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指示する人とされる人

いよいよ運動会である。

クラスでも学年でもとても盛り上がっている。

いわゆるひとつの昔ながらの運動会の様相である。

もの凄く「昭和感」がある。
今は「令和」だ。
そしてもうコロナ禍前ではないのだ。

とはいえ目の前の子どもたちには「楽しかった」と思ってもらいたい。
だから「じゃあ自分はどうするか」を考えて目の前の子どもたちと向き合っている。

指示する人とされる人。

生徒に「仲間に指示をしろ」と指示をする。

指示に無いような動きをすると生徒は注意される。

だから、生徒も他の仲間も「指示を待つ」ことになる。

それなのに「指示待ち人間になるな」という。

これは矛盾ではないだろうか。

生徒は先生の代理ではない。

「キレイに整えること」
「規律正しく行動すること」
「とにかく一生懸命やること」
「大きな声を出すこと」

確かに一見すると素敵なことかもしれない。
その様子に感動する人もいる。
その様子を「一丸となっている」と表現する人もいる。

でもそれが強い立場の人によって指示されたものや強制されたものだとしたら本当に素敵なものなのだろうか。

ちょっと私には理解できなかった。
ちょっと気持ちが悪かった。

「輪」に入りたいと思えなかった。

だから、そんな「輪」に入れないであろう子がとても気になった。

多分、同じ気持ちなのではないだろうか。
これは「感動」の強制ではないのか。
「一丸」の強制ではないのか。

教員至上主義であってはならない。

「正しいこと」や「適切であること」を常に求められるのは苦しい。
「失敗しない」ために「正しくあろうとすること」を求められるのは苦しい。
そして「失敗」した時にこれでもかとダメだということを植え付けられるのは苦しい。

その厳しさや正しさや適切さに対応できる生徒はまだいい。
できない人はダメ。
ダメな人は挑戦してはいけない。

それができないのは甘えだと。

学校は矯正施設ではない。
学校は訓練施設ではない。

学校は失敗して学び成長する場所なはずだ。
「挑戦は楽しい」と思える場所なはずだ。
個人個人が自分を自由に表現できる場所なはずだ。

「失敗」を受容できないところで思い切った挑戦はできない。
思い切った自分らしい挑戦でなければ楽しめない。

それができないと想像を超える成長などない。

これからこれから。

変えるのには時間がかかる。
ジワジワジワジワ。

やるしかねー。

昔は正面から戦って「舌打ち」しまくっておりましたけれども。
だいぶ大人になりましたので。
上手くやります。

では皆様。

よき休日を。


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