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広告から見た陰謀論

𝑡𝑒𝑥𝑡. 養老まにあっくす

 昔々、大昔。インターネットがまだ影も形もなかった時代──といってもたかだか三十年くらい前の話なのだが、当時のPC雑誌は、ある意味ではお金を払って広告を読んでいたとも言える。最新の機種はどのくらいのスペックなのか、どの機種やソフトやパーツがどの店でいくらくらいで売られているのか、そうした情報を手に入れるには雑誌を買うのが一番よかったのである。
 時代はもう少し下がって十数年前、私はある広告代理店に勤めていた。一口に広告代理店といってもさまざまなのだが、私の勤め先は雑誌の広告を扱っていた。私が勤め始めた頃はまだ勢いがあったが、辞める頃には「雑誌広告はもう売れない」というのが大方の見方だった。広告費──おそらくみなさんが知ったら「そんなに高いのか!」とびっくりするような金額──を払って雑誌に載せても、まるで反響がない。考えてみれば、自分が雑誌を読むときだって広告を飛ばして読んでいるのだから、普通の読者が広告なんか見るわけないのである。
 消費者の「広告アレルギー」が一層激しいものとなってくると、いかに広告と思わせずに広告活動を行うかという手練手管が発達する。一時流行したステマ、いわゆるステルスマーケティングがその例である。しかし、あんなものは広告屋からすれば、安っぽい手口である。私は女性ファッション誌の広告をメインでやっていたが、あの手の雑誌は一冊丸ごと広告みたいなものである。なぜなら、綺麗なモデルがブランドの服を着て今年のトレンドはこれだとアピールする。それでいて「これは広告ではありません」という顔をしているのだから、要するにやっていることはステマと同じである。
 しかし、私が広告業界を辞めたあと、そして現在になってもなお、「広告」そのものがまったく無意味になったわけではない。形態こそ変われど、広告から流入する顧客というのは存在するのだ。われわれがいま見ているブラウザや、普段使っているメールがその証拠だ。Googleが無償で提供しているこれらのサービスは、広告収入によって成り立っている。私たちの行動を左右する検索エンジンさえ、広告に頼っている。いや、検索結果で上位に表示されるように各社が鎬を削り、その表示結果によって消費者が行動しているのだから、検索エンジン自体が広告みたいなものである。われわれはいまも昔も広告によって動かされていると言っていい。
 ところで、広告嫌いの消費者に対する「配慮」として、現在では表示される広告を選ぶことができる。われわれは広告を見たくないとき、それを「非表示」にできる。そうすると、コンピュータは「この消費者はこの商品に興味がないのだな」と判断して、その広告を表示しなくなる。欲しくない人に無理やり買わせるのではなく、欲しいと思う人にアプローチするわけだ。そして、われわれのインターネットにおける行動(閲覧履歴や検索クエリ)の解析をもとに「より適切な」広告を提案してくる。消費者がそれを気に入らなければまた「非表示」。以下その繰り返し。

 さてこの話、どこかで見たことがないだろうか。それは、TwitterをはじめとするSNSである。Twitterを始めるとき、まず最初に「この中からフォローするアカウントを選べ」と要求してくる。面白くないと思ったらフォローを外せばよい。そしてまた別のアカウントをフォローする。フォローしているアカウントがリツイートすると、そのツイートが自分のタイムラインに表示される。気に入ったらそのアカウントをフォローする。以下繰り返し。そうやって、自分好みのタイムラインが形成されていく。
 しかし、われわれはここで、「自分が見たいと思うものしか見ないようにしている」ということを、ときどき忘れる。いや、しばしばと言った方がよいかもしれない。あるいは、常に忘れている人もいる。世論を二分するような出来事が起きたとき、こうしたメディアでは、自分と反対の意見を目にする機会はきわめて少ない。もともとそうなるような仕組みなのだから、当然である。
 厳密に言えば、こうした現象は、インターネットに限ったことではない。Hanadaの読者は朝日新聞など読むわけないだろうし、逆もまた然りである。しかし、電車に乗れば嫌でも中吊り広告が目に付くし、読まなくてもどんな内容なのかは想像してしまう。ところがSNSの場合、自分に好ましくない情報は画面から一切消える。それどころか、自分の支持する意見が数万のリツイートを集めていれば、世の中の圧倒的多数が支持しているような印象を受けるだろう。自分のツイートがたった数百の「いいね」を得ただけでさえ、自己の考えが正しい、ないしは主流派だと錯覚しかねない。
 一度自分が正しいと錯覚すると、次はもうそれに反論する意見が聞こえても耳を貸さなくなる。自分の考えに都合のいい情報だけを積極的に集めるようになり、それ以外の情報を目にしたときは、反対派の策略・捏造・陰謀だと考えるようになる。あるいは、反対意見が強ければ強いほど、マスメディアが伝えない真実を自分は知っているという優越感さえ抱くだろう。Qアノンは他人事ではない。さる大物が不適切な発言で辞任を要求される。すると、支持者は面白くないから、叩きすぎだ、ネットリンチだと逆に声をあげる。あなた方は批判したいから批判しているだけでしょう、と。自分だって擁護したいから擁護しているだけかもしれないのに、そういう視点はよぎりもしないのである。そこから陰謀論まで、あともう一歩である。
 フェイクニュースとか、ファクトチェックとか、自分が接している情報が信頼に足るかどうか、気にかけることは大事に違いない。ネットの情報を鵜呑みにするなとか、一次情報に当たれとか、そういったことはずっと昔から言われてきた。だが、いまやもうそういうことは建前だろうと、私などは思っている。情報過多の現代において、日々接するニュースひとつひとつに対して、「これは信頼に足る情報か」などと真面目に考えていたら、それだけで一日が終わってしまう。Twitterで同じことをやったら、とても時間が足りないであろう。情報の発信を飯を食っている人や、あるいは感染症など命にかかわるときはできるだけ調べたらいいのであって、それ以外のことは、信じすぎてもいけないし、信じなさすぎてもいけない。なるほど、と思いつつ、もしかしたら嘘かもしれない。そのくらいのつもりで受け止める。なんでも白黒はっきりつけないと決まったわけではない。ナショナリズムだとかグローバリズムだとか、何かを正しいと信じればいい時代は終わった。正しいかもしれないし、正しくないかもしれない。そうした中途半端を許容できる辛抱強さが必要とされている。
(二〇二一年二月)


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