が見たいと駄々をこねたり、事件現場に――当時はほんとうに探偵が事件を解決していると思っていた――連れて行ってとせがんだりしたものであるが、「子供の来るところじゃない」と毎度毎度一蹴され、子供でなくなった今はその興味もすっかり忘れてしまっていた。

 とはいえ、だ。
 興味が失せたわけでは――なくもなく、ない。

「和佐さんは、父さんの事務所で働いてるんですよね」

「うん、そうだよ」

「……じゃあ和佐さんも、その、探偵ってやつなんですか」

 和佐は、え、と短く声を詰まらせたあと、なぜか、爆笑した。伊明の不機嫌ゲージがぐんと上がる。

「なんで笑うんですか」

「あはは、ごめんごめん。なんかこう、伊明くんっぽくないピュアな質問がとんできたから」

「はい?」

 ――どういう意味だ、それは。

 顔を前方に向けたまま、和佐は指先で目じりをこする。ハンドルを握り直して、したり顔で頷いた。

「そっか、なるほどね。伊明くんは、伊生さんのことを名探偵だと思ってるんだね」

「いや名とは思ってないですけど」

「でも探偵だとは思ってるんだね」

「そりゃ……」

 そうだろう、探偵事務所をひらいてるんだから――。

 和佐はふふふと小さく笑って、

「探偵事務所って掲げてるんだけど、僕たちがやってるのは探偵稼業じゃないんだよ。ごくシンプルに言うと、総合的な斡旋業。シンルーとギルワーのね。僕がギルワーの担当で、伊生さんがシンルーの担当」

「……ちょっと、よくわからないんですけど」

「あとで説明してあげる」

 話したがりの彼にしてはめずらしく、黙秘の意向だ。

「あ、伊生さんには内緒にしてね。僕が怒られちゃうから」

 そう付け加えて、和佐はナビの画面に手を伸ばした。オーディオのボタンをタップする。流れてくるのは伊明には馴染みのない、けれど初夏を思わせるような爽やかな洋楽ポップス。

 和佐はそれを口遊みながらハンドルを器用にさばき、混み始めた環状道路を緩やかに、なめらかに、抜けていく。


 安良井に降り立ったのは小学校の社会科見学以来である。

 庁舎の集合している都市心臓部であるここは、南が雑多な繁華街、北が洒落たオフィス街と、色合いが南北でくっきりと分かれている。
 その中心には巨大なターミナル駅がででんとそびえ、友人や琉里と遠出するとき――直近では昨日、実那伊のもとを訪れたとき――などに経由はすれども、こうして歩いたことはない。

 環状道路沿いのコインパーキングに車を停め、和佐に先導されて目的地に向かう。

 伊生の事務所は南側、つまり繁華街にあった。

 メインと思しき通りではなく、路地を一本も二本も入ったさびれた雰囲気の、スシ詰めよろしく建ち並ぶ雑居ビル群の一角、ひときわ狭ッ苦しいうえにエレベーターなしという不親切設計のビルの五階が、そうである。

「この辺、家賃高くてさぁ」

 言い訳するみたいに、苦笑まじりに和佐が言った。

 人ひとりが通るのが精一杯という塵でざらざらした階段をあがりきると―― 一応、屋上へ出るための昇り階段がまだ続いていたが――小さな踊り場に『私立あらい探偵事務所』の表札の掛かった扉があった。ぶら下げられた札は『CLOSED』となっている。

「どうぞー」

 鍵を取りだし扉を開けた和佐に促され、中へ足を踏み入れる。

 室内は意外と綺麗だった。
 整頓され、掃除が行き届いているのもよくわかる。

 まさに事務所といったふうで、設備からいえば遠野の院長室とよく似ている。手前に応接セットがあり、奥に大きな事務机がある。向かって左は本やファイルの詰まった棚で埋め尽くされていた。

 右側の手前一画は木目調のパーテーションで仕切られていて、その向こうになにがあるのか、入り口から見ただけではわからない。

「適当に座ってゆっくりしててね」

 初めて訪れる父の職場、探偵事務所をまじまじと観察していると、和佐が伊明の横をすり抜けながら言った。ソファにメッセンジャーバッグを放りだして、パーテーションの向こうへ消えていく。

 トタンパタンと戸棚を開け閉めする音や水の音、かちっとコンロのつまみを回すような音、陶器のぶつかり合う音――どうやら給湯室になっているらしい。

 伊明は興味の赴くまま、それほど広くはない室内を一周してみた。

 物静かな雰囲気に包まれているが、よくよく見ていくと統一性に欠けている、というか、ちぐはぐ感が結構ある。

 父のセンスと、おそらくだが和佐の趣味がぶつかりあっているのだろう。

 ソファや事務机など大きな調度品は父が好みそうな、シンプルかつシックな色合いのものだけれど、壁に飾られている絵や、時計や、部屋を彩るちょっとした装飾品なんかはやたらカラフルで奇抜な、良く言えばアーティスティックなものが多い。

 事務机を覗くと、固定電話の親機や電気スタンドを始め、きちりと閉じられたノートパソコン、薄いファイルの上に『和佐』と手書きの付箋の貼りつけられた書類――などなどが神経質な直線で並んでいる。

 伊明は机を離れ、左の戸棚へと歩を進めた。

 ざっと見たところ、入り口側の棚には分厚いファイルがびっしりと少しの乱れもなく並んでいる。背表紙には『あ~お』『か~こ』と五十音が振り分けられ、作成年か、元号表記の数字が記されている。

 中程の棚もファイルだが、こちらは厚さも大きさもばらばらで、背表紙は西暦と地名か人名らしきものが書かれている。

 父の字ではなかった。
 年数で整理されている様子もない。

 一冊で終わっているものもあれば『①』『➁』と番号を振られて数冊にまたがっているものもあった。エリザベート・バートリ、ジョン・ブレナン・クラッチリー、ロンドン、デュッセルドルフ、サクラメント……分厚いファイルの背表紙を拾い読みしてみる。伊明には、ロンドンくらいしかわからなかった。

 さらに上から順を追って見ていくと、九十年代、日本国内の地名の記されたものもいくつか目に留まる。薄いファイルだ。適当に一冊引き抜いてぱらぱらめくってみると、新聞や雑誌、インターネットなどの事件記事のスクラップのようである。

「探偵事務所っぽいでしょ、それ」

 振り返ると、いたずらっぽく目を細めた和佐が応接テーブルの横に立っていた。ティーカップを乗せたお盆を片手で器用に持っている。洒落たカフェ店員のようだ。
 もう片手にぶら下げた500mℓの――やはり強炭酸コーラの――ペットボトルが、いささか不釣り合いではあるけれど。

「ギルワーに関する事件を纏めてるんだよ。かなり昔に起きたものもあるから、全部が全部リアルタイムってわけじゃないんだけどね」

 コーラとティーカップをテーブルに置きながら和佐が説明を添える。

 へえ、と相槌を打った伊明は、ふたたび棚に並んでいる背表紙に目を走らせた。持っていたファイルを戻し、真正面にあった古そうなファイルに手を伸ばす。

「あ、見ないほうがいいよ。そのへんの昔のやつ、結構エグいの多いから」

「エグいの……ですか?」

「うん。猟奇的な虐待とか鳥肌ものの拷問器具とか――喉を切り裂いて血を啜ったとか、おなか裂いてヨーグルトの容器で血を飲んだとか」

 ――それは、エグい。

 伊明は思わず手を引っ込めた。和佐がくすくすと笑いだす。

「紅茶でよかった? せっかくだからトマトジュースにする? あるよ、とろとろ系のやつ」

「やめてください紅茶でいいです」

 むしろ紅茶すら飲む気が失せてしまったのだけれど。

「そう、残念」

 なにが残念なのかわからないが――和佐は笑いをかみながら、ソファに座った。伊明はあらためてファイルの詰まった棚を眺める。

「……これ、全部そうなんですか?」

「そう、って?」

「その……」

「ギルワーの起こした事件かってこと?」

 伊明は小さくうなずく。和佐はペットボトルを手に、うーん、と唸って首を傾げた。

「確実にそうだっていうのもあるにはあるけど……そうじゃないかって言われてるものや、僕がそう判断してるだけのものもある……かな。単純に血液嗜好症ヘマトフィリア好血症ヴァンパイアフィリアの人もいただろうし、過去に遡れば遡るほど確認のしようもないしね。ただ――」

 ぷし、とフタの開く音がする。伊明はつられるように振り返った。

「ただ……?」

「普通の人は、大量の血は飲めないはずなんだ。吐いちゃうから」

「それは――ええと、生理的に受け付けないってことですか?」

「かな、たぶん。血液って催吐性があるって聞くし。少量なら大丈夫なんだろうけど、……なんていうか、僕たちと同じだけの量は、普通は飲めない。だから、僕は勝手にそこを判断基準にしてるんだけどね」

 伊明は思わず和佐の顔を見つめた。

 僕たちと同じだけの量は飲めない――。

 目の前にいるこの人は、本当に、吸血種ギルワーと呼ばれる人なのだ。

 その視線に気づいたのかコーラを飲んでいた和佐がペットボトルを口から離した。まなじりに苦笑を乗せつつも、話を転じるように奥の本棚を指さす。

「ちなみにね、そっちの棚は吸血鬼伝説とか、世界各地に散らばってるソレ系の伝承とか、そういうのを集めてる。――吸血鬼って、いまはもうファンタジーな存在になってるけど、民俗学としてもちゃんと研究されてるんだよ」

「民俗学、ですか?」

「そう。どうして吸血鬼伝説が生まれたのか、みたいなね。基本的には病気――これは黒死病ペストだね。それと石灰分の多い東欧の地質、気候、宗教上のちょっと変わった埋葬方法――これは土葬であることと、埋葬から三年後に遺体を掘り出して改葬するっていうものなんだけど、そういうのが複合的に合致したことで起ったってされてるから――まあ、僕たちギルワーとはまた違うんだけどね」

「……じゃあ、吸血鬼がギルワーのルーツってわけでもないんですね」

「それが伝承として残ってる『吸血鬼』を指すんだとしたら、たぶん、違うと思う。ギルワーの起源については、ハッキリしたことはわからないんだ。でもずっと昔から――居たには居たんだと思うよ。おおやけにされてないだけで」

 伊明は本棚を眺めた。『吸血鬼』と銘打たれた本がいくつも並んでいるほか、ケルト、ギリシアを始めたとした各地の神話、日本や中国の妖怪物怪の類の本まで揃っている。こちらも事件のファイル同様、規則性なく並んでいた。

「これ、和佐さんが自分で集めたんですか?」

「僕が集めたのもあるし、伊生さんに集めてもらったものもある。知り合いから貰ったものもあるよ。小説とかマンガとも混じってるでしょ、端のほうに」

 目を移せばたしかに――どころか、映画のDVDのパッケージらしき背表紙まであった。

「……やっぱり、伊明くんも変だと思う?」

 ――も?

 何に対してか、よりも先に、そっちのほうが気になった。本棚から和佐へ顔を戻す。

「伊生さんにも言われたことあるんだ。お前たちは違うだろう、って。お前だってそれはわかってるだろう、って」

 たしかに、不思議だった。
 先ほど和佐自身も違うと言っていた。ルーツではないと明言していた。

 なのに、まるで自分の存在をるべく掻き集められたようなこの本の量。吸血鬼について説明していたときのよどみのない口調からしても、語られなかった詳細な部分も完全に頭にインプットされているだろうことが窺えた。

 違うのに、なぜ――。

 ただ父の名前を出されてしまうと、どうしても閉口するほかなかった。俺も不思議です、とは言えない。

 和佐は沈黙を肯定ととらえたか、そもそも返事を期待していなかったのか、答えを求めることなくコーラを置いて立ちあがった。伊明の隣にやってきて、一番端に収まっていたコミックを抜いて、ぱらぱらめくる。

 流麗に描かれた貴公子然たる吸血鬼と女子高生がわちゃわちゃやっているらしいのが、伊明にも見えた。――絵柄からいって少女マンガなのだろう。

「吸血鬼ってさ」

 和佐が手を止めた。
 紙面では、花をちらした美形の吸血鬼が甘い台詞を吐いている。

「物語の中にいるぶんにはカッコいいね、面白いね、で済むんだろうけど……現実にいたら、結局はただの殺人鬼じゃない。自分たちは違うって理解はしてても――ね」

 ぱたん、と本を閉じる。

「やっぱり不安だからさ。知っておきたかったんだ、いろいろ」

「……不安、ですか?」

「トリガー」

 本を適当な位置に押しこんで、和佐は眉を下げて笑んだ。

「いつ引かれるか、わかんないからね」

 伊明はもう一度、ギルワー絡みだという事件のファイルへ目をやった。それからふたたび本の棚へ視線を戻し、

「ギルワーに関する本は、ないんですか?」

「残念ながら、ね。どこかで研究されてるって話は聞くけど、表に出てくることはない。僕たちの存在は大きな秘密だから」

 肩をすくめ、和佐はソファに戻っていく。伊明もそれに続いた。和佐の向かいに腰を下ろして、いただきます、と紅茶をすする。

「さっきも言ってましたよね。おおやけになってないって」

「異端者は抹殺されちゃうものだからねえ」

 やたらのんびりと、和佐は言う。

「それは……ないことになる、ってことですか? 黙殺されるみたいな」

「え? いやいや、黙殺じゃないよ。抹殺ね、抹殺」

 聞き違えたと思ったのか、和佐は笑って手を振った。声のトーンと言葉のバランスがおかしい――ような。

「ほら、いくら偉い人が認めてくれても、専門家が危険じゃないって言っても、普通の人はそう思わないでしょ? みんなシンルーの味方するだろうし、魔女狩りならぬギルワー狩りが大々的に始まっちゃう、絶対」

