Answer「p4」
「p3」(前話)
2023年10月1日。
(なんかおいしそう)
遅い帰宅にこの匂いは残酷すぎる。
このところ残業続きなせいでそんなことを感じる余裕もなかったが、このアパートにもいろんな家庭が存在するのだなと、改めて思う。
一瞬、自分の部屋から漏れている灯りに驚くも「あぁそうか」と、前夜の突然の訪問を思い出しすぐに納得。美咲がいるのだ。
朝一番の会議の為、今朝は鍵と置手紙を残して部屋を出た。日頃の癖から鍵を取り出そうと添えた手をバッグから放し、匂いのもとが自分の部屋のあたりから放たれていることに気付く。
「まさか」
勢いよくドアを開けると、先ほどまで不確かだった夕餉の香りが全身を包んだ。
「あら、おかえり~」
「え、美咲⁉」
「やだ、なによ今さら。昨夜のことは夢だとでも思った?」
笑顔で出迎えられる非日常的な光景に「そうじゃないけど」と有り体に答えるが、そうじゃない。いや、そうかもしれない。
「だって、その髪」
昨夜は真っ赤なカーリーヘアだったのに対し、今目の前にいる美咲は黒髪のミディアムボブになっている。
「あぁ。イメチェン?」
「ずいぶんと思い切ったね。別人みたい…あれ? ここに在ったシェルのお皿は?」
昨夜帰った時にはあったはずのホタテ型の陶器がない。
「あぁ。捨てた」
「捨てた? だってあれは」
「うん。あたしのお土産だよね? もう見たくないから、代わりの置いといた」
確かに、陶器のあった場所に今度は、ココナッツの殻で作られたモンステラ型のトレイが置いてある。
「イヤな思い出は取っておきたくないじゃん。それともあれ、気に入ってた?」
「え…」
置き場がないからそこに置いていた…とは言えない。が、慣れ親しんだものがなくなると妙な気分だ。
「ちょうどいいのがあったからいいじゃない、ソープディッシュだけど」
「へえ」
いろいろ驚かされる。
「身も心も身軽になりたくてね」
「また意味深な」
「ここでは武装する必要もないし。心機一転、スッキリしたかったのよ。ご飯、食べるよね?」
美咲はずっと海外で幸せにしているものと思っていたが、それなりに苦労はあったのかもしれない。結局、なにがあったのかは濁されたままだが、果たしてそれを語る気はあるのか。それにしても、
「いい匂い。まさか自分の家からだとは思わなかったよ」
いそいそとリビングに進むと、なんだか部屋の様子も華やかだ。
「ねぇ…」
振り返ると、フライパンを片手に「パエリア、嫌いだっけ?」と微笑む。料理の腕も随分と上がったようだ。
「好き」
「だと思った」
テーブルの上がアパートのそれではない。まるでパーティー使用の料理の数々。それどころか、部屋もなにやらきれいになっている。
「掃除してくれた?」
自分の家じゃないみたいだ。
「ちょっとだけね」
「すごい料理」
いったい何人分を想定して作っているのか。
「つい癖でね」
小分けに冷凍しておけば便利よ…という美咲を横目に、そう言えば海外ではホームパーティなるものが日常なのだなと想像する。毎回これをしていたのだろうかと思うと逞しいような気の毒のような複雑な気持ち。
「なんか美咲、おかあさんみたい」
「奥さんだったの! まぁったく。冷蔵庫の中は空だし、部屋中埃だらけだし? それでよく体調崩さないわね」
「面目ない」
月日はちゃんと人を成長させるのだな…と改めて感じる。わたしは?――わたしが美咲に感じるような成長が、自分にはあるのだろうか。
「いや~ん。なにこれ美味しい。これも。なんて料理? すごい! 確かにこれは奥さんだわ」
「ねぇはるか、もう少し自分を労わったら?」
