私を包み込んだ「おかあさーん!」
いつも泣きながら読んでいた。
よしもとばななさんの短編集『デッドエンドの思い出』。
この中の、「おかあさーん!」という作品を、
私はいつも泣きながら読んでいた。
私がまだ、自分が機能不全家庭育ちであることを認識していない時にも、
それにうっすらと気付き始めた時にも、
結婚し、母になり、それをはっきりと認識し始めた時にも、
私はこれを泣きながら読んでいた。
泣かずには読めなかった。
小説をあまり読まない私は、特定の作家のファンではない。
よしもとばななさんの作品も、読んだのは3冊ほどであったと思う。
ものすごく大好きで、何度も何度も読んでしまう、というものもない。
その中でこの作品は、なにか引き寄せられるように、
定期的に手に取ってしまう。
ものすごく大好きで、何度も読みたくなる、
というよりも、
私の中の、何かを確認したくて、
未だ言葉に出来ていない、意識にも上ってきていない、
その何かを確認したくて、
またこの本に帰ってくる。
そんな感じがしていた。
どうして、この物語を読むと泣いてしまうのか、私はわからなかった。
この物語の主人公の女性と私とでは、あまり共通するところがないように思えたからだ。
この小説について、noteに書こうと思い、数年ぶりに読んでみた。
やはり私は泣いた。
でも今は、その理由がわかった。
この、切なくも温かい物語は、はっきりしない私の心の輪郭を、優しく描き出していたのだ。
今も昔も、ずっと。
職場の社員食堂で、毒物混入事件の被害者となり、殺されかけ、それを大々的に報じられ、めまぐるしく過ぎて行く非日常の出来事も、毒でダメージを負った身体も、「私」はどこか他人事のように感じている。
事件や、それに伴う様々な出来事を通じて、「私」の中の鬱々としたものがどんどん膨らんでゆく。
殺されかけたのに、自分はもう大丈夫だと思っていたり、
自分で自分の身体のだるさがわからなかったり、
そのだるさに罪悪感をおぼえたりするのには、
なんだか馴染みがあった。
非日常の出来事は、ある時、突然身に降りかかる。
もちろん何の心の準備もしていない。
その渦中に居る間は、案外冷静であるものだ。
ああ、あんなことがあったのに、こんなにも普通に日常をこなせるものなのか、と思ったりする。
意外と何でもないことなのかもしれない、と。
だけど暴力的に日常から切り離されたその経験は、確実に自分を内側から蝕んでいく。
私はいつもの私でありたい。
それによって心が乱されたり、おかしくなったと思われたくないし、自分でもそう思いたくない。
私はいつもの私であろうとする。
内側はどろどろのぐしゃぐしゃで、原形を留めるのに精いっぱいであるのに、平気な顔をする。
そんなことが出来てしまうのは、
私が、心を麻痺させることに慣れすぎていたからだ。
あまりにも慣れすぎていた。
だから自分の異常さにも気付かなかった。
悲しみは悲しみとして、
ちゃんと悲しんでやらなきゃいけない。
怒りは怒りとして、
ちゃんと外にだしてやらなきゃいけない。
ためたらためた分だけ、内側から破壊されて行く。
それは幼少期の傷も同じだ。
最近になって、思い出した記憶がある。
小学生の頃、何があって怒られていたのかは覚えていないが、怒った母に、玄関から閉め出された。
私は泣きながら庭へまわり、庭の窓をたたこうとしたが、母がピシャッとカーテンを閉めた。
家の中には、お父さんも、お兄ちゃんもいた。
私はずっと泣きながら窓をたたき続けた。その後はあまり覚えていないが、母は窓が壊れるだか、近所迷惑だとか言って、私を家の中に入れた。
そんなことが、何度かあった。
それよりももっと小さい頃。
夜だった。私は庭にあったエメラルドグリーンのくすんだ物置の中に、閉じ込められていた。
その中は荷物がいっぱいで、戸のすぐそばに、赤ちゃんの頃に使っていたベビーチェアが置いてあり、私はそこに座らせられ、真っ暗な物置の中に閉じ込められていた。
自力で降りて、戸を開けることが出来ないくらい小さい頃。
どのくらいそこに居たのかは覚えていない。覚えているのは、母がその戸を開けた光景。だけどその時の母の顔はまったく覚えていない。
最近になって思い出した。
ずっと忘れていたわけではなく、これまでもたまにぼんやりと思い出しては、特に何も思わず、すぐにまた忘れていたような記憶だ。
私はこれまでずっと生き辛さを抱えてきたが、
この「おかあさーん!」の主人公のように、母に暴力を振るわれたわけではない。
両親も仲が良かったし、食事を与えてもらえなかったわけでもない。
私立の学校へ通ったし、家族旅行もよくしていた。
一見、何の問題もない家族だった。
だから、私が受けたことなど、たいしたことではないと、
ずっとそう思っていた。
母の、私の気持ちを無視した言動の数々も、
私の感情を否定する言葉も、
私の存在を「恥ずかしい」と言ったことも、
大人になってから言われた、
「お母さんアンタのせいで死にたかったんだから!」という言葉も、
全部、私が悪かったからだろうと思っていた。
もっと辛い思いをした人はたくさんいる。
こんなことはなんてことはない。
誰にだってあることだ。
そうやって、私は自分の心の傷も、いつも「誰か」と比べていた。
だけど、
私を否定する母の言葉の数々も、
私をバカにするような視線も、
私ひとりだけが閉め出された悲しさも、
私のせいで母が死にたかったんだということも、
私の心をボロボロに破壊するのには十分だった。
私は「ちゃんと」傷ついていた。
誰かと比べるまでもなく。
そのことを、ちゃんと見てやれば良かったんだ。
私の心の傷を、外側の基準に照らし合わせるのではなく、
真っ直ぐに見てやれば良かったんだ。
希死念慮は抱えてなかったが、落ち込むと私は決まって自分を責め抜いたあげく、最終的に、
『私がいなくなれば全部うまくいくんじゃないか』
という結論にいつも達していた。
どう考えても私が生きていることで、色々おかしくなっている。私が諸悪の根元だから、いなくならなければいけないのではないか。生きていてごめんなさい。
そういう想いを抱えた自分の心を、真っ直ぐに見てやれば良かったのだ。
私が私にしてやれなかったことを、
この物語はいつでも私にしてくれた。
まだ意識にも上ってきていない、私の心の傷を、温かく温かく、優しく包み込んでくれていた。
私はそれを、その体温のようなあたたかなものを、読む度に受け取っていたのだ。
この物語に登場する人の言葉を通して、振る舞いを通して、著者の柔らかな愛情に触れ、
私は何度も、「よしよし」されていたのだ。
小説は、この世に生み出された瞬間から、消えることなく、何十年と、もしかしたら何百年と、私たちの心を震わせ続ける。
物語の持つそのエネルギーに、圧倒される。
この物語はおそらく私が死ぬ時まで、私を温め続けてくれるのだろう。
そして私が死んでからも、誰かの心をそうやって、温め続けるんだろう。
一冊の短編集の中の物語のひとつとして、ひっそりと、だけど確かに。
かつての私のように、自分で自分をあたためてやれない人の元に、この物語が届くことを、願ってやまない。
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