 ちょっと――理解するのに、時間が掛かった。それを言う和佐のテンションがあまりにも軽すぎて。

 魔女狩りは、伊明も聞いたことがある。知っている。異端者の虐殺だ。

「……そんなの……」

「ありえない、って思う? でもね――」

 実際、数年前にもアフリカの某国で、六人もの人間が吸血鬼ではないかと疑われ、撲殺されるという事件が起こったのだと、和佐は言った。

「その人たちは、たぶんギルワーとかじゃないんだよ。僕が読んだ記事によれば、だけど――生き血を飲んだっていう証拠は、結局出なかったんだって。誤解による私刑だよね、言っちゃえば」

 他人事ではない、と和佐は言いたいのだろう。

 さすがにこの日本で惨殺だの虐殺だのが起こるとも思えないけれど、少なからず迫害は――有り得なくは、ない。とは伊明も思う。

 でも、それは。
 ギルワーの血を引くというだけでそれは、あまりにも――。

 和佐は伊明の表情からなにを察したか、困ったように少し笑って、

「でもね、ギルワーが事件を起こしてるっていうのも、事実なんだよ。だからもし万が一、そういうのが明るみに出たとして――ギルワー狩りが始まったり、僕自身が差別や迫害を受けたとしても、それはもうしょうがないって思ってる」

「なんで……和佐さんは関係ないじゃないですか。なにもしてないんだから」

「今はね」

「和佐さん」

「言ったでしょ? いつトリガーが引かれるかわからないんだよ」

 和佐は落ち着いていた。伊明よりも、よほど。

 口をつぐむしか、なくなった。

 当事者がそう言うのなら伊明はもうなにも言えない。けれど、納得はできない。理不尽がすぎる。どうしてそれを受け入れられるのか、理解ができなかった。

 もしも琉里がそんな目に遭ったら、きっと自分は、相手という相手を叩き潰しに掛かるだろう。土下座させても飽き足らない。琉里がもし――ギルワー狩りとやらに遭おうものなら――。

 激情が、うずく。

 和佐にぶつけるわけにはいかなかった。落ち着けようと紅茶をすする。一口、二口――水を流しこんでるみたいだった。味がわからない。

 少しのあいだ、沈黙が続いた。

「あ、そうだ」

 ふと和佐がぽんと手を打ち、放置されていたメッセンジャーバッグを引き寄せた。手帳を取りだす。

「さっき琉里ちゃんにも見せたんだけどね」

 言いながら、手帳の裏表紙に挟んであった写真を引き抜き、伊明に見せるようにテーブルに置いた。

「――これって」

 中学の入学式の写真らしかった。

 桜の舞うなか、ピースサインを送る学ラン姿の少年と、優しそうな女子大生ふうの女の人が腕を組み、笑顔で並んでいる。少年のほうは若かりし頃の和佐だと、すぐにわかった。

 隣に写っているこの女性は――。

「これが、僕の姉」

 ――ということは。

 伊明が顔をあげると、和佐が笑顔で頷いた。

「琉里ちゃんのお母さんだよ。僕の中学の入学式のときの写真だから、ずいぶん昔のものだけどね」

「……この人、が……」

 大きな目や少し垂れ気味の目じりや、子供みたいなあどけない笑い方は――琉里に、そっくりだった。胸まである髪を、頬の横で緩くふたつに結っている。背も低く、顔は幼い。女子高生といっても余裕で通じるくらいだ。

 和佐が中学、ということは――二十年くらい前になるか。

「この人は、いまどこに……会えるんですか? 琉里に会わせることって」

「いないよ」

 急きこむ伊明の言葉を、静かに和佐が遮った。

「いないんだ、どこにも。琉里ちゃんを産んですぐに――死んだから」

 え、と訊き返す声が引きつれ、掠れた。
 和佐はさびしそうに微笑むと写真のなかで笑う琉里の母親を――彼の姉の笑顔を、懐かしそうに見つめる。

「僕たちはね、『還る』って言い方をするんだけど――」

 そう前置きをして、和佐は語りだす。

 シンルーにしきたりがあるように、ギルワーにも血にまつわるしきたりがある。どちらも血液を特別視している点に於いては同じであるが、根本の考え方やその扱いは、まるっきり違っている。

 シンルーは、神の意志を宿したもの、と考えている。
 対してギルワーは、先祖代々、いのちを育んできた母たちの加護を宿すもの――そう考えている。

 ゆえに子をなしたギルワーの女性は己のすべてを我が子に捧げる。
 胎内で大切に、大切に、いのちを育む。ありったけの愛情を惜しみなく注ぎこむ。そうして十月十日とつきとおか。生まれてきた子供に名を与え――血を、浴びせる。自身に宿る加護のすべてを子に捧げるのだ。

 そして、還る。

 先代の母たちのもとへ。
 彼女たちとともに、子を護るため、子の中へ。
 自ら死して、血の脈動に還っていく――。

「昔ながらっていうか、かなり古い考え方ではあるんだけどね。でもこういうしきたりを守っている家では――まあ、僕のうちがそうだったんだけど――ギルワーに生まれた女の人にとって、そうすることがなによりの名誉だってされてるんだ。そのために自分は生まれてきた、幸せなことなんだ、って」

 おかしな話でしょ、と眉を下げて和佐が笑った。

「僕と姉さんは異母姉弟なんだけど……僕たちの母親もね、そうやって血の中に還っていったんだって。父さんが、そう言ってた。『お前たちに流れる血には母親と祖先の加護がしっかり宿っているんだぞ』って、すごく誇らしげな顔で言うわけ。
 ……でもさ……僕が男だからなのかな、ちょっと、ソレわかんなくって。
 こんなこと言ったら本当は駄目なんだけど、血の中にいてもあんまり意味ないっていうか――そばにいてほしかったって、思ったよね。小さいころなんかとくに。隣で笑っててほしかったし……今でも、普通の人たちみたいに温泉連れてってあげたりとかさ、親孝行でさ、してみたかったなって――思っちゃうよ」

 伊明は、ただ聞いていることしかできなかった。シンルーのしきたりにも驚いたが、ギルワーのそれも――どうなのか。狂っているとしか、伊明には思えなかった。

「ああ、ごめん。つい僕の話になっちゃった」

 和佐は気恥ずかしそうに胸の前で両手を振ると、コホンと咳払いをひとつして、

「ええと、つまりね。僕の姉さん――つまり琉里ちゃんのお母さんも、そうやって『還った』ってことなんだ。だから、会わせてあげることは……なんていうか、できなくって」

「琉里は、そのこと……?」

「うん、多少かいつまんでだけど、話したよ。ちょっと驚いてはいたけど、『そうですか』って。『ごめんなさい、私のせいでお姉さんが――』って謝られて、僕のほうがびっくりしちゃった」

 ぽりぽりと頬を掻きながら和佐が言う。

 琉里らしいといえば、らしいけれど――。

 伊明はふたたび写真を見下ろした。いまの話は伊明にとってもなかなか衝撃的ではあった。けれど、おかげで散らばっていた点のいくつかが、繋がった。

 実那伊から聞いた、父が家を出て行った夜のこと。
 あの日にきっと琉里は産まれ、父は還った・・・琉里の母親を見たのだ。琉里を抱きあげたか、その人に触れたかして血だらけになり、その足で自宅にとんぼ返りをして、伊明を連れて御木崎家を出たのだろう。

 なぜわざわざ自分を連れて行ったのかは――わからない。

 でも、もしもあの家で育っていたら。
 自分はいったい、どうなっていたのだろうか。

「姉さんが還ったのは――」

 手を伸ばし、写真を撫でながら和佐が呟くように言った。

「十七年前。僕が十五歳で、姉さんが二十二歳のときだった」

 その連絡は、伊生ではなく遠野から受けたという。

 和佐の話によれば――これはのちに伊生や遠野から聞いた話だそうだけれど――自宅で琉里を産んですぐ、彼女は、以前から伊生を通じて面識のあった遠野に電話をし、子供をよろしくと告げたのだそうだ。

 その際、伊生にはすべてが片付くまで言わないで、とも言ったらしい。

 しかし遠野はすぐさま伊生に電話を掛け、二人はそれぞれ一人住まいの彼女のアパートへ急行した。どちらも、彼女の自害を止めるためだった。

 しかし手遅れだった。
 彼女はすでに首を切り、死んでいた。

 生まれたばかりの琉里は、当時大学病院に勤めていた遠野に一時的に託されたのち、伊生の――父親のもとに帰った。

 そのタイミングで遠野は彼女の実家、つまり和佐の家に連絡を入れた、とのことである。

「まさか姉さんがシンルーと関係を持ってたなんて思ってもなかったからね、家中ひっくり返ったよ」

 和佐はちょっと笑ってから「とくに父がね」と付け加えた。

 シンルーを毛嫌いしている和佐の父は卒倒しかけて青くなったり、怒り心頭で赤くなったりしたものの、最終的には伊生と琉里の存在を黙認することに決めたらしい。本当は殴り込みに行きたかったのだろうけれど、シンルーの血に対する免疫もなく、たぶん恐れもあったために泣き寝入るしかなかったのだ。

「でも僕は会ってみたかった。琉里ちゃんにも、伊生さんにも。会って、話してみたかった」

 それまで未知の殺戮者でしかなかったシンルーが、姉を通してぐっと近いものに感じられたのだ、と和佐は語る。

「姉さんは――優しい人ではあったんだけど、けっこう気も強くてね、芯のしっかりした人でもあって。こう言ったらなんだけど、騙されたり手籠めにされたりするような人じゃなかったんだよ」

 だから、家族に内緒で――遠野を通じて伊生と連絡を取った。そして、会って話をした。

「すぐにとは、いかなかったんだけどね。当時は僕も免疫なかったから。十八になって、三年かけて免疫つけて……」

「三年?」

 たしか、遠野のところには五年通ってたと言ってなかったか。

「ああ、あとの二年は経過観察とか、そういうので。僕、体質的に厄介っていうか、シンルーの血に反応しやすいっていうか……『もう大丈夫』ってなるまで時間掛かったの」

「そうなんですか……」

「うん。……それで、やっと伊生さんに会えたんだけど――伊生さんって、見た目がああでしょ。僕、初めて会ったとき怖くってさ。でも――」

 言いかけて、和佐は口をつぐんだ。
 ちら、と伊明へ向いた瞳は窺うようで。

「……なんですか?」

 ううん、と和佐は首を振った。
 何事もなかったかのように、先へ進めてしまう。

「僕、そのころ大学生だったから、ときどき会って琉里ちゃんの話を聞かせてもらったり姉さんの話をしたりしてたんだけど……いつごろからかな、暇なときに伊生さんのお仕事を手伝うようになってね。――今じゃ伊生さん、僕の義理のお兄さん兼雇用主になっちゃった」

 人生どうなるかわかんないね、とおどけるように肩をすくめ、屈託なく笑う。

「……嫌じゃなかったんですか」

「伊生さんのこと? どうして?」

「だって……琉里だけじゃないわけじゃないですか。俺も、いるし」

 同時期に、二人の子供。
 いくらなんでも不誠実ではないのか、と伊明は思ってしまう。

 和佐は言いにくそうに視線をさまよわせた。頬をかく。

「――これ、伊生さんの威厳にかかわりそうだから言わないでおこうと思ったんだけど……謝ってくれたんだよ。初めて会った日、なによりも先に。ギルワーの僕に――『本当にすまないことをした』って。こっちが恐縮するくらい深く頭を下げてくれて」

 それがあまりにもまっすぐだったから、否定的な感情は起こらなかったのだという。

「それにほら、うちもみんな異母兄弟だしね。よそさまの事情をどうこう言えるほど清くないから」

 冗談めかせ付け加えられた言葉が、右から左に抜けていく。

「……ちゃんと謝れるんですね、あの人」

 上辺だけの謝罪じゃなく、ちゃんと、普通に。

 低く小さく呟かれたそれを和佐は聞き取れなかったらしかった。「ん?」と首を傾げる。伊明はわざと話を変えた。

「そういえば、仕事って? 探偵事務所で斡旋業とか、あの人なにやってるんですか」

 澄ましてみても、隠しきれない言葉のとげ。和佐は戸惑いをみせたものの、「ああ、うん」と頷いて転じた話題についてくる。

「さっき僕、古い考え方だって言ったじゃない、しきたりとかそういうの。ちょっとついていけないなっていう人が、最近、ギルワーにもシンルーにも増えてきてるんだ」

 とくにシンルーにね、と和佐は添え、

「家を飛び出す人も少なくない。そういう人たちに、僕や伊生さんのツテで仕事を紹介してあげたり、住むところを提供してあげたりしてるの」

「へえ……」

「意外そうだね?」

 ――意外だった。てっきりみんな、『しきたり』という異様な慣習を迎合しているものと思っていた。実那伊たちのように。

「個人が家に縛られる時代はとっくの昔に終わってるからね」

 きっぱりと、和佐が言う。

「それに、伊生さんが家を出たっていうのも大きかったと思うよ。神童とまで謳われた御木崎家次期当主が、宗家を見限ったんだもん。声を上げたくても上げられなかった人たちにとっては、いいきっかけになったんじゃないかな」

