Answer「p5」
「p4」前話
2016年10月31日
裏切り、というのだろうか、これは。
昨日の昼、はるかはタクミからのLINEのメッセージに呆然としていた。
日曜日だった。この週末、タクミは実家に帰っていたので、はるかは地元のショッピングモールに来ていた。ハロウィンの装飾できらびやかに飾られたモールの中には、モールのイベントに参加している子供たちのトリックオアトリートの声が響き渡っている。ハロウィン当日は明日だが、今日が休日なので、さながら今日が本番、といった風情だ。
人々の波に身を任せていたはるかは、ポケットの中で震えたスマホに手を伸ばし、何の気なしに立ち止まって、壁のほうに身体を寄せ、メッセージを開いた。自分でも止められない「えっ」と声が出た。
ずいぶん前から、ハロウィンには舞浜の超有名テーマパークにいくことを、タクミと約束していた。今年は月曜日だけど、連休取れそう?と何度も確認し、夕方からちょっと遊んで、ハロウィン気分を満喫して、まあそんなに遠くないから帰ってきてもいいね、と言ってはいたが、どこかに泊ろうかという話になるのを見込んで、タクミには黙ってオフィシャルホテルを予約していた。
ハロウィンの夜の、オフィシャルホテル。
簡単に取れる予約ではない。確かに休日は外れていたから、例年に比べたら取りやすかったかもしれないが、予約可能日を待ち構えて、その日になる瞬間を待って手に入れた予約だった。
サプライズ、のつもりだった。
タクミが「おお、すげぇ、はるか!」「前から泊ってみたかったんだよなあ」と喜ぶ顔を期待して、ずっと黙っていたのだ。今日だって、その顔を想像しながら、フェイスシールなどを買いに来ていた。まさかタクミが「行けない」ということがあろうとは想像もしていなかった。「恋人同士のイベントに必要不可欠なハロウィン」。これ以上に重要な用事なんてどこに存在しているのだろうか。
そう返信したはるかにタクミは、偶然学生時代のバイト先の先輩に会ったこと、仕事を辞めたいと相談していること、先輩の仕事の都合でその日しか会えないことを切れ切れの文章のメッセージで送ってきた。
「旦那」という文字を見た時、心臓を素手でつかまれたような気持ちになった。
女——女?
べつに、たいしたことじゃない、と、はるかは即座に自分の下種の勘繰りを否定した。自分が尊敬している上司や先輩は、男女取り混ぜて存在している。自分が仕事の相談をするにしても、ひょっとしたら既婚のあの人にするかもしれないな、という人はいた。どちらにしても、本当におかしな関係だったら、こんな一文は送ってこないだろう。それにしても。それにしても――
さすがに怒りのにじんだ返信になってしまった。落ち着こうと思うのだが、心がざわめいて波立ち、容易に静まりそうもなかった。
たかがハロウィン、と言われて、突沸のように怒りが湧いた。そこで「ホテルも取ったのに」「今だってコスプレ用品買いに来てるんだよ」などとメッセージしようかと思ったが、なんとなくみじめに取りすがっているようでフリックできなかった。指先が彷徨うように震えていた。
ようやくそう返信し、スマホを、今度はポケットではなくバッグに仕舞った。その時、買ったばかりのフェイスシールの袋に手が触れ、また怒りがこみ上げる。
なんなのよ、なんでなの、どういうこと?おかしいんじゃないの、先輩ってどんな人なんだろう、美人なんだろうか、などというとりとめのない思考が頭の中いっぱいに詰まっていた。
そしてやっと、手帳のことを思い出した。
まさか。まさか、だよね。
こういうことを、言っていたのだろうか。あれは本当に、本当に34才の自分からのメッセージだったんだろうか。記憶を失って書いた冗談ではなく?
