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『トガノイバラ』 -4.悲哀の飛沫 ①

4.悲哀の飛沫

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※一部不適切な表現を含む台詞があります。
必要と判断した上で使用いたしましたが、
御気分を害された方がいらっしゃいましたら
深くお詫び申し上げます。※
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#1 親と子


 客間で伊生いきと話したあと、卦伊《けい》は自室に閉じこもり、古く分厚い手書きの綴じ本を文机の上にひらいて、ひとり思索をめぐらせていた。

 その書物は、数ある分家をふくむ御木崎みきざき家の家系図である。

 三世代につき一冊が基本であり、現在は、先代の伊亮いりょうを始めとし、卦伊や伊生が間に入り、伊明いめい識伊しきいの名が連なっている。
 最初の見開き一ページが宗家のものであり、後ろへいくほど自分たちにとっては遠縁―― 一族のなかでも血の薄い『末端』との蔑称をもつ分家となる。
 上部から側面にまで及んで整然と貼りつけられた付箋の数々には、冊子のなかでいう一世代目、父、伊亮と同世代の、家督を継ぐ者の名が並んでいた。

 もしも伊明が戻ってくるのなら、早々に許婚を決めねばなるまい。

 これも当主の重要な仕事だった。
 血と血を結んで、血を守る――わざと宗家に近いものと末端とを結んで濃度の底上げするか、あるいは近いもの同士を掛け合せた濃さを保つか、どちらに力を入れるかは当主の裁量次第であるが、けっして適当に決めてはならない重要事項なのだ。

 ましてや次期当主となる伊明の相手となれば尚のこと。

 本来ならば、間もなく宗家当主として返り咲くことになるであろう伊生に、一任すべきところである。

 しかし卦伊は――無理だろうと踏んでいた。

 当主としての資質は申し分ない兄であるが、事務的な仕事を学ぶ前に家を出ている。見つけだしたギルワーの情報や狩ったギルワーの名簿の管理は自ら進んでやっていたと聞いているけれど、それ以外のことにはまったく興味を示さず、先代も強いて教えなかったらしいのだ。

 当分は補佐として、こういった事務仕事は自分が行うのが一番だろう。

 昨日、伊明に語ったことがいよいよ現実味を帯びてきた。卦伊はひそりとほくそ笑む。

 ひらいた家系図をしばらくぱらぱらやっていると、まず、張間はりまが帰宅の挨拶にやってきた。首尾は上々。琉里を捕獲し、離れに幽閉したとの報告である。
 地下牢のほうが宜しいですか、としかつめらしく訊いてくる張間に、卦伊は、いま邸内には兄さんがいるから、と首を振った。張間はちょっと驚いたように目をしばたかせたが、余計な口はきかずに出ていった。

 それからまたしばらくして、今度は実那伊みないと識伊が、来海くるみをともなって帰宅の報告に訪れた。

「ただいま戻りました」

 三つ指をついた実那伊を筆頭に、三人ともが深々と、儀礼的に頭を下げる。

 代理という立場で、当主のごとく扱われるのは面映ゆい。卦伊は苦笑をこぼしつつ早々に顔を上げさせた。

「おかえり、実那伊、識伊。どうだろう、首尾は」

「申し訳ありません、卦伊様。じつは――」

 伊明に逃げられたという来海の報告の一部始終を、卦伊は思案顔で聞いていた。

 追突してきたという男連中と、伊明とともに走り去った派手な女はグルとみてまず間違いないだろう。問題は、彼らが何者か、だ。

 卦伊は、大変だったね御苦労様、と来海にねぎらいの言葉を掛けてから、やや注意深く口をひらいた。

「ところで来海、彼らの喋り方に特徴的なところはなかったかな」

「特徴、ですか?」

「そう。たとえば、関西地方特有の訛りがあったとか」

「いえ……なかったと思いますが」

 面食らう来海の隣で、実那伊が、は、と目をひらいた。

「まさか、御影みかげの者が――?」

「あ、いや、それァありませんよ」

 すかさず来海が否定した。が、それが思いのほか無責任な軽薄さをもって響いたことに自分でびっくりしたらしく、慌てて口調を改める。

「御影家が動いているかどうかはわかりませんが、少なくとも、伊明様を逃がしたヤツらは違います。連中は、おそらくギルワーです。匂いがありましたンで」

 ふむ、と卦伊はふたたび思案顔で、袂のなかで腕を組む。
 卦伊の思索を助けるように、実那伊がそっと口をひらく。

「御影家は、ギルワーとの繋がりも持っているとは聞きますけれど――御木崎家うちに仕掛ける際の手駒にするとは考えにくい。佐伯和佐が事前に手を打っていたとも思えません。……とすれば、残る可能性は――」

「『遠野』、か」

 浮かんだ兄の知人の名。吐き捨てるように卦伊がいう。
 直接の交流をもったことは一度もないが、兄があるまじき行動を取るときにはいつも彼の名がついてまわる。

 実那伊も細い眉をわずかにひそめ、頷いた。

「ええ、彼の仕業と考えるのが妥当でしょうね。彼のもとへは張間をやりましたけれど――ギルワーでない以上、取れる手段は限られていますもの」

「厄介だね。いっそギルワーであれば、ことは簡単なんだけれど」

 物憂げな溜息をつく卦伊に、来海が申し訳なさそうな顔をして小さくなった。敵の罠にまんまとはまったことに責任を感じているのだろう。

 卦伊は表情を緩めた。

「まあ、伊明君が御影の手に落ちたのでないだけ良かったよ。来海、次こそは頼むよ。張間のあとを継ぐのはお前だと、僕は思っているんだから」

 所在なく揺れていた来海の瞳に輝きが戻る。はい、と力強く頷くと、居ても立ってもいられぬ様子で腰を浮かせ、

「卦伊様、俺ァどう動けばいいですか。伊明様を連れ戻しに行ってきますか」

 まさしく鉄砲玉の目である。卦伊はやわく苦笑して、

「落ち着きなさい、その必要はないから」

「へ?」

 拍子抜けしたように来海が瞬く。

「伊明君はかならずここへ来るよ。張間が琉里を捕まえたからね」

「……張間サンが」

 複雑な顔をする来海に気づかないでもなかったが、卦伊は、知らないふりをして「それに」と付け加えて実那伊を見た。

「兄さんもここにいる」

「――……伊生さんが?」

 今度は実那伊の瞳にほのかな輝きが乗った。静かな声がそっとはずむ。
 卦伊は微笑みを返して、

「琉里を餌にし、盾にとれば、伊明君も兄さんも打つ手はなくなる。焦らなくともすでに王手だ。……すべてが、あるべき形に戻るんだよ、実那伊」

 実那伊はなにも言わないまま、畳に指をつき、ふたたび深く深く頭を下げた。礼を尽くした彼女の辞儀を、卦伊も今度は素直に受ける。やがて顔をあげた実那伊は、少女のように目許をほころばせた。

「……伊生さんに、御挨拶に行ってまいります」

「ああ、行っておいで」

 部屋にいると思うから――そう添えると、実那伊は控えめな頷きを返して立ちあがり、いそいそと部屋を出て行った。

 その背中を見送りながら、来海にも下がって休むよう告げる。

「……さて」

 ぴとりと襖が閉まってようやく、卦伊は残された息子へと目を向けた。

 まるで石像のように、色をなくし、一言もはさまず身じろぎもせず――識伊は、襖の前で固まっていた。

「大丈夫かい、識伊」

 識伊はちょっと目をあげただけでなにも言わなかった。
 卦伊もそれ以上声を掛けることはしない。どこまでも気長に、息子が口をひらくのを待っていた。

「……父様」

 頼りない、細い声。

「やはり、ぼくには無理なのでしょうか」

「――何に対して言っているのかにもよるね」

 識伊は悄然と畳に目を伏せた。

「今日、初めて……狩りを見たんです。想像していたものとあまりに違っていて、ぼくは――自分でも情けないと思うけれど、宗家の人間にあってはならない感情だとも思うけれど、でも、ぼくは……」

「怖くなってしまったかな」

 識伊は項垂れた。
 膝に置いた手が、かたい拳をつくって震える。

「……学校を休んでまで母様についていったのは、ぼくも……ぼくでも宗家の役に立てると、証明するためでした」

 ――昨夜。
 実那伊と卦伊は今日の計画について話し合いの時間を設けていた。

 実那伊の目的は、もともとは伊明を連れ戻すことのみだった。卦伊はそこに琉里の捕獲という第二の目的を提示して、伊明のスマートフォンから入手した番号のリストを彼女に渡した。

 その際に、安良井あらいの事務所にもしかしたら佐伯さえき和佐かずさが居るかもしれない、もし居ればそれも捕獲してしまおうと話が進んだ。

 ――あの女に関する様々な事柄は、すでに宗家も把握している。ギルワーの情報は芋づる式に手に入る。失踪し、姿を隠してしまった伊生の行方を捜すよりもよほど容易なのだ。

 それをどこで聞きつけたか、聞いてなにを思ったか、今朝になって識伊が同行したいと言ってきた。これも一つの勉強だと卦伊は快諾し、実那伊も同意したのである。

「母様はぼくに狩りをさせて、それを伊明に――」

「敬称をつけなさい、名を口にするなら」

 識伊は少しばかり顔をゆがめて、あの人に、と言い直した。

「――見せつけるつもりで、いたんです。なのに、なのにぼくは」

「識伊」

 優しく声を掛けてやる。無自覚だろうが、顔をあげた識伊は縋るような目をしている。十三歳の少年らしい目。彼が年相応の顔をするのは自分の前だけであることを、卦伊はよく知っている。

「おもしろいものだね、識伊」

 識伊がぱちぱちと目をしばたかせる。
 くすりと笑って、卦伊は続けた。

「じつは僕も、初めて見たのが兄さんの狩りだったんだよ。たしか、十五のときだったかな。お前よりも少し遅いね」

 あれからずいぶん時が経った――懐かしさに双眸を細める。

「僕も混乱したよ。ギルワーの存在は、知識としてはあったけれど、実際に目にしたのはその時が初めてだった。薄暗い、あの地下牢でね――今でもよく憶えているよ。湿気た埃、黴のにおい。むせかえるような甘い、血の薫り。ギルワーの瞳の色が変わった瞬間や、猛獣のように歯を剥いて兄さんの腕に噛みつく姿。狂ったように身もだえて死んでいく様子。褪せた世界で……兄さんの着物の蒼さとあざやかな血だまりが、いまでも鮮明に、僕の記憶に刻まれている」

 伏せた瞼の裏に浮かぶ、蒼と紅のコントラスト。
 そのなかに浮かびあがる、氷のごとく冷えきった兄の表情。

「兄さんは終始、薄笑みを浮かべていてね。僕にとってはそれがなによりも強烈だった」

「……薄笑み、ですか?」

 瞼をあげれば、どこか困惑したような識伊の表情。
 卦伊は、そう、と笑みを深めた。

「お前はまだ知らないかもしれないけれど、ギルワーの吸血には激しい痛みを伴うんだよ。いい歳した大人の僕でさえ叫びだしたくなるほどのね」

「たしかに……悲鳴をあげてた」

 あいつも、と口のなかで呟くのを、『あいつ』はないだろう、とたしなめてから卦伊は机上にひらいたままの書物を閉じて立ちあがった。庭に面した障子を開ける。

 外にはすでに夜が落ちていた。ほんのりと秋をにおわせるような澄んだ空気が、心地よく頬を撫でていく。

「識伊。僕たちがこうまで兄さんに傾倒しているのは、なにも血の濃さだけではないんだよ。彼は、シンルーの頂点に立つために生まれてきたのだと――そういっても過言ではないほどの素質を、生まれながらに持っていた。
シンルーの御役目に対する義務感だとか、ギルワーへの憎悪だとか――怖れや罪悪感だとか、そんなくだらないものは一切もたない。ただ静かに、至極当然のようにギルワーを狩っていく。それができるのが、兄さんだ。……お前にもぜひ見せてやりたかったけれど」

 ――きっと、しばらくは無理だろう。彼がシンルーとしての自我を取り戻すまでは。

 障子のふちに背中をあずけ、夜の闇と室内の明かりとに挟まれながら卦伊はそっと嘆息する。

 識伊がなにか物言いたげに口をもごつかせた。けれどすぐには言葉を発さず、やや思案の間をもってから慎重に、口をひらく。

「……母様が、言っていました。痛みと血――二つの犠牲を払って、シンルーは世界の秩序を守っていると。ぼくたちがギルワーを狩ることで、人間たちは護られているのだと。……事実、奴らは姿を隠しているし、昔にくらべてギルワー絡みの事件も減った」

「よく知ってるね。それも実那伊から聞いたのかい?」

 識伊は一瞬、プライドを傷つけられたような顔を見せた。まっすぐに卦伊を見返す。

「ぼくだって宗家の人間です。そのくらい知っています」

 凛と言いきる。その強い口調のまま、

「シンルーの中には、事前に血を抜いておいて、それをギルワーに飲ませる者たちも居るそうですね」

「ああ、分家の末端に多いというね。来海の家がそうだったかな、たしか。そのほうが楽には違いないからね。――まあ、来海本人は『腑抜けどもですよ』なんて蔑んではいたけれど」

「腑抜けですよ」

 間髪入れずに識伊が言った。

「シンルーの誇りを捨てている。でもそれは、来海の家やほかの末端たちに限ったことじゃありません。……伊明や、あの伊生って人だって」

「識伊」

 針のような――静かながらも鋭い叱責。

 識伊が口をつぐむ。卦伊の瞳から逃げるように畳へと目を伏せてしまった。

 刺すようなつめたさ、厳しい声音。普段穏やかに接しているだけに、それらが息子にどう作用するのか、卦伊はそれも知っている。

「なんのために僕やお前がいると思っている。……伊生兄さんはギルワーに唆され、そと・・に長く居すぎだせいでかなり鈍くなっているし、伊明君はそもそもそと・・で育っている。最初からうまくいくなんて、僕も実那伊も思っていない。だからこそ僕たちが支えるんだろう」

 識伊が唇をわななかせた。

「……納得が、いきません。あいつらよりも父様やぼくのほうが――」

「慎みなさい、識伊」

 冷然と、言い放つ。

「お前には無理だよ」

 識伊の顔が、ぐにゃりとゆがむ。
 実父の否定は、なによりも、少年をうちのめす。

◇  ◆  ◇  ◆


 弟の言っていたとおり、伊生の自室は、見事に当時のまま残されていた。

 文机と小さな書棚が置かれているだけの、飾り気のない和室である。

 あれから十七年も経つというのに塵ひとつ落ちておらず、埃のかぶった形跡さえどこにも見えない。定期的に畳が張り替えられ、換気も常にされているのだろう。和室を満たすいぐさのかおりに寂れた感じは少しもなかった。

 それが逆に、居心地が悪い。

 障子を開けて外廊下に出てみると、こちらもまた、昔となんら変わりのない殺風景が広がっている。
 目の前に見えるのは、物置として使用している蔵である。閂で閉ざされたそれが三つほど並んでおり、門のほうへ目をやると、黒いセダンの並ぶ車庫が見える。

 離れのある庭の、ちょうど反対側なのだ。

 先ほどまで卦伊と向かい合っていた客間や、卦伊や実那伊など宗家の者が使う和室は、基本的に向こう側――外庭に面して並んでいる。
 こちら側はおもに住み込みで働く仕え人の起居する部屋となっているのだが、当時から情緒とは無縁だった伊生は、あえてこの殺風景なほうに自室を置いた。

 伊生はしばらく黙然と腕組みをし、どこともつかず外を眺めていたが、ふいに踵を返して部屋を出た。

 内廊下に待機していたKratクラートの青年がびっくりしたように伊生を見あげる。

「伊生様、どちらへ」

「いま地下牢には誰かいるか」

 だしぬけの詰問。青年は目を白黒させる。

「あ、いえ、たしか、あいにく――」

「そうか」

 伊生は何事もなかったかのように青年の前を通過して、内廊下を奥へと向かう。きょとんと見送りかけた青年が、その背に付き従おうと慌てて足を踏みだす――と。

「伊生様」

 青年のものとは違う年季の入った低い声が、伊生を後ろから呼びとめた。

 長い付き合いのあった相手だ。誰かは見ずともわかる。

 伊生がちょっと振り返ると、立ち往生している青年の向こうに、初老の――といっても老いのかけらも感じさせない、彫刻のごとき男が立っていた。張間である。

「ご無沙汰しております。お元気そうで」

 まったく、なんの温度も感じられない声音は相変わらず。かくいう伊生の表情にも、さしたる変化はみられない。

 二人して、時の隔たりなどないも同然の澄まし顔を、見合わせる。

「地下室へ行かれるのでしたら私がお供いたしましょう」

「あの、私はどうすれば……」

 伊生の目付を仰せつかっているらしい青年が、戸惑いがちな小声を発する。

「ここに残れ。なにかあれば報せを頼む」

「はあ、しかし」

 釈然としない様子で、青年は空っぽの部屋を振り返った。

 ここに配属になったばかりか、あるいは急きょ応援にでも駆り出されたのだろうと、伊生にも容易に推測できる。張間もかんで含める調子で、

「外ならばともかく、無線連絡の手段のないこの敷地内では、伊生様の居場所を伝える者が必要だ。卦伊様にしろ、何かあればここに遣いをやる筈」

「はあ、なるほどですね――」

 理解したのかできずにいるのか。間の抜けた返答である。

 亡き父がこの場に居合わせたらさぞ激昂することだろうと張間を横目に見ると、彼もまた同様に思ったのか伊生にちらと視線を流し、どこか愉快そうに――およそ他人にはわからない程の微々たる筋肉の弛緩であるが――目許を緩めた。