「神童って……」

 なんだそれは、と伊明の顔が引きつった。
 和佐は軽く苦笑をこぼして、

「伊生さん、昔は相当凄かったみたいだよ。うちの父も言ってたけど、ギルワーの間でもかなり有名だったんだって」

 それが良くない意味であることは、彼の顔つきからもわかる。伊明は深く追及することはせず、素朴な疑問を口にした。

「でも、なんで探偵事務所?」

「探偵にした理由はよくわかんないけど、要するにカムフラージュだよね。大々的にやるとほら、カドが立つから」

 彼らがやっているのは、簡単に言ってしまえば脱走の手助けだ。隠れ蓑はたしかに必要なのだろうとは思う。でも、探偵って。

 伊明はあらためて室内を見まわした。

 と、そのときである。
 事務所の電話が鳴りだした。

 しかし和佐は、なぜか聞こえぬふりの知らん顔。ペットボトルを傾けて、半分以上減ったコーラを流しこんでいる。

「……あの、出なくていいんですか?」

「ああ、いいのいいの。だって、仕事関連の電話は基本、携帯にくるから。事務所に掛かってくるのなんて、どうせ営業か、本物の探偵と勘違いして掛けてくる人かのどっちかだし。……まあ、お仕事系もゼロではないけど」

「……なのに、出なくていいんですか?」

「いいのいいの」

 しかし電話はいつまでも鳴りやまなかった。

 さすがに「出なくていいのか」と三度は訊けず、和佐を窺う。
 彼も怪訝そうに瞬いて、首を傾げ、

「ありゃ、お仕事系かな」

 伊生さんと連絡取れなかったりするとこっちに掛かってくるんだよね、とひとり言のように呟きながら立ちあがり、呼出音に急かされるように、やや足早に事務机の前に行った。腕をのばし、受話器を取り上げる。

「はい、あらい事務所です」

 『探偵』のすっぽ抜けた応答を聞きながら、伊明はテーブルに置かれていた写真を手に取った。

 あどけなく笑う、琉里の母親。父が心をひらいた女性。
 ――この人は、あの無機物みたいな父といったいどんな会話を交わしたのだろう。どんな時を過ごしたのだろう。

「もしもーし。もしもしー?」

 和佐が間延びした声で呼びかけている。応答がないのだろうか。
 写真を置いて和佐のほうを振り返ろうとしたとき、ふと、伊明の耳に複数の足音が聞こえてきた。

 階段を踏み鳴らし、昇ってくる、革靴の固い音。

 それは本当に勘としか言いようのない、感覚的なものだった。

 ざらつくような嫌な予感。

「イタズラ電話かな」

 そう言って和佐が受話器を置くのと事務所の扉が開くのとは、ほとんど同時だった。

「あー、やっぱりこちらに居ましたかァ」

 黒いスーツに身を包んだアッシュグレイの髪の青年。 耳に連なるシルバーピアスが室内の蛍光灯に反射して、閃光が、波打つように鋭く、目を射る。

 伊明は思わず腰を浮かせた。

「あんた、たしか……」

 声が上擦る。勝手に後退ろうとした足がソファにぶつかり、少しよろけた。

 青年はおかしそうにくっくと喉を鳴らし、

「ごきげんよう伊明様、約一日ぶりですか。昨夜はよく眠れましたァ?」

 ふざけた調子。手を振るように、片手に持っていたスマートフォンを軽く揺らして上着の胸ポケットにすべりこませる。

 彼の後ろからさらに二人。片方はふくよかすぎるとも思える風船みたいな男で、もう片方は中背ながらも筋肉質な、黒縁眼鏡を掛けた男だった。どちらも黒いスーツを身に纏っている。

「伊明くん、この人たち……」

 黒服たちを睨みつけながら、伊明は、うろたえる和佐と彼らの間に入るように位置を変えた。己の体を遮蔽物にするしかなかった。

 和佐はギルワーなのだ。
 もしも向こうにそれが知れたら――。

 巻き込むわけには、いかなかった。

「あんた、張間はりまと一緒にいた奴だよな」

来海くるみですよ。ああ、そーいや名乗ってませんでしたッけ? 覚えてくださいね、俺の名前。あの人とセットにされるの嫌なんで」

「名前なんてどうだっていい」

 声で、目で、精一杯に威嚇する。
 来海が眉を持ちあげた。他人ひとを見下すような、小馬鹿にするような表情だ。

「なんであんたがここに居る。なにしに来たんだよ」

「またまたァ、わかってるくせにィ」

 伊明の威嚇などものともせずに、来海は笑って片手を振った。その手をぴたと止めると。

「――先に謝っときますね」

「は?」

「ちょっと手荒にいきますンで」

 人差し指を軽く立て、くい、と前方に振った。

 とたんに黒縁眼鏡の男がふッと空を切るように、来海の脇から飛びだした。黒い風船のような男もどたどたと――こちらは鈍い動きでその後に続く。

 黒縁眼鏡の男が伊明に迫る。襟を掴もうと伸びてきた手。不意を突かれて一瞬反応が遅れたものの、伊明はかろうじてそれを弾いた。

 黒風船が横を抜けていく。

 その先には、和佐がいる。

 まずい、と伊明は小さく舌を打った。腕を伸ばし、黒風船のネクタイを掴もうとする。が、そこを捉えられた。

 襟が掴まれる。足が払われる。視界がぐるんと反転したかと思うと、伊明の背中はおもいっきり床に叩きつけられていた。

 目の前がはじけ、息がつまった。縮んだ肺が一拍遅れの悲鳴をあげる。空咳となって吐きだされる。

「……く、そ……ッ」

「意外とタフですね。気絶させるつもりで投げたのですが」

 傍らに立った黒縁眼鏡が、眉頭を上げて伊明を見下ろしている。

 伊明は鈍い瞳を持ちあげて男を睨んだ。が、すぐにはッとして半身を起こす。背中が軋んだがそれどころではなかった。急いで和佐の姿を探す。

 和佐も、捕まっていた。

 事務机のそばで両手ともに背中にとられ、跪くような格好を強いられている。
 背後に片膝をついているのは黒風船だ。その拘束から逃れようと身をよじる和佐を、ちょっと困ったような顔をして抑えこんでいる。

 くそ、と伊明はまた毒づいた。
 気絶させるつもりだったというだけあって、すぐには、思うようには動けそうにない。

「……あんたらが用があるのは俺だろ。その人は関係ない。離せよ」

 黒風船を睨みつける。

「いやあ、そうもいかないんですよねェ――」

 答えたのは来海だった。一度しまったスマホを胸ポケットから取りだし、画面に指を滑らせ耳に宛がう。

「――来海です。やはり伊明様はこちらにいらっしゃいました。佐伯和佐らしき男・・・・・・・・も一緒です。どうします?」

 はい、はい、と返事をしてから、承知しました、と電話を切る。やけに改まった口調だった。相手は御木崎家の――宗家の誰かか。実那伊か、卦伊か――。

 いや、それよりも。
 なぜ知っている。なぜわかったのか。和佐のフルネームを、彼がその人であることを。伊明は一度も呼んでいない。和佐だって名乗っていない。先ほど事務所へ電話を掛けてきたのが来海だったとしても、出したのは事務所名だけだったはず。

 ――まずい。

 ふたたびそう思ったときには、もう体が動いていた。よろけるように立ち上がり、意思でというより支えきれない重心が前に傾くのに殆どを任せ、足を動かす。和佐のいるほうへ。黒風船から引きはがすべく。

 けれど――。

「伊明くんッ」

 二歩も進まぬうちに黒縁眼鏡に足を引っ掛けられ、無様に床に転がった。

 失礼、と黒縁眼鏡が言う。昨夜の張間と同じやり方で――腕をねじられ腰に重石のごとく膝を乗せられ――動きを封じられてしまう。

「あンま抵抗しないでくださいよ、伊明様ァ。次期当主様に怪我させるわけにはいかないンですから」

「……よく言う」

 あれだけ思くそぶん投げといて――。

「だから最初に謝ったじゃないですか。まァでも安心してください、俺らァプロですからね、骨折させるようなヘマしませんから」

 ――骨折レベルでようやく怪我、か。

 来海が脇を通り抜けていく。うつ伏せを余儀なくされている伊明は、手入れのされていない汚れた革靴が動いていくのを睨むので精一杯だった。

「ただ、それも――あくまで伊明様は、ですがね」

 来海の声のトーンが、不穏に落ちる。
 緩慢な足取りで、和佐のもとへ歩みを進める。

「御存知のとおり、俺らァギルワーには容赦できねェ性質たちなんでね、気ィつけねェとダメですよ」

「……どういう……」

 意味だ、と問おうとして、言葉を止めた。

 来海の後ろ姿は、ぎりぎりとはいえ今や伊明の視界に入っている。
 少しだけ首をめぐらせたその横顔に、口元に、薄い笑みが乗っていた。

 なにか悪寒のするような――。

「……あんたらもシンルーなのか」

 伊明の問いに、来海は一瞬、拍子抜けしたような顔をした。つまらなそうに肩を落とし、和佐たちのいるほうへ向き直る。

「俺は、ですかね」

 他人事みたいに、温度のない声でいった。

Kratクラートには御木崎家の末端と、ギルワーに恨みを持ってる一般庶民との二パターンがいるんですよ。俺ァ末端」

 末端。卦伊が蔑んでいた分家の末端というやつだろうか。

 ひらひらと手を振る来海の背中を見据え、伊明は必死に言葉を探した。できるだけ、彼を煽れる言葉を。彼の意識をできるだけ、和佐ではなく自分のほうへ向けさせる言葉を。

「……だから『伊』が入ってないのか」

「ハイ?」

「御木崎家の人間には名前に『伊』が入ってるって聞いた。それがシンルーの証でもあるんだろ? あんたにそれがないのは、分家の末端だから?」

 果たして来海は、こちらを向いた。
 しかしその表情は伊明の期待していたものとは程遠い、不思議そうなもので。

「――……あァ、はは。名前ってソレ、『来海』って名前のこと言ってンです? だとしたら、そりゃ違いますよ。来海は仕事用の呼名みてェなもんで――下手すりゃ同姓同名が居たりするンでね、俺の本名は別にあります。『伊』も入ってますよ、ちゃァんとね」

 にんまり笑って、またひらひらと手を揺らす。そうして一歩、踏み出した。先ほどと変わらず緩慢な足取りで。

「まァそんなわけですから」

 二歩、三歩――歩みを重ねて事務机の前で、止まる。

 身を固くして蒼白になっている和佐のそばで。

 冷えきった笑みを落としながら、腰のあたりを右手でまさぐった。

「相手がギルワーならどんな手段でも使いますし、どんな手段にも使いますよ。たとえばこんなふうに――」

 掲げられた右腕、握られていたのは黒い警棒。

 声を上げる間もなかった。

 振り下ろされた黒い凶器が和佐の頭を殴りつけた。来海が嗤う。和佐の華奢な体が前に傾ぐ。それを迎えたのは床ではなく、薄汚れた革靴の、尖ったつま先だった。

 なんの躊躇も、遠慮も、加減もない。
 来海は繰り返し、和佐の腹部を蹴りつける。つま先をめりこませる。

「和佐さんッ! ――やめろ、やめろよッ!」

 身をよじる。体が軋む。肩が軋む。
 それでも渾身の力で、拘束を振りほどこうともがく。

 失礼、と上から声が落ちてきて、今度は頭を押さえつけられた。もがいても、もがいても、頬が床をこするばかりだ。

 肉を打つ鈍い音が鼓膜を苛む。
 やめろ、とこぼれた声は、もはや懇願に近かった。

「来海」

 黒縁眼鏡が静かに呼んだ。暴行の音がぱたりとやむ。くぐもった和佐のうめき声と来海の浅い呼吸音がほんの数秒、室内を支配した。

「――ご理解いただけましたァ?」

 伊明の抵抗はそのまま和佐への加虐に返る――。

 来海がこちらを向いて笑っているのが、わかる。悔しさで気が狂いそうだった。うんともすんとも言わないまま――言えないまま――伊明は奥歯を強く噛みしめた。

「……ごめ……伊明くん……」

 苦しげな息遣い。ぽつりと届いた和佐の声。
 彼が謝る必要などどこにもないのに。

 来海がふんと鼻を鳴らした。何時だ、と問う。黒縁眼鏡の手が伊明の頭から離れ、午後五時二十四分三十六秒――七秒、と神経質に秒針まで読みあげる。

 ――コン、コン。

 事務所の扉が、ノックされた。


◇   ◆   ◇   ◆


 時刻は一時間ほどさかのぼる。

 午後四時半を過ぎたころ。
 御木崎邸の門前にシルバーのレクサスが停まった。

 門番の黒服が運転席に近寄り、二、三言葉を交わして門を開ける。
 難なく迎え入れられたレクサスは、その所有者から黒服へ引き渡されて敷地の奥の駐車スペースへと滑っていく。

 残された所有者――訪問予定のない客人――濃灰色のスリーピーススーツをきっちり着込んだしかつめらしい顔をした男は、無感動な瞳で、午後の陽光にやわらかく照らされた庭、離れ、母屋、尻を並べるセダン、鎮魂のために建てられたと云われている小さな祠を順繰りに眺めやり、門の内側にいた黒服に伴われて母屋へと入っていった。


