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音楽は音でできている~サムソン・ヤンの「音を消したチャイコフスキー交響曲」~

東京六本木の森美術館に、「STARS展:現代美術のスターたち――日本から世界へ」を観に行った。

一通り見終わったあと、同時期開催の「MAM COLLECTION」の一つとして、サムソン・ヤン(楊嘉輝)の作品が展示されていた。

内容の説明には、「音を消したチャイコフスキー交響曲第4番」とある。チャイコフスキーの交響曲第4番といえば、最近N響の定期公演で聞いた曲。しかし、「音のない」とはどういうことだろうか。

仕切られた部屋からは、スーッ、スーッという何かをこする音と、ドタドタとした地響きが聞こえてくる。仕切る黒いカーテンを開くと、中は真っ暗だ。

暗い部屋に入ると、正面に大きなスクリーンがあり、オーケストラの演奏風景が映されている。そして地面には12個のスピーカー。

音はスピーカーから聞こえてくるが、それが何の音かがわからない。

しかし、画面とリンクさせて聞いていると、不思議と「それ」がなんの音楽かわかった。チャイコフスキーの交響曲第5番の第一楽章だ。

「それ」は、確かに音楽だった。何かをこする音、息のもれる音、何かを叩く音ははっきりと音楽として感じられ、僕の頭の中で、弦楽器や管楽器、打楽器の集合体として変換され、確かに音楽になっていた。

不思議な感覚におちいったものの、自信がない。説明には、チャイコフスキーの交響曲「第4番」とあったはずだ。これはどうやら、「第5番」に聞こえた。

そこでいったん部屋を出て、改めて外の説明を読むと、はたしてそこには、「音を消した状態#22:音を消したチャイコフスキー交響曲第5番」と書かれていた。

僕の見間違いだったわけだが、それは結果的に、僕に聞こえてきた音楽は先入観によるものではなく、確かに感覚として感じられたものだということを証明していた。

チャイコフスキーの交響曲第5番は、学生時代に演奏したことがあったから、曲の細部まで聴いたことがあった。

それでも、そこで聞こえてきた音は、オーケストラの音とは大きく違うものだった。それなのに、どうしてこの曲だとわかったのだろうか。

説明を読むと、弦にテープを巻くなどして、ミュートして演奏しているとある。つまり、オーケストラの音を編集したり、特殊な録音方法をとったのではなく、楽器と演奏方法を変えているのだ。

改めて部屋に戻ると、映像をじっくり見た。

弦楽器の、ちょうど弓でこする部分は全体にテープのようなものが貼られ、こすってもほとんど音が出ないようになっている。そのテープによって弦は固定され、ピッチカートはかろうじてかすかに響く。

管楽器はおそらくリードやマウスピースを振動させずに、息だけで演奏しているのだろう。かすかにキーを押す音が聞こえる。

ティンパニーの皮の上には分厚いカバーがつけられ、その上をマレットで叩いている。結果的に、ティンパニーの音だけは全体に比べてはっきりと打音が聞こえる。

それぞれのパートの上部には、一人ひとりにマイクがつけられ、かすかな音をひろっているようだ。

こうしてみると、音楽など奏でられそうにない。特に音程については、全くといっていいほど区別できるような状態ではない。

つまりは、弦楽器のボーイングの速度や音量とリズム、そしてかすかなピッチカート、管楽器の息の速度や音量とリズム、ティンパ二の打音で音は作られていることになる。

しかし、音楽を認識するには、それらで十分であった。チャイコフスキーの独特の跳ねるようなリズム、劇的な盛り上がり、繊細なフレーズは、ボーイングとピッチカート、息、打音だけで十分表現できていた。

管楽器メインの部分と弦楽器メインの部分がわかりやすいので、視覚的な情報が補ってくれる。

管楽器ソロの部分でズームアップしてくれればもっとわかりやすいが、特にメロディやソロに注目して撮影されているわけではなさそうなので、果たしてソロの場面なのか自信がない部分もある。

しかし、音だけでも全体としての複数の楽器の重なる厚みは伝わるし、音量の変化やフレーズ感ははっきりと感じられた。

これがもし他の曲だったらどうかはわからない。見事な選曲だと言える。

第二楽章まで劇的に奏でられたあと、第三楽章に入ったときに、事件が起きた。

音が消えたのだ。

あえての演出かと思ったが、学芸員に確かめたところ、不具合のようだった。

映像はそのままなので、そのまま見ていると、驚くことに気づいた。

曲が全くわからなくなってしまったのだ。

音のない映像だけが映る中、かろうじて第四楽章に入ったタイミングはわかったが、どうにも頭の中に音楽が鳴らない。

つまり、僕の頭の中に流れていた音楽は、先ほどまでの弓のこすれる音、息、打音に依存していたのだ。

一流の指揮者であれば、映像を見ただけで、音が聞こえてくるのかもしれない。スコアが頭に入っていれば、ボーイングと、管楽器奏者が管に口をつけているタイミングで、どの部分か判別できたかもしれない。

しかし、スコアが頭に入っているわけはなく、曲全体もうろ覚えな僕には、どの部分を演奏しているのか、全くわからなくなってしまった。

これは、当たり前のようだが、音楽は音がなくては成立しないことを示している。裏を返せば、音さえあれば、音楽は音楽として成立するのだ。

このような制限のある状態でも、偉大な作曲家の作品は、音楽として成立していた。これは決して偶然ではないように思う。他でもない、チャイコフスキーの交響曲第5番だからこそ、成立したのだ。

実は、後日またその展示を観に行った。全曲を通して聞きたかったからだ。しかし、残念ながら音は戻っておらず、ただ映像が流れているだけであった。

これだけを観た観客は、さぞかし不可解に思っただろう。テレビの消音機能を使うのと、何も変わらなかったのだから。

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