それでも翌日、はるかはテーマパークに向かった。
ダメ元で連絡を取ってみた美咲から、「え?ほんと?嬉しい!行く行く!」いう返信があったからだ。「彼氏はいいの?」と聞くと、「今年ハロウィン平日でしょ?たぶん仕事だって言ってたから、ハロウィンつまんないなって思ってたとこ」という返事があった。ほっとした。
萌には最初から連絡をしなかった。人ごみの嫌いな萌はたぶん断るだろうし、第一仕事があるだろう。美咲は平日に休みがとりやすい仕事だ、と言っていたから、彼と会えるのを期待して休みを取っていたのかもしれない。期待外れだったのは、自分だけではなかったのだ、と思うと少しほっとしたりもした。
ホテルの部屋はツインルームだ。美咲と泊って、女子パーティーも悪くない、と思った。会ってから、実はオフィシャルホテルに泊まれるんだ、と言ったら彼女は喜ぶだろう。そういうサプライズが大好きなんだから。
ところが当日、はるかはタクミからのメッセージよりもさらに予想を上回る衝撃を受け、愕然とすることになった。
「ごめぇん。彼、今日休み取ったんだって。連れてきちゃった。いいよね?」
待ち合わせた入場口前に、美咲はふわふわした衣装に猫耳で現れ、最近付き合いだしたというチャラチャラした狐目の男を紹介した。男は日本人なのに「すぅいますぇーん、きっちゃいました」と変な発音で笑いながら言った。ホストにしか見えないが、どうやら商社に勤めているらしい。金離れが良く、いちいち、チュロスだのポップコーンだのを見つけるたびに美咲とはるかに買い、自分は美咲のチュロスにあーんといって口をあけ、食べたがった。そんな態度にいちいちカチンとくる自分にも嫌気がさす。
美咲のつけ耳が、猫耳なのに女豹の耳に見えた。
「美咲」
狐目彼氏がトイレに行っている間に、はるかは美咲に、ホテルを取ってあったことを打ち明け、二人で泊まって、と既にチェックインしていたホテルのカードキーを渡した。
美咲ははるかをぎゅうぎゅう抱きしめながら喜んだ。
「もしかして、私を誘ってくれたのって、サプライズだった?女子会しようと思ってくれてたんだよね、ごめんね、カレシ連れてきちゃって。でも嬉しい!はるか気が利く。最高の親友だよ」
すごいなあ、よくまあ自分に都合よく物事が考えられるもんだと、はるかは感心した。
「美咲が来れなかったら、キャンセルしようと思ってたから」
そう言って、後は楽しんでね、私は帰るから、と言い、先にテーマパークを後にした。ハロウィン仕様のかぼちゃだらけの道をひとり歩き、ゲートをくぐる時の脱力感と敗北感と言ったらなかった。情けなくて少し涙が出た。
ぽつねんと電車に乗り、帰路に就く。
疲労感が半端なかった。自分は、何しに行ったんだろう。
最寄り駅で降りて、コンビニに寄ったら、星野源の「恋」が流れていた。
10月から始まったドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』の主題歌「恋」の振り付けが人気になり、「恋ダンス」が話題になっていた。ガッキーファンで半同棲中ということもあってタクミも興味を示し、振り付けを覚えようとYouTubeの公式チャンネルを何度も再生して盛り上がっていたのはごく数日前のことだ。
手帳の字が、現実味を持って思い浮かんだ。
帰宅して、はるかが真っ先にしたことは、あの手帳を開くことだった。
P、をつけた頃、また、あの現象が起こった。
34才のはるかだった。また、現れた。が、なによりもはるかは、その言葉に胸がいっぱいになった。「ほらみたことか」「なにやってんの」「忠告を聞かないからだよ」といったような言葉ではなく、「つらかったね」。
はるかなのだ。
同じ痛みを知っている、自分なのだと思えた。
ぽろぽろ、涙がこぼれた。
思わず、弱音を書きこんでいた。
私次第?
どういうことだろう、と思う。
不安になって書き込む。
また、途中で止まったように字が出てこない。
「p」もないから、ひょっとしたら、未来についての細かいことはこちらに現れないのかもしれない。どういう理屈かわからないけれど。
少なくとも、これでは一緒にいるのかいないのかは、わからない。
今度は、字が出てきた。
なるほど、もしかしたら、自分がタクミを責めたせいで、ケンカ別れしてしまったのかもしれない、と思った。
2023年のはるかは、どんな生活をしているんだろう。何もわからないけれど、ひょっとしたらタクミと別れてしまっていて、それを後悔しているのかもしれない。
しかし、2023年のはるかからこれから起こるだろう未来の情報は受け取れなかった。
確かめると2023年のはるかのほうも、書いているのにインク切れみたいに字が消えてしまうと言った。
わかった、と、はるかは書いた。
そして、
と書いた。
それを最後に、また何を書いても折り返しは無くなった。
――続く