「――兄さん」

 実弟の声で、伊生は浅い眠りから目を醒ました。

 通された客間で座布団の上に胡坐をかき、腕を組み、寝不足と疲労でにぶくなった頭を整理していたはずだが――どうやら自分でも気づかぬうちに舟をこいでいたらしい。

 腕時計に目をやる。ゆうに三十分は待たされていたようだ。

 内廊下の襖へ顔を向けると、実弟――卦伊の姿がそこにあった。苦笑を浮かべて突っ立っている。その目じりや口元には、以前はなかった薄いしわが刻まれていた。

「……老けたな」

「あなたがそれを言いますか」

 苦笑を深めて卦伊が返す。

 ――お互い様か。

 ぼんやりと考えながら、伊生は目頭を揉んだ。どうにも頭が、まだ完全には醒めきっていないらしい。

「そういう冗談も、言うようになったんですね」

 座卓を挟んだ向かいに腰を下ろし、卦伊が言った。なんだか感慨深い口調である。あながち冗談でもないが、と伊生はまた胸の内だけで呟いた。

 こんなふうに顔を突き合わせるのは実に十七年ぶりである。

 当時伊生は二十五歳、弟は二十一歳でまだ大学生だった。互いに、老けこむに足る時間は十分に流れている。

 あとから入ってきた老女が卓上に淹れなおした茶を並べ、伊生に対して深い辞儀をして出て行った。この家に長く仕えている女性である。彼女もまた、以前に比べてずいぶん縮んだように伊生には見えた。

 変わらないのは、この家・・・だけか――。

「驚きましたよ、兄さん」

 老女を見送った微笑みを、卦伊はそのまま伊生に向ける。

「まさかこうして、あなたから出向いてもらえるとは思ってもいなかった。……けれど、ずいぶんお疲れのようですね。顔色が好くない」

 昨夜、遠野の診療所を出てからすぐに車を飛ばして和佐のところへ行き、安良井の事務所へ戻ったのは日付も変わった真夜中だった。

 実那伊からの連絡を受けたことで放りだしてしまった事務作業を片付け、可能なかぎり前倒しのできる仕事もすべて片付け、和佐への今後の指示書を作成し――なんやかやしているうちに午前の時間を使い切った。

 そこからまた車を走らせ、実家であるここまでやってきたのだ。

 途中、何度か仮眠はとったものの、蓄積された疲労の色は隠そうとして隠せるものでもないのだろう。

「先に少し休みますか? 兄さんの自室はそのままにしてありますよ。昨夜、少し片付けさせましたが――」

「いや、いい」

 部屋で爆睡などという選択肢は、ない。

「実那伊はどうした」

 単刀直入に伊生が訊く。
 自分の来訪を知ればいの一番に飛んでくるであろう彼女が、いっこうに顔を出さないのが気にかかる。張間の姿も見ていない。

 すると卦伊は首をかしげて、

「久しぶりだというのに、兄さん。僕は挨拶さえさせてもらえないのですか」

「実那伊は?」

 重ねて訊くと、卦伊の双眸が眼鏡の奥で細められた。厭な感じのする笑顔だ。

識伊しきいと――次男と出掛けていますよ。大事な用があるとかで。――わざわざ実那伊に会いに来たんですか? そちらから出向かなくとも、彼女なら、兄さんが一声かければどこへだって行くでしょうに」

「…………」

 しばらく見ないうちにずいぶん舌が回るようになったものだ。皮肉めいた調子といい、まるで亡き母と対峙しているようである。

「……卦伊。ひとつ訊くが――」

「どうぞ、いくつでも」

 すかさず返ってくる軽口に、まさしく霜がおりるように――伊生の瞳が少しずつ、つめたさを増していく。気づかない卦伊ではないだろうに、厭味なほどに柔和な笑みはくずれない。

「……いまの御木崎家は、お前の意思で動いているのか。それとも、実那伊の意思か」

 卦伊は少し沈黙してから、

「御木崎家の意思ですよ」

「家に意思などないだろう」

「あるでしょう、この家には」

 当然のごとく返されて、今度は伊生が沈黙した。
 しかしその瞳は、突き刺すような追及の色をたたえて卦伊にじっと注がれ続ける。

 やがて卦伊が瞳を伏せた。
 すみません、と苦笑まじりにこぼして、

「怒らないでください。べつにあなたを揶揄っているわけではないんですよ。誰の意思かと問われれば、御木崎家の意思としか答えようがありません――が、先代が亡くなって以降、当主の仕事は僕が引き継いでいます。あくまでも代理という形で、暫定的に」

 兄弟の視線が、真っ向からふたたびかち合う。

「僕は、あなたや伊明君のためにこの座を守っている」

 それがひいては御木崎家のためになる――と、口にはせずとも伊生には伝わる。彼がいまだ心の底からそう思い、信じて疑わないでいることも。

 卦伊の瞳は少年のように純粋だった。

 彼が兄に向ける目は、昔から変わらない。

 目じりにしわができても、人をくった笑みを浮かべるようになっても、小生意気な皮肉を並べるようになっても――幼いころから変わらない。畏敬と憧憬のまなざしは。

 伊生は、深く、深く、嘆息した。

「悪いが、卦伊。俺は――」

「兄さん」

 遮られる。一瞬こわばりを見せた弟の顔は、けれどすぐに笑みに返る。

「わかるでしょう、あなたしか居ないんです。あなたにしか務まらないんです。幼いころから、僕はあなたの傍で、あなたを見てきた。だからこそわかる。だからこそ、言えるんです」

「俺は一度家を捨ててる」

「そんなことは問題じゃない。大事なのは血です。素質です」

 卦伊は勢いこんで身を乗りだした。懇々と説く。自身の目に映る兄が、いかにシンルーとして、御木崎家当主として相応しいのか。

 たとえば狩りのことである。

 シンルーが初めて狩りを行う年齢は、平均して十八歳前後であると言われている。

 宗家の次男であった卦伊は十六の終わりに一人目を狩った。
 伊生は、十二歳の時にはもう狩りを始めていた。

 狩った獲物――ギルワーの数も、当然ほかのシンルーの比ではない。

 引き寄せる力がまず違うのだ。
 血の濃さからして違うのだから当然ではあろうけれど、分家の者が苦心してギルワー一匹を捕まえるあいだに、伊生のもとには、それこそ角砂糖に群がるアリのごとくにギルワーたちが寄ってくる。

 血の匂いに惹かれ、逃げだすこともままならず――。

 先代にも先々代にもそこまでの力はなかった。だからこそ、伊生を神童と呼ぶ者があった。神の矢でなく、神の御使いであると崇める者まで出た。

「御木崎家以外でも、兄さんは一目置かれていた。今でもそうだ。――兄さん。あなたは世のシンルーの頂点に立てる人なんです。いまこそ御木崎家が、シンルーを統べる存在になるべき時です」

 勢い任せに、卦伊はそんなことまで言ってのける。

 けれど当の伊生本人は、どの言葉にもまったく反応を示さなかった。
 聞こえてさえいないように、瞼を伏せ、両腕を組んだまま、座卓の木目に瞳を投げていた。

 卦伊が喋りつくして一呼吸ついてからようやく、卦伊、と静かに呼びかけて。

「お前のような考え方は、俺にはもうない」

 卦伊は愕然と目をみはった。兄さん、と縋るような声をもらす。

「はっきり言う。俺はシンルーという存在そのものを軽蔑している。無論、その血を濃く受け継いでいる俺自身もだ。何度この身を消し去ろうとしたかしれない」

「……どうして、そんな。そんなことを……兄さんは」

「神だなんだと口を揃えてお前たちは言うが、結局、シンルーなんてものは殺人狂の化け物だ。欲求とたたかいながら少しでも人間らしく生きようとするギルワーのほうが、よほど……」

 バンッ、と――机を叩きつける音が、伊生の声を遮った。

「……いけませんよ、兄さん。あなたが、そんなことを言ってはいけない」

 卦伊は、顔を伏せていた。垂れた前髪と眼鏡のレンズが彼の目許を隠している。引きつった口元から広げられていく、感情を押し殺すようないびつな笑み。

 弟の顔を見、伊生はほんの微かに眉間をくもらせた。目をつむり、いっそう固く腕を組む。

「お前になんと言われようと、俺はこの家に戻る気はない。伊明をここに戻す気もない。今日は、それを言いに来た。御木崎家がお前の意思で動いているのならお前に、実那伊が動かしているのなら実那伊に――忠告をしに来たんだ、卦伊」

 机上にあった卦伊の指が、ぴくんと跳ねた。

「忠告……?」

「俺は、御影みかげと繋がっている」

 卦伊が驚いたように顔をあげた。

「……冗談でしょう」

 伊生は静かに首を振り、無表情に卦伊を見返す。

「ばかな……正気ですか。奴らは野心のかたまりで、目的のためなら手段を選ばない低俗極まりない連中ですよ」

 伊生は鼻の奥でふと笑った。

「低俗とは随分だな。俺たちも似たようなものだろう」

「兄さん」

 咎めるような声をきっぱり無視して、伊生は続ける。

「向こうは俺を利用して御木崎家を潰すつもりでいる。俺もそれを最大限に利用させてもらおうと考えている。……俺が何を言いたいか、わかるな、卦伊」

 卦伊は答えようとはしなかった。だからといって伊生も先を急く真似はしない。黙ったままでいる。

 観念したように卦伊が嘆息をひとつ漏らした。

「……馬鹿馬鹿しいにも程がありますよ、兄さん。僕たちが、御影ごときを怖れるとでも?」

「御影だけならそうもいかんだろうが――」

 彼らが虎視眈々と、御木崎家を破滅させる機会を窺っていることくらい、宗家の人間ならばわかっている。世の勢力図を鑑みても、それ自体が脅し文句になるとは伊生自身も思っていない。

 ただ、自分がそちら側につけば話は別だ。

 ただでさえ、次期当主の肩書きを持つ伊生が家を出たことで御木崎家の面子は一度潰れている。彼らとともに動くということはすなわちその潰れた面子にさらに泥を塗って踏みにじるにも等しい。いわんや低俗と称してはばからない御影の人間である。

 卦伊からすれば――宗家の人間からすれば言語道断だろう。

「……どうしろと言うのです」

「琉里と伊明に関わるな」

 すかさず伊生は言った。

「これ以上あの二人に関わるな。今後、御木崎の人間が接触した場合、どんな手を使ってでも二人を護れと――御影には、そう伝えてある。あるいは……今すぐにでも事を起こせと、指示することもできる」

「…………」

 卦伊は黙っている。考えている――というふうではない。ただ、黙って聞いている。
 どことなく蒼褪めて見える弟の顔に、事務的だった伊生の声音がほんの微かに温度をもつ。

「実那伊が――」

 その名に、卦伊の瞳が持ちあがった。

「伊明と直接関わりをもった以上、今まで通りとはいかないだろう。あれはそういう女だ」

「……さすが、よく御存知で。まったくその通りですよ」

 卦伊が立ちあがった。襖を開け、内廊下に待機していたKratの一員に何かを持ってこさせるよう指示を出す。
 荷物を、という部分しか伊生には聞こえなかった。

 そうしてあらためて正面に腰を下ろした卦伊は、袂の中で腕を組み、深く長い溜息をついた。

「……僕にはわからないんですが、兄さん」

 伊生が目で先を促す。

「御影に対して白旗を振るなんて有り得ない。たとえ兄さんが向こうにつくのだとしても……それでもやはり、無抵抗での降伏など有り得ないでしょう。あなたもそれはわかっているはず。なのに何故わざわざ手の内を明かすような真似をするんです。黙って仕掛ければよかったものを」

「家族のよしみだ」

 自分でも驚くほど、その一言は乾いて響いた。ふッと卦伊が笑う。

「もうひとつ。何故、あなたが入っていないんです」

「……なんの話だ」

「『琉里と伊明に関わるな』――先ほど、そう言いましたね。そこにあなたが含まれていないのは何故ですか」

「壁としての俺の役割が終わったからだ」

 その意味するところを理解しているのか否か――伊生からしてみればどちらでもいいことだが――卦伊は、そうですか、と返しただけだった。

 表情が失せている。口だけが、人形みたいに色なく動く。

「あなたは、御木崎家がいま誰の意思で動いているのかと問いましたね。家の意思だと僕は答えた。宗家の人間として、御木崎の名を守り、さらなる繁栄につながるように僕たちは動いています。それぞれにね。――実那伊は……あなたも知ってのとおり、ゆかしくも強かな女性だ。一度こうと決めたら驚くべき行動力を発揮する」

 と、そこへ先ほど卦伊から指示を受けた男が「失礼します」と入ってきた。どこからか持ってきたショルダーバッグとスマートフォンを、卦伊に言われるままに卓上に並べ、出ていく。

 それらを見て、伊生の顔がにわかにこわばった。

「伊明君の忘れものです。携帯電話は、庭に落ちていたのを張間が見つけました。ほかにも細々こまごまとしたものが散らばっていましたが、すべて鞄の中にまとめてあります。お返ししますね、もう必要ありませんので・・・・・・・・・・・