「……それに」

 張間が足を踏みだす。青年の前を通りすぎながら、

「いざというとき、君では太刀打ちできんだろう」

 はあ、と生返事をする青年にはもう目もくれず、伊生の左斜め後ろについた。ごくごく自然に、当然のように――昔のように。

 伊生は無表情に張間を見やったまま、

「いまさら逃げやしない」

「ええ、承知してはおりますが」

 基本的に張間は感情の起伏を表に出さない。が、それでも「はい」「いいえ」のあとについてくる言葉やその調子から、伊生には多少なりとも推し量ることもできる。

 少なからず上機嫌であることは、間違いなかった。

 視線をはずした。張間、と呼び掛ける。

「琉里は無事か」

「ええ。今のところは」

 伊生は細く息を吐いた。地下室へと、足を向ける。

 この屋敷は『回』の字によく似た造りになっている。
 外庭に面する表側、蔵や車庫に面する裏側、それぞれに並ぶ居室・客間をはさんで板張りの外廊下と内廊下が伸びており、途切れた奥には炊事場や風呂場、手洗いなどが横に連なる。

 玄関を含むそれらが外側の『口』を細長く描き、内側の小さな『口』は閉ざされた内庭となっている。

 外庭と違って、こちらは苔むした枯井戸みたような石造りの円筒があるだけの、ほとんど人の手の入っていない寂れた空間だった。内廊下の壁に阻まれ、家人の目にも滅多にふれない。
 そこに出るための木戸も、炊事場の向かいにひとつ拵えられているだけだ。こちらもひらかれることは滅多にない。

 ゆえに閉ざされた内庭である。

 地下室は――その下にある。

 内庭へ続く木戸から二、三歩横に逸れたところに、床に埋め込まれた押し上げ式の扉がある。それを開けると地下へ続く階段があらわれ、下れば彼らの地下牢と呼ぶ、暗く、黴と埃と血の匂いの染みついた濁った空間にたどりつく。

 ここに滞留するこの濁りきった空気こそが己の罪の集約されたものと――伊生は、思う。

 張間を上に残してひとり地下に降りた伊生は、罪過の坩堝に我が身を沈めるように、その中央にただじっと佇んでいた。

 彼の見つめる先には、木製の格子がある。

 ギルワーを閉じこめるための檻である。

 檻の中には真上からライトを当てたような円い光の輪が落ちている。これは内庭の枯井戸――もともと井戸として作られたものではないそうだが――から差しこむもの。間もなく陽も落ちるのだろう、その明度はかなり弱い。

 どのくらいそうしていたろうか。

 光の輪がすっかり消えて、しんとした闇に満たされたころ。

 ぱち、とスイッチを入れる音が後ろで聞こえた。左右の壁に設置された蛍光灯がまたたいて、古ぼけた白光が人工的に地下室を照らしだした。

「――伊生さん」

 褪せた光でも闇に慣れた瞳には眩しい。
 両目を細めて振り返ると、階段を降りたあたりに濃い影が浮かびあがっているように見えた。

「ご無沙汰を――しております」

 ゆっくりと深く、影が折れる。白光を反射する艶やかな黒髪が、蜘蛛の糸を散らしたようにさらさらと細く揺れる。明度に慣れ、その一本一本が目に留まるようになったころに、その影はまたゆっくりと姿勢を戻した。

 感慨を込めた黒い眼が見つめてくる。

 声で判断はついていた。実那伊か、と声には出さずにつぶやいて、伊生は冷淡な瞳を檻へ戻す。

「……無沙汰でもないだろう」

 伊明たちには言っていないが――彼女とは、琉里が倒れた翌日に会っている。伊明が彼女と接触したことを知り、こちらから連絡を入れて外で会っていた。
 彼女が言伝ことづてとして残した、『今後のこと』を話すために。
 あれから半月と経っていない。

 しかし実那伊は、いいえ、といった。

 静かな地下室に衣擦れの音をこぼしながら、楚々とした足運びで伊生の少し前に出る。体をわずかにこちらに向ける。

 嫌でも彼女の姿が、顔が、視界に入る。

 真ん中でわけた前髪がこめかみをすべって鎖骨のあたりに流れているのを、実那伊ははにかむように指先で梳きながら、

「卦伊さんから……あなたが戻ってきていると聞いて、御挨拶に参りました。お部屋のほうにいらっしゃるのかと思いましたのに――」

「戻ってきたわけじゃない」

 伊生は静かにそう告げた。
 けれど実那伊は微笑みをくずさず、

「でも、この家にいらっしゃる。ここにいて――……私はいま、あなたの御傍にいる」

 陶然として言った。己の言葉を、自分自身に沁みこませるように。
 だがそれは、伊生の鼓膜すらふるわせない。

「伊明はどうした」

 どこまでも、平淡に、

「遠野や他の連中は」

 己の訊きたいことだけを、伊生は口にする。

 髪を梳く手がぴたと止まり、彼女を取りまく空気がにわかにツンと張りつめた。

 それが何を意味しているのか、判断しかねた。

 伊明の連れ戻しに失敗でもしたか、そうではなく単に伊生が彼女の言葉を無視したからなのか、あるいはまったく別の何かか――。

 実那伊の顔へ目を向けると、洞穴のような漆黒の瞳がじっと伊生を見つめている。

 感情の読めない、人形のような顔。

 昔から実那伊は時折こういう顔をする。が、目が合うとすぐに微笑みを取り戻す。まるで、止まったねじを巻き直すみたいに。

「懐かしいですね、ここ。私が伊生さんと初めてお顔を合わせたのも、ここでした」

 実那伊の瞳はじっと伊生に注がれたまま、動かない。唇だけが機械みたいに言葉を紡ぐ。一方通行の言葉と感情、一方的な感慨と微笑。

「ね、伊生さんは憶えていらっしゃる? ……私はようく憶えてる。桜吹雪の美しい、春の終わり――」


 許婚同士の初顔合わせは、実那伊が十六歳、伊生が十八歳を迎える年の――そう、桜の散る春の終わりに行われた。

 その日、実那伊は両親に連れられて初めて宗家を訪れた。

 しかし伊生は朝から外出していて約束の時間になっても帰ってこず、実那伊たちは一時間以上も待たされた。そうしてようやく帰宅したかと思えば今度は客間に顔を出すことなくそのまま地下へ入ってしまった。

 若かりし張間が――といってもすでに三十半ばであったが――めったに動かない眉間に微かな当惑の色を乗せて、当時の宗家当主、つまり伊生の実父である伊亮にそれを伝えると、伊亮は憤慨した様子で勢いよく座を立った。

 許婚である伊生の評判を聞き知っていた実那伊は場を収めるためでも勿論あったが、純粋な興味もあって、言った。

 伊生様の狩りの御姿、拝見致したく思います――と。

「今だから言えますけれど――あのとき私、伊生さんは女性に興味を抱けない方なのかと思いました。もしや男色家ではないのかしら、って」

 おかしそうに笑いながら語る実那伊に、さすがに伊生も眉をひそめた。実那伊はいっそう楽しげに続ける。

「だって、私を見てもにこりともなさらないんですもの。これでも、当時は男性に好意を寄せられることも、それなりに多かったんですよ。気難しいと評判だった先代――お義父様も私にはとても優しく接してくださいましたしね。……卦伊さんも、そう」

「あいつは――」

 言いかけ、とめた。「いや、いい」と自ら打ち消す。

 実那伊の笑みになにか卑しいものが混じっているように見えたのだ。檻へ瞳を戻すかたわら、思いだしたように「男色の気はない」と強めに添えておく。
 くす、と喉を鳴らした実那伊も、つられるように檻へ顔を向けた。

「わかっています。……わかっていました。伊生さんの狩りを見て、すぐに私、気がついたんです。だって、あんまりにも神々しかったから。本当に、まるで神様が裁きを下すようでしたもの。きっと伊生さんは、ギルワーを狩ること以外になんの興味も示されない方なのだと、そう思いました。天命をまっとうすることにこそ、あなたの心は動くのだと――宗家の次期当主様としてこんなにも相応しい方はきっとほかにはいない、と――」

「でも間違っていた。違うか?」

 実那伊は、とたんにその瞳を昏くした。口をつぐみ、胸の前で手を結ぶ。それは、祈るような、己が心を包むような――あるいは裂けたものを懸命につなぎとめるような――そんな所作だった。

「……私の目は間違っていない」

 うつむいた横顔に、黒い髪がひとたば落ちる。

「間違っていないのです。ただ、あなたが思わぬ過ちを……犯してしまっただけ。犯さざるを得なかっただけ。薄汚いギルワーの女に騙されて――」

「騙されてないよ」

 実那伊が顔を上げた。洞穴のような双眸が、ふたたび注がれる。

「何度も言っただろう。俺や伊明に固執しなくとも、この家には卦伊がいる。識伊、といったか――卦伊の息子もいる。天命などクソ食らえと思っている俺よりよほど相応しく、よほど頼りになるはずだ。――宗家のためを思うのなら、そうすべきだよ、実那伊」

 この声は――やはり打算的な優しさとして、実那伊の耳に響いたろうか。それならそれで構わない。

 伊生は体の向きを変えた。はじめて真っ向から彼女を見下ろす。

「実那伊」

 静かに、そっと呼びかける。

 胸元に置かれていた彼女の手が、ぴく、と跳ねた。瞳がしとりと濡れている。実那伊は口を強く引き結んだまま逃げるように顔をそむけ、身をひるがえした。階段のほうへ二、三歩進み、足を止める。

 はすに背中を向け合う形になった。
 伊生は首を動かすことなく、声のみで彼女を追いかける。

「……実那伊、俺は」

「これ以上」

 忠告のために発した言葉が、撥ねのけられる。ぴしりと、鉄線を振るうような硬さでもって。けれど次には、その声さえもふるえだした。

「……よばないで」

 伊生が実那伊を振り返る。と同時に彼女もまた首をめぐらせた。ひそりと持ちあげた唇に、哀しげな微笑が乗っている。

「あなたって、本当に酷い人。……私、ずっと待っていたのに。いつか、あなたがその瞳に――私の姿を映してくれる日が来ることを。私の名を呼んでくれる日が来ることを。待っていたのよ、――ずっと、ずっと」

 ――あの日から、ずっと。

 その微笑みは、涙の代わりのようだった。

 思いがけない表情が、伊生の瞳を微かに揺らす。
 実那伊はふたたび背を向けた。そうして毅然と言い放つ。

「伊明を取り戻すことは叶いませんでした。あなたの御友人にまた邪魔をされてしまったから。でも――狩りを、させたわ」

 伊生が大きく目をみひらいた。

「佐伯和佐。よく御存知でしょう――」

 そう言い残して、実那伊は地下室から出て行った。振り返ることもなく、愕然と立ち尽くす伊生を置き去りにして。

 地下室に、扉の落ちる音が重たく響く。

 がちゃんと、錠のおりる音とともに――。



◇  ◆  ◇  ◆


 救出劇から一時間ほどが経っていた。

 ときどき渋滞に巻き込まれながら下道を走り続けていた遠野の車は、帆村町ほむらちょうという川沿いの町の一画で、ようやく伊明たちを吐きだした。

 道中、完全に運転を柳瀬に任せて遠野は『ミカゲ』という男に電話をしていた。

 伊生の名を出し「今から伊明を連れていく」とごく簡単に彼が告げると、「お待ちしとります」と――どこか聞き覚えのあるイントネーションとすこぶる陽気な声が、その施設の所在地を述べた。

 そのやり取りは隣に座る伊明の耳にも届いていた。

 遠野が手にしていた紙切れに――父のものらしき硬質な字で――記されている住所とまったく同じであることにも、気づいていた。

 シンルーの隠れ家と、遠野は言っていた――が。

 本当にここが、そうなのだろうか。

 車を降りた伊明は茫然と施設の外観を見あげた。『隠れ家』というずばりすぎる看板をダイナミックに掲げた――まるで、高級旅館である。

 和モダンとでもいうのだろうか、意匠を凝らした近代的なデザインの建物は幅の広い三階建て。敷地内には大きな駐車場もある。こじんまりした竹林をはやしていたり、石燈籠を置いて日本庭園らしきものを造っていたりもする。

 表玄関から中へ入ると、旅館のそれと相違ない小綺麗な受付カウンターがあり、広いロビーもあり、そこに設置された館内案内図を見てみると大浴場や貸切露天風呂、遊技場、レストランが二つ――などなど、とんでもない充実っぷりである。むろん客室らしき部屋番号も2F、3Fの表示の下に並んでいた。

 ただ、そのわりに人の気配はなかった。
 出入りする人も行き交う人もなく、声も聞こえない。従業員の姿も見えない。

 しんと静まり返っている。

 遠野にくっついて受付カウンターまで足を進めた伊明は、横に並んだ柳瀬と顔を見合わせ、本当にここか、と問うように遠野を見やった。静かすぎて声を出すのも憚られる。

 遠野も、たぶん、同じような感情を抱いているのだろう。狐につままれたような顔で肩をすくめる。ぐるりと人気のないロビーを見まわし、伊明たちと再度顔を見合わせてから、受付カウンターに置かれていた呼出用のベルをリンと鳴らした。

 少しの間があってから、受付の奥にある扉から浴衣姿の――宿泊客が着るような単色の浴衣に袢纏を羽織っただけの、およそ従業員には見えぬ――若い女性が現れた。

 遠野が来意を告げる。

 彼女はじろじろと無遠慮に伊明たちを眺めてから、「あちらでお待ちください」と派手なネイルで飾り立てられた人差し指でソファセットの並ぶロビーを指さし、内線電話の受話器を取り上げ「トーノさんって方がお見えですけど」と不愛想に言って、また奥に引っ込んでいった。

 やっぱり旅館として運営しているわけではないのね、と柳瀬がぽつんと呟く。

 ソファセットに移動して、間もなくのことだった。ポォンと到着音を響かせて、ロビー奥のエレベーターが開いた。

 急いた様子で出てきたのは、秋だというのにアロハシャツにベージュの短パン、素足にサンダルという南国チックなスタイルの、くまみたいな――というよりテディベアみたいな小柄な男だった。

 輪郭という輪郭が丸みを帯びた、愛嬌のあるシルエットである。

 彼は、ロビーに伊明たちの姿を見つけると、まるでゴム毬がぼよんと弾むような方向転換をみせた。早歩きだったのが、小走りに変わる。

 柳瀬が立ちあがり、それに引っぱられるようにして伊明もソファから腰を浮かせた。柳瀬に促されて、ふんぞり返って座っていた遠野もようやく身を起こす。

 三人の前にやってきたテディベアみたいな男は「すいません、お待たせしてもうて」とやっぱりゴム毬がバウンドするようなお辞儀を繰り返して、顔にふきだした汗をハンカチでせっせと拭った。もう片方の手で「どうぞお掛けください」とソファを指し示す。

 受付に背を向ける形で伊明、硝子テーブルを挟んだその向かいに遠野と柳瀬が並び、男は隣のソファを引き寄せて、伊明たちと直角になるように座を取り、ようやく場が落ち着いた。

「いやあ、どうもどうも。遠路はるばるようこそおいでくださいまして」

 膝に両手を乗せてもう一度深くお辞儀をした男が、明朗快活な笑顔を見せる。

「伊生さんからうかがってます。初めましてやね、ええと、伊――伊――」

「……伊明、です」

「そお、伊明君!」

 びし、と人差し指を突きつけられる。その手はすぐに引っこめられ、今度は彼の胸元にひらいて置かれた。口も動きも忙しない。伊明たちは呆気に取られたままでいる。

「僕はここの若旦那さんです。御影みかげ佑征ゆうせいというもんで、君と同じく直系のシンルーです」

「え? 直系の、シンルー……?」

「そうです」

「み、かげ」

「そうです」

 シンルーの証は特殊な血と伊の文字と、御木崎という苗字――なのではなかったか。目をしばたかせる伊明に御影佑征も首を傾げかけたが、

「ああそうか、伊明君は知らんのですか」

 急に思いだしたように首の角度を戻してぽんと手を打った。

「シンルーの血を守ってるんは、なにも御木崎家だけやないんですよ。日本中に――いや、言うたら世界中にあるんですけど、まあ、あえて日本限定にさしていただくとね。国内でも御三家と呼ばれるくらいに有名なんが、伊明君の血統たる御木崎家。そして――」

