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シンプルな音楽の魅力~N響定期公演より~

 なんやかんやあって、僕はサントリーホールのP席に座っていた。NHK交響楽団の定期公演。今回はソリスト大活躍の楽曲が多いプログラムだった。P席から聞く協奏曲もいいけれども、やっぱり正面から聴いた方が、ソリストとオケとのバランスは良いだろう。でも仕方がない。正面の座席はちょっと値段がいいのだ。
 僕は残念ながら、オーケストラで協奏曲を演奏したことはない。だから、協奏曲のバランスというものは、今ひとつイメージできない。後ろから演奏を聴いても、正面で聞こえるはずのバランスをイメージすることは難しい。だから、今回の演奏会のP席はちょっとだけ後悔した。
 会場で最初に聴くのはモーツァルトの4つの管楽器のための協奏曲的な楽曲。オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルンと管弦楽というユニークな編成だ。
 曲の始まりは管弦楽、追ってソリストによる再提示というお決まりの構成だ。しかし、モーツァルトのメロディはなんとシンプルで美しいのか。言ってしまえば、既存の音階の並び替えにすぎないのかもしれない。作曲を始めたばかりの子どもが一度はたどりつきそうな音の組み合わせだ。けれども、どうにもそれが美しい。何度繰り返されても飽きずに聴き続けてしまう。モーツァルトの音楽には、シンプルだからこそ活きる表現力がある。奏者の個性が発揮され、その場の感情や思考の動きが手に取れる。オーケストレーションに頼らない変化の魅力がはっきりと浮かび上がる。
 ピアノ伴奏と管弦楽の伴奏の違いの一つが、ソリストに対する反応だ。ソリストとピアノの関係は対話だが、ソリストと管弦楽の関係は群衆を相手どる集会かもしれない。大勢の群衆を前に自身の意見を表明し、群衆の意見に反応し、時には群衆を取り仕切る。また、群衆は一枚岩というわけではなく、多様なレスポンスが入り乱れる。その乱反射する思考が、絶妙な表現の不確実性を生み、音楽を生きたものにする。
 それに加えて、今回のソリストは一人ではない。四人のソリストの感情と思考が入り乱れることで、一層重層的な魅力が、空間的にも時間的にももたらされる。特に、クラリネットとオーボエ、ホルンとファゴットが明確に息を合わせることで作る秩序と、絶妙に入り乱れる音楽との対比が楽しい。常に息が合っている演奏などはつまらない。そこを追求していけば、どこか無機的な部分につながるだろう。そこにあえての不揃いな部分があることが、音楽的な厚みになるのだ。
 管弦楽と言っているけれども、管楽器は限られていて、ホルンとオーボエが二本ずつ加えられている。ソリストの楽器と被ってしまうのだけれど、これらがまた良い感じに音楽に豊かさを与えている。ソリスティックな演奏との違いを楽しめるのも、とても良かった。
 続く曲はドビュッシーのハープソロが印象的な楽曲。ハープという楽器の魅力は多々あるのだろうけれども、主要な役割に音階の提示というものがある。多くの楽曲の中で、ハープの音階が奏でられることで場面が変わったり、気持ちが高ぶったりする不思議な力がある。
 だから、ある種音階の魔術師のようなドビュッシーが、ハープに焦点を当てた楽曲を生み出したとき、そのシンプルな音階の魅力が一層際立つ気がするのだ。シンプルな和音のは力強い。特に民俗的な空気を持つ音階は、その単純にも思える構成が耳に残り、場を支配する。様々な楽器の音色の特色が混ざり合い、巨大な束となって全身を貫く。浮遊感のある全音階すら、安定した階段のように柱となってその場に構造物を造り出す。
 二曲の対比的な舞曲が語られる。一曲目は聖なる古風な舞曲。二曲目は大衆的で文化的な舞曲。舞曲という性質が、リズムに気持ちを向かわせるけれども、ハープの持つ撥弦楽器としての性質が見事にマッチして、空気感を変化させている。
 シンプルなメロディ、シンプルな音階、シンプルなリズムの力は直接的に我々に影響を与える。耳というよりも、身体で聴いているような感覚になる。そんな音楽体験を楽しんだ、協奏曲的な作品の演奏だった。

2021年5月16日(日)14:00~ サントリーホール
指揮 尾高忠明
ソリスト オーボエ:吉村結実
     クラリネット:伊藤圭
     ファゴット:水谷上総
     ホルン:福川伸陽
     ハープ:早川りさこ
曲  目 モーツァルト「4つの管楽器と管弦楽のための協奏交響曲 変ホ長調」
     ドビュッシー「神聖な舞曲と世俗的な舞曲」
     他

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