美咲の手料理に舌鼓を打ち、短時間でよくここまで…と感心していると、美咲はその日のことを事細かに語り始めた。飛び込みで入った美容室の店長がイケメンだったとか、知ってる店がほとんどなくなっていて迷子になったとか、携帯電話の契約がなんであんなに時間がかかるのかとか、子どもが母親に報告するかのようにはしゃいでいた。
「見て」
新しいiPhoneを取り出し「今日はこれのおかげで徹夜になりそう」という。
「LINEとか、共通のものは回して」
「あぁうん。でも、わたしも全然更新してないよ」
「ちょっとはるか、大丈夫?」
「なにが」
「だって、世間を遮断してるみたい」
「ここ数年はみんなそんなもんだよ」
「そう。ところで萌とは会ってる?」
そうなのだ。ここにいてもおかしくない人物がもうひとりいる。
「――ぜんぜん」
「へぇ。そこはもっと密なのかと思ってた。まぁあんたたち、もともと出不精だったしねぇ。返事がないのが元気な証拠? それはあたしか」
ハハ…と空笑いして、自分で自分に突っ込む姿が痛々しい。
確かに美咲の言う通り、萌とは性格が似ていたからこそ気が合ったと言える。お互い自分からアクションを起こすことはない。だから安心していた。まさかおとなしい萌に先を越されるとは思っていなかったのだ。
「結婚した頃は定期的に会ってたんだけどね、子どもが出来てからなんだか…。それにこのご時世じゃない? なんとなく遠慮しちゃって」
「そういうもん?」
なんとなく、子どもの成長を見るたびに取り残されてるような気分になっていた。それは萌にとっても同じだったかもしれない。自分が子育てで疲弊している間に、仕事に明け暮れるはるかを見て「羨ましい」とこぼしていた。好きな校正の仕事も続けたかったはずなのに、結婚を期に辞めたのだ。
「だれだっけ、萌の相手。先輩だったよね? なんのサークルだった?」
「テニスでしょ。テニスしか入ってなかったじゃない萌は。美咲と違って」
「そうだっけ? 刺繍サークルとかやってなかった? あたし買ってたよ、minneだっけ」
そうだった。美咲はなんだかんだ言っていてもつきあいのいい友人だったのだ。だからこそわたしたちは一緒にいられた。
「それはわたしとふたりで趣味でしてただけ」
それも今となっては手つかずだ。
「そうか。まぁでも、ガチのサークルだったよね萌は。普段はおとなしかったけど、ラケット持つと別人だった」
「確かに! 結構負けず嫌い」
いろいろと思い出した。
美咲にとってのサークルは男子との交流が目的だったのに対し、萌は本気でテニスを楽しんでいた。そもそも誘われたのははるかだけだったのだが、つきあいでサークルに参加したところで美咲に放置されることが目に見えていた為、ダメもとで誘ったのだ。名前だけのつもりが、真面目な萌がサークルをサボることはなかった。そのひたむきさが先輩男子の密かな人気を集めていた。
「合宿であちこち旅行できたことだけが楽しかったけどね、わたしは」
本当に付き合い程度だった自分には、場違いだとさえ思っていた。テニスオンリーの萌と違い、美咲とふたりで他のサークルにも顔を出していたから、他大学との交流会がなければ辞めていたかもしれない。
タクミとだって出会うこともなかったかもしれないのだ。
「梶先輩!」
「え?」
「梶先輩じゃなかった? 卒業間近まで、よっぽどテニス好きなのかな~と思ってたけど、実は萌目当てだった」
「あぁそう、よく覚えてるね。――あ」
「なに?」
「LINE来てたんだ。テニサーの」
「嘘。なんて?」
「解んないよ、見てないから。どうせ」
仲良し同士のしあわせ自慢や、くだらない近況報告だ。
「なにしてんの、見なさいよ」
「なんで」
「気になるじゃない」
「えー」
めんどくさ…とは言えない。
昨夜は40件だった通知が67件になっている。
