夜の帷

問いクリエイター〜問い、それは無限♾️へと続く道〜  無意識に自分を制限🚫してませんか?…

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問いクリエイター〜問い、それは無限♾️へと続く道〜  無意識に自分を制限🚫してませんか? 潜在意識を♾️%発揮するお手伝い。生きてるみたいに生きていけ。

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結果良ければ全て良し?

前回も話したように、現代は効率や生産性が重視される世の中だ。この世界では、結果こそが全てとされる。結果が出せれば、手段は問われない。逆に言えば、結果が出なければ、全てのことは「無駄」ということになる。 だけど、本当にそうなのか?確かに結果を出すことは重要だ。だけど、結果に至るまでの過程の方が、遥かに大切なのではないだろうか。 結局、俺は東大に合格することができなかった。ものすごく悔しかったし、みじめだった。でも、だからといって、それまでの努力が「無駄」だったとは絶対に言わ

    • 過程の方が大事、そんなこと頭ではわかってる

      「結果を追い求めることで得られるのは、束の間の快楽に過ぎない。真に幸福になるためには、結果に至る過程にフォーカスすることが大切だ。」なんて話はよく聞くのではないだろうか? そんなこと、頭ではわかってる。それでも無意識に結果を求めてしまう。結果を出せないまま過程の大切さを主張しても、負け犬の遠吠えにしか聞こえない。そうなると結局、やっぱり結果の方が大事なんじゃないか、という風に思えてくる。 だから大切なのは、 「なぜ結果に執着せずにはいられないのか?」 「どうすればこの呪縛

      • 社会のものさし≠自分に合ったものさし

        ここ最近、焦りすぎていたように思う。 約5年間勉強して、それでも東大に手が届かなかった。二浪までして唯一合格できたのは同志社大学。同志社を馬鹿にしているわけではない。けど、これ以上ないくらい努力しても、第一志望に手が届かなかったことが悔しくてたまらない。惨めでたまらない。応援してくれた家族や恩師に合わす顔がなかった。何よりも、自分の能力の無さが嫌になった。 だから、「汚名を返上せねば」と焦っていたんだと思う。もっと沢山本を読まなきゃ。講義を完璧にこなさなきゃ。何かすごいこ

        • 何者でもない時間

          今の社会では、みんな何者かである事を強いられる。職業は何か、やりたいことは何か。自分は何者か、白黒はっきりと答えなきゃいけない。グレーであることは許されないのだ。 何者でもない者に居場所はない。自分自身でさえも、何者でもない自分に価値はないと思えてしまう。何者かである人が眩しくて仕方がない。 かつて私もそうだった。何者でもない自分が嫌だったし、ずっと何者かになることに憧れていた。 学校を辞めたり、受験に落ちたり、何者でもない時間が人より長かったように思う。進むべき方向が

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        結果良ければ全て良し?

          「選択」と「決断」

          「選択」と「決断」 私たちは普段、この二つの言葉を意識的に使い分けない。しかし、これらは似て非なる言葉だ。 「選択」とは、確かな正解がある中で、それを選ぶこと。 「決断」とは、確かな正解がない中で、それでも何かを選ぶこと。 例えば、テストで4択から正解を選ぶとする。そういう場合なら「選択」と言えるだろう。一方で、今日の夕飯は焼肉か、それとも寿司かといった問いに正解はない。こういう場合は「決断」と言える。 私たちは小さいころから、正解のある問題ばかりを解いてきた。だから

          「選択」と「決断」

          失敗の許されないこの世界で

          この世界では失敗は許されない。結果が全てであり、どれだけ努力しようと、失敗すれば評価されない。1点差だろうと、負けは負け。 誰も失敗した者の意見には耳を傾けない。失敗者が何を言おうと、負け犬の遠吠えだと言われる。成功者こそが絶対的な正義であるかのように。 だが、本当にそんな世界でいいのか? 失敗が許されない世界では、皆が失敗を恐れ、チャレンジをしなくなる。でもそれでは、全く成長がなく、新しいものも生まれない。いつまでも同じままだ。 結果がどうであろうと、チャレンジする

          失敗の許されないこの世界で

          生きてる間にしかできない事

          8月23日、私はカナダへ旅立つ。 その日は私にとって、ある種の「死」だ。家族や友人とはしばらく会えなくなり、全く新しい人生が始まる。あと11日。思ったより時間は残されていない。 それまでに、私は何をやっておきたいだろうか? 無論、日本にいる間にしかできないことだ。つまり、残された日本での時間を思いっきり楽しむこと。美味しいご飯を食べたり、家族や友人と時間を共にしたり。 言われてみると当たり前のことだ。誰だってこう思うに違いない。けど、普段から実践できている人がどれだけ

          生きてる間にしかできない事

          “有意義な“時間の使い方とは?②

          簡単に前回のおさらいをしておく。 私たちが時間を“有意義に“使うと言うとき、それは大抵、生産的、効率的である事を意味する。言い換えると、短い時間でより多くの資本を生み出す時間の使い方ということだ。 こういった考え方は、私たちを物質的には豊かにすれど、精神的には貧しくさせる。時間を“うまく“使おうと必死になるあまり、焦りが生じたり、一つのことをじっくり味わえなかったりする。 そして、この認識の根底にあるのは、『人間』=『機械』とする人間観だった。機械の性能は、どれだけ早く

