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そろそろ、肩の力を抜いてはどうか?

今まで“優秀で完璧な自分“を目指して必死に頑張ってきた。周囲から認められたかったし、そうなれば自信が手に入り、自分でも自分のことを認められるようになれると思い込んでいたからだ。「今の自分では足りない。もっと成長しなきゃ。」と自分を追い込んでいた。自己成長のために努力することは、一見良いことであるかのように見える。私自身、“高尚“なことをしていると思っていたし、周りも賞賛してくれた。だから、私は努力し続けたのだ。今よりも良くなり続ければ、いつかは心が満たされる信じて。

確かに、自分を追い込んだおかげで成長はできた。だけど、いつまで経っても満足できる日は来なかった。むしろ不足感が増して、ますます不安や焦りが大きくなるばかり。平凡な自分という現実から目を背けるために、闇雲に努力していただけで、全く先が見えていなかったように思う。

けど、ある時ふと気づいた。自分が手に入るはずのないものを追い求めていたのだと。瞬間、今まで必死に頑張ってきたことが馬鹿らしく思えた。というのは、私が求めていた“完璧な“自分なんて端から存在しないからだ。単なる実力不足なら、適切な努力をすれば到達できるかもしれない。でも、原理的に無理ならば潔く諦めるしかない。手に入るはずのないものを追いかけて、不必要に苦しむのはなんとも滑稽なことではないだろうか。“完璧な“自分になんてなれないと言い切れる理由はいくつかある。

まず第一に、“完璧“の基準が高すぎる。非現実的なほどに。もちろん、少し背伸びしたくらいの目標を設定して、それに向けて努力するのは素晴らしいことだと思う。でも、それは目標が現実的な場合だけ。自分の平凡さを認めるのは辛い。だから私たちはしばしば、法外なほど高い目標を設定して、平凡な自分から目をそらす。最初のうちはそれでも頑張れるかもしれない。けど次第に、ゴールに到達できる気が全くしなくなって、無力感だけが募っていく。無力な自分を責めさえするかもしれない。問題なのは、自分自身ではなく、高すぎる目標設定の方だというのに。

それに、たとえ今目指しているゴールに到達できたとしても、きっと満足することはないだろう。目標を達成できなければ失望するのは当たり前だ。けれど、もし達成できたとしても、その喜びは一瞬でしかない。期待通りの結果なのだから、その満足感は高が知れている。すぐに満足できなくなって、次のゴールを目指し始めることだろう。そうしてゴールポストは動き続け、私たちが本当に辿り着きたい「幸福」という真のゴールには、いつまで経っても到達できない。“完璧な“自分になれる“いつか“は永遠に来ない。

さらに、私たちが持つ時間や能力は有限なのだ。「そんなの当たり前だ」と言う人もいるだろう。でも、私たちの大半がこの事実を自覚できていないのではないだろうか。有限性を自覚できていないから、なんでもやろうと欲張って、こなしきれないほどのタスクを抱える。「忙しい」=「かっこいい」みたいな勘違いをする。私たちは自分がやりたい事すら、全て同時に完璧にこなすことはできない。集中するものを選んで、順番にこなしていくことはできでも、一度に全てをこなすことはできない。当然ながら、何かに注力すれば、その分他のことが疎かになる。だから、あらゆることを一度に“完璧に“こなすなんてのは端から無理なのだ。何かに集中する代わりに他の何かが疎かになる、そんな自分を大目に見てやってもいいんじゃないか。

今あなたが追いかけている何かは、ひょっとすると手に入るはずのないものなのかもしれない。もしそうなら、手に入らないもののために、不必要に苦しむのは馬鹿らしくないか。そろそろ、不完全であることを受け入れて、肩の力を抜いてみてはどうだろうか。

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