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アイデンティティは変化する

私がnoteを始めたばかりのプロフィール欄には、
『INFJ×HSP×毒親サバイバー。絵を描きます。』
と書いていました。


そうです。私は何を隠そう、絵を描く人なのです。
(ただの趣味です)


そんなこと大々的に発表しなくても、旧ヘッダー画像(2024.5.22変更)とプロフィールアイコンは私が描いた水彩画なので、おわかりかも知れませんしそもそも気にしてる人などいなさそうですが、
noteを始めたのも、絵を描いていくことの傍らで、文章でも表現してみようかな、といった気持ちからでした。

なのでnoteにも描いた絵を上げていくつもりでした。

ですが、3月にnoteを始めてからというもの、

絵をまったく描いていない。




これは私の中では、
すごくびっくりしちゃうことなのです。


いや描いたらええやん。
と思われるかも知れません。

ですが描く気持ちが湧いてこないのです。
自分の中ではなにかとても不思議なことが起こっている感覚なのです。


私は以前こちらの記事にも書いたように、

子供の頃の夢は画家かイラストレーターか漫画家でした。
小さい頃から絵を描くことが好きだったし、絵が好きだということが自分の中で変化したことは今までありません。

絵が好き、絵を描くことが好き、芸術が好き、ということは、私のアイデンティティでもありました。
ですが毒親育ちの私は、そこに向き合うことや、そもそも「好きなことをする」ことに対して、とても罪悪感を覚えていました。

これまでは社会の中で生きること、生計を立てること、人から認められること、後ろ指を指されないこと、ばかりを考えて生きてきましたが、
ここ数年でようやく、自分が本当にやりたいことに目を向けられるようになってきました。


その中で、
『絵が描きたかった、絵を学びたかった』
という未消化の想いがあることに気付き、再び絵を描くようになったのです、


が、

描いてないんです。noteを始めてから。



絵が好きといっても、
「描きたくて描きたくてついいつも描いてしまう」
といった感じではなく、自分の中では何か神聖な行為というか、絵を描いている間は日常から離れて特別な場所へ行くような感覚でした。

だから、絵を描くためにはいろんなことを整えて、すっとした気持ちでいないとできないものだったんですね。
絵を描くために、けっこうなエネルギーが必要なわけです。
でも生きてるといろんなことが起こって、心が乱れたり、単純に時間が確保できなかったりします。
すると、なかなか「絵を描く」ことに向かえないわけです。
アウトプットができない。

もっと小刻みにアウトプットをしたいと思い、Xを始めましたが、文字数の少なさや、情報の洪水のような感じが私には合いませんでした。

そこで今度はnoteを始めてみて、その楽しさにハマり、今に至るわけです。


絵を描き始めてから、動画サイトやSNSで、絵を描いて生きている人たちの投稿や発信を見てきました。
その人たちは、絵を描くことが好きで好きで、つい描いてしまう、人たちでした。
どんな動機で絵を描くとか、どんな気持ちで絵を描くか、なんて決まりはないし、描きたい時に描けばいいし、そこに良し悪しはないのに、
人と比べてしまう自分が居ました。

この人たちの絵に対する情熱に、自分は足元にも及ばない。
こんなに自由に、素直に絵に向き合って、もちろんうまく行かなくて苦しいこともあるだろうけど、それを乗り越えられるほどの情熱と愛を持っているんだ、と思いました。

私にはそれがない。
無いからこそ、長い間絵を描かなくても生きてこれたんだとも思います。

心に向き合って、絵に向き合って、
ようやくそのことを確認できた気がします。
美大に行きたかった、絵を描くことで生きていきたかった、という想いを、ずっと抱えたまま生きてきましたが、心の奥底では、結局自分はそのような生き方はできない、ということもうっすらとわかってはいました。


毒親育ちで、自分は無価値で、
自分のやることや思うことにも何の価値もなくて、
どこまでも人や社会に馴染めなくて、居場所がなくて、
自分が嫌いで、自分を信じることなんてできなくて、
それでも生きていかなきゃいけなくて、

そんな中で、
親から強制されたわけでもなく、純粋に好きだと思えるもの、
それが絵だったんだと思います。

『普通』という形に歪まされて、
感情は認めてもらえなくて、親の為に存在している。
そんな人生において、「絵が好き」ということが唯一、本当の私の断片だったのではないかと思います。
私はそれを御守りのように、今まで大切に持っていました。
誰にも触れさせず、大事に大事に持っていた私の欠片。


内面と向き合って、自分の力で自分を大切にできるようになって、
誰にも触れさせないように、汚されないように踏みにじられないように持っていた、「絵が好き」という欠片を、組み立てて、形にしてみようと思いました。


それは形になったけど、私の中でもうそれは御守りではなくなっていた。


なぜなら、もう私は御守りがなくても生きていけるから。
自分そのものが、自分のすべてが宝物だと言えるから。


私にとって絵とはそういうものだったのではないかと思います。
絵を描くことはもう、神聖な行為でも特別なことでもなくて、
ただ描きたいと思った時に描くもの。
ただ、好きなもの。
そのように変化したのだと思います。

大事なのは絵を描くという行為ではなくて、
自分そのもの。私はどんな人間か。何を想い、何を伝えたいのか。
それを表現するための手段が、絵だったり、文章だったりする。


絵に対し、ある意味で固執していたのかもしれません。
だけどそれは私の心を守るものでもありました。
だったら私はそれに感謝したい。
今まで私を守ってくれてありがとう。


今は文章を綴ることが、自分を素直に表現できる手段です。
でもそれはこれから変わっていくかもしれない。
また絵を描き始めるかもしれないし、ダンスを見るのが大好きな私はダンスを始めてみちゃったりするかもしれない。

表現する手段が変わろうと、
自分をカテゴライズしなくても、
誰にでもすぐに伝わるようなnoteの自己紹介文を書けなくても、
それでいいんです。

ただ「自分そのもの」であること。
それだけ。
それでいい。

今の私が何をしたいのか、何を言いたくて、どう表現したいのか。
自分を固定させなくていい。
ふわふわしててもいい。
「何者」でなくてもいい。
アイデンティティは「自分である」こと。
それでいいんだと思えること。
そのことに気付いてから、心の中があたたかい感じがします。

自分の中から次は何が出てくるのか、ワクワクするような人生を送りたい。
そんな不安定なものは今まで不安でしかなかったけど、自分を取り戻した今では、楽しみでしかない。

そういうふうに皆が自分自身を生きられる社会になっていけばいいな、と考えています。


お付き合いいただきありがとうございました。







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