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【年齢のうた】山口百恵 その1 ●デビュー時から強調された14才という年齢、そして「青い性」路線

吉芋花火!
キチ! いも! ハナ! びッ!
きち(もういい)
です!
吉芋花火は、名古屋の芋けんぴ。
わたくしが芋けんぴ好きだと知る人は、さほど多くないでしょう。そりゃそうだ。

にしても吉芋花火のこのフォルム、骨格の、素晴らしいこと。


賞味期限は3日。はかないがゆえの美。
購入した初日の食感はポリボリした香ばしい甘さで、それが2日目以降は蜜がしみ込んで、しっとりしてきて。芋けんぴ界では突出した存在だと、僕は思う。
ただ、名古屋でしか買えないわ、値段もけっこうなものだわ、すぐに食べなきゃだわで、そうそう味わえないのである。
カミさんが買ってきてくれたのですが……ちなみに170gで、税抜690円。うーむ。まあ、たまのことだし。

しかし芋けんぴは漢字だと「芋剣先」となるのか?
「花火」というのも、細切りしたサツマイモの先端に残る皮の色から命名したのであろう。ネーミングも含め、なかなかに味わいがあるのう。


さて、今回からは山口百恵です。
今まで自分が彼女について書いたことは、おそらくないですね。初めてだと思います。

南沙織から2年。再び試みられた、実年齢を掲げる私小説的なスタイル

南沙織の時に書いたように、僕はアイドルソングには格別詳しいわけではない。山口百恵も子供の頃にテレビ番組でしょっちゅう見ていて、そのヒット曲もたくさん知ってはいたが、そこまで深くは知らなかった。
それが何年か前にたまたまあれこれと聴いてみて、おかげで彼女の魅力を再認識したり、また初めて知ったりもした。

尾崎豊の回で、アートディレクターの田島照久さんに取材したことをちょっとだけ書いたが、お会いする際に、田島さんは山口百恵のジャケットを1枚だけデザインされてるな、と意識した覚えがある。LA録音のアルバム『L.A.BLUE』(1979年)だ。


自分が山口百恵の諸作品に触れていく間では、その時に楽曲がサブスクで解禁されていた関係で、Apple Musicで公開されている彼女のアルバムごとのライナーノーツが非常に参考になった。その内容は下記で書かれている通りだ。

さて。この【年齢のうた】を書き始めるにあたり、南沙織の「17才」のことを書かないわけにはいかないと思ったことは、その彼女の回ですでに記した。その南沙織のことを考えている時に、この歌手のことも触れないとな……と浮かび上がってきたのが山口百恵なのである。
なぜか。同じプロデューサーが、南沙織の後年にデビューした山口百恵にも、年齢にまつわる歌を唄わせていたからだ。

その策士とは、そう、当時CBS・ソニーに所属していた酒井政利氏である。彼については、南沙織の時に名前を出しているが、残念ながら一昨年に亡くなられている。生前、とくに90年代後半から2000年代にかけては本業に加えて執筆業もされていて、さらにテレビ番組でコメンテイター的な活動もあったので、顔を見て思い出す人もいるかもしれない。

酒井政利氏の著書
『神話を築いたスターの素顔
百恵、郷、りえたちと歩んだ三十五年』(1995年)より


今回こうして南沙織と山口百恵について書く前にちょっと調べたのだが、酒井氏はやり手のプロデューサーであったのはもちろん、仕事をする際に何かに便乗するとか、アイディアをうまく引き入れるのに長けた方だったようだ。音楽そのものを本格的に勉強した方ではないようだが、その一方で、テレビとかCM業界、そして芸能界の方面に人脈が広かったとのことである。
なるほど、そういう感じの人か……!とヒザを打った。音楽業界にはそういう人があちこちにいる。本題ではないので深くは書かないが、この世界には、アーティストも、さらにスタッフ側(制作やマネージメント)にも、逆に音楽への愛情や思い入れが強すぎるがゆえに成功できなかった才能の持ち主は多々いるのだ。
むしろ、そこまで音楽に関心はなくとも、時代の匂いをかぎ取ってその方向に寄って行ったり、些細なことをすっ飛ばすような強引さで行きたい方向に接近できたりする人のほうが成功するケースは多い。もちろん、それだからうまくいくとは限らないが。
おそらく酒井氏は、そうしたパワーを持つ敏腕、剛腕のプロデューサーだったのではというのが僕の考えである。


話を山口百恵に戻そう。ここからは彼女のことを、百恵と呼ぶ。自分にはそう呼ぶほど彼女に強い思い入れがあるとは言えないが、何よりも簡潔だし、とくに親しまれた呼称だろうから。

百恵は13歳の頃、オーディション番組の『スター誕生!』をきっかけにホリプロに見出され、やがて歌手としてデビュー。その頃には14歳になっていた。

彼女は引退したのが21歳で、芸能界での活動期間は実質7年半。引退の背景には、結婚も関係していた。今ではなかなか聞かない話である。70年代の、まだ早婚思考が生きていた時代性が関係している気も、若干する。

デビュー曲「としごろ」のサブタイトルは「人にめざめる14才」

そんな百恵の歌に関して、ちょっと驚いた事実がある。デビュー曲「としごろ」からすでに年齢ソングだったということだ。つまり題名に、14才という文言が入っている。
1973年5月に発売されたこのシングルの正式な曲名は、「としごろ -人にめざめる14才-」なのである。

