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ズレてることに乾杯。

あるとき、「自分があっていいよ。素敵だ」と自分では褒めているつもりで、友人に、伝えたことがある。その時に、彼女は嬉しくなさそうだった。

「嫌な気持ちにさせてしまった。と思い、謝ろう。だけど理由を知りたいな。とても素敵なことなのに。」と思い、口を開こうとした時、彼女は「自分は人の後ろに隠れて生きていきたいんだ。」と言ってくれた。人それぞれの気持ちだからとやかく言うのは違うと思うし、彼女の性格を勝手ながら考えるとそう感じてしまうのも分からなくなかったが、なんだか寂しい気持ちになった。

彼女に、「そうなのか。ごめんね」と伝えてその時は終わったのだが、しばらく数日経っても、なんだかもやもやとしてしまった。

たぶん大きなことをいってしまえば、世の中はまだまだ現状保守的で、マイノリティな意見が消えてしまいがちで、ちょっと、他の人と意見が異なると「間違いだ」という気持ちになりがちな世界な気もする。(捉え方は人それぞれだけど。)

私は、人との「ズレ」がどうやら平均値よりはあるようなので、言われ慣れてしまったということもあり、「まあいっか。」流せるくらいのズレへの抗体はちょっと人より多いのかもしれない。さらに「みんな人それぞれ、それが最高だぜ!おおういえい!それが面白いんだ!」というスタイルで日々を過ごしているので、「ズレ」への不信感は0に近いのかもしれない。

だからなのかマイノリティな意見(「ズレ」)を「正解と不正解」という二択で考えがちになってしまうことが悲しい。もちろん、何か議論している時に「同意見」だとか「異論なし」とかそういうことがあると思う。でもそれが、人とズレていることへの不安から選択したものだとしたら、とっても悲しい。
たとえば!、自分がいった意見と異なる意見が出てきた時に、「え!わたしの意見よりめっちゃ正しいじゃん!」って思う時に「それいい!(同意見!賛成!)」と言えることはとってもいいことで、その発見や気づきはとってもワクワクすることだと思う。ネガティブな同意は、どこか切なくて、無理をさせている気がするのだ。それはきっとベストな選択とは思わない。

「これからは”多様性”の時代だ。」と言っているうちは、大切な多様性は、許容範囲外のままになっているように感じる。頭の中でわかっているけど、心のそこには、入れ込めない。ということもあるのだろう。「ズレ」への不安はなかなか大きな壁なんだろう。

いつか”多様性”という言葉はなくなればいいと思う。"多様性という概念"を残して。

綺麗事かもしれない。だけどもっと、みんながリラックスするようなシーンをオフィスでも、どこでも、もちろんお家でも、そういう環境ができたら、みんなが笑顔になれるのではないだろうか。心が落ち着けると言うこと、安心できるということ。そこから何か変えることができるのではないかと思う。そこから大きな壁に隙間をつくることができればいいなと思う。

学生時代の同期が就活の最終面接で、「ダイバーシティ」はどう言う意味ですか?との問いに、「ダイバーシティってお台場にあるやつですか?」と答えその会社に入社した、ということを思い出した。

「ズレ」ってこんなに最高か。って私は思う。

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