 伊生はすぐにスマホを取った。

 予想だにしていなかった。
 伊明のスマホが、よりもよってこの家に――。

 それどころか伊明の手元にないことすら伊生は気づかないでいた。

 向こうから連絡がないのはいつものことだし、伊生も伊生で、和佐や遠野に任せておけば大丈夫だろうとメールひとつ送らなかった。

 祈るような思いで画面をつけると、スライドロックのみだった。パスワードもなにも設定されていない。

 アドレス帳には伊明の友人と思しき番号のほかに、自宅や遠野の診療所、なにかあったときのためにと登録させておいた安良井の事務所の番号までが入っている。

 住所を割り出すのは、容易である。

 伊生は、卦伊へ瞳をあげた。
 先ほど掛けた問いを、もう一度。

「実那伊は今、どこにいる」

「……識伊を連れ、張間と彼の部下数名とで伊明君たちを捜しているはずです」

 ――すれ違いになったのか。

 愕然となったのは、けれど一瞬のことだった。

「卦伊。今すぐやめさせろ。ここへ戻るように言え」

 さもなくば――と続けようとしたのを、卦伊がにべなく遮る。

「もう遅いんですよ、兄さん」

 卦伊は瞼を伏せていた。
 薄く青白い皮膚が、伊生の重たい視線から彼の瞳を守っている。

「つい先ほど――ちょうどあなたが到着した頃です、張間から連絡がありました。『遠野』という男を知っていますね」

 考えうるかぎりの最悪の事態が、不穏な影をともなって、頭のなかを占拠する。

「彼が院長を務めるクリニックで琉里を捕らえた――それが、張間の報告です。いま、こちらに向かっているところでしょう。実那伊は別行動をとっているそうですから……伊明君に関してもおそらく時間の問題かと」

「――卦伊」

 その呼びかけは、ただの呼びかけではなかった。

 青白い瞼がぴくとふるえ、持ちあがる。視線同士かち合うや、卦伊は戸惑ったように瞳を揺らし、ふたたび下方へ落としてしまった。

「……複雑ですよ」

 うつろに笑って、

「昔はギルワーに向けられていたその瞳が、いまは、同族の僕たちに向けられている」

 卦伊は一度唇を引き結ぶと、あらためて、真正面から伊生を見つめた。

「わかってください、兄さん。僕は――僕たちはあなたが憎くてこんなことをしているわけではないんです。あなたを失うわけにはいかない。伊明君とて同じこと。もちろん、御木崎家を潰されるわけにもいきません。
 ――あなたの脅迫めいた牽制には……不本意ながら暴力でもって応えます。御影には手を出させず、あなたも伊明君も宗家に従うと約束してください。でなければ、思いつくかぎりのもっとも残酷な方法で、ギルワーの娘を――琉里を、殺します」

#3 悪夢の調べ



 まるで、悪夢だ。

 頭がおかしくなりそうだった。
 腕からあふれる血。熱をもって痛む傷口。
 しびれる。頭の芯が、しびれる。

 ――まるで、悪夢。


 ノックののち、二名の――来海たちとは別の――黒服に護られるようにして事務所に現れたのは実那伊と識伊だった。

 室内に、ぴりッとした緊張が走る。

 するりと伸びた艶やかな秋のすみれ色、一回り小さな藍色が、限られた自由のなかで首をめぐらせた伊明の視界のすみにも映じた。
 姿ははっきり見えねども、誰であるのか判断するには、それだけでも十分だった。

「よくやったわね、来海。若いあなたには少々荷が重いかと思っていたけれど」

「いえ、この程度」

 傍若無人に振る舞っていた来海が背筋を正し、

「どうってこたァありません。宗家の御役に立てるなら、たとえ火の中水の中、です」

 彼にできる精一杯の慇懃さなのだろうきっと。指先までぴんと張って、敬礼までしそうな勢いである。

「御苦労様」

 実那伊が優しく笑う。

 引き締められていた来海の口元がわずかに緩んだ。伊明を捕らえている黒縁眼鏡へ視線をやり、爛々と目を輝かせる。

 実那伊は、伊明の傍までやってくるとゆっくり室内を見回した。伊明に微笑みかけ、その拘束を解くように黒縁眼鏡に指示を出す。

 伊明はようやく自由になった――が、それはあくまで体が自由になっただけのことである。黒縁眼鏡は隣で目を光らせているし、和佐の傍にも来海がいる。革靴のつま先を事務机にあててコツコツ鳴らし、無言の威嚇をしてくる。

 一刻も早くこの状況をなんとかしなければと焦りは募るが、それでも、勢いと感情だけで乗り切れる場面でないことも重々わかっている。
 床に座ったまま、冷静に、と何度も自分に言い聞かせ、ねじられていた肩をさすって機を窺う。

「ごめんなさいね、伊明。できることなら穏便に、事を運びたかったのだけれど」

 実那伊が隣に両膝をついた。
 細い指が乱れた髪に触れようと伸びてくるのを、伊明はできるだけやんわりと押し返す。

「……なんで、ここに」

「あなたが逃げたから。こうでもしなければ二度と会えないような気がしたの。伊生さんが、また壁になって」

 ぴく、と眉間がこわばった。が、父の名にはあえて触れず、

「俺がここにいるって、どうしてわかったんですか」

「わからなかったわ。だから、思い当たるところすべてに人をやってあなたを捜させたの。自宅や、あなたたちの通っている学校、その周辺、診療所――それから、ここ」

「診療所?」

「ええ」

 実那伊がやわらかく、目を細める。

「診療所には張間をやった。あの遠野という人――お医者様のわりにずいぶん腕が立つようだったから。下手に邪魔立てされたくなくて」

 この微笑みの真意が、わからない。

 ちりちりと、焦燥が胸を焼く。

 琉里は無事なのだろうか。たしか、早ければ今日の夕方に検査を受けに行くと言っていた。うまく張間をかわせていればいいが――。

「どうしたの、伊明」

 黒い眼が注がれる。
 伊明は顔を背けるようにして、和佐のほうへ視線をやった。

 和佐は背中を丸めて項垂れている。力なく、あたかも死刑を待つ人のごとく。

「……あの人は、関係ないんです。離してあげてもらえませんか」

「ギルワーを庇うんですか」

 真っ先に反応したのは識伊だった。黒服を従え、ドアを塞ぐようにして立ったままふんと鼻で笑う。

 小馬鹿にするような態度と表情。

 神経が逆撫でされる。

「……あんたたちは俺を連れ戻しに来たんだろ。あの人は関係ない」

「あるでしょう、伊明」

 子供を諭すように実那伊は言い、立ちあがった。和佐へと冷ややかな顔を向ける。

「わかっているのよ。佐伯和佐――伊生さんの人生を狂わせ、あなたまで巻き込んだ女の弟。関係ないわけがないでしょう」

「関係ない」

 伊明は三度みたび、強く繰り返した。実那伊の昏い瞳だけが返ってくる。

「弟ってだけだ。父さんと……そのひととの関係に直接かかわったわけじゃない。和佐さんはなにも知らなかった。知ったのは、琉里が産まれて、父さんが家を出たあとのことだ」

 和佐がのろのろと頭をあげた。

 生気を失った顔。
 死刑を待つ人――どころか、すでに死人であるような――。

 伊明は顔をゆがませ、うつむけた。正視できなかった。

「……俺が巻き込まれたって、言ってたけど――俺はそんなこと微塵も思ってないけど――それを言うなら、和佐さんだって巻き込まれた人だ。父さんの勝手に振り回された被害者だ。責任なんかない、関係ない」

 伊明くん、と。

 和佐が呟いたのが、かろうじて耳に届いた。

 浅い呼吸。掠れた声。絶望に染まった青白い顔。
 微かに鼻腔をくすぐる甘い匂い。
 和佐の喉がひゅうひゅうと渇いた音を立てている。

 焦燥が胸を焼く。苛立たせる。
 伊明の語気は次第にきつくなっていく。

「あんたが一緒に来いって言うなら行ってやるよ。どこにでも。でも、和佐さんまで連れていくって言うんなら――」

「どうするんです?」

 来海が、言った。

「俺らァ相手に大立ち回りでもするつもりですか? この状況で」

 ゴツ、ゴツ、とことさらゆっくり、けれど強くつま先が机を打つ。薄笑みを刷いたその横顔を、睨みつけた。

 ――やってやる。

 覚悟を決めなければならない。和佐にも、腹を括ってもらわなければならない。この窮地を脱するために痛みを負う覚悟を。

 和佐のもとに来海と黒風船、伊明のそばには黒縁眼鏡と実那伊、そして事務所入り口に識伊と黒服二人。圧倒的に不利だ。

 位置関係からいっても御木崎側の力からいっても、機先を制し突破口をぶち抜くには――。

 実那伊に、牙を向けるしかない。

 握りしめた拳は汗でじっとり濡れていた。苦しげにあえぐ和佐と視線を交わし意思を交わす。

 ただならぬ気配を感じ取ったか、識伊が――昨夜、伊明の不意の殴打をくらって今なお頬にガーゼを貼りつけている識伊が、はッと顔色を変えた。黒縁眼鏡が身構える。来海の瞳が険呑に光る。

 それとほとんど同時に、伊明が行動を起こそうと膝をつき、腰を浮かせたその時だった。

 実那伊のほっそりした両手が、ふいに、なんの躊躇いもなく伊明の頬を包みこんだ。その手つきは無防備な嬰児を抱きあげたことのある母親にしか、できないものだった。

 伊明は、事を起こすタイミングを完全に逸した。

 そんなふうに触れられること自体、初めてだった。琉里とも違う、父とも違う、慈愛に満ちた手。指。彼女が母親であると――わかってはいてもどこか現実感のなかった伊明に、それをまざまざと思い知らせる。

 伊明は目をまるくし、肝を抜かれた人のように実那伊を見あげた。

「可哀想な伊明」

 真に同情をこめた声で、実那伊がささやく。

「やはりあなたはうちで育てるべきだった。ギルワーに唆されて……こんな、自ら荊の道をいくような無謀な選択をさせられて。負う必要のない艱苦かんくを負って、こんなに苦しそうな顔をして」

 親指が、頬を優しく撫でていく。

「あなたは世界に対して無知すぎる。私たちのことも、自分自身のことも知らなさすぎる。……本当は、識伊にさせようと……考えていたのだけれど」

 するりと手が離れていった。

「あなたに狩り・・を教えてあげる」

 伊明は構える間もなく拘束された。

 入口付近にいた黒服の一人が加わって、黒縁眼鏡と二人掛かりで引きずられ、応接テーブルに突っ伏す形で上体を押さえつけられる。やめろ離せと身をよじったが、両手を後ろに取られてろくな抵抗にもならなかった。

 そんな伊明を見下ろす実那伊の瞳は、色をまるで変えていた。

 慈愛と憐憫から、獰猛かつ厳粛に。

「いい機会だから学びなさい、伊明」

 実那伊が帯に手をやった。懐から抜いたのは、白い房飾りのついた細長い錦袋である。丁寧な手つきで口紐をほどきながら、厳かに言葉を重ねていく。

「これは、御木崎家当主に代々受け継がれてきた懐剣です。宗家に正式な当主が戻るまでの間、当主代理の指示によって私が預かっているもので――」

 錦袋から全長三十センチほどの鞘に収まった小刀が、流れるようにするりと出てきた。鞘から柄にあしらわれている黒地に金の松文様は、まるで夜に浮かぶ神木だ。

「――基本的には、そと・・で抜くべきではないのだけれど」

 鞘から抜かれる。
 あらわれた銀の刃は鏡のようだった。
 よく手入れされているらしいことが素人目にもわかるほど、おそろしく鋭利な、静謐な刃。

 父の目つきに、似ている。

 実那伊の指示によって、伊明のはだかの左腕が、拳を下にテーブルの上に押しつけられた。抵抗はむろん意味をなさない。

 抜き身の懐剣を手にした実那伊が傍らに膝をつく。

「体でおぼえなさい。私たちがなぜ神の矢と呼ばれるのかを」

 切っ先が、ずぶりと沈んだ。前腕に。皮膚のなかに。

 伊明の体がこわばった。蒼白になった頬をつめたい汗が伝っていく。腕がふるえ、指先が机上を掻く。やめろと叫びたかったのに、恐怖と痛みに喉をふさがれ、一音すらも発することができなかった。

 魚をさばくみたいな、およそ人間に対するのとは思えない冷淡さで、実那伊は、伊明の腕に赤い一線を引いていく。

 傷口からにじんだ鮮血が、あふれた。

 ――だめだ。駄目だ。

 体中に電気が走るような激痛にともなって、熱をはらんだ高揚感が旋風つむじのごとく巻き起こり、内側から、伊明の自我を飲みこもうとする。

 ――だめだ。駄目だ。

 すべての音が鈍く聞こえる。
 うめいているのが自分なのか、笑っている声が誰のものなのかもわからなくなった。

 立たされた。
 ぼたぼたと血が滴る。床に赤い足跡を残していく。
 気づけば、両目を大きくみひらいた和佐の姿が、前にあった。


 ――まるで、悪夢。


 そう思ったのは――
 伊明だけではなかった。

 識伊のなかにもまた、そんな声がぽつんとうまれていた。

「嫌だっ、いやだいやだいやだッ、それは嫌だ、いやだッ!」

 佐伯和佐は半狂乱になって叫び、首を振り、体をのけぞらせたり左右によじったりして必死の抵抗を続けている。

「離してッ、離せッ。いやだ、嫌だ!」

 彼を抑えるKratのでぶ――識伊は彼の名を知らない。宗家付きのKratとしてあるまじき体型だという否定的な認識しかない――は、苦りきった顔をしている。

 横に立つ来海は強いて手を出すことはせず、爛々と瞳を輝かせ、時折高揚を吐きだすような笑い声をこぼしていた。

「ほら、伊明。ギルワーがあなたの血を求めているわ」

 普段もの静かな母の声も、熱をはらむ。

 むせかえる独特の甘い匂い。
 シンルーの頭の芯をしびれさせ、凶暴に、狂わせる――そんなふうに、たしか、誰かが言っていた。御木崎の名を持たぬ、黎光の級友クラスメイトの誰かだった。