 にい、と笑って太い指を立てる。

「うち。御影家も、そうなんです」

「……御木崎家だけじゃ」

「ないんです」

 言葉じりをさらって頷き、御影佑征は膝の上に手を戻した。

 伊明はあらためて、同じシンルーであるという御影佑征をまじまじと眺めた。御木崎の人間ばかりを見てきたせいか、ちょっと、信じられないような気持ちになる。

 御影佑征はおどろくほど朗らかだ。御木崎側の人間に感じる青い焔のような、静かで、陰惨な迫力はまったくない。

 彼の笑顔は人懐っこい。テディベアと喩えたくなる愛嬌を撒き散らしている。ぷくぷくした顔にそれは小さすぎるだろうと誰もが思うような四角いフレームの細い銀縁眼鏡。カジュアルすぎる服装。ころころ丸い体格。身長も170センチあるかどうかくらいで、話している最中も身振り手振りよく動く。

 どこかファンキーな感じである。
 歳は三十代前半くらいだろうか。もう少し若く見えなくもないけれど。

 伊明が観察しているあいだにも、御影佑征はファンキーに一人で喋りつづけた。

「御木崎家は過激派、御影家うちは穏健派としてとおってます。ヘンタイ的なシュミを持っているとはいえ、ギルワーも人の子です。シンルーかて人の子、みんなみんな生きているんや友達なんや、なんて歌もありますし、人類みな兄弟いう言葉もありますしね、できるかぎり共存の道を歩むべきやと、まあ、うちの代表はそう考えとってですね――」

 これは――いったい、どこからツッコむべきなのか。

 ギルワーの性質は悩ましい本能であって『ヘンタイ的なシュミ』ではけっしてないし、有名な歌も関西弁に変換されているし――そもそもそこまで訊いていない。というか、こちら側はまだ自己紹介さえさせてもらっていなかった。

 しかし御影佑征は、やっぱり喋りたおそうとする。

「御木崎家と違って、僕たちが狩るんは犯罪を犯して法から逃げとるギルワーのみでしてね――」

「悪いが、すまん」

 辛抱堪らずといった様子で、遠野が片手を突き出した。

「興味深い話ではあるが、ゆっくり聞いてる場合じゃない。今、ちょっと厄介な事態になってる」

「御木崎家がいよいよ強硬手段にでましたか」

 人差し指を立ててすんなり返してくる御影佑征に、遠野は面食らったように声をのんだ。続いて中指を立て、御影佑征がさらに続ける。

「ここにおるんが伊明君だけやいうことは、エミちゃんは敵の手中に落ちたっちゅうことですね」

「……エミ?」

「琉里です」

 訊き返す遠野、すかさず訂正する伊明。
 ――誰だ、エミって。

 御影佑征は悪びれもせずに「そう琉里ちゃん」と頷いてから、さらに親指をひらいた。

「しかも伊生さんも敵の手の中。身動きが取れなくなっている、と」

「え……?」

 とたんに伊明の表情がこわばった。

「いや、それはわからねえが――」

 と、遠野が気遣うような視線をちらと寄越す。

「まず間違いないでしょう。無事やったら、とっくに僕んとこに連絡が入ってるはずですから」

 ――身動きが取れなくなっている? あの父が――?

 遠野が苛立たしげに舌打ちをした。御影佑征を睨みつける。

「確かな情報はなにもない、それに関しちゃなんとも言えねえが――」

「いや、それがですね」

「ともかく」

 強く、遮る。

「向こうはなんとしてでも伊明を連れ戻そうと動くはずだ。御木崎――あー、伊生、からあんたに預けりゃまず大丈夫だと聞いてる。こいつらを頼めるか」

「待ってください」

 伊明と柳瀬の声が重なった。聞こえなかったわけではないだろうに、なんだ、と遠野が顔を向けたのは柳瀬のほうだけだった。

「こいつらって、私も?」

「あたりまえだ。お前もツラ割れてんだぞ」

「そりゃ割れてるんでしょうけど――って、もしかして私も狙われるかもしれないってことですか?」

「かもな。わからねえが、とにかく可能性はできるだけ潰しておいきたい。っつうかそもそも、アシもねえのにどうやって帰るつもりなんだお前は」

「アシは、だって――」

「あのう」

 声を割り込ませた御影佑征が、頬を掻きながら遠慮がちに、

「お姉さん、ギルワーやないんですか?」

 一瞬にして、場の空気が凍りついた。

 いきなり看破されるとは思ってもいなかったのだろう、柳瀬は心底おどろいたように目をまるくし、遠野はあからさまに警戒の色を浮かべた。

 伊明の脳裡にも――いまだ整理のついていない厭な記憶がフラッシュバックする。シンルーに囲まれて、血に沈んだ和佐の姿。つめたい汗が背中ににじんだ。

 空気が一変したのに気づいたらしい御影佑征は、いや違います変な意味やないです、と慌てふためき顔の前で手を振って、うちの方針はさっき話したでしょう、と額にふきだした汗を拭い拭い、

「こちらは誰であろうと構いませんし、いくらでも匿います、部屋は死ぬほどありますし。ただ、いかんせんシンルーだらけ、というかシンルーしかおらんとこですから……ギルワーのお姉さんにはつらいんやないかと思いまして」

「……ああ、いえ……血を見ないかぎり大丈夫です。私、純血ではないので」

 そういうことか、とほっとしたように柳瀬が言うと、

「そうでしょうけども」

 すぐさま御影佑征が頷いた。
 純血ではない、それすらも知っているという様子で――。

「あの、わかるんですか、そういうの」

 伊明は思わず訊いていた。

 会ったばかりではあるけれど、御影佑征は、伊明が『血』を知ってから初めて出会った、同士、と思える人だった。昨日父と話したときは琉里のことで頭がいっぱいでそれどころではなかったし、御木崎家の人間はあまりにも異質すぎた。

 御影佑征は愛嬌あふれる丸い両肩を持ちあげて、

「そらわかりますよ。伊明君、わかりませんか? この匂い」

 残念ながら伊明の嗅覚はなにも捉えていなかった。でも、匂いと聞けば思い当たるものがある。

「甘い、匂い……?」

「そうそう。ギルワーの血を、僕らは本能的に嗅ぎ分けることができるんです。匂いの強さで、純血かそうでないかもある程度は判断つきます。ちっちゃい子相手やと無理やけど……たぶん、あれですわ、シンルーに反応するギルワーの血に、僕らの本能が反応するんやと思います。直系に近ければ近いほど精度は上がる」

「直系っていうのは」

「御木崎家でいう宗家の人間ですね」

「……そうだったのか、俺はてっきり」

 と、遠野が呟きながら伊明を見た。

 伊明がそうであったように、柳瀬ほど血が薄ければ気づかれないと踏んでいたのだろう。だからこそシンルーの巣窟ともいえるこの場所に――御影家が穏健派と聞いたからというのもあるだろうが――伊明とともに柳瀬の保護も頼もうとしたのだ。

「まあ、これまでに、どのくらいの数のギルワーと接触してきたかっちゅうのもありますよ。聞いたら伊生さん、一般人とおんなしように伊明君を育てとったらしいですし……考えたら、そらたしかに無理ですわ。経験人数がモノを言うんやから。コレと一緒ですわ」

 遠野に向けて小指を立て、御影佑征がからから笑う。

 五十路を越えたオッサンのような――ちょっとゲスめの――冗句を、遠野は完全に黙殺した。ぴくりとも表情筋を動かさない。代わりに柳瀬がほほほと愛想笑いを返したが、口角が完全に引きつっている。

 妙な沈黙が流れた。

「まあ、冗談はさておき、ですね」

 御影佑征が咳払いもって幕を引き、話の道筋をもとに戻す。

「伊明君と――ええと――」

 柳瀬です、とようやくの自己紹介。

「柳瀬さんですか。お二人をいったんこちらでお預かりするということでよろしいですか」

「ああ」

 頷いて、遠野が立ちあがった。伊明が瞳で追いかける。

「遠野先生はどうするんですか」

「センセイ? 教師ですか」

「医者だ」

 意外そうにする御影佑征に短く答えてから、遠野は伊明を見下ろした。

「琉里とお前の父ちゃんを、迎えに行ってくる」

 ――そうだろうと、思っていた。

「俺も行く」

「駄目だ。お前はここにいろ」

「琉里は俺の妹だし、こうなったのも俺が原因だ。俺も行く」

「駄目だっつってんだろうが。だいたい、お前のせいじゃない。何度言やわかるんだ。原因を作ったのはお前の父ちゃんであって――」

「だから」

 語気を強めて、伊明がいう。

「俺も行くって言ってるんです」

 遠野は口をつぐんだ。伊明の瞳をじっと見返してから、はあ、と太い溜息をだして額を押さえ、

「伊明。お前の気持ちもわからなくはねえんだ。家族がピンチだってのに、お前一人じっとしてろなんて――そりゃ酷だと、俺も思う。俺がお前でも我慢できねえだろう。けどな、考えてもみろ。琉里は宗家に攫われて、いわば人質状態にある。御木崎が――あいつが今どういう状況なのか判断しようもねえが、いくらなんでも木に縛りつけられてタコ殴り、なんてことはまずないだろう」

「……それは」

 そうだろうけれど。

「宗家の奴らがあいつに圧力を掛けるとしたら、琉里を使うはずなんだ。――いいか、伊明。そこにお前が飛びこんで、万が一にでも捕まってみろ。最悪だ。宗家の切り札は二枚になってあいつは完全に動けなくなる」

「…………」

「御木崎は馬鹿だが、阿呆じゃない。なにかしらの手は打ってあるはずなんだ。撹乱するくらいなら俺一人で十分だろうし、俺だけならおそらくあいつも動きやすい。――まあ、歓迎はされねえだろうが」

 余計な世話だとでも言われそうだ、と付け足して、遠野はちょっと笑った。

 彼が止める理由も、聞けばたしかに納得はできる。ただ――。

「向こうには、張間がいる。遠野先生、敵わなかったんだろ」

 あえて、言葉は選ばなかった。
 遠野が不愉快そうに眉間にしわを刻んだが、伊明は構わず続けた。

「それに、ほかにも厄介なのがいるんだよ。俺と一緒にいた来海ってやつ――柳瀬さん見ましたよね、灰色っぽい髪の、ピアスだらけの奴」

「え? あ、ええ」

 突然話を振られた柳瀬が、慌てて頷く。

「すごい剣幕で怒鳴り散らしてた子よね、おぼえてるわ」

「そうです。あいつは強いかどうかわかんない――いや、たぶん強いっちゃ強いんだろうけど、それよりも何をしでかすかわかんない、厭な不気味さがあるんです。笑いながら人の手足を折れるような、そんな感じの。……俺や父さんには、たぶん、手は出さないと思う。動けないように拘束するくらいで。でも……琉里や、遠野先生には」

 きっと、容赦しない。

「だからって、お前がついてきてどうにかなるか?」

「……盾には、なれる」

「おい、伊明」

 遠野の瞳に牽制の光が険しく宿ったそのときだった。
 んッんうう、と濁った咳払いが二人の会話を遮った。御影佑征のものである。

「ちょっと、確認さしてもらっていいですか」

「なんだ。くだらねえことなら張り倒すぞ」

 遠野が険しい目をそのまま御影佑征へ向ける。

「はっは、手厳しいなあ。――いえね、伊生さんは、確かに手ェ打ってるんです。それも、結構前――伊明君と、宗家の……ええ、実那伊さんやったかな、彼女が初めて接触したその日の夜に」

「え?」

「とってしまったんでしょ伊明君、実那伊さんからの電話」

 受話器の形を模した手を耳に近づけ、軽く揺らす。

 ――琉里が倒れた夜のことか。

 たしかに父はそれを知ったとたんに顔色を変えた。そして朝方まで戻ってこなかった。こうなることを見越して、あの時にはもう動きだしていたというのか。

「あの、父はなにを――」

「その前に」

 伊明の言葉をのみこんで、御影佑征が人差し指を立てた。

「確認さしてもらいたいことがあるんです。――遠野センセイ、でしたか。ここへ伊明君を連れてきたのは、伊生さんに言われたからやと思うんですけど……彼、なんて言ってました?」

「……伊明たちになにかあればあんたに連絡しろ、と」

「ほかには?」

「なにが訊きたい」

 要領を得ない問答に遠野が焦れる。
 御影佑征は、いえね、ともったいつけるように続けてからニイと笑った。

「伊生さんの打った手、というのが――我々なんですわ」

「……なんだと?」

 眉をつりあげる遠野に、御影佑征が納得顔で頷いて、

「やはり知りませんでしたか。僕はてっきり、そこまで伝わってるもんやと思っとったんですね。それでここへ来たんやろうな、と。けど、話聞いとるとどうも違う。やからまず、そこを確認したかったんです」

「……まわりくどいな、てめえはさっきから。要点をいえ要点を」

「院長」

 柳瀬が一応たしなめるが、わかりますけど、と言わんばかりの顔である。

「はあ、院長センセイやったんですか」

 気の抜けた声に、間の抜けた返答に、遠野のこめかみにいよいよ青いスジがめきりと浮かぶ。さすがにまずいと思ったのか、御影佑征は口早に続ける。

「ええ、さっきも軽く触れましたけども、御影家うちと御木崎家は考え方の違いから長いこと反目しあっとるんです。種族の違いなんて小っさい問題やと思うとる御影家と、シンルー至上主義の御木崎家。伊生さんは、まあうち寄りです。わかりますね?」

 伊明が頷く。遠野は、相変わらず焦れったそうに胸の前で組んだ腕を指でとんとん叩いている。――ここまでささくれだつのも珍しい。煙草が吸えないせいもあるのだろう。

「伊生さん、よう言うとりました。宗家は――あの家は、魔窟やと。いつか誰かが終わらせるべきや、とね」

 遠野の指がふと止まる。その眉間にしわが寄る。

「僕らも思うんですよ。御木崎の連中は、自分らの考え方が古くさいことにも、自分らが狂っていることにも気づいとらんのです。連中がいるから、ギルワーとシンルーの確執はなくならんのですよ。わかりますか? 奴らはギルワーを世の中の癌やと言ってはばからないわけやけども、僕らから言わしたらね、御木崎家の阿呆共こそ平和を蝕む癌なんですわ。――ああ、もちろんね、伊明君や伊生さんは別ですよ」

 そう付け足して、はっはと笑う。
 けれど小さな眼鏡の奥の瞳は、まったく笑っていなかった。

「御木崎家は――昔はそらエラく尊ばれとったんやと思いますけどね、もう時代遅れです。いらんのですよ、現代に、ああいう連中は」

 吐き捨てるように、けれど笑顔で言ってから、御影佑征は膝の上に両肘をついた。組んだ手を口元にあて、少しくぐもった声で静かに言う。

「あの日、伊生さんは僕にこう言いました」

 もしも宗家が伊明と琉里に手を出すようなことがあったら。
 どんな手を使っても構わない。

 二人を――護れ。

「遠野センセイ。伊明君。――手ェ、貸しましょうか?」

 細められた瞳が、眼鏡の奥で不気味に光った。



◇  ◆  ◇  ◆


 血が、馴染む。
 言葉にするなら、きっとそうなのだろう。


 琉里が張間に拉致されたのは、ちょうど、検査に行くための支度を終えたときだった。

 遠野の知人である大学病院の医師から指定された時刻に合わせて、柳瀬が用意してくれた濡れタオルで体を拭き、コインランドリーで洗ってきてくれたという昨日の服に袖を通し、のんびり向かうか、なんて遠野と話していたときに、張間たちはやってきた。

 抵抗は、ほとんど意味をなさなかった。
 全部で四人、そのうち二人は突き飛ばしてやったけれど、張間にはあっという間に捕まった。

 おなかに重たい一発をくらい、なにか薬のようなものを嗅がされて、目が覚めたときには昨夜と同じ、置き行燈だけが頼りなく灯る暗く狭いこの空間に、閉じこめられてしまっていた。

