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【年齢のうた】尾崎豊 その1●家出少年の思いを綴った「15の夜」

カレーの名店と言われているエチオピアで初めて食べたんです。頼んだのはポークカリー、920円。近くを何度も通った神保町の本店でなく、御茶ノ水店でしたが。
僕はそんなに辛いものが得意ではなく、でもカレーは普通に好きなレベルでして。しかし、ここのお店は辛さが0倍(通常の中辛レベル)から70倍まであるらしくて! ま、おとなしく、0倍のを食べましたが、それでも汗をかいてしまう僕でした。
なので辛すぎるとダメなんですが、でも爽やかな辛さでおいしかったな。というと、岩城滉一だかがCMに出てたジャワカレーのコピーみたいだけど、まるで別物。しかもここはジャガイモと、お願いするとマーガリンも出してくれます。ランチタイムはデザートのマンゴープリンもサービスしてくれるのでした。

うれしいデザート!


実は最近わが家でカレーを食べる機会が激減していて……まあ大した理由ではないのですが。なので、やむなくの外食カレーだったんですが、良かったです。

今週もまだ新PCの購入プランも進行中で、そろそろ佳境に入りそうです(はよ買えや)。ときめきを大事にする前に、予算とスペックとの折り合いをつけねばならんのであった。しかし高いよパソコン。

先日は、坂本龍一の訃報も悲しかったですね。僕にとっては、YMOの中ではソロでの動きを最も追ってた人で、昔はライヴもよく観に行ったな。3.11後の日比谷のイベントでは、うちの娘とふたりでいた時に、間近でお見かけしたこともありました。ご冥福をお祈りします。


ええと、今回の【年齢のうた】は、尾崎豊です。
亡くなったのが1992年の4月25日だから、もう31年も経つんですね。

「15の夜」の実体験は、実は14歳の時のこと


尾崎豊のデビューは1983年12月1日。最初のシングルとアルバムの同時発売だった。よく知られている事実だが、これはあまり話題にならなかった第一歩だった。
僕自身は、そういう名前のロックンローラーが出てきたことは雑誌のレビューで知っていた。こいつ、デビューなのに『十七歳の地図』って、まだ高校生?と思ったものだ。実際の彼は学校を停学となり、そののちに退学をして、音楽活動に取り組んでいた。また、誕生日を迎えたので、現実には18歳でのデビューだった。


しかし活字では知ってたものの、肝心の曲を耳にする機会がなかったので、徐々に忘れそうになっていってた。そのぐらい、当初の尾崎への世間の注目度は大したものではなかった。

自分が尾崎のことを思い出したのは、大阪で大学生活を送るようになった翌年の春以降のこと。深夜のテレビでは関西地区のコンサートのCMがよく流れていて、その中で尾崎の曲もしょっちゅう耳にしたからだ。
調べてみたところ、この1984年に尾崎が大阪でライヴを行ったのは、6月のバナナホールと、12月の厚生年金会館。テレビでよく観たのがどちらのCMだったのかは不明だ。ただ、彼はこの年の8月に、東京での反核イベントに出た際に高所から飛び降りて脚を骨折してしまい、そのニュースを聞いたりはしていた。音楽ファンの間に、少しずつ尾崎の存在が知れ渡りはじめた頃だった。

そして1985年1月に出たシングル「卒業」が大きな話題を集め、突然の大ヒット。

続いて3月にリリースとなった2作目のアルバム『回帰線』はオリコンのアルバムチャートでいきなり初登場で1位になる。

ここで尾崎を取り巻く狂騒は熱くなる一方に傾いていく。そうして彼の歌は各地で流れるようになり、新作はもちろん、デビューアルバムの曲も翻って聴かれるようになっていった。尾崎に対しての世の中からのリアクションが大きくなったのは、このあたりからだろう。

深夜、テレビのコンサートのCMでしか歌を聴いてなかった僕の耳にも尾崎の曲たちはどんどん入ってきて、と同時にその頃から、このアーティストに対するいいだの悪いだのといった意見を聞くことが増えた。それぐらい、まさに時代の歌だったのだろう。尾崎の歌は、好きとか嫌いとかも関係なく、世間に浸透していくような状況だった。

ただ、この頃、僕は尾崎の歌に傾倒することはなかった。だから当時はレコードも買ってないし、ライヴにも行っていない。若くして自分のやりたいことに邁進する彼のことを、どこか距離を持って見つめていた。そして自分と同年齢の奴があんなふうに自由や解放をまっすぐ叫ぶことには、どうしてもついていけない感覚があったのだ。

尾崎については、僕のカミさんのほうがよっぽどリアルタイムのファンで、ライヴも名古屋でのホールとか、代々木競技場や東京ドームなどに観に行っている。

と、こんなふうに1985年頃から尾崎の作品への盛んな論議が聞かれるようになったわけだが、その中でもとりわけ言及されがちなもののひとつが「15の夜」である。これは尾崎のデビューシングルでもあった曲だ。

「15の夜」についてはこの当時も、さらには時代をいくつも経た今になっても、あらゆる局面で語られることが多い。ちょっと驚いたのは、数年前にAdoの「うっせぇわ」が社会現象になるほど注目を浴びた時。あの曲を議論するにあたって、「15の夜」が引き合いに出されることがあったのだ。その頃のAdoは10代で、大人への反抗といったポイントから尾崎が引っ張り出されたようである。