 伊明は佐伯和佐の叫びによってかろうじて理性を繋ぎとめているらしく、やめろと繰り返しては、だめだ、駄目だと力無くかぶりを振っていた。意味のない抵抗を続けている。

 離れたところ――事務所の奥で起きているそれを、識伊はただ見つめることしかできずにいた。

 吐き気さえも、もよおす匂い。
 袂で鼻をおさえても、こすっても、鼻腔に残った甘さは消えない。
 取りまく空気のすべてがそれに変わり、髪の一本一本を掻き分けてじわじわ脳に浸透してくるみたいだった。

 ――凶暴に、狂わせる。

 行われているのは、まさしく『狩り』である。が、それは識伊の想像していたのとはまったく違うのものだった。

 百獣の王が獲物の喉笛を噛み切るのではなく。
 ハイエナが瀕死の小動物を取り囲み死の淵へ追い立てていくような――言ってしまえば胸の悪くなる光景だった。

「かあさま……」

 声が、袂の下でふるえた。
 応接テーブルのそばに立っていた母が振り返る。血の滴る懐剣を握ったまま、おそろしく静かな足取りで傍にやってきて、寄り添った。

「――あなたは見るのも初めてだものね、識伊」

 母の手が、腕に触れる。鼻を覆っていた手を下ろさせられた。頬と頬が、そっと触れあう。

「好い気分がするでしょう」

 歌うように、母が囁く。

「この匂いを、その味を、よく憶えておきなさい。そしてしっかり見ておくの。私たちに流れる聖なる血が、悪しきまものたちに何をもたらすのか」

 識伊の喉がごくりと鳴った。


 しばらく――伊明の体感的には永遠とも思える時間、実質的にはものの一、二分程度であるが――時が止まったみたいに、すべてのものが膠着した。

 不思議なことに、和佐の前に引っ立てただけで、伊明をおさえる黒服たちはそれ以上動こうとはしなかった。和佐をおさえる者も、ただおさえているだけである。血を飲ませようとする様子はない。

 この機会を逃したら今度こそ終わりだと――いまにもちぎれそうな理性のなかで漠然と思った。

 最後の抵抗。

 力をふりしぼり、両肩を支えていた黒服二人を振りほどいた。意外にもすんなり解放される。そのまま和佐の襟首を掴み、黒風船の手から引きずりだした。

 ぞわぞわとしたあの感覚が体中に広がったが、伊明は唇を噛んで懸命にやり過ごそうとする。

 あとはこのまま――。

 逃げるだけでよかった――のに。

「あーァ」

 ぼそ、と落ちた来海の声が耳にふれた。

 と、次の瞬間。

 伊明の手が弾かれた。

 来海にではない。ほかの黒服にでもない。

 和佐自身に。

 驚いて振り返った伊明の目に飛びこんできたのは、膝立ちから体勢をくずして四つ這いになった和佐の、冬の湖面のような青灰色の双眸だった。渇いた吐息のこぼれる唇から、伸びた犬歯がのぞいている。

 和佐は苦しげに、哀しげに、両目を細めて伊明を見あげた。

 ごめん、と。
 言ったように、見えた。

 左腕を掴まれた。口が迫る。犬歯が当たる。

 傷を――噛まれた。

 肘から下が焼ききれそうな痛みに、伊明の喉から叫びにも似た悲鳴がほとばしる。それは、ただ傷を抉られるだけの痛みではなかった。血を吸いあげられる代わりに、血管に太い荊を流しこまれているみたいだ。

 来海が嗤う。識伊が息をのむ。
 実那伊は――狂気を瞳にみなぎらせ、興奮を抑えきれないといったふうに唇をゆがめて凄惨に笑んだ。

「よくごらんなさい、識伊。私たちはこうやって秩序を守っていくのよ。血と痛み、大きな二つの犠牲を払って。そうして護っているの。非力な人間を、まものから、神に選ばれた私たち――シンルーが」

 肩を抱く手は強かった。ぴとりと寄せあう頬と頬。
 息子がおののき顔を背けようとするのを、母はけっして許さなかった。

 そして囁く。繰り返し、ゆっくりと、彼の心に沁みこませるかのように。

 自分たちは気高く誇り高い人間であるのだと――。

 和佐が、ぐ、と喉を詰まらせた。伊明の左腕から唇を離すや血を吐きだす。二度、三度――えづくたびに紅い血が和佐の口から溢れだし、びしゃびしゃと床を濡らした。量からみても、伊明のものだけではないようだった。

 和佐は喉をおさえ、血だまりのなかに倒れた。
 横向きに、くの字に曲がった体はつめの先までこわばりきって痙攣している。口の端から筋を引いて流れる血はとめどなく、泡まで混じりはじめていた。

 まさしく、猛毒をのんだ人。

 あまりにも凄惨な光景に対するショックと髄まで駆けめぐった激痛の余韻に、伊明は立っていられなくなった。
 膝がくずれる。がくがくと震える左腕にはまるで力が入らない。
 肘までくずれ、不格好な四つ這いになった。

「……和佐さん……!」

 それでも伊明は和佐ににじり寄った。
 手を伸ばす。肩に触れる。

 瞬間、和佐の体がびくッと跳ねた。より濃くなる苦悶の表情。

 とっさに手を引っこめる。神経がさざ波をたてるあの感覚は、伊明のほうにもしっかりあった。

「……いめ……くん……ごめ……」

 ほとんど音にならないような、途切れ途切れの掠れた声。

「こ……なこと、に……なる……な、んて……」

 和佐の目から涙が落ちた。
 生理的なものなのか、感情からくるものなのか――わからない、けれど。

 謝るべきは和佐じゃない。

 むしろ、自分が――。

 伊明は強く唇をかんだ。

「遠野……遠野先生のとこ行こう、和佐さん」

 無理やり笑顔をつくろうとした。

「あの人ならきっとなんとかしてくれる、琉里だって元気になったんだから」

 場違いなほどことさら明るく、現実が少しでも言葉に引き寄せられるように懸命に、言った。

 和佐のうつろな瞳が小さく揺れて、伊明を見あげた。はくはくと、なにか言いたげに口が動く。声の代わりにこぼれたのは、泡の混じった血だった。

「いいよ、あとで――あとで、聞くから。ちょっと辛いかもだけど我慢して」

 がたがたとみっともなく震える左手。力の入らない左腕。脚。腰。体。伊明はいっそう強く唇をかみ、痛みの鞭で己を打ち、和佐を抱き起こそうとふたたび手を伸ばす。

 すると、和佐のほうから伊明の手首を掴んできた。

 それは縋るようなものではなかった。
 残されたすべてを今この瞬間に注ぎ込んでいるのだとわかるくらいに、強く、有無を言わせぬ力があった。

 うつろだった青灰色の瞳が、生命いのちを燃やし尽くさんばかりの光を放つ。

「――琉里……を」

 はっきりと、言った。言いかけた。しまいまで、続かなかった。

 和佐は血だまりの中に、おちた。

 林檎が落ちるみたいな音を立てて、生気を失った頭が、体が、その手が――無機質に、鮮血の広がる床を、打った。

「かずさ、さん」

 自分のものとは思えないような、ほうけた声が出た。

 半分あいた目のなかの、硝子玉のような瞳。
 弛緩しきった顔も、体も、蝋人形のようだった。

 ――死んだのか? 本当に?

 疑ってしまうほどあっけない。こんなに簡単に人の命はなくなるものなのか。こんなに簡単になくなってしまっていいものなのか。

 こんな、あっというまに。
 嘘みたいに。

「さすがだわ、伊明」

 実那伊が嬉々と声をあげた。うっとりと微笑んでいる。抜き身の懐剣を抱くように胸におき、少女のように小首を傾げて一歩、前に進み出る。

「初めての狩りでは、ほとんどの子が気絶するのよ。すこし不格好ではあったけれど――やはりあなたは宗家を継ぐ子。伊生さんの血を引く、私の息子だわ」

 冗談じゃ、ない。

 ――冗談じゃない。ふざけるな。

 からっぽになった伊明の裡にふつりふつりとわきあがってきたのは、我をも忘れる憤怒だった。

「……ふざけんなよ……!」

 拳を握りしめ、実那伊に掴みかからんと身をひるがえす。

 が、立ち上がろうとしたとたんに膝がかくんと抜けた。だけでなく、即座に反応した黒縁眼鏡に足を払われ、前のめりに、盛大に転倒させられた。身を起こす間もなく、またしても動きを封じられてしまう。失礼、という言葉とともに。

 伊明の怒りはより燃えさかる。吠えるがごとくに怒鳴り散らす。

「ふざけんなッ。なにが狩りだよ、あんたら頭おかしいんじゃねーのか!? 目の前で人が死んで、なんでそんなふうに笑ってられんだよ! 殺人鬼はどっちだよ、人殺しのクズ!」

 眉をひそめる実那伊に代わって、

「慎んでくださいよ、伊明様ァ。宗家の御方がそんな荒ッぽい言葉つかったらダメでしょォ」

 とんとんと警棒で肩を叩きながら、黒風船を引きつれて来海が正面に回りこんでくる。伊明の前にしゃがみ、

「そもそもですよ?」

 しらじらしい真面目顔で人差し指を立てる。

「俺らにいかること自体、お門違いってヤツじゃないんですかね。俺らァなーンもしてませんよ。そこに転がってるギルワーが、勝手に血を啜って、勝手にくたばっただけじゃないですか」

「……よくも、そんな……」

「まァ――」

 来海は続けて親指を立て、手で拳銃の形をつくった。銃口を伊明の眉間にあて、それからすぐに自分のこめかみに押し当てる。

「――伊明様が引鉄を引いたのは、変えようのねェ事実ですがね」

 伊明の顔からさっと血の気が引いていくのを見届けてから、来海は満足気に立ちあがった。

「……矯正には骨が折れそうね」

 実那伊が物憂げに呟いた。頬に手をあてて溜息をつくと、気を取り直すように踵を返し「戻ります」と短く告げる。

 伊明は外へ連れ出され、ビルの前に停まっていた黒塗りのセダンに押しこまれた。

 もう抵抗できるだけの気力は残されていなかった。
 来海の一言が、怒りでかろうじて保たれていた伊明のすべてを挫いたのだ。

 御木崎家の車は二台あった。

 実那伊と識伊――彼もまた茫然自失となっていた――、後からやってきた黒服二人は前の車に乗りこみ、伊明は、来海と黒風船に挟まれるようにして後ろの車の後部座席に座らされた。

 窮屈さに不平をもらすのは来海だけ。黒風船は自身の体積に申し訳なさそうに額の汗をハンカチで拭っており、黒縁眼鏡は涼しい顔で運転席についている。

 和佐は、置き去りだった。

「戻ったら手当てしますンでね」

 据わり悪そうに身じろぎながら、伊明の左腕をちらと見下ろし来海が言った。

 車は緩やかに走りだす。
 向かう先は御木崎邸なのだろう、きっと。

 ――戻ったら。

 皮肉にも、もう戻れないところまで来ているのだとその一言で悟った。悄然と瞳を床に落とし、ぴりぴりと痛み続ける左腕を撫でる。

「……あ、もしもォし。世話ンなってます、Kratの来海と申しますがね。――ええ、ハイ、そうです。掃除と、あと回収ですね――」

 来海がどこかへ電話を掛け、事務所の住所を告げている。
 薄暗い安良井の路地を、黒塗りのセダンが二台並んで、行儀よくすべっていく。

 辺り一帯は不気味なほどに静かだった。

 人気もない、車の通りもない。メタリックブルーの乗用車が、事務所の入っている雑居ビル群の後方にぽつんと停まっていたが、それを気に留めた者はなかった。

 風もなく、音もなく、彼らの車以外に動いているものはなにひとつない――まるでモノクロの静止画だ。



#4 彷徨う感情


 環状道路に入って二十分ほど経ったころ、それは起きた。
 伊明の乗っていた車が、追突されたのである。


 平日の夕方という時間帯もある。高速の出口だの国道との交差点だのが重なる、交通量の多いエリアでもある。

 渋滞と呼ぶほどでもないが、流れがスムーズというわけでもなく、幸か不幸か、御木崎家の二台の車両は信号に掛かるたびに停止を余儀なくされていた。

「はァ? 荷物がない――?」

 折り返し掛かってきた電話に、来海が頓狂な声を出す。

「やァ、そんなわけないでしょう。あるはずですよ、ちびッこいのが」

 ――ないですよお。

 漏れ聞こえてきた女性のものらしき高い声に伊明がうっそりと顔をあげた、そのときだった。

 後方からの、瞬間的な凄まじい衝撃に、乗っていた全員の体が大きく振れた。

 ちょうど、赤信号に引っかかって減速していたときである。
 三車線あるうちの中央、直進レーン。車列の先頭に実那伊たちの車両、そのすぐ後ろに、金魚のふんのごとくぴたりとくっついていたのが伊明たちの車両である。
 その後ろにも一般の後続車が続いていた。