 時計はない。
 気を失っていたから時間の感覚もない。
 拉致されてからどのくらい経ったのか、琉里にはまるで見当がつかない。

 遠野や柳瀬は大丈夫だろうか。
 伊明は、父は、どうしているだろう。きっと心配しているに違いない。

 スマホさえあれば連絡のひとつも入れられるのに、と考えて、でも昨日ここで使おうとしたら圏外だったっけと思いだし、あってもなくても結局一緒か、と溜息をつく。

 そんなふうに思考をころがせるくらいに、琉里の意識ははっきりしていた。

 状況は昨日とまるっきり一緒である。
 なのに、彼女の体は昨日とはまるっきり違う反応を見せている。

 最初からそうだったわけではない。目覚めに向かう朦朧とした意識のなかでは、たしかに苦しさを感じていたのだから。

 けれどそれは徐々に変化していった。

 まとわりつく空気が肌に沁みこみ、血と溶け合い、体をめぐって――琉里のなかに流れる血のひとつが、裡に馴染んだ。もう一方の血がどろどろしてくる不快な苦しさも、あるにはある。でも前者が後者を上回っている。

 別々の血が別々に流れているなんてまずもってないにしても、琉里自身が感じている、相反する、そして比重の違う二つの感覚を言葉に直すと、そうだった。

「くるしいですか?」

 隣に座る由芽伊ゆめいが、心配そうに首をかしげている。
 つい吐いてしまった溜息を、幼い少女はそう捉えたらしい。琉里は慌てて首を振った。

「あ、ううん、違うよ。伊明たちが心配してるだろうなって思っただけ」

「そうですか」

 少女はこくんと頷くと、物憂げな――少女らしくない瞳を床の上に投げた。

 由芽伊は、琉里が目覚めたときにはすでに居た。
 放りこまれる前から居たのか、そのあとで入ってきたのかはわからない。

 あたまから誰もいないと思って、起き上がって堂内を見まわした琉里は、木戸の傍、置き行燈の反対側に潜んでいた由芽伊を見つけて死ぬほど驚いた。

 人形みたいに微動だにせず、黒々とした大きな眼でまんじりとこちらを見つめてくるその姿は――不意を突かれるとちょっと怖いものがある。

 訊けば、よくここに隠れているのだそう。
 かくれんぼが好きです、と由芽伊は言っていた。

「でも、おどろいたな。由芽伊ちゃんは伊明の異父妹いもうと、かぁ」

「はい」

 床を見たまま、こくんと頷く。小さな足を折りたたんだ正座姿で、小さな愛らしい手を綺麗に腿の上で重ねている。

 由芽伊の様子もまた昨日とはまるで違っていた。
 また針でも持ちだされたら、という不安は杞憂に終わり、すっかり改まった態度で琉里の隣に落ち着いている。

 誰かから琉里の出自について聞いたらしい。

 ですます調の拙い敬語で、琉里が伊生の娘であること、伊明のいもうとであることを「ほんとうですか」と確認して、自分も伊明のいもうとなのだと親しみをにじませて懸命に話してくれた。

「ルリも、伊明さまのいもうとなら……ルリとゆめも、きょうだいですか? ルリは、ゆめの姉さまですか?」

「それは……うーん」

 ――どう、なんだろう。

 幼い少女の説明だから、わかりにくいところが多かった。でも整理してみると、琉里と由芽伊のあいだに直接的な血の繋がりは、たぶん、ない。

 彼女の父親は伊生の弟らしいから――そのことにもちょっと驚いたし、伊明さま伊生さまと由芽伊が呼ぶことにも面食らったが、ともかくも――従妹、にはなるだろうか。

 ただ、はっきりとそれを言うのはためらわれた。こちらを見あげてくる由芽伊の黒い瞳には、むじゃきな期待の色が乗っている。

「ゆめ、兄さましかいないから、姉さまがいたらいいなって……ずっと、おもってました。だって兄さまは、みつあみしてくれたりとか、手をつないでいっしょにお洋服を買いにいったりとか、しないです」

「……洋服も、着るんだね」

「幼稚園にいくとき、制服があるから、きます。でもみんなは、おうちでもかわいいお洋服をきてて――姉さまのいる子は、姉さまと、母さまと、お買いものにいくんです」

「お母さんとは、行かないの?」

 由芽伊は瞳をくもらせ、ふいと床に視線を戻した。

「いかないです。母さまは、ゆめとはいかない」

 うつむいた横顔が、寂しそうだ。

 ――いったい、どんな人なんだろう。

 由芽伊と、伊明の母親。

 考えてみれば、琉里はこの家のことをなにひとつ知らない。

 和佐から受けた説明はほとんどがギルワーに関することで、シンルーという存在、その血が自分たちにとって脅威であることは聞いたけれど、実際に父や伊明の――つまり御木崎家に関することはほとんど触れていなかった。触れるだけの余裕がなかった、といったほうがいいかもしれない。

 伊明も琉里の心配をするばかりで、自分のことはいっさい語らなかった。

 ――会ったはずなのに。本当の、お母さんに。

 あのときの様子からいっても、伊明も自分たちの出自についてショックを受けていたのは明らかだ。しかもその事実は、事が起きてから説明を受けた琉里と違って、たぶん、なんの前触れもなく唐突に知らされたはずなのである。

 訊くべきだった。
 聞いてあげるべきだった。

 あのときの背中に、伊明のほうはどうだった、とたった一言でも。

「ルリ……?」

 由芽伊が不安そうに見あげてくる。
 琉里はとっさに――ほとんど癖のように――笑顔をつくって、

「ねえ、由芽伊ちゃんのお母さんって、どんな人?」

「どんな――」

 当惑したように由芽伊は口ごもった。
 しばらく瞳をさまよわせてから、

「宗家をまもるに、ふさわしいひとです」

「…………」

 幼い少女から、まさかそんな答えが返ってくるとは思わなかった。

「ルリの母さまは、どんなひとですか?」

「私の?」

 今度は琉里が当惑する番だった。

「……えっと」

「ギルワーだと、ききました。……どんなひとですか?」

 隣の芝生に対する興味、だけではなさそうだった。由芽伊はじっと琉里を見つめ、待っている。

 頭のなかで和佐の言葉をさがした。優しい人だった、花が好きだった、白い猫を飼っていた、ちょっと気が強くて、――いまの琉里と、よく似ていた。

 でも結局、琉里はそのどれも口にしなかった。
 どれも、自分のものではなかったから。

「ごめんね、私にもわからないんだ」

「わからない、ですか?」

 由芽伊がぱちりとまばたいた。

「会ったことないの。だから――わからない。これから先も会うことはないから……きっと、ずっと答えられないね」

 琉里は笑ってそう言った。
 由芽伊はまるで自分のことみたいに悲しそうな顔をする。

「さびしくは、ないですか?」

「伊明もいるし、お父さんもいるから」

 ――そう、だから。

 隙をついて、なんとかして。
 ここを抜け出さなければならない。

 なぜ自分が拉致されたのか――思い当たる理由は、琉里にとってはひとつしかなかった。和佐が教えてくれたこと。シンルーたちは、ギルワーを狩るために捕まえる。

 父や伊明も助けに来てはくれるだろう。昨日だってそうだった。
 伊明は泥だらけになって、傷だらけになって。
 父は仕事を放りだしてわざわざ駆けつけてくれたらしいことを遠野からも聞いている。

 二人にそれを繰り返させるのは――嫌だった。
 できれば自力で、無理ならせめて足手まといにはならないように――。

 琉里は自分の両手を見下ろした。握り、ひらく。
 倦怠感はあるけれど、体はたぶん、ちゃんと動く・・・・・・

「……ルリは、家族のおうちなんですね」

 ぽつ、と落ちた由芽伊の言葉。

「え?」

 引き戻されるように、琉里は傍らでうつむいている少女へと顔を向けた。

「なぁに、由芽伊ちゃん」

「ルリのおうちは、家族のおうち」

「……家族のおうち?」

 由芽伊は重ねた小さな手の甲に寂しげな瞳を落としていた。少女らしくない儚い横顔。

「ゆめのおうちは、家族ではないです。およめに行ったおうちが、ゆめのほんとうの家族になるおうちで、ゆめはここにいるあいだに、家族としてむかえてもらう準備をしているのです。たいじなんです」

「たいじ……?」

「あかちゃんの、あかちゃん」

 ――胎児。

「でも、由芽伊ちゃんのお父さんもお母さんも、ここにいるんだよね? お兄さんだって」

「ゆめは『すえむすめ』だから」

 由芽伊は顔をあげた。空虚な闇を見つめている。

「宗家のおやくに立つためには、およめにいって、こどもをうんで――それしかないのです。それでゆめは、御木崎家のいちいんに、なれるのです」

 なんて、機械的な声だろう。
 音声ガイダンスをそのまま流しているみたいな――。

 由芽伊の顔がふいと逸れて、引き戸のほうにむけられる。でも、と呟く。

「……でも、はりまは……ゆめと遊んでくれます。かくれんぼすると、いつも見つけてくれるの、はりまです」

「だから……由芽伊ちゃんは、いつもここに隠れるんだね」

 いつも、ここに。
 見つけてほしくて。見つけてもらえないのが怖くって。

 ――いつも、ここに。

「ここが使われることは、あんまりないの?」

 由芽伊は琉里へ顔をもどすと、ちょっと考えるように首をかしげて、

「……ときどき、くらいです。ギルワーがいるときは、近づいたらだめって言われてたから、ゆめ、近づかないようにしてました。でも……きのうは」

 琉里をちらと窺って、もじもじと指を動かす。

「きのうは、ほんもの、見てみたくて。兄さまにも、練習したほうがいいって、言われて……だから」

 ちらちらと琉里の顔色を窺っている。

 ――ああ、わかる。この子は他人から怒りを向けられることを怖れているのだ。それも、ひどく。

「……そっか。そうだったんだね」

 琉里はできるだけやわらかい声でそれだけ言って頷いた。

 由芽伊がじっと見あげてくる。笑みを返すと、少女は拍子抜けしたようにぽかんとしてから不思議そうに言った。

「……ゆめ、ギルワーって、もっとこわいとおもってました。はりまが言ってたんです、おばけよりもこわいって。……でもぜんぜんちがう。ルリのなかに、シンルーの血がながれてるからですか?」

 純粋な疑問の目。
 やっと、少女らしい顔に会えた。

「違うと思うよ」

 小さく笑って首を振る。

「由芽伊ちゃんの知ってるギルワーと違うのは、きっと私が――」

 頭を撫でようと伸ばしかけた手を、止める。

 体の感じが昨日までと違うからといって、不用意に触れるのは良くない気がした。触れたところから体中の血管がさざめきたつような感覚は――たぶん、シンルー側も感じるのだ。

 病室で触れたとき、伊明は口にこそ出さなかったけれどそれを必死に耐えているように見えた。

 琉里は軽く拳をにぎって、引っ込めた。その手を見下ろす。

「私が、普通の人として育ってきたからだよ」

「ふつうの、ひと」

「そう。私ね、昨日までなんにも知らなかったの。ギルワーとか、シンルーとか――自分がそういう人間だってことも。……伊明もそう。私も伊明も、双子なのがちょっとめずらしいだけで他はみんなと変わらない――どこにでもいる普通の高校生だって、ずっとそう思ってた。……まあ、双子でもなかったんだけど」

 思わず苦笑してしまう。
 考えてみればおかしな話だ。いくら二卵性だからといっても、なにからなにまで伊明と琉里は違いすぎた。双子なのに、より、双子じゃないから、と言われたほうが納得できるくらいに。

「だから、由芽伊ちゃんたちの思うシンルーとかギルワーとかとは、ちょっと違うのかもしれないね。それがいいことなのか悪いことなのか、私にはわからないけど」

「……ゆめも、わからない」

 彼女なりに考えようとしているのだろう、ぱちぱちとまばたきながら虚空に瞳を揺らしている。

「それにね、ギルワーだからって怖いとはかぎらないんだよ」

「そう、なのですか?」

「そうなのですよ」

 おどけて言葉を真似てみる。由芽伊はさらにきょとんとした。

「あのね、私、一人だけ知ってるの。純血のギルワーで、ちゃんとギルワーとして育てられて生活してきたっていう人。――笑顔が素敵な、とってもいい人だったよ」

「いいひと」

「うん。……たしかに、張間さんの言うとおり、怖いギルワーもいるんだと思う。でも、怖くないギルワーっていうのも――きっと、いるんじゃないのかな」

 ――断言は、できないけれど。

 昨夜、由芽伊の血を見て自我を失いかけたことも薄ぼんやりとだが憶えている。人柄うんぬんは別として、互いに、無防備に近づいてはならない存在ではあるのだろう。

 するとなにを思ったか、由芽伊がすっくと立ちあがった。

「由芽伊ちゃん?」

「ゆめ、はりまと話します。ルリはここでまっていてください」

「え?」

 振袖の袂がひるがえった。
 暗がりのなかに、桜色の羽根が舞う。

「だしてあげます」

 引き戸に手を掛けた由芽伊は、黒い瞳を凛と輝かせてそう言った。


◇  ◆  ◇  ◆



 伊明はふたたび遠野の車に乗りこんで、御木崎邸に向かっていた。

 時刻は午後七時半。
 カーナビによる到着予定時刻は午後八時すぎである。

 遠野たちの話によれば琉里が診療所で拉致されてからおおよそ三時間は経っている。矢方町と御木崎邸は、車での移動ならば二時間弱はかかるから、あの離れなり地下の牢獄なりに閉じこめられているとして――正味一時間程度か。

 はたして無事だろうか。
 父はどうしているだろう。

 連絡の取りようがないのがひたすらに不便だった。

 琉里のスマホは病室に置きっぱなしになっていたそうだし、父に掛けても圏外のアナウンスが流れるばかり。いっそ遠野に、御木崎邸に電話してもらおうかとも思ったのだが――いけません、と御影佑征に止められた。

 いわく、奇襲の意味がなくなる、とのことである。

 御影家の尽力は大きかった。

 もともと父が頼んでいたこともあり、「手ェ貸しましょうか」の時点ですでに『琉里ちゃん&伊生さん奪還! 奇襲大作戦』(と御影佑征が息巻いていた)計画の大まかな流れも決まっていたし、準備もほとんど整っていた。

 聞けば昼前、父から御影佑征に「これから宗家に行くからいつでも動けるようにしておいてくれ」といった内容の電話があったらしい。

 当初は遠野ひとりで乗りこむ予定だったのが、結局、伊明はもちろん柳瀬も同行することとなり、御影家一行も加わって、とんでもない大所帯となってしまった。

 そう、本当にとんでもない。

 高速道路を、メタリックブルーのクラウンを先頭に、軽だのバンだのSUVだのが二列に並んで十台強、抜かしもせず抜かされもせず、きれいに整列して走っている様は、はっきり言って異様である。

 それに加えて――。

『はい、点呼とりますよぉ。こちら御影佑征、御影佑征。どぉぞッ』

 耳につけたインカム――出発時に渡されたものだ――から抑揚のある名乗りが流れてくる。

 それに呼応するように、御影なにがし、御影なにがし、御影なにがし、と御影の苗字を持つ者たちの賑やかな声が続いていく。どの声も関西訛りが強い。そしてやたらめったら明るい。

 御影佑征が作戦決行のための招集を掛けてから二十分足らずのうちに、この御影なにがしたちはどこから湧いて出たのか旅館『隠れ家』に続々と集まってきた。

 彼らは伊明を見ると、「ほう、これが御木崎家のボンボンか」とか「ほんまにヒョロッヒョロやなあ、御木崎の人間は」とか「頼りなあ」とか、わりに失礼なことを口々に、好き勝手に言ったあと、「まあ任しとき」と笑って背中を叩くという一連の動作を、それぞれ繰り返した。

 御影家にも実働部隊――御影佑征は「要するに働きバチですわ」と笑っていたのだが――なるものがエリア別に組織されているらしい。

 彼らは御木崎家お抱えのKratとは、雰囲気からなにからまるで違っていた。服装はいたってカジュアルで、みんなずんぐりとした――言ってしまえばドングリ体型である。寡黙な張間たちとは対照的に、ものすごく陽気だった。

 いまから御木崎宗家に乗りこむというのに、まるでキャンプに行くようなノリ。

 現にいまも、御影なにがしと名乗りをあげる声の後ろで、季節外れな夏曲が流れていたり、ポップな洋楽が流れていたり、大合唱していたりするのが聞こえてくる。一台の車に三~六人、車種の規模に合わせた人数が乗っている。

