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2024年はミステリーを読もう

新年の抱負という習慣はない私だが、今年は一つだけ掲げよう。2024年は、ミステリーを読もう。

普段からミステリーを読んでいないわけではないのだが、そもそもフィクションに触れる機会が多くはない。



小中学生の頃

読書遍歴の概要をお伝えしておくと、小中学生のころはミステリーが好きで、シャーロック・ホームズやアルセーヌ・ルパン、アガサ・クリスティーと、西洋の古典ミステリーに親しんでいた。

その頃はマンガやアニメに親しんでいた時期でもある。アニメイトに心躍らせるくらいにはオタクであった。「月刊少年ガンガン」と「ガンガンWING」は毎号買っていた。

「飛べ!イサミ」(NHK)で新選組にハマり、「里美☆八犬伝」(よしむらなつき)で里美八犬伝に出会い、「封神演義」(藤崎竜)で封神演義を読み、といった、その後の文学経験に影響を与える作品に出会ったのもこの時期だったと思う。

なお、小学生時代の夕方にエヴァンゲリオンには邂逅している。


高校生の頃

高校生の頃によく読んでいたのは、ブルーバックスの科学読み物や、教育や心理学に関わるもの、そして音楽に関わるものだった。指揮者の朝比奈隆のエッセイに夢中になっていたのは覚えている。この頃はN響アワーやNHK・FMでオーケストラの曲に親しむなど、音楽にどっぷりつかっていた時期でもあった。

つまりは、フィクションへの関心は相対的に薄れていた時期だったと思う。いろいろな作品は読んでいたと思うが、思春期の悩みも手伝ってか、現実の方がよっぽど複雑で不可思議なものだと感じていたのかもしれない。手元の悩みを解決する手段の一つとして本を求めていたのだから、当然といえば当然である。そこで物語の世界に救いを求めるという方向には行かなかったようである。

当時出会った文学で覚えているのは、高校3年生の受験期の2月に、急遽受けることになった受験科目に国語の口頭試問があったために触れた萩原朔太郎の詩くらいだろうか。確か源氏物語がおもしろいと思ったのはその少しだったと思う。直観的な美が、それらにはあった。それ以外の授業以外で触れた文学作品を、今ではほとんど覚えていない。


大学生の頃

そして大学生になると、教育学部の国語科専攻だったので、初等・中等教育に関わるものや、日本文学に関わるもの、たいていは専門書に触れる機会が自然と増えた。だが、実際の文学作品となると、よく覚えていない。

一方で、関心の中心は吹奏楽や管弦楽、室内楽であった。それ以外には、国際協力関係の進路を考えていたので、国際関係の情報に触れることも多かったと思う。

時間があればコンサートや講演会、美術展に足を運んだ。生活の中心の4割が学業、4割が音楽活動、2割がそれらの経験に割り振られた。思えば知的好奇心を満たすのに必死だった。地方では、かなりアンテナをはらないと、そのような経験にリーチできなかったのだ。

そんな中で、文学はどこか後回しにされてしまっていた。ここでもやはり、救いを文学に求めるということはなかったようである。


就職した後

再び文学に触れる機会が増えたのは、就職した後だったようである。

国語科の教員であるから、自然と文学作品に触れる機会は増える。この頃に、教科書やテキスト、入試問題などで多様な文学の断片に触れることになる。ただ、刺激的に感じたのは主に評論文の方で、文学作品との出会いは比較的少なかった。

この頃になって、ドラマや映画にハマりだす。一人暮らしができるようになって、自分の好きな時間に、好きな作品に触れることができるようになった。

当時はまだサブスクなんてなかったから、映画はDVDを借りてきていた。とにかく10枚ほど借りてきて、とにかく観る。自分の知る世間の評判ではうかがい知れない名作に出会ったのもこの時期である。(「自分の知る世間の評判」とは別に「自分の知らない世間の評判」というものもあるものである。)

そうなると、自ずから原作小説にも目が向くようになる。ドラマや映画の原作や脚本に触れることも多くなっていった。

文芸誌を読んでみることもあった。未だ文庫化もされていない、されるかもわからない作品群に触れる楽しさ。新人賞の新しさ。そんな世界にも触れるようになっていった。

文芸誌に触れ始めると、自ずから作家への目が拓かれる。書店に並ぶさまざまな作家の作品に目が向かうようになる。さしあたりは何人かの作家によるアンソロジーあたりから始めて、それらの短編集や文芸誌の作家に触れる機会も増えた。