 伊明たちは気づかなかったが、直前に、伊明の車両と後続車との間に割り込むかたちで急な車線変更を行ったグレーのバンが、一台あった。

 後ろにつくやそのバンは、アクセルを踏みこんで、黒い尻を潰さんばかりの勢いで突っ込んできた。バンに押された黒いセダンは、地面をすべって前の車両――実那伊たちの車の尻に、頭をぶつけた。絵に描いたような玉突き事故である。

「なんッだクソッ」

 唯一シートベルトをしていなかった来海は、運転席のヘッドレストに顔面を強打していた。そのときにスマホも落としてしまったのだろう、片手で鼻をおさえて座席下を手で探りながら毒づいている。

「大丈夫ですか、来海。あなたの携帯が飛んできましたよ」

 運転席から届く、追突直後とは思えない冷静な声。振り向きもせずに差しだされるスマートフォン。

 舌打ち混じりに奪い取った来海は、電話口に折り返す旨を短く告げて怒りの目を後方に向けた。

「どこのクソだ、フザけやがって――……あ?」

 グレーのバンから四人の男が降りてきた。

 チンピラとかゴロツキという単語がとてもしっくりくる風貌である。派手な柄シャツ、龍の刺繍の入ったスカジャン、胸元や指に光るゴツいシルバーアクセサリー。
 かかとを擦り、肩で風を切り、討入りよろしく殺気を全身にみなぎらせて近づいてきたその男たちは、二人ずつ二手にわかれ、左右の窓から物色するように車内を覗いた。

 黒風船がヒェッと小さく悲鳴をあげて身をすくめる。その狼狽ぶりが良くなかったらしい。

 彼が、標的にされた。

「おうコラァ!」

 ドンッ、と左の窓――黒風船側の窓が乱暴に叩かれる。
 来海の座る右の窓を覗いていた二人も――なぜか――わざわざボンネットを踏み越えて、黒風船側のほうへ回った。車体を蹴ったり叩いたり、窓を殴りつけたりしながら四人がそれぞれがなりだす。

「なに急ブレーキ踏んでんだよ、テメーらはよォ」

「ブッ殺すぞコラァ」

「早よ降りてこんかいボケコラァ」

 けっして急ブレーキなどではなかった。とんでもない言いがかりであるが、黒風船は完全に畏縮してしまっているらしく、ろくろく言い返すこともできずにいる。

 来海は眉根を寄せて男たちを睨んでいたが、盛大な溜息をひとつこぼすと、運転席の黒縁眼鏡と二、三もそもそと言葉を交わし、後部座席のドアを開けて外へ出て行った。
 ぐるりとバンの後ろに回り、いったん止まって携帯電話を構え――ナンバープレートを撮っているらしかった――悠々とした足取りで男たちに近づいていく。

 そして。

「――なンだテメェらコラァ!!」

 いっそ清々しいほどの豪快な巻き舌である。腹をふるわせるような声量に男たちが振り返った。

「ああッ、なんだァ!?」

「なンだコラァ!?」

 威嚇してくる彼らに、テメェらこそなンだ、と至極まっとうな来海の返し。それを契機に、巻き舌の応酬からなる激しい舌戦が始まった。

 さすがにこれには、気落ちしていた伊明でさえ呆気にとられてしまった。怯える黒風船とともに成り行きを見守るしかできずにいる。

 信号が青に変わり車が流れだしたが、その三台だけは動かない。
 他の車も飛び火を怖れているのだろう、クラクションを鳴らすとしても軽く短く、彼らを避けて走り去っていく。

 黒縁眼鏡は実那伊と連絡を取っているようだった。状況説明をし、指示を仰いでいる。

 そんな彼を煽るように、四人組のうちの一人が巻き舌合戦の輪からはずれ、左前方、フロントガラスを叩きながら「出てこいオラァ」と声を荒げた。黒縁眼鏡は見返してこそいるけれど、まったく歯牙にもかけない様子である。

 と、そんな喧噪のなかで、後部座席右の窓がとつとつと叩かれた。
 その音は本当にかすかなもので、気づいたのは伊明だけ。

 顔を向けて、驚いた。
 そこには柳瀬が立っていた。

 彼女は、連中のツレとして通るような変装をしていた。
 胸元の大きくひらいた真っ赤なニットセーターに、顔の半分ほどもあるヒョウ柄のフレームの派手なサングラス、唇に引いた色の濃いリップグロスがつややかに光っている。いつも頬の横で結んでいる髪はおろされ、腰のあたりにたわんでいた。

 サングラスを少しずらして目をのぞかせた彼女は、驚く伊明に「静かに」とジェスチャーで示した。鮮やかな唇に指をあてる。

 黒縁眼鏡の意識は実那伊らしき相手との通話とフロントガラスを叩く男に、来海は残りの三人に取り囲まれて車に背を向けるかたちに、黒風船は窓を隔てているにもかかわらず来海の陰に太い体を隠すようにして外の様子を窺っているため、誰も柳瀬の存在に気づいていなかった。

 とはいえ、時間の問題だろう。

 なぜ柳瀬がここに――助けにきてくれたのか――でもどうして――と、いろいろ疑問も浮かんだが、ひとまず頭のすみに押しやった。逃げるのなら、今しかない。

 柳瀬が瞳で前方を示す。
 信号はふたたび赤に変わっている。

 左折レーンをはさんだ歩道には足を止めた野次馬たちが垣根を作っている。横断歩道を流れる人波も、みんながみんな何事かとこちらに顔を向け、緩やかに、ぶつかり合いながら交錯している。

 柳瀬の瞳が伊明に戻り、サングラスの奥に隠された。
 物言わぬまま前方へ身をひるがえす。

 柳瀬の髪がふわんと揺れた。窓硝子に残光を走らせるように波打ち、流れていく。それに引っぱられるようにドアを開け、伊明は外に転がり出た。よろけながらも懸命に柳瀬の後を追い、走る。

 実那伊の車の窓がひらいた。
 通り過ぎざま、目をみはった実那伊と視線がかち合う。

 伊明は眉ひとつ動かさなかった。

 横断歩道の人波に突っ込み、そして、まぎれる。
 近づいてくるパトカーのサイレンを聞きながら――。


「遠野先生、いったい――」

 黒塗りのセダンから逃げだした伊明は、走行するメタリックブルーのクラウンの後部座席で遠野の応急処置を受けていた。

 さすがは医者、いや、くさっても医者というべきか。
 常備しているのかわざわざ持ってきたのかはわからないが、遠野の愛車のトランクには医療アイテムが入っていた。もちろん専門的な薬品の類や機器類ではなく、薬局で簡単に手に入るような消毒液やガーゼ、包帯といった程度のものではあったけれど。

「なにが、あったんですか」

 くるくると伊明の腕に包帯を巻く遠野は、明らかに、乱闘のあとといったふうだった。

 いつも雑に撫でつけられている髪は乱れて額に掛かり、右頬と左の目もとに殴られたような痣ができている。服もしわだらけ――これもいつもそうなのだが、いつも以上にしわくちゃになっていた。

 救出劇にいたる経緯よりも、そっちのほうが気になった。

 遠野は、琉里といたはずなのだから。

「すまん、伊明」

 唸るようにいって、遠野は悔しそうに顔をしかめた。

「琉里を連れていかれた」

「…………」

 まさか、とは思っていたが、やはり――。
 目の前が真っ暗になるような感覚をおぼえて、伊明は思わず額をおさえた。

「つい一時間くらい前のことよ」

 遠野の代わりにハンドルを握る柳瀬が、バックミラー越しに伊明に瞳を向け、言った。

 診療所に突然、黒いスーツを着た男たちが乗りこんできたのだという。

 彼らは最初に伊明の居場所を訊いてきた。ここにはいない、どこに居るかはわからないと答えると、そうですか、では琉里さんはいらっしゃいますか、と質問を改めてきた。

 いない、と言い張ったが駄目だった。病室で検査に行くため外出の準備をしていた琉里を、実力行使で連れ去ってしまったのである。

「クラートのハリマとか言ってたけど――すごいのね、あの人。院長、二発でのされちゃったのよ。まあ私なんか一発だけど」

「柳瀬さんも殴られたんですか」

「おなかをね」

 顔じゃなくてよかったわよ、と柳瀬はこともなげに付け足してふふと笑った。

「すまん、俺がついていながら」

 遠野は苦い顔でどちらにともなく謝った。包帯を留め、もう一度「すまん」とくぐもった声で言う。

 応急といえども丁寧な処置を受けた左腕を撫でながら、伊明は悄然と首を振った。

「俺も……俺も、謝らなきゃならないこと、あるから」

「和佐のことか」

 すぐに返ってきたその名に、驚いて顔をあげる。遠野はかたちばかりの笑みを見せ、伊明から視線を外した。

「あいつ、診療所うちで――御木崎の事務所にお前を連れていくって言ってたんだ。お前が琉里と話してるときにな。……張間が出て行ったあと……嫌な予感がしたっつうか、こう、心配になってなあ。車とばして様子見に行ったんだが」

 そこまで言って、ガーゼのきれはしだの消毒液だのを片付けていた手を止める。伊明に向け、肩をすくめて、

「俺は、御木崎とは中坊の頃からの付き合いだからよ、奴の家のことについちゃわりとよく知ってんだ。たぶんお前よりもな。だから、あのビルの前に停まってた霊柩車みてえな車が、奴の家のもんだってことはすぐにわかった」

「院長、殴り込みかけて伊明くんたちを奪還するってきかなかったのよ」

 柳瀬がいくらかトーンを落とし、言葉をはさむ。

「でもほら、あのハリマっておじさまにボロ負けしてるわけでしょう。ああいうのがゴロゴロいるとなると……ちょっと、ねえ。下手したら奪還どころか、気絶させられてるうちになにもかも終わってました、なんてこともありそうじゃない。そうなると、本当にもう、私たちにはどうすることもできなくなっちゃうから」

「だから。さんざん言ったろうが。張間が特殊なだけで、他は有象無象のカスだ」

 プライドを抉られたらしい、遠野が眉をつりあげ反論する。

「特殊って?」

 伊明が訊くと、遠野はがしがしと頭を掻きながら、

「元軍人だったか、どっかの特殊部隊にいたんだか――詳しくは知らねえが、御木崎からはそう聞いてる。昔はそりゃもうバリバリにならした・・・・らしくてな。……ああ、お前の父ちゃんに体術のイロハを教えたのも、あの張間だ」

「あの人が……」

 どうりで、あの身のこなしだ。

「だからね」

 張間の話題をばっさり切って、柳瀬が進める。

「とにかく、できるかぎりの準備だけをしておいて、動きがあるまでは待とうってことになったのよ。クラートだかなんだか知らないけど、さすがに、いきなり和佐くんを手に掛けるようなことはしないだろうって。伊明くんと一緒に彼を助け出せる機会も絶対あるから、って。
 ……でも、気づかなかった。わからなかったのよ、私たち。まさか、あんなところに宗家の人間がいるなんて……思わなくって」

 識伊と――実那伊。

「だから、出てきたあなたたちを見て本当に驚いた。伊明くんは血だらけだし、和佐くんの姿は見当たらないし」

 後片付けを終えた遠野は、やはり苦りきった顔つきで、ごそごそとスラックスのポケットを探った。煙草を取りだし、窓を開け、火をつける。

 すっかり無口になった遠野に代わり、柳瀬が続けた。

「それで、伊明くんたちが出たあとに急いで事務所に入ってみたら……」

 和佐が血のなかに倒れていたのだ。

「うちの院長ってほら医者のくせにとんでもない単細胞でしょう? 怒り狂って追いかけようとするから、また私が止めてあげて――」

「柳瀬」

 たまらずといった様子で、遠野が遮る。

「クビになりてえか」

「できるものなら、どうぞ。誰のおかげで伊明くんを助けだせたと思ってるんです?」

 二の句が継げなくなった、らしかった。遠野はますます渋面をつくって煙草を口にはさみなおす。

「まあそれでね、いろいろ手を打って、あの交差点で伊明くんを奪還したってわけ」

 軽い調子でそう締めて、柳瀬が肩をすくめた。ものすごい端折り方ではあったが――たしかに伊明の訊きたいことはその先にある。

「あの、和佐さんは」

 柳瀬の口調からして、もしかしたら、と思った。

 もしかしたら、和佐は気を失っていただけなのかも、と。

「……さっきの子たち、いたでしょ? 伊明くんの乗ってた車に追突した、バンの。あの子たち、じつは前に和佐くんがお世話した子たちなの」

「ギルワーの……?」

「そう。和佐くん、あれでけっこう面倒見のいいほうだから、今でもたまに会って相談に乗ってあげたり話を聞いてあげたりしてたのよ。一人は、彼の紹介でうちにも通ってるしね。……さっき、『できるかぎりの準備をして』って、私言ったじゃない? あの子たちの社員寮が、ちょうど近くにあったから――」

「社員寮、ですか?」

 会社員なんですか、と思わず訊いてしまった。
 すると柳瀬は、違うわよ、と笑って、夜のお仕事、と付け加える。安良井の繁華街で客引きをやっているらしい。

「まあ、それで大急ぎで連絡をとって、集まってもらったの。幸い、連絡先はあの事務所に保管してあったし。うちに通ってる子がいたのも大きかったわ」

 そういえば、事件を記録したものとは別に、年号と五十音が背表紙に書かれたファイルが並んでいた。柳瀬の話によれば、あれが顧客情報であり、通院している子の名から特定することができたのだそうだ。

