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『選んだ孤独はよい孤独』
ひとに疲れる日。
普段はひとと出会うことに半ば飢えているのに、人と関わりを持つとなんだかボロが出そうで、必要以上に出力してしまいそうで。
なので、ひとの輪から少し離れたところで静かにしている。
でも、このエネルギーの低い状態に対して気を使わせてしまうのじゃないかという余計な気づかいも生まれる。
気持ち的にはネガティブの無限ループになっているらしい。ひたすらダウナー。普通にいることすら難しい。なんだかふわふわしている。
こういう日は定期的にやってくる。
一晩寝たり、その場所の空気に身体と心が馴染めば戻ってくるのだけど、その場での抜け出し方が未だに分からない。
叫べばいいのだろうか。抜け出そうとしないことが大切なのだろうか。
ひとりでいたいのに、同時に孤独を感じている。
総じて考えすぎだ。一度考えることを放棄しよう。
ひとに気を使わせないために本を読む。
本来は本を読みたいから読むというのが一番身体に染み込んでくるはずだ。
しかも友人からもらった本なのだから、本当はもっと大切に読みたい。
『選んだ孤独はよい孤独』という本。
なんだか状況にふさわしさを感じる。さすが友人という感じだ。
しかも本の帯紙には
【「男の生きづらさ」をすくいあげた新たなる傑作!】
と書かれている。
タイトルに共感し、帯紙に共感した。
この本なら、進んで孤独になることを目的にしているときに読んでもバチが当たらない、気がする。
本を読んでみる。すると短篇形式の作品であると分かり、友人はぼくの本の読み方まで分かっているのかとちょっと愛を感じる。
(ぼくは少しずつ本を読み進めたいひとなのだ)
しかも最初の短篇の主人公の名前が“ヨシオ”だった。年齢も29歳。
共感するというよりかは共通点が多すぎる。
作中に出てくる“ヨシオ”も、現実を生きる“よしお”も、“ヨシオ”という名前に縛られて生きていた。
ぼくに“よしお”というあだ名がついているからなのか、最初からすでに“よしお”っぽかったからなのかは分からないけど、“よしお”の語感と人格がどこかリンクしている。
きっとまた考えすぎだ。よしおというあだ名でなくとも、ぼくはたくさん考えるだろうし、孤独になりたい日は訪れていただろう。
本のおかげで、ひとりでいるのに、孤独が少し和らいだ。
友人よ、ありがとう。
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