酒井氏は著書『神話を築いたスターの素顔 百恵、郷、りえたちと歩んだ三十五年』(1995年)でこう書いている。

彼女を世に送り出すにあたって、私は彼女の成長過程をそのまま歌にする私小説的な方法をとることにした。
デビュー曲には「人にめざめる十四歳」というサブタイトルをつけた。大地に足を踏みしめる逞しさを感じさせた少女の成長を記録してみたい、そんな思いもあったからである。

あらためて確認するまでもないだろう。1973年にデビューした百恵のこの路線には、その2年前……1971年に酒井氏が手がけた南沙織のデビュー曲の存在が枕になっているはずだということを。つまり彼が「17才」とタイトルを決めて、大成功した事例である。


しかし百恵の「としごろ」のサブタイトルである「人にめざめる14才」とは、どういうことなのか。これについては、百恵の3枚目のシングルからのディレクターを務めた川瀬泰雄氏が著書『プレイバック 制作ディレクター回想記』で、こう述べている。

僕は、あとでこのキャッチコピーを見て”人にめざめる”とはなんだろう? と不思議に思った覚えがある。思春期の少女が心身共に大人へと変身していくということだった、ということに、後になって気づかされた。

このシングルの3ヵ月後にリリースしたデビューアルバムは、同曲を1曲目に置いた『としごろ』。そのLPレコードの帯には「スター誕生!山口百恵のファースト・アルバム」「キラキラした太陽のようにまぶしい14才の世界!」というコピーが書かれていた。まずこの最初の段階で、14才という年齢を押し出す姿勢は貫かれている。

ここで当時の状況としてもうひとつ押さえておきたいのは、百恵が、ほとんど同時期のデビュー組である森昌子、桜田淳子とともに「花の中三トリオ」と呼ばれていたことだ。この呼び方には、世の中にはある事象を3という数でくくりたがる傾向(御三家、三羽ガラスなど)と、年齢や学年でまとめたがる傾向(●●世代など)があることが表れている。
もっともスタートダッシュ時点の百恵は、この中三トリオの中では遅れをとった。森昌子の「せんせい」、桜田淳子の「天使も夢みる」は上々のセールスを記録したのに、「としごろ」はそこまでヒットしなかったのである。元より、酒井氏の著書では、CBS・ソニーの社内では百恵への期待値はそこまで高くなかったことが書かれている。

結果、最初の一歩の踏み込みが足りなかったことを自覚した酒井プロデューサーは、2枚目のシングルから強めの勝負に出た。9月に出した新曲「青い果実」、3枚目のシングル「禁じられた遊び」では、14才が唄うには際どいと思われるようなテーマ性に舵を切り、聴く側が深読みしそうな歌詞が当てられたのである。

再び、酒井氏の著書からの抜粋である。

出遅れを挽回するために、私はすぐ第二作『青い果実』の制作に入った。思い切って詩も曲調も変えたが、「世代」を歌うという最初の路線は変えるつもりはなかった。ただ、彼女と同じ世代の心情をストレートに表現してみようと考えた。そこで生まれたのが「青い性」を歌うという企画である。

また、川瀬氏によると、「青い果実」のタイトルは、酒井氏のほうが作詞家の千家和也氏に提案したものだということ、そして川瀬氏自身がディレクターとして初めて関わった「禁じられた遊び」のタイトルもやはり酒井氏からの提案だったことを明かしている。後者がフランス映画から拝借した言葉であることは明白だ。

対して、当の百恵のほうの回想。彼女の自伝『蒼い時』(1980年)から。

「あなたが望むなら 私何をされてもいいわ」
『青い果実』という歌の冒頭部分である。十四才の夏も近い頃、事務所で「今度の曲だよ」と手渡された白い紙。期待と不安の入り混じった複雑な気持ちで、書かれた文字を追っていくうちに、私の心は衝撃に打ちひしがれてしまった。

(中略)

「こんな詩、歌うんですか」
言ったか言わないかは、さだかではないが、口に出さないまでも、気持ちは完全に拒否していた。

当初の百恵は、この「青い性」路線を受け入れられないという思いがあったようだ。しかしそんな感情をひっくり返し、これを積極的に受け入れて堂々と唄っていく彼女はプロフェッショナルであることを感じさせる。それについては次回で触れようと思う。

それにしても、突き抜けたことに挑んだものだと思う。そこには時代背景として、目立ってこそナンボというところもあったように思うし、また、山口百恵という人間が秘めたものの魔力がそうした動きを導いたのではとも考える。デビュー当初においても彼女は当初から翳りのような、そして危うさ、危なさのようなもの……まさに際どい何かを抱えているようなイメージがある。
そうしたものを見抜き、その歌手の作品の方向性として引っ張った酒井氏は、やはり図抜けたプロデューサーだったのだろう。

1973年12月、百恵がリリースした2ndアルバムは、収録するこの2曲のシングルA面をそのままタイトルにした『青い果実/禁じられた遊び』。その帯コピーは、今度は「まっ赤な気持ちをぶつける世代!悩み多い十代の世界!」だった。
アルバム中のオリジナル曲には「恋人ごっこ」そして「悩み多い14才」という、本当にそのまんまの楽曲がある。百恵の作品は、14才の少女のリアルを表現することにシフトしていた。

彼女のデビュー年である1973年はこのアルバムで締めくくられたわけだが、新人賞レースには食い込むことができずに終わっている。

次の段階は翌年からのストーリーである。1月17日生まれの百恵は1974年に入ると、すぐに15歳になった。

(山口百恵 その2 に続く)


芋けんぴを名古屋から買ってきてくれたのはカミさんです。
吉芋塩花火も買ってきてもらってて、
こちらは750gで、税抜400円。
日持ちするので、まだ食べてません

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