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努力を「他人に見せるためにやる」ならやめた方がいい

「才能が無い私でもやればできた、自分が頑張っている姿を見せたら誰かの励みになると思って」という人とたまに出会います。
これは、40代…というよりも、50代以上の方に見られるのかな、と思っています。
「50からの手習い」ではないにしても、若い頃から始めたものではないものに対しては、「どうせ始めてもうまくいかないんじゃないか」って思う人が多いと思っているのかな…と思います。まあ、実際、「歳だから」を理由に行動に移さない人もいますしね。

で、その、伝えたい人は、全然できなかったものに対して練習を積み重ねたら出来るようになった、ということで、その分野に関して若い頃からの経験がなくても練習すればうまくなるから諦めないで、というメッセージを伝えたいということが分かります。
しかし、私は、このメッセージは伝え方によってはとても危険だなぁと思って見ているのです。
なぜ、私が「こんな私でも出来るんだ」ということを伝えることに対して気を付けたらいいと思ったのかを今回は記事にしますね。

そもそも、誰もあなたを「そんなあなた」とは見ていない

「こんな私なんて」って思っているのは実は自分だけ…なんてケースは多々あります。そもそも、誰もあなたのことを「そんなあなた」っていう視点では見ていないのです。
よって、その人が一番伝えたい「こんな私でも」という前提条件が伝わらないのです。

よって、「やれば出来る」「頑張れば出来る」という根性論の部分だけが伝わってしまうということになるのです。(さらには、その人にとっては裏メッセージでもある「だからあなたも」というところが伝わってしまう)

そして、その人の(隠された)本音も同じで、本当に分かってほしいことは「自分が頑張っていることを認めてほしい」なんですよね。

だったら、それを先に言えよ!って思うのですがねw

言いたいことを前面に出さないから、伝わらなくてうまくいかない。

自分が楽しんで努力しているんなら、それを見せればいいのに

あのですね、努力出来ることも継続できることも「誰しもが出来ること」じゃないのですよ。ここを勘違いしている人もいらっしゃいますね。努力出来なくて、継続できなくて悩んでいる人はたくさんいます。(かくいう私も継続できなくて悩んでいます)

だから、「こんな私でもやればできる、ってことを見せることによって誰かの励みになれば」と言われても「そうですか。で?それをどうやって励みにするんですか?」って言いたくなっちゃう。
「あの人も頑張ってるんだから、私も頑張れるのでは…」って思うとでも?そもそも、読み手の人は「そんなあなた」って思ってないんですってば。「頑張れ」ってメッセージを他人から受け取りたくないんですってば。今までも読み手の人は、読み手の人なりに頑張ってきていることがあるんですってば。頑張るときは、他人からのメッセージなんか必要ないんですってば。

「こんな私でも出来た」を効果的に見せたいなら

ただ、「こんな私でも出来た」という過程を見せることによって、励まされる人がいて、「私もやってみようかな」という人が出てくるというのはあります。

「こんな私でも出来た」を見せるなら、いかに自分が出来なかったかという出来なかった頃の出来事や出来るまでの過程を詳細に書く方が、読む側としては共感を得られるのですよ。で、出来なかった頃から始めの一歩を踏み出すまでの心の葛藤とか、初めてやってみたときの失敗した出来事とか、そこからどういう工夫をしたとか…その部分を描写することによって

出来た後(すでにうまくなっている)ところばかりを見せられても、読み手としては「出来なかった頃のその人」がイメージ出来ないわけで。

どんだけ自分が「出来ない人」だったのか、詳細に書いたことはありますか?どのように工夫してどのように楽しんだのか、発信したことはありますか?

「こんな私でもやればできたんだから」って言いたい人は、本当に伝えたいのはそこじゃないんじゃないか…と穿った見方をする私がいるのです。

努力を苦行と思わず、楽しんだ人のところに共感は集まります。「自分の努力を伝えたら、誰かの励みになるのでは」なんて思いながら努力するくらいなら、やめた方がいいと思うのです。


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