 ――大丈夫なのだろうか、本当に。

 不安しかなかった。
 遠野にいたっては、眉の上の青筋がさっきからびきびき脈打っている。

『おんやあ、応答がありませんねえ。伊明くーん、ちゃんと聞こえとるう?』

「……聞こえてます」

『遠野センセイ、遠野センセイ、聞こえとるう?』

 ブチ。
 変な音が聞こえた気がした。

「うるッせえ、少しァッてろクソ馬鹿野郎!」

 遠野が吼える。インカムの向こうが静まり返った。「OK」と一言あって、通信が切れる。

「はあ。大丈夫なのかしら、あの人たち」

 助手席の柳瀬が額をおさえて呟いた。
 個数の関係上、彼女はインカムをつけていないが漏れ聞こえてくる声と遠野の様子からもろもろ察したらしい。

 ハンドルを握る遠野の目は、烈火のごとき怒りを湛えている。乱暴に煙草に火をつけ、深く吸いこみ深く吐きだす。柳瀬が、けむい、くさい、と文句を垂れて窓を開けた。

「……本当にうまくいくんですかね」

 伊明は後部座席でうなだれていた。
 力になってくれるのはありがたいが、あまりにもノリが軽すぎる。

「あの――作戦? とかだって、ちょっと無謀な感じするし」

「まあねえ」

 ふう、と柳瀬が嘆息する。

「伊明くんのお父さんや張間のおじさまを見ているせいか――御影家の人たちって闘いに適した体つきとはいえないものねえ」

「お前が言うな」

 すかさず遠野が口をはさむ。

 御影なにがしたちはさておき、この中でもっとも闘いに適していないのはおそらく柳瀬だ。得意分野でいえば遠野は喧嘩、伊明は体術、柳瀬は採血なのだから。

「っつうかお前なんでついてきた、柳瀬」

「あら、衛生兵だって必要でしょう」

「俺がいるだろうが」

「院長が刺されたら誰が応急処置するんですか?」

「やめろ、縁起でもねえ」

 心底嫌そうに遠野が片手を振る。

 たゆたう紫煙が座席の間を通り抜け、伊明の鼻先にツンとしみる。

 車窓へと顔を向け、窓を少しだけ開けた。
 とたんに吸い込まれるように秋の夜風がはいりこんできて、伊明の額にぶつかっていく。

「院長。御影家って、御三家のひとつだって言ってましたよね」

 急に真面目になった柳瀬の声が、風の音とともに耳に流れこんでくる。

「ああ。関西圏を牛耳るシンルーの一族だ。俺も小耳に挟んだって程度でよくは知らねえが……あの御影のうるせえクマ野郎の言うように、ギルワーに対してかなり親和的らしい。それに、御木崎家を抜けた奴の面倒もずいぶん見てやってるようだ。――おい伊明。お前、父ちゃんの仕事のこと聞いたか?」

「……聞きました」

 窓へ顔を向けたまま答える。

「御影家が保護してたのは、もともとギルワーだけだったらしい。それが御木崎家の駆け込み寺にもなったのは、あいつとの繋がりがあったからなんだろう。付き合いもそれなりに長いんじゃねえか。……正直、俺は御影の連中とはどうにも反りが合わねえが、あいつは『任せていい』っつってたぜ。だからまあ、大丈夫なんだろうよ」

 伊明はなにも言わなかった。相槌程度に頷くだけ。
 不安は、晴れない。

 柳瀬が申し訳なさそうに遠野のあとを引き取った。

「私もつい、大丈夫かしら、なんて言っちゃったけど……御木崎さん――伊生さんって、義理とか情とか、そういうのに判断の基準を置くタイプじゃないと思うのよね、私。息子さんにこんなこと言うのもなんだけど、そういうのは二の次、三の次っていうか」

「いや、そうだと思いますよ」

 本当にそのとおりだと、伊明も思う。
 柳瀬の声に苦笑が混じった。

「だからね。その伊生さんが信用するってことは、ちゃんと根拠があるってことよ」

 顔は外へ向けたまま、じっと耳を傾ける。

「彼らには彼らの目的がある。御木崎家をぶっ潰すっていう、ね。利害が一致してるのね、伊生さんと」

 それは御影佑征本人が言っていたことだった。
 作戦の説明をする際に、おまけのように。

 伊生さんに頼まれたからというのもあるけれど、なによりもそのために、自分たちは動くのだ――と。

「向こうにも利がある以上、他人事じゃないんだから、ちゃんとやってくれるわよ。だから私たちも思いっきり暴れてやりましょ」

 そういって柳瀬は、肘を突き出して力こぶを作る真似をした。その横で遠野がふっと笑う。心なしか、髪が逆立っているようにも見える。

「成功率は俺たちの暴れっぷりにも掛かってる、っつってたしなあ御影のクマが」

「……院長、笑顔が凶悪です」

「うるせえ、血が騒ぐんだこういうのは」

 たしかに――琉里のためとか伊明のためとか、義理人情だの友情だの、変にこぎれいなことを口にしなかったぶん信用はできるのかもしれない。いまの伊明にはそのほうがよほど心強い。信頼よりも信用できるか否かのほうが――大事だった。

 伊明の口元に、少しだけ、笑みが乗る。後ろの車列を振り返った。

「……けど、あの人たち。自称穏健派なわりに考え方とか作戦とか、だいぶ過激ですよね」

「そういや御木崎も同じようなこと言ってたな」

 伊明は思わず口をつぐんだ。柳瀬が遠野の二の腕あたりをぺしんとたたく。

「痛え、なんだ」

「無神経」

「はあ?」

 まったくわからないと、その声が言っている。

 伊明はなにも言わなかったがとくに気を害したわけでもなかった。もちろん、父と同じと言われて好い気はしないけれど。

 車内で唯一、人工的な明かりを放つカーナビに瞳を向ける。

 御木崎邸到着まで、残り約三十分――。


#2 罪過の檻


 ――皮肉なものだ。

 檻の中に座りこんだまま、伊生は自嘲気味に唇をゆがめた。

 この地下牢に、彼は、彼自身の手で幾人ものギルワーを放りこみ己の血でもって殺してきた。

 自分がまだ、御木崎家の殺戮人形だった頃。
 ギルワーを狩ることこそが己の存在理由だと信じて疑わなかった頃。

 ――文音あやねと、出逢う前のこと。

 そこにいまは、自分が閉じこめられている。

 いつのまに鍵など付けたのだろうか。昔はそんなもの必要なかった。この家に一歩でも踏みこめば、ギルワーは逃げる力を失うのだ。指一本動かすのがやっとというくらいに衰弱する。

 自分が居なくなったからか――。

 ふとよぎった考えに、伊生はまた自嘲する。
 生まれた頃から植え付けられてきた選民意識は、どんなに嫌悪していても、ふとしたときに顔を出す。この家で育った以上、おそらく、真に『まっとうな人間』には戻れない。

 いや、なれないのだ。
 もともと壊れているのだから。

 まっとうぶるのがせいぜいだろう。

 わかっているのだ、伊生自身も。
 だからこそ、同じ道を伊明には歩ませたくなかった。再生産される自分・・・・・・・・を見るのだけはなにがなんでも避けたかった。

『エゴだ』
『てめえのそれはただのエゴイズムだ、結局自分がかわいいだけじゃねえか』

 遠野に叱責され、取っ組み合ったこともある。無性に腹が立ったのは、きっと図星を突かれたからだ。

 ――もしも。

 もしも、自分が家を出なかったら。
 もしもあの夜、伊明を連れだしたりしなければ。
 もしもあの日、産まれたばかりの琉里を遠野に任せていたら。
 もしもあのとき――文音との縁を断ち切っていたら。

 不自然な自然の摂理にもとづいて、すべてはうまく回っていたのだろうか。こんなふうに誰も彼もが傷を負い、なにもかもが滅茶苦茶になることは、なかったのだろうか。

 伊明のことも、琉里のことも、
 ――和佐のことも。

 すべては己のエゴが、浅はかさが、招いた結果。

 清算の時は、もう目の前まで迫っている。

 ポケットに忍ばせていた折りたたみ式のジャックナイフを取りだした。ぱちん、と軽やかに飛びだす刃は、古ぼけた蛍光灯の――消えかけの魂のような青白い光を吸い込み、奇妙に発光して見える。

 常に携行しているこれは、護身用でもなんでもなく、壊れている自分を律するための戒めのようなものだった。

 文音の血を吸ったナイフ。

 次に吸わせるのは、自分の血だと決めている。

 早ければ今日、遅くとも明日には御影が動きだすだろう。
 ここに来る前に、御影佑征には一報入れてあった。卦伊との話がうまくいけば連絡する、うまくいかなくとも連絡する、――宗家の出方次第ではすぐに動いてもらうことになろうから準備だけはしておいてくれ――そう伝えておいた。

 御影佑征は、連絡がない場合は、と訊いてきた。任せる、と答えると、陽気な彼にしてはめずらしい真面目な声で「ほんなら今日中に連絡がなかったら、僕らは明日動きます。構いませんね?」と形ばかりの確認でもって宣言された。

 ただ、実那伊や卦伊の話が本当だとすると――まあ本当なのだろうが――遠野が黙っているはずがない。確実に『御影』を頼るはずで、とすれば彼らの計画が前倒しになる可能性もかなり高い。

 遠野のことだ、下手をすれば一緒になって乗りこんでくることも考えられる。清算・・を前にして、あの変に律儀でアツい男とは極力顔をあわせたくないが――。

 カタ。

 物音がした。扉のほうだ。

 格子に背中を凭せかけたまま伊生が振り返る。

 錠の外れる音がして、階段に薄明りが落ちた。

 少年が降りてきた。よどみのない足取りで、するすると衣擦れの音だけをさせて。

 檻の前で足を止め、袂に両手を突っこむようにして腕を組み、不遜な顔つきでこちらを見下ろしてくる少年は、全体的な雰囲気からしてどことなく実那伊に似ていた。目元には幼いころの卦伊の面影も色濃く出ている。

「――識伊、か」

 会うのも見るのも初めてだったが、一目でそうだと確信できる。

「なにか用か」

おとうさま・・・・・に御挨拶をしておこうかと思いまして」

 淡泊な声である。抑揚がない。感情が入っていない。

「お前の父親は卦伊だろう」

「そうですね」

 少年は、表情をぴくりとも動かさない。

「ご気分はいかがですか」

「……俺に、なにか用があって来たんじゃないのか」

「御挨拶だって言ってるじゃないですか」

 そう言うと、識伊は格子の扉をあけて自ら中に入ってきた。横に立ち、変わらぬ不遜さで見下ろしてくる。

「この家に戻ってくるんでしょう? 当主として、伊明と一緒に」

「卦伊がそう言ったのか」

「ええ。間違いなく戻る、と。あなた方が大事にしているあの混血の女も、いまや俺たちの手の中にあるわけですし」

「無事なのか、あいつは」

 識伊は答えなかった。
 まるで聞こえていないかのように、その場に膝を抱えてしゃがむ。

「……格好いいですね、それ。見せてもらえませんか」

 伊生の持つジャックナイフを見つめ、片手を出す。

 ――なにを考えているのか、まるで読めない。

 しばし無言で識伊を見返していた伊生はくるりとナイフを半回転させ、柄を少年に向けて差しだした。刃は、伊生の手の中だ。

 識伊が柄を握る。
 しかし伊生は手をひらかない。

「……離してくださいよ。手、切れますよ」

 わずかに識伊の眉根が寄った。

 ぱ、と手をひらくと、識伊は妙なものでも見るような目で伊生を窺いながら、そっとナイフを取りあげた。表に返したり裏に返したり、刃の先を指でつついてみたり、興味深そうに検分している。

「琉里は無事なのか」

「さあ。でも元気みたいですよ。張間をたぶらかして脱出を企んでいたくらいですし。俺の妹を使ってね。ああ一応いるんですよ。母様の三人目の子供――五歳の妹が。誰も気に掛けてませんけどね」

 ナイフをいじくりまわしながら、こちらの反応を見るでもなく待つでもなく、淡々と言葉を連ねていく。

「にしてもいったいどう丸めこんだんでしょうねえ。昨日までギルワーを怖がっていた妹が『ルリは怖くないほうのギルワーです、いいほうのギルワーです』って真面目な顔で言うんですよ。驚きましたよ、俺。張間を探してうろうろしてるところで出くわしましたから、止められましたけどね」

 伊生が、ふ、と笑った。
 識伊が怪訝そうに瞳をあげる。

「張間がそれで揺らぐとは思えないが」

「どうでしょうね。あの人、妹には相当甘いですよ」

「なら尚更だろう」

 識伊がますます怪訝そうに眉を寄せたが、答えるつもりは伊生にはなかった。口を閉ざし、牢内へ瞳を投げる。

「……まあ、いいですよ。どちらでも。俺が心配してるのはそこじゃない」

 識伊はふたたびナイフに視線を落とした。

「張間が揺らごうが揺らぐまいが、どうでもいいんです」

 ぱちん、ぱちん、と刃を出し入れする音だけが、地下に響く。

 伊生は少年を横目に見やった。感情の読み取れなかった顔が、仮面が剥がれ落ちたみたいに完全なる無に変わっている。まるで静止画の人形。手だけが機械のように動いている。

 ぱちん、ぱちん。

 ――ぱちん。

 刃が飛びだした。手が止まる。

「あなたは」

 識伊がひそりと口をひらいた。

あれ・・をどうするつもりなんですか」

 少年の顔つきは戻っている。仮面をつけ直したように、巻き戻しを掛けたみたいに。

「いくらなんでも、宗家の当主がギルワーを匿い続けるわけにはいきませんよね。シンルーの血が混じっているとはいえ――いいえ、だからこそ余計に悪い。あれは宗家の恥ですよ。処理が必要なのではないですか? あなたがここに戻ってくるのなら、すぐにでも」

 伊生は識伊の顔に置いていた無感情な瞳をふたたび牢内にもどした。後頭部を格子に預け、目を閉じる。ふと唇が緩んだ。

「……なにが可笑しいんですか」

 識伊が不愉快そうな声をだす。

「いや」

 と伊生は短く答えてから、鷹揚に、

「お前の言う『処理』とやらは必要ない」

「けれど――」

「俺は当主として戻ってきたわけじゃない」

「……でも、父様も母様も、そうは思ってないようですよ。父様なんてとくにそうだ。言ってましたよ。あなたや伊明こそが宗家を継ぐべき人で、俺たちはそれを助けるために居るんだって。それですべてがうまくいく、もとに戻るって」

 伊生はいまだ目をつむったままでいる。

「――あの人は」

 ぽつりと識伊がつぶやいた。ぱちん、と刃が音を立てる。

「あの人は、なにも見えてないんですよ。……見ようとさえしていない。口では宗家のためだと言っていても、結局過去に縋ってばかりだ、考えることさえ放棄している。あれじゃあまるで」

 識伊はいちど言葉を止め、

「思考停止の馬鹿ですよ」

 伊生はなにも言わなかった。ぴくりとも瞼を動かさない。
 識伊がふんと鼻で嗤う。

「怒らないんですね。父様なら言いますよ、口を慎みなさいって」

「卦伊に文句があるなら直接言え。俺にぶつけたところで意味はない」

 伊生はとうに気づいている。

 この少年は挑発している。

 その真意はわからない。ただの憂さ晴らしか、八つ当たりか。他人の動揺をもって自尊心を守ろうとしているのか。あるいは――抑えこんでいるものを爆発させるきっかけを、その相手を欲しているのか。

 自身の父親にはぶつけられない不満のかたまりを。

 伊生の唇がまた緩む。

 ――伊明は、やたらうまく怒れる子だった。

 ぱちん。

 静寂のなかでジャックナイフが音を立てる。

 ――ぱちん。

「俺」

 色のない、少年の声。青白い顔。
 また表情が消えている。

「まだちゃんと狩りをしたことがないんですよ。見たのも今日が初めてでした。でも、やり方は知ってます。覚えてます」

 するりと袂が捲られる。
 胸の前まで左腕をあげ、肘を曲げ、そして――

「こうするんでしょう?」

 首を軽くかたむけて、ぎこちなく微笑んだ。
 伊生に見せつけるように、自らの腕に刃先を宛がう。

 その姿が。
 記憶に刻まれている少女の顔と重なった。

 首にナイフを押し当てた彼女――文音の顔と。

 伊生はとっさに「やめろ」と声を荒げ、ナイフを握る識伊の右手をばしんと払った。

 体が勝手に動いてしまった。力の加減もできなかった。

 反動で少年の細い体は大きく揺らぎ、背中から格子に倒れこんだ。両肩と後頭部がごつごつと続けてぶつかる。

 それでもまだ、少年はナイフを離していなかった。

 伊生は彼が身じろぐ間も与えず、右手首を掴んだ。格子に強く打ちつける。少年の手からナイフがこぼれた。

 尾を引くような、ナイフの落下音。

 訪れた静寂が、一瞬間を支配する。

「――……痛い」

 識伊はやがて、顔もあげずに非難するようにそう言った。

「もっと痛いぞ、を引っ掛けたら」

 伊生の言葉に、識伊はぴくと指を引きつらせて、

「……べつに、どうってことありませんよそのくらい。俺だって――宗家の人間だ」

 触れているからこそわかる程度に、ほんの微かにだけれど――識伊の腕はふるえていた。なのに彼は、笑った。唇の端を、糸で吊ったみたいに引きあげて、無理やりの笑みをつくっている。