「15の夜」について、80年代から多い意見は、バイクを盗むんじゃねえ!という非難である。音楽や創作にはフィクションを交えた表現ってのもあるのに、ずいぶん素直に真に受ける人もいるものだと僕は思っていた。それだけ尾崎の歌にはリアリティがあったとも言える。

で、これはやはり彼の実体験をベースに生まれた曲だった。同級生が学校で髪が長いといって教師に髪を刈られたことに反発した尾崎たちが家出をした件が発端になっている。

今回、こんな記事を見つけた。4年前のフジテレビでの報道を文字にしたものである。

「15の夜」は、実は14歳の時の出来事を歌にしていて、しかも元は「無免許」というタイトルだった。それがプロデューサーの須藤晃氏とのやり取りの中で、「15の夜」へと改題されたのである。

須藤氏はそれを2012年に出た『NOTES 僕を知らない僕 1981-1992』という本の中でも明かしている。下記はその本のページの一部で、須藤氏による書き出しを活字にしたものだが、デビューアルバム制作当時の曲目リストの中に「無免許」というタイトルが入っているのがわかるだろう。さらに下の表では、一時的に「15才の夜」となっている。

尾崎 豊『NOTES 僕を知らない僕 1981-1992』より。
しかし「15の夜」のオリジナルタイトル、
「無免許」って…すごいなぁ

まず、この歌がもしリアルのまま、「14の夜」という曲だったら、印象はかなり変わっていただろう。歌詞としては、サビ前の言葉のハマり具合は、14の夜より、15の夜、と唄われるほうが断然いい。じゅうしのよるー、だと、言葉の強さがちょっと弱い。15にすると濁音が間を置かずに来て、ロック的な響きとして、いいのだ。しかも尾崎はこの言葉をしわがれ気味の声でシャウトする。

また、もうひとつ思うのは、デビュー年齢もそうだが、尾崎は何かと早熟だった。経験するのも成長するのも、世に出ることも。だから歌の舞台となった出来事は、本当は14歳の時だったとしても、物語性としては15歳でちょうど良かったのではないかと思う。聴く側、受け取る側のリアリティとして。

曲タイトルのきっかけになった石川啄木の短歌


などと思っていたら、今度はこんな記事を見つけた。須藤氏が、やはり「15の夜」の誕生について話しているのだが、あの曲のタイトルは、尾崎との会話で出てきた石川啄木の作品がひとつのきっかけになったことが述べられている。


着想のひとつの源になったのが、啄木のこの短歌だという。

不来方(こずかた)のお城の草に寝転びて
空に吸われし
十五の心

自分自身に不安、あるいは不満も抱えていたこの歌の主人公(=啄木)が、城の草の上に寝転がり、見上げた空に吸い込まれるような経験をしたという歌だ。その年齢が15歳だったと。
この話は、インテリで、しかも文学青年であった須藤氏の存在の大きさを示すものだろう。

実際のところ、14歳とか15歳はいろいろなことがありがちな年頃だと思う。思えば14歳は、21世紀になってからは中二病(あるいは厨二病)なんて言葉もできたような時期。何かをこじらせたり、周囲に反発したり、つい常軌を逸脱した方向に傾くようなことが多い。
僕自身は公立の中学校や高校に通っていて、まあ平和なものだったとはいえ、やはりそれなりに荒々しい同級生はいたものだ。あと、尾崎の歌を聴いていると、学校というものの存在の大きさを思い起こす。受験戦争の時代を受けた80年代は何かと校則が厳しくなってきた頃で、背景には校内暴力の蔓延もあった。
学校側に対抗するように尾崎は自由を唄った(そして喫煙や飲酒をして、停学になってしまったが)。あの頃は、それだけ先生からの、大人の側からの締め付けがうるさい時代でもあった。もっとも、それは今でもブラック校則という形で残っていたりするのだが(真冬なのに上着を着るなとか、どんな校則なんだよ)。

「15の夜」のみずみずしさは今聴いても素晴らしいと思う。若者特有の刹那的な衝動が刻み込まれている。決して広くはない、自分の周りだけを見ての、でも切実で、まっすぐな感情。

10代の、とくに中高生の頃は、ほんとに狭い範囲内のことだけ考えてれば良かった。自分を中心に、家族と、周りの友達。世間のことや社会で起きてる事象なんかよりも、その小さな半径の中でああだこうだやってた、そんな気がする。
大人の年齢になった今では「こんなこと、子供に示しがつかないな」とか「次の世代のために何かやっておかないと」なんて、まあできるかどうかはさておいて、ちょっとは意識したりするのだけど。あの年頃は、そんなの考えちゃいない。
そう、自己中。もちろんそれでいいわけはないのだが、そんなわがままや身勝手もまだ許される年齢なのだ。

こうして時代の寵児となった尾崎は、やがて「10代のカリスマ」と呼ばれるようになっていく。

(尾崎豊 その2 に続く)

この『十七歳の地図』のジャケットに
書かれているサインは
尾崎作品のアートワークや写真撮影などでも知られる
田島照久さんのもの。
3年前、僕は彼にインタビューでお会いしていて、
その席でカミさんのCDにサインをしてもらったのです。
取材内容はもちろん尾崎についてのこと。
今あらためて、田島さんに感謝いたします

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