結果的に、高校教師時代に一番心惹かれたのは、よしもとばなな、吉田修一、そして綿矢りさだった。

綿矢りさは同じ年に生まれている。その文体に、「これが文学なんじゃないか」とハッとしたのを覚えている。

よしもとばななと吉田修一は、気がついたら血肉になっていた。また、自分への処方箋として機能することも多かった。この二人の作品は、いつか網羅したいと思って蒐集し、少しずつ読み進めている。

このころにはもちろん、ミステリーに触れる機会は増えていた。ドラマや映画でミステリーが原作とされるのは、角川による金田一耕助の時代から鉄板である。

それでも、今、もう少しミステリーを読もうと思っている。


今、再びミステリーを

今、再び大学生になったこともあり、もともと少ない文学作品の割合が、ますます少なくなってしまった。心理学の専門書を読むことが増え、文学作品を読む機会は比較的多くない。

ここ数年、仕事上では日本の古典作品を読む機会が多い。特に古事記は二年ほど向き合っている。Podcastで紹介することを通して、自分自身の古典に触れる機会を増やしているということもある。

そういった中で、ミステリーに触れる機会は、相対的に少なくなっていた。

だが、ミステリーに触れると、確実に満たされるものがあるのも確かだった。

数年前に、リアル脱出ゲームに誘ってもらい、参加する機会があった。それなりに楽しかったのだけれど、それほどハマらなかったのも確かだった。

たぶん私は、ミステリーをあくまで文学として楽しんでいるのだと思う。トリックやパズル解読も好きな方なのだけれども、それだけではあまり満たされないのだ。

先日も友人とカードゲームをする機会があったが、それはそれで楽しいのだけれども、たぶんそれ以上に心躍るものを、私は持ちすぎていた。

それは学問に触れること。
それは芸術に触れること。
それは人間に触れること。

もちろん、複雑な日常から切り取られた単純化された世界で遊ぶ楽しさはある。数学だって、おもしろいと思う(最近になって仕事で数学を教える必要にせまられて勉強している)。けれど、私にとっては、それほど持続できるものではないようである。

複雑で怪奇で不可思議な世界の魅力にどっぷりと浸かってしまった私にとって、ゲームや数学といったディフォルメされた楽しみは、いっときをやり過ごすには適していても、元気なときにはそれほど関心が向かないようなのである。

そんな中で、ミステリーとは、文学という芸術であり、人間に触れることを要求するものである。それでいて、他者との共通の感覚を持ちうるという性質も持ち合わせている。

芸術を味わうというプライベートで個人的な営みでありながら、それを他者と分かち合うことを可能にしやすい(それはミステリーがある種の解答を用意しているからである)、そんな稀有な性質を持つのが、ミステリーなのである。

これは普段、芸術を味わうにせよ表現するにせよ、他者と共感することがめったにない自分としては、そこにある孤独を紛らわせてくれるものでもある。

そんな、自身の内なる欲求(文学を味わい、人間を味わいたいという欲求)も、外への欲求(自分が感じたこと、得たものに共感してほしい、分かち合いたい)も満たしてくれるのが、ミステリーなのではないかと思い至った。

ということで、2024年の抱負は、ミステリーを読むことにしたいと思うのである。


まずは「このミス」から

まずは、「このミステリーがすごい!」掲載作品から読破していきたいと思う。

これまで通り、断片的に、気の向くままにミステリーに出会っていくことはもちろんである。だが、それだけでは出会えなかった作品たちに、今年は出会っていきたいと思う。

そこで、まずは、最近のトレンドは通っておきたい。ということで、「このミステリーがすごい!」の作品にはなるべく触れておこうと思う。

ちなみに、年末は「人間標本」(湊かなえ)でミステリー収めをした。年始は「このミス」のランキングで第1位になった「可燃物」(米澤穂信)でミステリー初めをしている。

小学生の頃から時を経て、ミステリー熱の高まりを感じている。今年は自分の新たな柱として、ミステリーを主題としようと思う。

懐かしくも怖ろしく、心地よくも不可思議な世界を、今年は、生きよう。



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