「それでも、ギリギリだったわね。私たちとほとんど入れかわりで、掃除屋が来てたから」

「ギルワー絡みの現場の掃除屋だ」

 伊明が訊くよりも先に、遠野が簡単に説明をくれた。

 ――まるで裏社会の話だ。掃除の意味は容易に知れる。自分たちは神の矢だと特別だと豪語する人間の所業とは思えない。

 ふつふつと燻りだした熱を、けれど伊明は飲みこんだ。肝心な答えを、まだ聞いていない。

「……あの、それで、和佐さんは」

 沈黙が、一瞬落ちた。

「大丈夫よ。ギルワーの子たちに預けたから、ちゃんと家族のもとに帰れる。弔ってもらえるわ」

 やはり。
 死んだ――のか。

 体が一瞬からっぽになったみたいに、なった。

 指先がかたかたとふるえだし、腕を伝い、足へ移り――四肢から全身に広がっていく。
 伊明は握りしめた左の拳を右の手のひらで包みこみ、つめを立てた。竜巻のごとき感情の渦が喉の奥からせりあがってくるのを、必死に抑えこむ。

 毒だのなんだのと言われても、本当の意味での理解は、たぶんできていなかった。

 琉里にとって危険であるから気をつけなければいけない、言ってしまえばその程度。自分の血で、ああも呆気なく誰かが死ぬなんて――和佐が死ぬなんて――思ってもいなかった。

 現実として突きつけられた、自身のもつ血の脅威。

 それが、伊明の裡をかき乱していく。

「……なんで……そんな平然としてるんですか。なんで……」

 しぼりだすように、伊明がいう。

「人が死んだんですよ。俺のせいで。俺の血を飲んだから」

「落ち着け、伊明」

 遠野の声は静かだった。言葉と一緒にもれた白煙が、宵の空にとけていく。

 伊明は遠野を睨みつけた。
 昏い世界の中で、彼の輪郭に自分自身を重ねるように。向けるべき矛の尖端を定めるように。

「俺が死なせたんです。俺が死なせた。和佐さんを、俺が――」

「そうじゃない」

「そうだろ!」

 感情が、爆ぜた。

 こんなときなのに、あんなことがあったというのに――自分の中に燃えさかる炎は怒りであり、狼煙のごとく立ちのぼる煙は苛立ちでしかなかった。制御のきかない激情に飲みこまれていく。

「なにが『そうじゃない』だよ! そうだろ、そうなんだよ。あいつ・・・の言ったとおりだ、俺には殺人鬼の血が流れてる。俺の血で簡単に人が死ぬ。俺の血が人を――和佐さんを――」

「お前が殺したわけじゃない」

 遠野はどこまでも冷静だった。

「その腕だって、自分で切ったわけじゃねえんだろ」

「そうだけど、でも」

「お前が無理やり、和佐に血を飲ませたわけでもねえんだろ」

「…………」

 伊明は口を引き結んだ。
 握りしめた両手に視線を落とす。

 包帯に血がにじんでいる。傷口がずくずくと熱を持つ。

 鎮まりかけた感情は、それでも大きな火種である。
 痛みを実感すればするほど、血の赤が視界に映えるほど、空気をはらんで勢いを取りもどす。伊明は悔しげに顔をゆがめた。

「……和佐さん……俺の血を見て、嫌だ、って言ったんだ。それだけは嫌だって。なのに――なのに、なんで。なんで……」

「自分から――って?」

 あとを引き取ったのは柳瀬だった。

「無理なのよ」

 伊明は思わず顔をあげた。シートの脇からのぞく彼女の細い肩が、またすくめられるように持ち上がる。

「結局ギルワーは、シンルーの血の誘惑には逆らえないようにできてるの。そうやって作られてるのよ、体が」

 そこで言葉を切った柳瀬は、はーあ、と大きな溜息をついた。

「この際だから白状するわね、伊明くん。私にも、ギルワーの血が混じってるの」

「……え?」

 ギルワーの血が、混じってる?

 すぐに理解できなくてばかみたいに訊き返すと、柳瀬は律儀に、そう、混じってるのよ、と繰り返した。

「純血ではないの。クォーターってところかしらね、私の母がギルワーと人間とのあいだに生まれた人だから。ハーフの母と、人間の父とのあいだに生まれたのが、私」

「柳瀬さんが……」

「なんだ、お前気づいてなかったのか」

 意外そうに遠野が言った。窓の向こうへ濃い煙を吐き、サイドブレーキの後ろに置いてある黒い筒状の容器――たぶん吸い殻入れ――に手を伸ばす。

「とっくにわかってるもんだと思ってたぞ。うちで働いてるってことはそういうことだろう」

「でも遠野先生も……普通の人、だから」

 容器のフタを押し上げ、フィルターぎりぎりまで短くなった煙草の先端を潰していた遠野は、ちょっと手を止め、

「ああ、……まあ、そうか」

 吸い殻を放りこみ、ぱちんとフタを閉めてからがしがしと頭を掻いた。

「といってもね、私のなかに流れている血はほとんど普通の人と変わらないのよ。ギルワーとしてはずいぶん薄い。影響があるのは、そうね、このぴちぴちの美貌くらいかしら」

「……柳瀬さん……」

 力が抜ける。ぴちぴちって――。
 笑えない状況で笑えない冗句を言うのはやめてほしい。

 柳瀬はそれでもうふふと笑って、

「でもねえ、そんな私ですら伊明くんの血を見るとなんだか変な気分になるのよ。採血のときずいぶん気持ちわるいこと言ってたと思うけど、あれ、伊明くん限定なのよ。ああやってふざけてないと、妙なスイッチが入りそうになるから」

 ――いつ引かれるとも知れない、トリガー。

「一応、私もシンルーに対する免疫はつけたのよ。血が薄いおかげか、副作用はそんなに重くなかったし、期間もそれほど掛からなかったけど。……ただ、和佐くんはね……」

 神妙な声で、柳瀬が続ける。

「彼は、もともと血への欲求も強いタイプだったから……伊明くんの血を前にして、どうしようもなくなっちゃったのね」

「……見てたみたいに、言いますね」

 柳瀬にしろ、遠野にしろ、だ。
 事務所で起こったすべてを目撃したみたいに、二人は話す。

「知ってるんだよ」

 遠野がいった。眉間に深くしわを刻んで。

「俺たちは、あの家のことはよく知ってる。さっきも言ったが、お前の父ちゃんからも聞いてるし、ギルワーのあいだでも御木崎家ってのは相当に有名だ。悪い意味でな。……あいつらの『狩り』の仕方は反吐が出るほどえげつねえって聞くぜ。自分たちが手を下すんじゃなく、ギルワーが自らむように仕向けるんだろ」

 伊明は頷くかわりに、うつむいた。

 遠野はその横顔をちらと見てから、

「そりゃあ……感情のやり場にも困るわな」

 同情的な声だった。

 傷つけられた左腕をおさえていた伊明が、やがて、ぼそりと呟いた。

「――識伊が……」

「あ?」

「俺の異父弟おとうとが、言ってたんだ。シンルーは神の矢だって。……じゃ、ギルワーは? 琉里や、和佐さんは?」

 返ってきた短い沈黙。
 かち、とライターの着火音が乾いて響く。

「おかしいと思うか?」

 薄い紫煙を吐きだしながら遠野が訊き返してくる。
 耳を疑うような言葉だった。

「思うか、って……いや、おかしいだろ。おかしすぎんだろ。なんで……なんのためにいるんだよ、まるで狩られるために存在してるみたいじゃねーか。誰かれ構わず人を襲うんならともかく、普通に生活することだってできるのに、まるで……」

 ぐ、と声が喉に詰まる。

「……まるで、シンルーが特別だって……そういうの、証明する道具みたいに……」

 あまりにも、残酷だ。一方的な被虐者ではないか――。

「でもね、伊明くん」

 なだめるように柳瀬がいう。

「表に出てないだけで、実際、ギルワーが起こした事件もたくさんあるの。今はずいぶん減ったけど、昔はそうめずらしいことでもなかったのよ」

「昔だろ、今は違うんだろ」

 伊明が噛みつく。
 だから、と柳瀬が語気を強めた。

「だから、シンルーのなかには伊明くんと同じように疑問をもって家を出る人も多いらしいし、古いしきたりに縛られずに普通の人間として生きたいっていうギルワーも増えてて――」

「ならほっとけばいいじゃねーか! なんでわざわざ」

 捕まえて、『狩り』なんて。

「あのね、伊明くん。どこにでも、異端をほっとけない過激な連中っているものよ。どの時代にも」

「そんなのッ……」

 言いかけた、そのとき――横から遠野の拳が飛んできた。

「いい加減にしろよ、伊明」

 伊明の左頬を力任せに殴りつけた遠野は、苛立ちを隠そうともせずに真っ向から伊明を睨みつける。

「なにが悲しくて、てめえみてえなクソガキに同情されなきゃならねえんだ。一言でも、和佐が恨みごとを言ったか? 自分がみじめな存在だと、可哀想な存在だと――ギルワーに生まれついたことを後悔してると、一言でもあいつが言ったか」

「……でも……だって……こんなの、理不尽すぎるだろ……」

「理不尽だなんだって文句垂れて当たり散らせるのはな、伊明、てめえが世間から守られて、ぬくぬく育ってきたからだ。断言してもいい。理不尽だの不条理だのこそ世の理だ。十あるうちの一くらいしかスジが通らねえのが、この世の中なんだよ。
 お前がどう思おうと何をえようと、そんなもん、ギルワーにとっちゃクソの役にも立ちゃしねえ。あるだけ邪魔なんだよ、クソガキの同情なんざ」

「院長。言いすぎです」

 柳瀬にたしなめられ、遠野は握っていた拳をひらいてシートにぼすりと背を沈めた。腕組みをし、鼻を鳴らし、でもどこかばつが悪そうに、

「……こいつが御木崎の野郎とソックリなのが悪いんだよ」

「おとなげないんだから」

 伊明は――ぴくりとも動かなかった。

 殴られた格好のまま左頬をおさえていたが、ややしてからもぞもぞ身じろぎ、体勢を戻した。背中を丸めて、両膝に肘をつき、垂れたこうべを両手で支える。

 頬が震える。奥歯を噛む。立てた爪が皮膚に食いこむ。
 瞬きひとつ落とさないまま、伊明はじっと、自分の足元を凝視していた。

 少しでも、気を緩めたら――瞳をゆるめたら――。

 容赦のない拳に、心的武装は完全にはじき飛ばされていた。

 そうして初めて、伊明は、自分が無意識のうちにそれを行い、それでもって自身の心を護っていたのだと気がついた。傷を塗りつぶしていたことを、自覚した。

 なにかあったとき、なによりも先に出てくる怒りの根幹。

 苛立ちの焔で、煙で、掻き消していたもの。

 不安や、怖れや、悲しみや――寂しさや――怒り以外の負の感情。

 それらをうまく処理することのできない無器用さ、向き合うことを怖れる脆弱さ。他人に攻撃的な態度をとることで、懸命に、均衡を保ってきた。

 それがなくなった今、伊明は傍目にもわかるほど無防備だった。

 窺うような遠野の視線にも、柳瀬がなにか言うのにも応えられず、二人が言葉を交わしているのも、耳に入ってはいてもまったく意識の外にあった。

 伊明くんは背も高いし、大人びて見えることもあるから忘れがちだけど――。
 私たちでさえ感情の処理に困るような世界だもの――。
 考えてみればあたりまえよね――。

「まだ、高校生なんだもの」

 自身の名を耳が拾ってから、じわじわと意識に入り込んでくる柳瀬の言葉。

 ひときわ同情的な声を聞いたとき、伊明はいっそう強く歯をくいしばった。ふくれあがったいろんなものが押し寄せて、せりあがってくる。

 それでも――それらを見せることは、しない。
 なけなしのプライドが許さなかった。

 車内はしばらく無言が続いた。
 誰もなにも言わず、車の走行音と、隔てられた外界の音だけが車内に重たく流れていく。

「おう、伊明」

 遠野がちょっと気まずそうに、いくらか声を和らげて、

「琉里のことは心配するな。このまま引く気は、俺にはない。――お前の父ちゃんも、たぶん動いてる」

 ――父さんが?

 伊明がのろのろと顔をあげる。
 遠野は、一気にやつれたような伊明の顔から、すっかり陽の落ちた窓の外へと視線を投げ、

「御木崎の家に乗りこんでるはずだ」

「えっ、そうなんですか!?」

 素っ頓狂な声をあげたのは、柳瀬だった。
 遠野はそれを綺麗に無視して。

「だから心配しなくていい。伊明、お前と琉里には味方がいる。あいつが――御木崎が、お前たちに残していった味方がな」

「……味方……?」

 伊明は、丸めていた背中を起こした。

 そういえば――と今さらになってカーナビの画面に瞳を向けた。
 いつまで経っても走行を続ける車は、自宅や診療所とはてんで違う方向に進んでいる。

「この車……どこに……?」

「シンルーの隠れ家だ。――『神の矢』としての役割を捨てた異端者シンルーたちのな」





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