「あーこれは」
本当に面倒くさいことになりそうだ、と思った。どうやら本格的に会合を開くつもりらしいと想像に難くない。
「萌とも繋がってんじゃないの?」
「ここんとこ萌も音信不通だったよ」
あぁ面倒…そう思いながらも、ここで通知を確認しなければ美咲の気が収まらないことも解っていた。
(返信しなきゃいいか)
「あれ…」
「なに?」
テニスサークルのグループLINEの他に、通知がきている。
「萌だ。珍しい」
というより、信じられない。これまでサークルの通知がきても萌の名前が出てくることは一切なかった。なぜならいつも、夫である梶先輩の言葉から萌が欠席する旨が伝わってきていたからなのだが、その萌から直接個人メッセージが送られてきている。
「なんて?」
日をまたいで、ぽつりぽつりと次のようなメッセージが並んでいた。
「どうしよう」
「返信しなさいよ」
「そうか。でも、なんて?」
「元気?って聞いてるんだから、まず挨拶じゃないの?」
「いきなりそこ?」
「だって。他になんていうの?」
「いいけど」
「あ、既読ついた。はや…っ。え、電話来た」
「え、マジ?」
いうや否や、美咲はスマートフォンを奪って着信を受けた。
「ちょっと、美咲」
スピーカーにし、
「もしもし萌~」
『もしもし…ぇ、美咲?』
「ひさしぶり~」
それまで以上にハイテンションの美咲は、はるかの存在を忘れるほど萌と語りつくした。その結果、不本意ながら3人でサークルの会合に出掛ける約束がなされたのだった。
その晩遅く、はるかはいつもアクセサリーを入れて持ち歩いているアルミのタブレットケースの中から「開かずの箱」の鍵を取り出した。
箱はテレビの脇に置かれたカラーボックスにぴったりとはまる籐素材の収納ボックスの中に入れていた。さすがに引き出しの中までは美咲も見ないだろうと考え、中に入っていた化粧水その他コスメ用品をボックスの上に並べ、箱のスペースを作ったのだ。
萌とのやり取りからサークルの会合に出掛けることが決まり、ますます手帳の中身が色濃く、心の棘が浮き彫りになってきた。
恐る恐るいちばん上に入れた「こぎん刺し」の手帳を取り上げ、10月1日のページを開く。そして、なんとなく文字を書き足した。
すると、書いた傍からその文字に、力強く二重線が引かれた。
「え」
思わず声を出してしまって、寝室の美咲を警戒する。
(なにこれ)
自分以外に、今、この手帳を見ている者がいる⁉
そしてすぐさま、
「神ってる…って」
7年後?――確かにこの手帳は7年前のものだ。
すぐさまスマホを取り上げ、検索をかける。
「…神ってる、いつの言葉?――と。ぁ、まぢか」
2016年、流行語大賞。
それじゃぁ、リアルタイムでこの手帳を使っている自分が、メッセージを見ているということになる。
「まさか、ね」
でも。もしそれが本当なら、今の惨めな現状をなんとかできるかもしれない。
はるかは祈る思いで言葉を繋いだ。
「ふふ…pってなんだよ」
面白いことに、次々と返事が返ってくる。
ちょっと楽しくなっている自分がいる。でも、現実は楽しいことばかりではないのだ。
なんとしてでもここは回避しないと!
その時、リビングと寝室を隔てる引き戸があいた。
「なにしてんの、はるか」
「え、あぁ。資料の整理」
心臓が飛び出す思いで、だが息をのみ、うしろを見ずに答えてから、
「どうした?」
取り繕った笑顔で振り返る。
「トイレ」
こちらを窺うでもなく、スッとバスルームに向かう美咲に「…そう」と、悟られないよう静かに答える。
「はるかもさっさと寝なよ」
「わかった」
そう言って、手早く手帳を片付け箱を閉じた。
まだまだ未熟者ですが、夢に向かって邁進します