 伊生は無言で手を離した。ナイフを拾い、刃をしまう。立ち上がって、スラックスのポケットに滑りこませた。

 識伊はもぞもぞと身を起こし、やはり顔は上げぬまま、

「あなただって、そうだったんでしょう」

「……なにがだ」

「痛くなかったんでしょう。腕に刃を突き立てても、ギルワーに吸血されても。悲鳴もあげず、顔色ひとつ変えず……笑っていたそうじゃないですか」

 伊生は苦い顔をして少年を見下ろした。

「痛みを感じなかったわけじゃない。ただ――」

 言葉を止める。視線を外す。「ただ、なんです」と少年が色のない声で訊いてくる。押されるように、伊生はいった。

「……そうすることでしか、笑えなかっただけだ」

 識伊がようやく顔をあげた。
 伊生は少年に瞳だけを向け、静かに続ける。

「狩りを重ねれば感情が死ぬ。感情が死ねば人間として壊れる。己に痛みを与えながら狩りを続けることでしか――存在意義を確かめることができなくなる。……そうなってから後悔しても、もう、遅い」

「……ふ、……はは、あははっ」

 突然、識伊が笑いだした。
 ひび割れた哄笑が地下いっぱいに反響する。

「ギルワーの女と駆け落ちした宗家の汚点が、説教ですか。いい気なものですねえ」

「識伊」

「御心配いただかなくても結構ですよ、おとうさま・・・・・。俺の存在意義なんてすでに無くなったも同然ですから」

 片手で顔をおさえて、ふふふ、くくく、と笑い続けていた識伊の肩から、やがて、すうと力が抜けていった。
 伊生は物言わぬまま、やはり苦い面持ちでそれを見下ろしている。

 識伊はちらと瞳をあげてすぐ、ふいと逸らした。

「――……嫌だな。そんな憐れむような目で見ないでくださいよ。俺はむしろ、あなたたちに同情してるんですよ」

 格子を頼りに立ちあがる。着物についた汚れを払い、乱れた襟を、裾を直しながら、澄ました顔をつくって気丈らしく、

「父様は、あなたさえ戻ってくるのならあの女を解放してやってもいいと考えてるようですが……でも、どうなんでしょうね? あなたも御存知のとおり、宗家はそんなに甘くない。ここに足を踏み入れたギルワーがふたたび日の目を見ることなど有り得ません。家が、それを許さない」

 そう言って、識伊は檻の格子戸に手を掛けた。
 が、ふと思いだしたように「ああ、そういえば――」と振り返る。

「一度だけ、あったんでしたっけ。例外が、ずいぶん昔に」

 伊生の表情が微かにこわばった。それをみとめて、識伊はようやく満足したように口元を緩めた。悠然と檻から出、階上へ続く階段をのぼっていく。

 伊生は沈黙を守ったままその横顔を半ばまで見送り、そして静かに、瞼を伏せた。


#3 過去の鈴の


 文音と出逢った日も――雨が降っていた。

 黎明学園高等部から大学へエスカレーター式に進学した伊生は、家の意向に従って寮にも入らず部屋も借りず、片道一時間半の道のりを張間の運転する車で通っていた。

 郊外から郊外へ、ドーナツを横断するような大移動であったが、伊生にとっては苦ではなかった。どうでもよかった、というべきか。

 『日常』に対して伊生の食指は一ミリも動かない。

 まあ、そとに居る時間が長いほうがギルワーを見つける機会も増えるだろう――と思っていたくらいである。

 大学の最寄り駅の裏手には、さびれた商店街と小さな稲荷神社があった。

 その神社に、文音はいた。

 普段ならば見向きもしない場所である。
 実際、商店街も稲荷神社の存在も、伊生はその日まで知らなかった。

 黎明学園は、その筋の人間にはと注釈こそつくもののシンルーの通う学校として有名で、学区内に足を踏み入れるギルワーはほとんどいない。だからその近辺を、そういう目的で探索することもほとんどない。

 けれどその日は、たまたま最後の講義が休講となって迎えまでの時間がぽっかり空いたことや、これまで一カ月に二、三人のペースで狩りをしていたのにまるまる二カ月収穫がなかったこと――そんなことが重なって、めずらしく、同級生のシンルーのとりまきたちと周辺を流してみようかと話が進んだ。

 学校のそばをうろつき、駅を越え、抜け殻じみた商店街をまわって――稲荷神社の前を通りかかったときである。

 血が、ざわついた。

 鳥居のそばに横を向いてしゃがんでいる少女があった。

 地面が濡れているにもかかわらず足元に置かれた学生鞄、ダッフルコートから無頓着に土の上に垂れている制服らしきチェック柄のスカート――伊生が足を止めたのとまったく同じタイミングでぱっと振りむいた、中学生にしか見えないその少女こそ、当時高校生の文音だった。

 当時の彼女は現在いまの琉里とよく似ている。
 しいて言うなら琉里よりも少しだけ背が高く、髪が長く、地味な印象だった。
 膝丈のスカートを揺らして立ちあがった彼女のそばで、痩せぎすの、けれど目を射るような真っ白な子猫が、もそもそと缶詰を喰らっていた――。

 ――本当に、すごいのね。
 ――あなたいま、自分がどんな表情かおしてるか、知ってる?

 少しも褪せることのない、鈴をころがしたような文音の声が、鼓膜の奥に響いてくる。

 肩に置いた幅広の傘。湿気をはらんでふわりと広がる胸元に掛かる髪。眉のあたりで切りそろえられた前髪の下で、微かに揺れる双眸が――それでもまっすぐに、真正面から、伊生を静かに見据えていた。

 地味な印象から想像もつかないような、強い光を宿して。

 そのときなんと答えたのか、よく憶えていない。
 なにも言わなかったような気もする。
 ギルワーの戯言だと鼻で嗤ったような気もする――。



 伊生は瞼を持ちあげた。
 静まり返った牢内を見渡す。
 奥へ進み、片膝をついて、湿っぽいざらざらとした地面を撫でた。

 文音はこのあたりに座っていた。
 白い子猫を抱いたまま――。


 当時の伊生の目に、彼女はとんでもない変わり者として映った。

 これまで見てきたギルワーは、地下牢に入れられれば大抵は刻一刻と迫る死の瞬間を怖れて畏縮する。

 しかし彼女にはそれがなかった。
 どころか、頭のねじが二、三個飛んでいるのではないかと本気で考えてしまうほど――奇天烈な行動を取り続けた。

 神社を出たときも、車に押しこんだときも、地下牢に放りこんだときでさえ、張間や伊生がなにを言っても、文音は白い子猫――神社から連れてきた、痩せぎすの子猫――を抱いたまま離そうとしなかった。

 そのくせ猫には、逃げたかったら逃げていいのよ、なんて声を掛けるし、微笑みかける。唄を聞かせ始めたりする。

 これはあとから知ったことだが、その唄はギルワーの女性に伝わる子守唄だったらしい。『が知っている・・・・・・から誰に教わらずともみんな歌えるのだと彼女は言っていた。たびたび口遊むせいで伊生もメロディラインは覚えてしまったが、何度聞いてもどこの国の言葉なのか、なにを歌っているのかはわからなかった。

 檻に閉じこめてからしばらくは、伊生は彼女の好きにさせていた。

 なにをしたって、どうせ結果は変わらない。情はわかない。躊躇もしない。奇天烈な行動を取り続けたって、興味を惹かれるはずもない。

 害虫は、害虫でしかないのだから。

 階段近くの壁に背中を預け、いつも狩りに使っている折りたたみ式のジャックナイフを弄んでいると、

「ねえ、ちょっと」

 文音が顔をあげ、そう声を掛けてきた。
 伊生は一瞥もくれないまま、

「命乞いしても無駄だぞ」

「違うわよ。この子――」

「猫は飼えない」

「違うってば」

 文音はこれみよがしな溜息をついて、

「子猫用のミルクがほしいんだけど」

 用意して、と言わんばかりの語調だった。

 これにはさすがに伊生も少し驚いた。
 今から自分を殺そうとしているシンルー ――しかも御木崎宗家の人間に向かって、たいした度胸である。

 当然、伊生は彼女の要望をきっぱり無視した。
 無視はしたが、珍獣でも見るような心持ちでしばし檻のなかの文音を観察した。

 もしやギルワーではなかったか、と己の感覚を疑いもしたが、気丈に振る舞っていてもこぼれる吐息は渇いているし、猫を撫でる手つきも鈍い。
 壁に寄りかかることでかろうじて姿勢を保っているのも、一目見れば十分わかる。唇を動かすたびにのぞく犬歯も神社にいたときよりも伸びている。

 それに、血のざわつきと独特の匂い。
 やはりこの女はギルワーなのだろう。しかしそれなら、何故――。

「恐くないのか」

 伊生は訊いた。子猫はいつのまにか彼女の膝の上でねむっている。

「シンルーが? 変なことを訊くのね。オオカミがライオンを恐れると思う?」

 オオカミと、ライオン。
 恐れない、だろうか。森の支配者とサバンナの王者の対峙シーンを容易に想像することができない。

 すると彼女も伊生を観察するように眺めてから、

「考えてるの? 真面目な人ね」

 くす、とおかしそうに笑って言った。

「お前、自分がどういう状況に置かれてるのか、ちゃんと理解できてるか」

 もしかしてシンルーの狩りを知らないのだろうか。
 であれば、檻に入れられてからの呑気さも、まあ納得はできる。

 しかし彼女は、わかってるわよ、とあっさり答えた。

「ギルワーに生まれついたんだもの。いつかこうなるだろうって、覚悟はしてた。だから――恐くないわ、シンルーなんて」

 そう言いきって、彼女は眠っている子猫へ瞳を落とした。

「私が恐いのはシンルーなんかじゃない。……こわいのは……」

 目元にふと陰が差した。手首に鉛でもぶらさげているような重たげな動きで、子猫の背中をそっと撫でる。

「せっかくギルワーとして生を受けたのに、なにもできずに塵になってしまうこと」

「……はなむけに、エサの一つでも用意してやろうか」

 ただの気まぐれだった。

 エサといってもむろん人ではない。小鳥である。

 伊生はめったに使わないが、狩る対象がギルワーであるか手っ取り早くかつ安全に確認するために、贄に使う文鳥が、裏の土蔵の中で常に用意――飼育されている。

 文音は、蔑むように伊生を見た。

「そういう意味で言ったんじゃない。……あなたは知らないかもしれないけど、私たちは血を繋ぐために生まれてきたの。新しい命に母たちの祈りと加護を授けて、そこへ還るために私たちは生きてる」

「知ってるよ。ギルワーどもの悪趣味な儀式だろう」

「失礼ね。悪趣味なのはお互いさまじゃない」

 一緒にするなと文句を言ってやろうとして、伊生はすぐに口を閉じた。

 なにを普通に喋っているのか。
 相手は薄汚いギルワーの小娘だというのに。

 言葉の代わりに息をついた。
 瞼を閉じ、そしてひらく。弄んでいたジャックナイフの刃を、ぱちん、と出した。シャツの左袖をまくりながら、檻へ進む。

 文音は顔を伏せたまま、眠っている子猫の背中を撫でていた。

「私――」

「時間切れだ」

 それ以上、言葉を交わすつもりはなかった。
 けれど文音はもう一度、私、と静かに繰り返した。

「この子のなかに還る」

 格子戸へ伸ばした手が、止まる。
 は、と――訊き返すとも嘲笑うともつかぬ声が、つい口から出た。

「……猫にか」

「そう。猫に」

「正気か」

「正気よ。ふざけてもない」

 よどみのない、鈴をころがすような彼女の声。

「どうせ命を繋げることはできないんだもの。死ぬ日に出逢った小さな命。これもきっと運命ね。……なにも遺せず死ぬよりは、ぜんぜんいい」

 馬鹿馬鹿しいと嗤ってやれと脳が指令を出している。
 なのに顔が動かない。嘲るための言葉もでない。

 ただ唖然と、してしまう。

「そのナイフ、貸して」

 文音がこちらに向けて手のひらを出す。動きがいっそう鈍くなっている。よくよく見ると彼女の顔や首筋は汗で濡れ、髪が肌に張りついていた。

 なのに彼女はなんでもなさそうな顔をして首をかしげる。

「貸してってば。知ってるんでしょ、私たちがどうやって還るのか。……平気よ。名前と血を与えるだけだから。そのあとで、あなたが血を飲ませてくれたら――ちゃんと退治されてあげる」

「…………」

 牢に足を踏み入れた。正面に立ち、彼女を見下ろす。

 とても正気の沙汰とは思えなかった。
 こちらの動揺を誘っているのか、逃げるための芝居なのか。

 伊生はナイフを床に落とし、彼女のほうに足で押しやった。

 どうせ逃げられやしないのだ。暴れるつもりならそうすればいい。
 たとえナイフを使われたって抑えこむのは簡単だ。

「ありがとう」

 文音は猫に『雪』と名づけ、ちいさな額に口づけた。ナイフを拾い、首に宛がう。

 ――本気なのか。

「早くしないと間に合わないからね、シンルーさん」

 微笑みのなかで、鈴のような声が初めてふるえた。

 時間にすればおそらくほんの一瞬の出来事だったのだろう。
 でも伊生の目には、ナイフが皮膚に食いこんでいくさまが、ひどくゆっくりと、コマ送りみたいに映っていた。

 己の腕を切りつけるのと、首を裂くのを見せつけられるのとは――違う。

 気づけば伊生は、彼女の手からナイフを奪い取っていた。白い光のかたまりが顔の横をすり抜けて、流れていく。まるで魂が抜けていくみたいだった。それが逃げだした子猫だったと、あとになって気がついた。

 伊生は自身の左腕を切った。いつもみたいに血が溢れなかった。傷が浅いことにさえ気づかなかった。ただ滲み出てくる血を無理やりにでも飲ませようと、彼女を壁に押しつけた。

 文音は初めて抵抗した。力の入らない腕をふるい、身をよじる。あまりにも無力な抵抗だった。そして彼女はぼろぼろと涙をこぼし、言った。

 おねがいだから――。
 ギルワーとして尊厳のある死を――おねがいだから――。

 それは命乞いではなく、懇願だった。


 伊生自身、なぜあのときあんな行動をとったのか、体と感情の制御がきかなくなるほど取り乱したのか、今でもよくわからない。もしも『理解しがたい衝動』というものが人間にあるのだとしたら、たぶん、それがそうだったのだろう。

 伊生は文音を解放した。

 難色を示す張間を説得、というか一方的な命令を下し、中学から付き合いのある遠野、そして御木崎家の在り方に懐疑的であった妹――現在は分家に嫁いでしまった宗家の二番目の子、卦伊の姉でもある――に協力を頼んで、文音を逃がした。子猫も一緒に逃げていった。

 狩りは完了した、後処理もすべて終えている、と当時の当主であった父にも嘘をつき、監督役である母をも騙した。

 若かろうが女だろうがギルワーには容赦がない、と御木崎家における伊生の評価はあがった。

 仮初かりそめの評価である。

 もともと周囲の声など耳にも入れない伊生であったが、この一件以降、煩わしい雑音にしか聞こえなくなった。

 そして、今まで当たり前のようにやっていたことができなくなり、伊生の世界は混乱した。

 それから約一カ月が経ったころ、遠野を介して文音からの手紙を受け取った。

 あなたがあの御木崎家の、しかも宗家の、しかもかの有名な次期当主様だったこと、遠野くん――伊生はここで笑いそうになった。遠野は、遠野くん・・なんてガラではないから――に聞いて驚きました、とても厳しい家なのでしょう、私を逃がしてしまって大丈夫だったのでしょうか、ごめんなさい――といったことが、繊細なやわらかな筆跡で綴られていた。
 本当にありがとう――とも。
 雪は元気でやっています――と、白猫のドアップの写真までご丁寧に添えられて。

 伊生は、遠野に伝言を頼んだ。たった一言。

 気まぐれだ、と。

 しかし何を思ったか遠野は長ったらしい尾ひれ背びれをつけて文音に報告したことを、報告してきた。いわくこうである。

 伊生はあれからギルワー狩りができなくなり、食事も喉を通らないほどヘコみ落ち込み、不眠症になってまるでゾンビのようである、家でも肩身の狭い思いをしている、と。

 ギルワー狩りをしなくなったことを除いて、すべてが嘘っぱちだった。

 たしかに家での父母の当たりは強くなり、狩りをしろとせっつかれる日々が続いてはいた。が、生活圏内はほぼ狩り尽くしました、居ないものは見つからない、見つからないものは狩りようがないでしょうとすっとぼけ、澄ました顔で生活していた。