          “有意義な“時間の使い方とは?②

          "有意義な"時間の使い方とは?①

          「有意義に時間を使わなければ。」いつも、そんな考えが頭をよぎる。 何もしていないことに耐えられない。あるいは、何かしていたとしても、時間を無駄遣いすると、罪悪感に駆られる。 「限られた時間を有効に使え」という声が、私を焦らせる。 常に先のことを考えてしまい、今をじっくり味わえない。ぼーっとしようとしても、すぐに色んな考えが頭に浮かぶ。 日々はますます色褪せていき、心はすり減っていくばかり。 どうして、こんなにも時間に追われているのだろうか?そもそも、時間を"うまく使

          "有意義な"時間の使い方とは?①

          どうしてこんなにも虚しいのだろう?

          やりたいからやったはずで、実際、やっている最中は楽しい。なのに、終わった後には、どういうわけか虚しさに襲われる。そんな体験をしたことはないだろうか? 例えば、Youtubeで動画を見たとしよう。動画を見たいから見ていたはずで、確かに動画は面白かった。けど、最後には正体不明の虚しさだけが残る。時間を無駄にしてしまったという気持ちもあるだろう。だけど、それだけではない。それ以外のもっと大きな、ぼんやりとした何かが、虚しさの原因だということだけは直感的にわかる。そんな体験だ。

          どうしてこんなにも虚しいのだろう?

          「正しさなんかない」というのは正しい

          世の中には沢山の“正しさ“がある。そして、それがさも絶対的な真実のように扱われている。子供は学校に行くべきだとか。怠けることは悪だとか。みんな“正しく“あることを強制され、他人に“正しく“あることを強制する。“正しくない“者は非難され、グループから排除される。時には本人ですら、「みんなと違う私はダメだ」と自分を非難する。 だが、その“正しさ“は本当に絶対的なのか?皆がそれに従わねばならないものなのか?いや違う。絶対的な“正しさ“なんてない。あるのは都合だけ。全てただの思い込

          「正しさなんかない」というのは正しい

          なぜ「体に悪いもの」は美味しいか?

          体にいい食事は味気なく、物足りないことが多い。逆に体に悪いものは、しばしば満足感をもたらしてくれる。だから、体に悪いとわかっていても、つい食べたくなってしまう。似たようなことは他の様々なことにも言える。悪いとわかっていても、ついやってしまった経験をあなたもお持ちだろう。 では、なぜ「体に悪いもの」の方が満足感をもたらすのだろうか?色んな視点からこの問いに答えられるが、ここでは「目的」の有無という点から答えてみたい。先ほどの例で考えよう。体にいい食事は「健康のため」に食べる。

          なぜ「体に悪いもの」は美味しいか?

          「無駄」は本当に無駄?

          最近、ますます効率や生産性が重視される世の中になってきている。確かに、それらは俺たちに大きな恩恵をもたらしてくれた。機械化、情報化が進んだからこそ、今の豊かな生活がある。それは否定できない事実だ。でも、効率や生産性を追い求め過ぎたために、失ってしまったものも沢山あるのではないか。 例えば、食事について考えてみよう。最近では、多くの人がファストフードやコンビニ飯を買うようになった。もちろん、それらには時短や便利などのいい面もある。だけどその代償として、心身の健康や、誰か共に食

          「無駄」は本当に無駄?

          邂逅

          6月10日、偶然母校の新聞部に遭遇し、取材に同行させてもらった。取材したのは男子バレー、県総体の決勝戦。山場も山場である。勝敗は、母校のチームが優勝し、インターハイ出場が決定した。試合前の練習姿、喜びを噛み締める彼らの顔が、積み上げてきた努力を物語っている。 彼らは私に、何かに「ただひたすら打ち込む」ことの大切さを思い出させてくれた。きっと彼らは、「いつか」のためにバレーをやってはいない。ただ楽しいから、「今この瞬間」のために、黙々とバレーをしているはずだ。 だけど、大人

          二十歳、最大の贈り物

          4月9日、私は20歳の誕生日を迎えた。私がもらった一番のプレゼントは「自分の時間の使い方は、他ならぬ自分自身で決めなければならない」という学びだ。 誕生日の夜、私は知り合いとご飯を食べに行った。けど、今振り返ると、私は家族とその夜を過ごしたかったのだと思う。誘われて、断りきれずに出かけたその足取りは、とても重かった。とりあえず出かけたけど、どこか心ここに在らずな感じで、心の奥で何かが引っ掛かってた。 私は自分で自分の時間の使い方を選択できなかった。その時、自分にとって1番

          二十歳、最大の贈り物

          小さな一歩

          自分で何か価値を生み出す。それによって人に喜ばれる。これほど嬉しいことは他にないと思う。 この前、私は夜カフェのイベントでコーヒーを売った。正直、コーヒーなんて誰でも淹れれるし、そのくらいしか今の自分にはできないと思っていた。 でも、実際にやってみると、たとえそれが誰でもできることであろうとも、自分で価値を生み出せた。それで人に喜んでもらえた。それが本当に嬉しかった。コーヒーしか淹れれないと思っていたけれど、コーヒーによって誰かに幸せを届けられた。 私はコーヒーを淹れる

          小さな一歩