前回も話したように、現代は効率や生産性が重視される世の中だ。この世界では、結果こそが全てとされる。結果が出せれば、手段は問われない。逆に言えば、結果が出なければ、全てのことは「無駄」ということになる。 だけど、本当にそうなのか?確かに結果を出すことは重要だ。だけど、結果に至るまでの過程の方が、遥かに大切なのではないだろうか。 結局、俺は東大に合格することができなかった。ものすごく悔しかったし、みじめだった。でも、だからといって、それまでの努力が「無駄」だったとは絶対に言わ
1日の中で、何もしていない時間が一体どれだけあるだろう? ほとんどの人が、1日のうち大半を何かをすることに費やしているのではないか。普段は仕事や学業などの”やるべきこと”に追われ、暇ができればスマホをいじったり、お菓子を食べたりと暇つぶしをする。一見何もしていないように見える時ですら、頭の中は考え事でいっぱいだ。 スキマ時間にビジネス系Youtubeを見たり、読書をしたりしている人たちは「私を暇な時間にゲームをしているやつと一緒にしないでくれ。私は彼らと違って時間を有意義
私は今大学生で、20歳を過ぎても未だに経済的に自立できていない。そんな自分を未熟だと思うとともに、両親に対してどこか負い目や申し訳なさを感じていた。沢山バイトをして何とかやりくりしている友人を見ると、「自分は恵まれているんだな」と実感する。しかしその一方で、経済的に自立している彼らを羨ましく思う自分もいた。 私は、親に言われたことではなく、自分の価値観に従って行動しているし、掃除・洗濯など身の回りの雑事も自分でこなせる。だから、周りの大人たちからは「自立しているね」と言われ
「思いっきり生き抜いたー!」 そう叫びながら死ねるような、充実した人生を送りたい。 そんな人生を送るためには、一体どうすればいいんだろう? このふとした疑問が全ての始まりだった。 人生は1日の積み重ねで、1日は一瞬の積み重ね。言い換えると、充実した人生を過ごすとは、充実した今を過ごし続けること。 ということは、1日の終わりに「いい1日だった。」と思えれば、あるいは日々のふとした瞬間に「幸せだな。」と思えれば、それでいいはずなのだ。豊かな人生を送る上で、それ以上に大切な
名付けるとは、世界を分節し形を与えるということ。つまり、それまでひとまとめだった物事を分けるということである。「言語の違い」=「分節の仕方の違い」なので、新しい言語を学ぶことは、時として新たな世界の見方を教えてくれる。そのおかげで、母語だけでは見えなかった景色が見えてくるのだ。今回はそんな事例を一つ。 私にとって、生き生きと人生を送る上で大切な考え方として次の二つがある。 考え方①「私たちは無意識に自分自身を制限している。だから、その制限を取り除き、一人一人が潜在能力を最
今まで“優秀で完璧な自分“を目指して必死に頑張ってきた。周囲から認められたかったし、そうなれば自信が手に入り、自分でも自分のことを認められるようになれると思い込んでいたからだ。「今の自分では足りない。もっと成長しなきゃ。」と自分を追い込んでいた。自己成長のために努力することは、一見良いことであるかのように見える。私自身、“高尚“なことをしていると思っていたし、周りも賞賛してくれた。だから、私は努力し続けたのだ。今よりも良くなり続ければ、いつかは心が満たされる信じて。 確かに
「結果を追い求めることで得られるのは、束の間の快楽に過ぎない。真に幸福になるためには、結果に至る過程にフォーカスすることが大切だ。」なんて話はよく聞くのではないだろうか? そんなこと、頭ではわかってる。それでも無意識に結果を求めてしまう。結果を出せないまま過程の大切さを主張しても、負け犬の遠吠えにしか聞こえない。そうなると結局、やっぱり結果の方が大事なんじゃないか、という風に思えてくる。 だから大切なのは、 「なぜ結果に執着せずにはいられないのか?」 「どうすればこの呪縛
ここ最近、焦りすぎていたように思う。 約5年間勉強して、それでも東大に手が届かなかった。二浪までして唯一合格できたのは同志社大学。同志社を馬鹿にしているわけではない。けど、これ以上ないくらい努力しても、第一志望に手が届かなかったことが悔しくてたまらない。惨めでたまらない。応援してくれた家族や恩師に合わす顔がなかった。何よりも、自分の能力の無さが嫌になった。 だから、「汚名を返上せねば」と焦っていたんだと思う。もっと沢山本を読まなきゃ。講義を完璧にこなさなきゃ。何かすごいこ
