誕生日に「石鹸の花束」を
お花が好きな人の誕生日でした。香りに敏感な人です。プレゼントしたいけれど、今はコロナ禍うんぬん諸々で、渡せない状況です。
困ったなと思いました。そんなことが2回続いたら、もう誰も自分の誕生日を祝ってはくれないのかと落胆してしまうのではないか。去年はなかった心配が頭をもたげました。私なりに鍛えてきた頭は、こういう些細なタイミングに工夫として現れるためにあるはずなんですね。本当に無力というか、ポンコツ。
単純な話です。喜ばせたい、忘れてないと伝えたい、おめでとうと祝いたい。それだけなのに、時代が時代なため、形にできなくて伝えるのが単純ではなくなってしまったということ。
街へ出ると、以前より治安が悪くなっているような気がします。人の流れが変わったし、人々の意識がこれまでと異なるように日々感じます。変化のない時代なんてなかったけれど、経済的な不安定さが自分も含めた社会を揺るがしているような気配を感じます。
だけれど、そういうことは全て、ひとりひとりの心が支えているなら大丈夫なんです。政府に期待するとかそういうことも含めて、とにかく誰かに大切にされていることをそれぞれが身近に実感できたら、ギリギリのところまで耐えられます。
心を支えられないことが、一つ二つと増えていくこと。そっちの方が、経済的な不安定さや治安の悪化という、育ってしまった大きな不安よりも肝のような気がしました。弱い立場の人をちゃんと守れないこと、身近な人に想いを伝えにくくなってしまっていること、それが不安の最初ではないか。そういうのは、小さいうちに潰しておきたいのです。
それで、郵便を使わないでカードを届けることにしました。
会えなくても、誕生日にすぐそこまで訪れたことを知らせたいからです。変な例えですが、ストーカーって姿を現さなくても怖い存在じゃないですか? 逆もそうだろうと思いました。会えなくても大切な気持ちは近くに行ったほうが伝わりやすいはず。寂しくなっていたら何かを求めていたら今日の今日に気配を感じてくれるはずです。
駅に着くと、いつも立ち寄るお花屋さんへ足が向きました。
生花は渡せないのに店先を覗きこみたくなって、くるっと見回すと、ブリザードフラワーがたくさんありました。今までなかった商品です。そこは、おしゃれなお店ではないというか、小さい生花市場みたいなお店で、新鮮なお花をドンと売るスタイルのお店。安くて新鮮。それなのに、慣れない形でブリザードフラワーを扱っていました。展示も一見すると、古い商店街の玩具屋さんみたいな感じでイマイチ。
そこで「石鹸のお花」を見つけました。
それは、生花を市場のようにドンと売るスタイルのお店が「偽物の花」を売るということ。鮮度にこだわった、イキのいい花屋が「生きていない花」を売っている。そこに私は「冒険」を見ました。すごいなと思って。おそらくですが、お花が市場に余り始めた時期はもう終わって、余るというよりも、おいそれと変えられない従来の生産方法と流通や生産量を変えないままに活路を見出した一つの工夫なのではないかと思いました。そういう工夫は、消費者にヒットしないと無駄になります。鮮度を誇るあのお店にとって、まさに「冒険」だったのではないか。
そのお陰で、私は助かりました。いつも生花を買っているお店にあるから買いました。お花を買うつもりがある目でみてる場所に、生花が渡せなくなった時代になっても、渡せる「石鹸のお花」が売っているのです。「現品限り」と書かれたその花を、すぐ買いました。
それは、どうすれば誕生日を祝っている気持ちが伝えられるだろうと苦悶する私と、どうやったらこの時代にお花が売れるようになるかに悩むお店が、ベストマッチした瞬間です。顧客を手放さないお店。「石鹸のお花」は、生花ほどではないけれどブリザードフラワーにはない香りがあります。私たちにとって、ベストな商品です。
夕方、帰宅ラッシュ前に、その店にもう一度立ち寄りました。
自宅用の生花を買うためです。自然とプラスワン効果が発生しています。そこで見た光景は、お昼過ぎにはなかった人だかり。老齢の男女がブリザードフラワーを次々に買っていきます。ブリザードフラワーもその店は安いし綺麗、イマイチなのはラッピングと展示だけ。生花よりも売れているかもしれない、だから「石鹸のお花」は「現品限り」だったのか! と思い知らされました。
つまり、完全な自粛ではなくても、用心している高齢者は外出頻度が少ないまま。ということは、お花を購入する機会が減るということ。生花は、扱いによって、すぐに枯れます。暮らしに彩りを増やそうと思うなら「長持ち」した方がいいわけですね。それに、連休が近い。一緒に遠くへ旅行はできないけれど、孫が泊まりにくるかもしれません。迎える家にお花を飾りたいと思うおじいちゃんかな?と思わせる方が懸命に選んでいらっしゃいました。買い慣れている人かなと思います。
不安に押しつぶされず、淀みなく変化していく生花店。逞しいうえに、喜ばせてくれました。ぶっきらぼうなお店だと思っていたけれど本質的に不器用ではなかったところが素敵。生花店としての本領は発揮されていました。改めてファンになりました。
「石鹸のお花」を受け取ってくれた人が、喜んでくれたかわからないです。その顔を見たかったと思うけれど、それはもういいかなと思うのです。そういう結果のようなものは、後でじんわりくるならその時にくるのでしょう。
皆それぞれに、できることをできるうちに。
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