 己の中に起きている混乱はいずれ時間が解決するだろうと、他人事のように見て見ぬふりを決めこんでいた。

 文音からはたびたび様子窺いの手紙をもらった。伊生は目を通すだけで終いにしていた。返事はおろか伝言も頼むことはなかった。

 するとなぜか、遠野が奮起した。

 ――ギルワーってのは言うほど悪いもんじゃない。シンルーもしかりだ。体質が違うってだけで突き詰めりゃただの人だろ。人対人、個対個、いちど顔を突き合わして話してみりゃいいじゃねえか、そしたらお前も吹っ切れるんじゃないか――。

 なにが個対個だ、偉そうに、余計な世話だ、とそのときは一蹴したのだが。

 あの雨の日から一年後。

 文音と伊生は、仲介役の遠野をはさんで結局顔を合わせることとなった。このとき文音は、どこぞのもぐりのギルワー専門医に掛かり、すでにシンルーに対する免疫をつけていた。

 その日を境に、宙ぶらりんだった伊生の生活はがらりと変わった。奇しくも遠野の直感的見通しが現実のものとなったのである。

 伊生は家の地下牢を使わず、張間も連れず、一人で外で狩りをして、父には報告のみをあげるようになった。

 もちろん嘘の報告である。

 実際は狩りなどせず、見つけても無視を決めこむか、なんらかのきっかけで関わらざるを得なくなれば遠野を介して片っ端から文音のもとに送った。

 文音はギルワーたちの支援活動を行う地下グループ――というと大仰に聞こえるが、種の性質上、表立って活動できないボランティア団体――に属していた。

 そこには御影家も関係しており、それがのちのち御影佑征と伊生とを繋ぐきっかけにもなるのだが――当時は、立場もあって文音以外のギルワー側の人間との接触は避けていた。

 次第に父への嘘の報告が面倒になってきた伊生は、当主の仕事を手伝うという口実のもと、ギルワーの情報管理を父から引き継いだ。

 国の専門機関に提出する書類もあるため、家人を欺くための情報操作には骨が折れたが、幸か不幸か、幼いころから神童と謳われてきた伊生に疑念を持つ者は少なかった。

 たまに探りを入れられても、伊生は平気で嘘をつけた。
 以前と変わらぬ澄まし顔で宗家の一員として過ごしていた。

 いっそ家を出てしまおうかという考えも、なくはなかった。が、それは文音に止められた。
 たとえ伊生が家を出たとしても御木崎家は変わらない、事が大きくなるだけだ、それよりも当主の座を継いで内側から御木崎家の在り方を変えるべきだ――そう言われ、まあ確かに、と引き下がった。

 けれど。

 文音と出逢って五年が経った、秋の夜。
 琉里が産まれ、文音が死んだ――雨の夜。

 伊生の世界は崩壊した。
 今度こそ、完全に。

 血の呪縛。

 文音は死んだ。殺された。
 ギルワーの血に、古いしきたりに、そして、――……。

 幸せだと綴られていた。後悔はないと綴られていた。
 還ることができて本当によかったと、最期の手紙にはしたためられていた。

 還る。

 ――違う。
 死んだのだ。死んだのだ、文音は。

 愛する者の死を喜ぶ人間が、いったいどこに居るというのだ。子供を産み、自ら首を切ることがどうして『尊厳のある死』なのだ。

 尊厳のある死とはいったいなんだ。
 幸福な死などあるものか。

 少なくとも伊生にとって、そのときの光景は――地獄以外のなにものでもなかった。

 血の呪縛。

 間に合わない。
 当主を継いだらなんて悠長に言っていてはならなかった。

 身を切るような後悔。焼かれるような焦燥。

 生まれて間もないふたつの命も、いずれ呪縛に取り込まれる。
 宿命の歯車は、生まれ落ちたその瞬間からすでに、廻り始めている。

 自分が、文音が、そうであったように。

 このままでは。

 この子も。伊明も。
 いずれ、かならず――……。


 目を閉じ、ひらく。ゆっくりと息を吐きだす。

 地下室は、耳が痛くなるほど静かだった。

 伊生はのそりと立ちあがった。スラックスのポケットを探り、ジャックナイフをふたたび取りだす。

 ぱちん。――ぱちん。

 ふ、と自らを嘲るように唇がゆがんだ。

 馬鹿らしい。

 どんなにまっとうに生きようとしたって、しょせん逃れることなどできないのだ。なんせ自分はここで生まれた。ここで育った。沁みついた御木崎の性質は、シンルーの咎は、――血の呪縛は、もはや拭えるものではない。

 顔をすげかえたって、皮膚という皮膚をすげかえたって、内臓を、心臓を、抉りだして取り換えたって、人間らしくなど――なれやしない。

 わかっていた、そんなことは。

 ただ、自分のなにかが叫んでいただけだ。そこに刹那の夢を見ただけだ。

 衝突音が聞こえた。ずしんと家屋が揺れ軋んだのが、地下にいる伊生にもわかった。天井からはらはらと塵が降ってくる。

「時間切れ――だな」

 記憶の文音を牢の奥に映して、唇をわずかに持ちあげる。

 牢から出た。階段をのぼる。
 戸には鍵が掛かっていなかった。廊下には、張間も、ほかの見張りの姿もない。

 錠は、戸の横に落ちていた。


#4 奇襲


 とんでもない。
 なんという無茶をするのだろうか、御影なにがしたちは。

「滅ッ茶苦茶だな、あいつら――!」

 舌打ちをしながら遠野が車から降りた。おい、と声を掛けられて、呆気に取られていた伊明も柳瀬も、慌ててドアを開けて外に出る。

 御木崎邸に向かう山道は、ところどころに待避スペースこそ設けられているものの、車同士では並走できない細さだった。

 先頭を切っていたのは御影なにがしのバンで、遠野、御影佑征の車と続き、その後ろに残りのなにがしたちが追従していた。

 先頭のバンは、御木崎邸の門構えが見えたなり加速して門扉に突っ込んでいった。古い木の扉は難なく破壊されたが、バンは止まらず、右に左に蛇行したのち豪快な衝突音を響かせて母屋の玄関にまで突っ込んだ。

 人を撥ねなかっただけまだましだが、にしたって――本当に無茶苦茶だ。

「まあ……どっちにしろ、強行突破は必要だったわけですから……」

 引きつった笑顔で柳瀬が言い、

「たしかに招かれざる客なんだろうが――」

 続いた遠野に、

「いや俺いますけど」

 伊明が返す。

 なにもこんなことをしなくとも、伊明がまず顔を見せれば、少なくとも門は開けてくれたのではなかろうか。そこから満を持して乗りこむのでも、十分奇襲になると思う。

 山道に列をなして停まった車から、続々と御影なにがしたちが降りてくる。

 彼らはまるで混乱を楽しむ暴徒だった。
 角材とかバットとかゴルフクラブとか、そんなものを掲げながら意気揚々、伊明たちの横を通り抜けて、ぶち抜かれた門扉から敷地内になだれこんでいく。

「院長センセイ」

 御影佑征が、後ろから遠野の肩をぽんとたたいた。手には竹刀を提げている。

「呆けとる場合やないですよ。作戦はもう始まってます。――いいですか。打ち合わせどおり、うちのモンが派手に暴れますんで、そのあいだに伊生さん&モエちゃん――」

「琉里です。琉里」

 伊明がすかさず訂正するも御影佑征は悪びれることなく、

「琉里ちゃん救出といきましょう!」

 空に向かって竹刀を突きあげ、駆けだした。

 自称穏健派の御影側から提案されたのは、互いに利のある二重の陽動作戦である。

 まず、御影なにがしたちが表で大立ち回りをする。

 そのあいだに伊明たちは琉里と伊生の救出に向かう。おそらく張間や来海が立ちはだかるだろうが、力を合わせて――御影佑征の言葉を借りるなら上手いことやって・・・・・・・・突破する。

 その裏で、御影の別動隊が邸内に侵入して、いくつかの書類を奪取する。
 かる~い破壊活動とボヤを起こして、御木崎家が大混乱に陥ったところでトンズラする。

「御木崎家は、ギルワーに対して限りなくブラックに近いグレー行為を、普ッ通にやっとるんですわ」

 本来、無差別なギルワー狩りは一応・・禁止されている。

 対象となるのは人を襲う危険性のある者、すでに危害を加えた者。幾つかの例外を除いて事前に申請が必要で、調査と審問を行ったすえにようやく可否が下される。

 ――というのが、文書上のルールである。

 その辺の規制はじつに緩く、ほとんど機能していない。
 例外という名のグレーゾーンがそもそも広すぎるのと、ギルワーを管理する公的専門機関がほぼシンルーによって構成されているからだった。

 御木崎家はそのグレーゾーン――つまり例外に、常にいる。

 ギルワーが自ら襲い掛かってくるように仕向けるのだ。こちらから血を飲ませるのではなく、エサをぶら下げてじっと待つ。『正当防衛』を成立させるのが、御木崎家の狩りだった。

「僕たちが欲しいのはその証拠となりうる書類です。伊生さんが言うには、国に提出する書類のほかに仔細を記録している文書があるらしいんですわ。どこで捕まえたか、狩った日時と場所、それとギルワーの身元――先代に至っては、狩りの様子も事細かに記録しとったっちゅう話ですから、それと伊生さんの証言を合わせてしかるところに提出したら――さすがの御木崎家ももう終わりです。言い逃れなんてできません」

 あとついでに言わしてもらうと、と御影佑征は続けた。

「古くさい家ですからねえ。宗家のあのお屋敷、あれが一族の象徴にもなっとるらしいんです。やから、お屋敷を破壊するんも効果覿面。しかもそれが伊生さんの意志で、伊明君もそこにおったら――そらもう奴らの面目丸潰れでしょう。間違いなく、再起不能まで追い込めます」

 そうなれば伊明たちも追われることはなくなり、ギルワーも狙われることがなくなって、みんな平穏、ハッピーエンドである――と御影佑征は締めくくった。

 どこが穏健派かと言いたくなるような過激さだし、そううまくことが運ぶとも思えなかった。琉里の名前をことごとく間違える御影佑征に少なからぬ不安も感じた。

 けれどほかに打つ手は、残念ながら伊明たちにはない。

 賭けるしかなかった。
 遠野と顔を見合わせてから、伊明は「わかりました」と頷いたのである。

 御影なにがしたちから少し遅れて門を抜ける。

 御木崎側は見事、大混乱に陥っていた。

 そりゃそうだろう。とつぜん門を突き破って入ってきたバンが母屋に体当たり、わらわらと侵入してくる道具を持った無法者たち――動揺するなというほうが無理というもの。

 それでも、母屋から飛び出してきた黒服たちはさすが警護部隊である。ワケがわからないなりにも対処しようとすでに動き始めていた。侵入者のなだれを堰き止めるべく、二、三名が黒い警棒を手に、ほとんどの者は果敢にも素手で向かっていく。

 先陣を切っているのは――その特殊な髪色ですぐにわかる。来海だった。

「なんだテメェら、どこのモンだァ!」

 相変わらず堅気とは思えないドスの利かせっぷり。
 しかし御影たちも負けていない。

「ギャングや!」

「マフィアや!」

「抵抗勢力やぁあああ!」

 と、謎の雄叫びをあげながら向かってくる彼らに、来海は「ハァ!?」と目を剥いた。

 しかし戸惑って右往左往するような繊細な神経は持ち合わせていないらしく、また状況把握に勤しむ冷静さも欠片ほどもないようで、襲い掛かってくる御影なにがしたちを片っ端から引きずり倒して武器を奪い、振るい、怒号をあげて暴れはじめた。

 一見、奇襲を仕掛けた御影側のほうが有利には見える。

 敵を混乱させるという単純な目的。数の利に、武器の有無。

 しかし黒服たちも宗家を護るプロ集団。一筋縄ではいかないようだ。
 彼らは相手が武器、それも長物を持っているのを逆手に取った。攻撃させ、かわしたところで生まれる隙。その一瞬を突いて巧みに間合いを詰め、無防備になっているところを投げ飛ばす、蹴りつける、殴りつける。奪った武器はぽいぽい遠くに投げてしまう――。

 一進一退、というより、激しいわりには押しも押されもせぬ膠着状態といったところか、御影なにがしたちはおきあがりこぼしのように向かっていくし、御木崎側も前述のとおりの奮闘ぶり。

 その喧騒の中を、伊明たちは御影佑征に先導される形で抜けていく。

 伊明に気づいた黒服が報せに行こうと身をひるがえしたり、捕えようと手を伸ばしてきたりもしたが、容赦のない遠野の拳と御影佑征の竹刀によって助けられた。

「――で、ユリちゃんはどこに?」

「琉里です。たぶんあそこか――」

 伊明は池に浮かぶ離れを指さし、

「もしかしたら地下に閉じこめられてるかも」

「地下て。けったいな」

 心底けったいそうな顔で呟いてから、御影佑征は、

「伊生さんはどこにおりますかね」

 と訊いてきた。

 ――どこだろうか。ギルワーを閉じこめる場所については聞いているが、父の居場所は皆目見当がつかない。遠野も思案顔である。

「俺も家の中にまで入ったことはねえからなあ」

「訊いてみます?」

 柳瀬が言った。

「知ってそうな人、転がってますけど」

 ちょいちょいと右を指さす。その先に、なにがしたちに叩きのめされたらしい黒服の若者が、ぐでんとノビていた。

 むやみに探すよりもそのほうが確実か――。

 伊明が遠野に目を配せ、遠野が頷きを返す。
 それを見越していたかのように柳瀬が足を緩めて身をひるがえした。落ちていた角材を拾いあげ、軽やかに駆けていく。

「おい待て柳瀬ッ!」

「離れたらあきません!」

 遠野と御影佑征の声が重なった。
 とっさの急停止につんのめりそうになっている二人を後目に、伊明も慌てて身をひるがえす。急いで柳瀬の後を追った。

「あッ、おい伊明!」

「フォローせぇ!」

 周囲に散らばっていた御影なにがしが何人か振り向いた。黒服たちも振り向いた。彼らの瞳は柳瀬ではなく、護る対象、捕える対象として伊明にのみ注がれている。

 前方に母屋が見える。
 障子のあいた部屋がいくつかある。
 正面の部屋には見覚えがあった。昨日、伊明が通された客間だ。

 柳瀬の背中を追いかけながら父を探して首を巡らせる。

 外廊下にはたすき掛けに長い六尺棒を構えた和服姿の老若の女性が四、五人ばかり立っていたが、それとは違う人影も奥のほうに二つ見えた。

 黒いスーツと薄灰色の和服姿――張間と卦伊か――。

 目が合った。

 と、次の瞬間。
 視界の端で柳瀬の細い体が、飛んだ。


◇  ◆  ◇  ◆



 外の喧噪は池の離れにも届いている。

 琉里はぴたりと引き戸に耳をくっつけて、外の様子を窺った。

 罵声と怒号が入り乱れている。クーデターでも起きているみたいだ。
 父や伊明が来てくれたのかとも思ったけれど、にしては二人の声が聞こえない。――いや、当然か。「コラオラクソがー」はどちらかというと遠野の担当である。

 ここから出してあげる、と張間のもとへ行った由芽伊はまだ戻ってきていない。たぶんもう戻ってこられないだろう。敷地内のこの喧噪もそうだけれど、なにより、あの男――張間が、素直に琉里を解放するとは思えなかった。

 ――あの目。

 琉里に向けられる彼の目は、敵意や嫌悪というよりほとんど憎悪だった。それも個人ではなくて存在そのものを呪うような目。

 嫌な汗が背中ににじむ。

「…………」

 頭を振って、浮かんだイメージを追い出した。いまは怯えてる場合じゃない。

 息をひそめ、引き戸をそっと細くひらく。

 戸のそばに見張りらしき黒服の足が見えた。外では、棒切れやなんやを持った、ちょっと派手めな、ころころした体型の人たちが罵声を吐きながら暴れまわっている。黒服たちも怒号を上げて鎮圧に励んでいる。

 ごちゃごちゃとしたそのなかに――いた。

 伊明だ。遠野もいる。柳瀬までいる。もう一人は誰だろうか。肩を並べて走っている、季節外れのアロハシャツを着た男の人。

 ふと、伊明がこちらを指さした。琉里に気づいた――わけではなさそうだった。

 琉里はゆっくりと一度、深呼吸をした。

 伊明の腕には包帯が巻かれていた。服にも血がついていた。遠野も柳瀬も、診療所で、琉里のせいでひどい目にあったのにこうして来てくれている。

 ――自分だけなにもしないでいるなんて。
 なにもできないなんて。

 嫌だ。

 立ち上がる。足元が少しふらついた。体にとどこおっている倦怠感は一向に弱まる気配がない。動けるけれど、たぶん、普段通りの動きはできない。

 外には見張りが一人。

 ――大丈夫。一人くらいなら。不意を突けばなんとかできる。

 もういちど深呼吸。
 あらためて引き戸に手をかけ力を込めた。

 木戸は、思った以上に建付けが悪かった。琉里の感覚をそのままいうなら、すぱんと開けて不意打ちズドンでいくつもりだったのに、どうにもコツがいるらしく、ガタガタガタと苦心して、ようやく通れるだけのスペースをつくる。