今の社会では、みんな何者かである事を強いられる。職業は何か、やりたいことは何か。自分は何者か、白黒はっきりと答えなきゃいけない。グレーであることは許されないのだ。 何者でもない者に居場所はない。自分自身でさえも、何者でもない自分に価値はないと思えてしまう。何者かである人が眩しくて仕方がない。 かつて私もそうだった。何者でもない自分が嫌だったし、ずっと何者かになることに憧れていた。 学校を辞めたり、受験に落ちたり、何者でもない時間が人より長かったように思う。進むべき方向が
「選択」と「決断」 私たちは普段、この二つの言葉を意識的に使い分けない。しかし、これらは似て非なる言葉だ。 「選択」とは、確かな正解がある中で、それを選ぶこと。 「決断」とは、確かな正解がない中で、それでも何かを選ぶこと。 例えば、テストで4択から正解を選ぶとする。そういう場合なら「選択」と言えるだろう。一方で、今日の夕飯は焼肉か、それとも寿司かといった問いに正解はない。こういう場合は「決断」と言える。 私たちは小さいころから、正解のある問題ばかりを解いてきた。だから
この世界では失敗は許されない。結果が全てであり、どれだけ努力しようと、失敗すれば評価されない。1点差だろうと、負けは負け。 誰も失敗した者の意見には耳を傾けない。失敗者が何を言おうと、負け犬の遠吠えだと言われる。成功者こそが絶対的な正義であるかのように。 だが、本当にそんな世界でいいのか? 失敗が許されない世界では、皆が失敗を恐れ、チャレンジをしなくなる。でもそれでは、全く成長がなく、新しいものも生まれない。いつまでも同じままだ。 結果がどうであろうと、チャレンジする
8月23日、私はカナダへ旅立つ。 その日は私にとって、ある種の「死」だ。家族や友人とはしばらく会えなくなり、全く新しい人生が始まる。あと11日。思ったより時間は残されていない。 それまでに、私は何をやっておきたいだろうか? 無論、日本にいる間にしかできないことだ。つまり、残された日本での時間を思いっきり楽しむこと。美味しいご飯を食べたり、家族や友人と時間を共にしたり。 言われてみると当たり前のことだ。誰だってこう思うに違いない。けど、普段から実践できている人がどれだけ
簡単に前回のおさらいをしておく。 私たちが時間を“有意義に“使うと言うとき、それは大抵、生産的、効率的である事を意味する。言い換えると、短い時間でより多くの資本を生み出す時間の使い方ということだ。 こういった考え方は、私たちを物質的には豊かにすれど、精神的には貧しくさせる。時間を“うまく“使おうと必死になるあまり、焦りが生じたり、一つのことをじっくり味わえなかったりする。 そして、この認識の根底にあるのは、『人間』=『機械』とする人間観だった。機械の性能は、どれだけ早く
「有意義に時間を使わなければ。」いつも、そんな考えが頭をよぎる。 何もしていないことに耐えられない。あるいは、何かしていたとしても、時間を無駄遣いすると、罪悪感に駆られる。 「限られた時間を有効に使え」という声が、私を焦らせる。 常に先のことを考えてしまい、今をじっくり味わえない。ぼーっとしようとしても、すぐに色んな考えが頭に浮かぶ。 日々はますます色褪せていき、心はすり減っていくばかり。 どうして、こんなにも時間に追われているのだろうか?そもそも、時間を"うまく使
やりたいからやったはずで、実際、やっている最中は楽しい。なのに、終わった後には、どういうわけか虚しさに襲われる。そんな体験をしたことはないだろうか? 例えば、Youtubeで動画を見たとしよう。動画を見たいから見ていたはずで、確かに動画は面白かった。けど、最後には正体不明の虚しさだけが残る。時間を無駄にしてしまったという気持ちもあるだろう。だけど、それだけではない。それ以外のもっと大きな、ぼんやりとした何かが、虚しさの原因だということだけは直感的にわかる。そんな体験だ。
世の中には沢山の“正しさ“がある。そして、それがさも絶対的な真実のように扱われている。子供は学校に行くべきだとか。怠けることは悪だとか。みんな“正しく“あることを強制され、他人に“正しく“あることを強制する。“正しくない“者は非難され、グループから排除される。時には本人ですら、「みんなと違う私はダメだ」と自分を非難する。 だが、その“正しさ“は本当に絶対的なのか?皆がそれに従わねばならないものなのか?いや違う。絶対的な“正しさ“なんてない。あるのは都合だけ。全てただの思い込