見出し画像

人生を美学する街

ウィーンに戻ってきて10日程、正直いろいろ忙しかったのを言い訳にいろんなことを後回しにしていた。その中でやれたことは、助成金の報告書作成やら税務申告の勉強くらいだろうかと思うと、お金のことばかり考えていて日が暮れてしまうのは幸せなんだろうかとふと思うと、もう夕飯時間をとっくに過ぎた夜中で、外は雨が降っていた。傘がないから仕方なく最寄りの地下鉄駅まで雨に打たれながら歩くけれど、見慣れた通りのレストランは遅い夕飯を終えた人たちがゆっくりワインを飲んでいるが見えて、特になんの感情も浮かばなかった。楽しそうだとか、羨ましいわなんて思うのかとも思ったけれど、単にそれが見慣れた風景の一部でしかないように思えて感覚が麻痺してしまっているのかと不安になるくらいに何も思わなかったけれど、そもそも見慣れた風景を見ても、なんの情報も入ってこないのではないか、そもそも何も見てないと変わらないのではないかとも思った。

10代の頃は何も考えてなかった、20代の頃は自分の好きなことばかり考えていた、30代の頃は自分の興味のあることを追求することを考えていた、40代になった今なぜか、自分が嫌いなこと、自分の興味がないことがどういうことなのかを薄ら考えるようになった。それは自分の関心が到達できない世界がどうなっているのか、それとも自分の関心が影響及ぼせなくても存在し続ける世界、僕が嫌っている世界がどのような価値に基づいて存在しているのを知りたいという欲望に近いようにな気がしてきた。

見慣れた通りのレストランの情報が何一つ僕の心を躍らせないのは、もはや僕が何も見れなくなっているからに違いないと考えられるのでは。今朝、本屋のショーウィンドウに飾ってあるウィーン市の日本語ガイドマップにはこう書かれていた「人生を美学する街」。人は街を歩いて文字を見つければ、その文字を読みたがるが、果たして僕は文字が読めているだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?