 さすがに見張りが飛びこんでくるかと思ったが――。

 そっと顔をのぞかせてみると、見張りは目をまんまるにしてこちらを見つめていた。表情が完全にこわばりきっている。まるで幽霊でも見ているみたいに。

 たしかに、彼からしてみれば不気味だろう。

 ここに閉じこめられたギルワーは基本的には動けなくなる。昨日琉里がそうだったように、濃密な空気にあてられてしまう。

 なのに突然、戸をガタガタと盛大に揺らし、暗闇の中からぬっと顔をだしたのだ。そのうえ置き行燈に斜め下から照らされて、彼女の顔には強烈にホラーな陰影が刻まれている。

 予定とはやや違う流れになったが、琉里はすぐに順応した。すかさず一歩、前に進む。両腕を垂れ、こうべを垂れ、ずるりずるりと足を引きずるようにして、堂内から一歩また一歩。

 掠れた声で、異国の子守唄を口遊む。やさしい唄も演出次第で黄泉のBGMに早変わりだ。

「も、戻れ。戻れッ」

 黒服が声をひっくり返して後ずさる。
 琉里はぴたと動きを止めた。男のほうへ顔を向け、体を向ける。

「……だして……」

「はッ?」

 正確には「へぁは?」だった。

「な、なに、言って……」

「……だして……出して……ここから出して……」

 言いながら、にじり寄る。黒服はきんぎょみたいに口をパクパクさせた。さらに後退ろうとして腰を抜かす。琉里と引き戸を交互に指差し、でてる、でてる、と繰り返した。

「…………」

 たしかに堂内からはもう出ている。まちがえた、と思わず停止してしまった琉里だが、気を取り直して歩みを再開、黒服の前に立ちはだかった。ホラー映画よろしく、ぎょろぎょろした逆三白眼で見下ろしてやる。そして、いう。

「どうして、ころしたの?」

 黒服の口がぱかんとひらいた。
 叫ぶ、と直感した琉里はとっさに右足を振りあげて、見張りの顎先を蹴っ飛ばした。

 白目を剥いて仰向けに転がる黒服。起きあがる気配はない。

 気絶した、らしかった。

「よ、よし。成功っ」

 恐怖で泡を吹かせるつもりだったが、結局、不意打ちズドンで収まった。
 両手で小さくガッツポーズをつくった琉里は、急いで庭へ目を向けた。欄干に身を乗りだし、混乱のなかに伊明たちの姿を探す。

 風に乗って流れてくる血の匂いに、頭がくらくらした。
 意識がもっていかれそうになるのを懸命に耐える。

 そのときだった。

 鉄砲玉が柳瀬を撃ち抜いた――みたいに、一瞬、見えた。どこからか飛んできた灰髪の青年が、一人離れていた柳瀬の脇腹に飛び蹴りをくらわせ軽々と吹っ飛ばしたのだ。

 遠目だから尚更わかる。
 それは本当に、細い小枝を全力で叩き折るような――無慈悲な暴力だった。

 琉里の頭にかッと血がのぼった。懸命に抑え込んでいたものが一気にふきだし、なにもかもが飲みこまれるような感覚があった。

「柳瀬!」

「柳瀬さんッ!」

 遠野と伊明の声が聞こえたときには、琉里はすでに駆け出していた。


◇  ◆  ◇  ◆


「寝てンじゃねェよカス――」

 柳瀬を蹴っ飛ばしておきながら、来海は何事もなかったように、うつ伏せに倒れていた黒服を足で突っついている。頭でも殴られたか、すみません、と呻いて起きあがろうとした黒服の額から血の雫が滴り落ちた。

 それを見て来海はいっそう不機嫌に「グズが」と吐き捨て舌打ちまでする。それから伊明へ顔を向け、あたかも今気づいたと言わんばかりに、白々しく眉根を持ちあげた。

「おやァ? 伊明様じゃないですか」

「来海……!」

 血が一気に沸騰した。
 焼けるような熱が脳天まで突き抜ける。

 激情に駆られるまま来海に向かっていこうとした伊明だが、

「おい伊明、やめろ!」

 すんでのところで遠野に止められた。ぐいと肩を引かれる。

「離せよッ!」

 ほとんど反射的に振り払うと、今度はその腕を掴まれた。遠野の握力に手首が軋む。

「馬鹿野郎、目的を忘れんな。なんのためにここにいる」

 遠野の後ろで御影佑征がおろおろしている。伊明になにか伝えたいのか、懸命に顎をしゃくっていた。離れのほうだ。

 視線をやると――琉里がいた。

 離れと庭とを繋ぐ敷石を、ぴょん、ぴょんと飛ぶようにして渡っている。またどこかで動けなくなっているものと思っていたのに――。

 と同時に、こちらの様子に気づいたらしい張間が、離れに首をめぐらせるのも見えた。まずい、と思う間もなく外廊下から飛び降りて、琉里のほうに向かっていく。

「行け、伊明」

「けど」

「ここは平気だ。……気をつけろよ」

 肩を押された。
 伊明は頷きを返し、駆けだした。

 位置としては向こうのほうが若干近い。が、なんとしても張間よりも先に琉里と合流しなければならなかった。他の黒服ならともかく彼の手に落ちたら厄介だ。父に一度だって勝てていない自分が、その師たる張間に勝てるはずがない。

 死にもの狂いの全力疾走。

 ―― 一瞬、並び。

 そして――抜いた。

「伊明様!」

 後方から飛んでくる張間の声。それさえも振りきろうと、伊明はいっそう足に力をこめた。

 琉里は池のほとりで三人の黒服に囲まれていた。孤軍奮闘――できている。やはり昨日とはなにかが違う。

 それどころか、あの動き――。

 琉里らしくなかった。琉里とは思えなかった。
 荒々しく、凶暴で、まるで怒り狂ったけもの・・・である。

 胸をよぎる小さな不安。

 それでも伊明はスピードを緩めることなく小さな群れに突っ込んだ。正面に立っていた黒服に、背中から思いっきりタックルをくれてやる。黒服が無様に転倒した。衝撃で伊明の肩も外れそうだった。

 くずれた壁の向こうで琉里がぱっとこちらを向いた。

 青灰色の瞳。
 唇の隙間からのぞく尖った犬歯。

 琉里、と伊明が呼びかける間もなく。

 血に飢えたけもののごとき身のこなしで、真正面から飛び掛かってくる。濃厚な、甘い匂いをともなって。

 伊明はとっさに、琉里の口を左手でふさいだ。
 受け止めきれずに背中から倒れ込む。

「琉里! おい、琉里!」

 頭の芯がしびれる。高揚する。琉里の口に己の傷ついた腕を突っ込みたいような、暴虐的な本能に揺さぶられる。理性がうるさいくらいに警鐘を鳴らし続ける。

 最悪だ、と伊明はうめいた。彼にもわかる。もっとも最悪な形で、琉里のなかに流れるふたつの血が融合している。ギルワーの血への欲求、敷地内で自由に動ける同族の血と、それらの持つ凶暴性と。

 ――でも、それなら。もしかしたら。

 伊明のなかにある考えがふと浮かんだ。

 黒服二人が、伊明から琉里を引きはがそうとしている。琉里は身をよじって伊明にしがみつき、唸り声をあげ、この血が欲しいとばかりに全身で訴えている。

 他方からは殺気が迫ってくるのが、わかる。張間だ。来海が柳瀬を蹴り飛ばしたイメージが脳裡をよぎり、それが今にも、しかも何倍もの威力をもって琉里の身に起きそうな気がして、伊明は胸がこげるような焦燥をおぼえた。それほどに、張間の殺気にはすさまじいものがある。

 迷っている暇はない。もう、いちかばちかだった。

「ごめん琉里」

 伊明は右手で、左腕の包帯を解いた。

 いまの琉里との攻防で傷口がひらいたらしい、ぼたぼたとあふれだした血が頬に垂れた。

 青灰色の虹彩の中で、黒い瞳孔がにわかに広がる。
 吸い寄せられるように、焦点が血の雫に向けられる。

 空気が濡れた。
 自分自身の血の匂いを感じる。
 琉里の放つ甘い匂いがよりいっそう強さを増した。

 張間が足を止めた。琉里を引きはがそうとしていた黒服二人が、小さく呻いて鼻をおさえ、よろめくように後退る。

 琉里の体から力が抜けた。口をふさいでいた手を、そっと離す。

 琉里の唇から渇いた息がひとつこぼれ、あのときみたいに――すべての発端となったあの夜みたいに――琉里の両手が顔に触れ、唇が、頬に触れる。舌が雫を掬うように動く。

 と、次の瞬間、琉里がぐっと喉を詰まらせた。背中をまるめ、伊明の肩に額を押しつけるようにしてげほごほと苦しげに咳きこむ。伊明は瞬きひとつ落とさず、緊張しきった面持ちで、その音を聞いていた。

 やがて咳がやんだ。浅く上下する琉里の肩。その呼吸は、渇いたものではなくなっている。

 伊明は、そろそろと琉里に瞳を向けた。

「……琉里……?」

 ゆっくりと顔を起こした琉里は――生理的な涙を湛えた目をしばたかせ、伊明を見返してくる。

「……伊明……?」

 瞳の色は、戻っていた。

 広がる安堵に全身から力が抜けた。苦しさによって自我を取り戻したのか欲求が満たされたことで解放されたのかわからないが、ともかく、よかった。

「あれ、私……?」

 のろのろと上半身を起こした琉里は、なんでここにいるんだろう、といったふうに辺りを見回し、離れのほうを振り返った。

「説明はあとでしてやる。とりあえず俺の腹から降りろ」

「え? あ、ごめん」

 兄の腹上に堂々と座っていたことにやっと気づいて、琉里は慌てて立ちあがった。眩暈でもするのか、足元が少しふらついている。

 伊明も身を起こしながら、大丈夫か、と訊こうとしたが、

「伊明、その腕、……その、傷」

 琉里の瞳は伊明の左腕に注がれていた。
 父と同じ場所、同じかたちの、深い裂傷。

「……それも、あとで話す」

 説明、という言葉は使えなかった。この傷が、そのまま和佐の死に直結する。
 伊明の表情からなにかしら察したらしく、琉里もそれ以上訊こうとはせず、ただぎこちなく頷いただけだった。

「――伊明様」

 どことなく混乱のにじむ張間の声。

「今のは……」

 張間も黒服たちも、琉里に何が起こったのかすぐには理解できないらしかった。二人の黒服は茫然と、張間はさすがというべきか、警戒の色はくずさないまま伊明と琉里を凝然と見つめている。

 伊明は、右腕で――間違っても血の滴る左腕を近づけないように――琉里を後ろに下がらせた。盾となり、張間を、黒服を睨む。

「琉里はギルワーじゃない。狩りなんて、させない」

 張間はじっと伊明を見返したあと、瞼を伏せ、ふ、と鼻から息を抜いた。

 それがなにを意味するのか、伊明にはわからなかった。ただ、張間から殺気が失せたように感じたから、諦めたか、さもなくば伊明を傷つけてまで奪う気はないのだろうと――高を、括った。

「琉里、父さんの居場所わかるか?」

「お父さん?」

「ここに来てる。たぶん、お前より先に」

「えっ!?」

 琉里は心底驚いたらしかった。

「わかんない、私、ずっとあそこにいたから」

 と離れを指さす。つられてそちらに目をやった、そのときだった。

「伊明!」

 琉里が叫んだ。

 はっとして振り返ると、張間がすぐ目の前に迫っていた。一瞬で距離を詰められ、手が伊明の首に伸びる。払う間もなかった。

 喉に触れるかいなかのところで、張間はぴたと手を止めた。

「伊明様。その娘はギルワーですよ」

 違う、と声にならなかった。細い息だけがもれる。

「あなたは知らなすぎるのです。ギルワーの性質を、奴らの本性を」

 掴まれてもいないのにすさまじい圧迫感。本当に喉を絞められているみたいだった。呼吸が乱れる。その手を払いたいのに、動くことができない。

「その娘が昨日、離れでなにをしたか御存知ですか。何をんだか――」

「やめろ……!」

 声を絞り出す。
 張間は軽く眉を持ちあげただけだった。

「さっきも見たでしょう、ご自身の目で。血に飢えたけだもののような、その娘の姿を」

「やめろ!」

「そういうものなのですよ、ギルワーは。いくら人間らしく振る舞ったって、その口の中には牙がある。血を欲する獣の性が隠れている。それの有無が、そのまま罪の有無に直結するのです」

 張間の石膏像のような顔のなかで瞳がぎらぎらと――凍てつくようなまばゆい光を放っている。

「……あんたもか」

「なにか?」

「あんたも、シンルーなのか」

「いいえ」

 あっさりと、否定だけが返ってくる。

「なら、なんで」

 なんで、そんなに――。

 張間は真一文字に口を結んだまま、伊明を見据えていた。
 やがて、ゆっくりと手を下ろす。
 瞳から光が失せたように見えた。伏せた瞼に陰が落ちる。

「――……一九八八年一月二十四日」

 唐突に、張間がいった。
 ぴくりとも表情を動かさずにスーツの上着に手を掛ける。

「私の娘の命日です。八歳でした。ギルワーに殺されましてね」

 ぽっと投げて寄越すような口調。
 後ろで琉里が小さく息をのんだのが、伊明にもわかった。

「そのギルワーは浮浪者で――下衆な屑野郎でしたよ」

 淡々と紡ぐわりに、言葉が烈しい。
 憎しみがその一点に集約されているみたいだった。

「幼い頃からピアノが好きな娘でね。あいにく私は――そういった芸事には縁がないとでもいいますか――歌でも歌おうものなら娘にも当時の妻にも笑われてしまうような有様でしたが、それでも、そんな私が聴いても、娘には音楽の才があった。とんびから鷹が生まれたと喜んだものですよ。親の欲目もあったんでしょうがね」

 ほんのりと唇を持ちあげる。上着を脱ぎ、地面に落とした。シャツの袖をまくりながら静かに続ける。

「娘が襲われたのはピアノ教室の帰りでした。暴行され、血を啜られ――近くの小さな公園の、奥の茂みの片隅にね、まるでゴミでも隠すように打ち棄てられていたんです。顔には濃い痣ができていました。肋骨も二本折れていて、右肩も脱臼していましてね。泥だらけの顔のなかに、涙の筋がいくつも残っていました。……いくつも、いくつも」

 殺してやろうと思いましてね、とひどく緩やかに、張間は言った。

「逃げ隠れの上手い奴で、見つけだすのにずいぶん手間が掛かりました。最初はしらばっくれていましたが、罪を認めるのなら赦してやる、見逃してやると言ったら白状したんでね、私はそのまま、奴をここまで引きずってきて伊生様に引き渡しました。ギルワーにとってはそのほうがよほど地獄ですからね。でもただの地獄じゃ割に合わない。――伊生様には、十日ほど、お待ちいただきました」

「十日……?」

「指を切り落としたかったので」

 ぞ、と背筋が凍りつく。

「その男も生まれついた悪人というわけではなかったのでしょう。ただ、箍がはずれた。それだけのことです。――わかりますか、伊明様。それだけのことで、私の娘は意味もなく、無残に殺されたのですよ」

「だから……」

 と、ぽつりと琉里が呟いた。
 伏せられていた張間の瞳が琉里を見据え、そして何も言えずにいる伊明へと移される。

「護るべきは人か、悪鬼か。よくお考えになってください。それでも尚、あなたがそちらにつくと言うのなら……伊明様といえど容赦はしない。殺しはしないが――相応の痛みは覚悟していただきますよ。宜しいですね」

 そう言って、張間は初めて――伊明に向かって、構えた。

 捲り上げた袖から伸びる、少しの老いも感じさせない筋骨隆々たる腕。型は父の見せるものに酷似しているが、父よりも隙がない。研ぎ澄まされた殺気は近づいただけでも細切れになりそうなプレッシャーを与えてくる。

「……は……」

 伊明は、息をつくようにして笑った。

「……どっちが鬼だよ……」

 唐突に語られた張間の過去。その意図が、ようやく掴めた。

 同情を引こうとしたのではない。理解を求めたのでもない。いや、それも含まれているのかもしれないが、そもそも張間がその話をした最たる目的は、おそらく、脅すためだ。

 伊明の恐怖を掻き立てるため。

 頬に冷たい汗が流れる。

 伊明は琉里をさらに後ろに下がらせた。

「言っとくけど。俺が護るのは、鬼でもギルワーでもない。――妹だ」

「残念です」

 張間は顔色ひとつ変えず、ただ静かにそう言った。

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