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「伝説巨神イデオン 接触篇、発動篇」のこと。

1982年5月。
ぼくは、映画会社の松竹でアニメの宣伝担当をしていました。
担当作品は「伝説巨神イデオン」でした。
ぼくは当時、西武新宿線の井荻駅の近くに住んでいました。
学生時代から住んでいた四畳半のアパートには風呂がなかったので、毎晩、銭湯へ出かけました。アパートの周りには当時、銭湯が徒歩圏で3つありました。
その夜は、午後10時過ぎに井荻駅の南口から環八をわたり上井草寄りの線路沿いにある銭湯へ行きました。5月でしたが、夜はけっこう冷えていました。
11時過ぎに銭湯を出て駅側へ歩いていくと、左側のラーメン屋のとなりの建物の一階から明かりが漏れているのがわかりました。
「そういえばここはアニメ会社・日本サンライズの井荻スタジオだったな」
ぼくはだれがいるのだろうと建物の中へ入っていきました。ぼくはアニメのスタジオがとても好きで、実は、学生時代に漫画も描いていましたが、アニメーターもいいな、なんて思って、宮崎監督のいる日本アニメーションへ大学四年の時に面接で行ったこともありました。アニメーターの試験をしてくれるといわれましたが、京王線の聖蹟桜ヶ丘からバスでさらに山の上まで行くのが遠いなあ、という印象で日本アニメーションはあきらめました。(当時の聖蹟桜ヶ丘は、駅の周りは何もなくて、バス停で待っていると、それこそトトロかタヌキが出そうなところでした)しかしながらあいかわらずアニメは好きで、約束もないので本当はよくないことでしたが、勝手にスタジオをのぞいてしまいました。
すると、スタジオの奥でひとりもくもくと動画机に向かう人がいました。
富野由悠季監督でした。(当時は富野喜幸さんだったかもしれません)
「監督、遅くまでご苦労様です。監督ひとりですか」
「ああ」
「どんな作業されているんですか」
「イデオンの絵コンテだよ」
見せてもらうと、とりかかっていたのは、発動篇のラストのみんなが魂になって宇宙に散っていく場面でした。
富野監督は、よく、「絵は下手だから」とおっしゃっていましたが、実はそんなことはなくてわかりやすい上手な絵柄でした。言い方がへんだけど、ぼくは富野監督の絵コンテには「愛」を感じていました。登場人物に対する愛、というか。そういうものです。
作業の邪魔をしてはいけないと思いましたが、調子にのって監督と雑談を始めてしまいました。
少し雑談して帰るつもりが、監督と映画の話になってしまって、監督が「映画監督になりたかったが、大学卒業の頃、映画業界が斜陽で就職先がなくて、たまたまアニメ会社の虫プロダクションへ入った。実写がやりたかった」とおっしゃるので、「それではどんな映画がいいですか」など、ぼくもつっこんだことを聞いてしまったので、その晩は「こんな映画、あんな映画」とお話を聞き続け、気がついたら夜明けを迎えていました。
そのときうかがった監督の映画の構想は、当時CGというものがありませんでしたが、今だったらCGを使うような映画の内容でした。少し時代が早かったかなあ。
外が明るくなってきたので、「そろそろ」ということでぼくはスタジオを出ました。
西武新宿線の始発も動いていました。
手には風呂で使ったタオルを持っていましたが、髪もタオルもすっかり乾いていました。
その日は、アパートに帰ってそのまま着替えて会社に行きました。
午後だったか、「こんどう君、サンライズから電話だよ」と上司から声をかけられて電話に出ると、相手はサンライズのプロデューサーでした。
「こんどうさん、きのう富野監督のところにいたでしょ。おかげで絵コンテが遅れちゃったじゃないの。どうするの、公開に間に合わないよ」
厳しくしかられました。
でも、「伝説巨神イデオン 接触篇、発動篇」の2本立ては、その年の7月に松竹邦画系で無事に公開となりました。
「あのとき、ぼくが監督とひと晩お話ししたことは決してむだではなかった。監督は映画の話をいっぱいしたことでリフレッシュしてその後の仕上げのダッシュにぼくは貢献できた。ほかに貢献できることは当時のぼくにはなかったので、あれはよかったんだ。サンライズのプロデューサーにとても怒られたけど、ぜったいに役に立てたんだ」
そんなことを当時は思っていました。もちろん40年たった今も思っていますが。


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