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整う身体と、巷の空気のかわりよう

連休も終わりました。どこかに行かれましたか?

私の連休中のBIGイベントは、信頼できそうな、少し遠くの整体病院へ行ったことです。狙いは、お腹の浮き輪(贅肉)を減らすために代謝改善を目指して体幹を整えること。ところが想定外に、怖いっというくらい、骨折した指をぐいぐい曲げられまして、もう不能になるかと言葉を失うほどショックを受けてきました。

そのくらい、そっとしておいた指。

腫れがひどくて、何かするたびに痛かったので動かさないように、怯えるように暮らしていた時間。1年間くらいはありました、長かったのです。

それらを、先生は「そんなこと何にも知りませんからね」と平気の平左でぐいぐい、ぐいぐい。でも、施術直後に痛みは全くなく、支障ないだけでなく稼働領域が増え。なんだったんだ?っていう気持ちになりました。

あ、そうか。

怪我の時間はとっくに過ぎていて、回復も急に著しく進み。少しずつ重いものが持てるようになったのが昨年の夏で、それからずいぶん時間が経っているのに気づかされたのです。「大事にしすぎてはダメです」と言われ、局部は治っていると自覚できました。

その整った体幹をえた数日後。
初めてするスポーツ系のゲームを体験しに行きました。整体も数えるほどしか施されたことがないのですが、ゲームの方もほとんどやったことがありません。だから知らなかったのです。ゲームにチームワークが必要であることを。そして筋肉痛になることを。整体後に筋肉痛はOK? いまだに太ももがパンパンで屈伸ができません。失敗だったかも。


ところで、そのスポーツ系のゲームを体験しながら、感じたことは、スポーツともゲームとも関係のないことでした。

初めて会う人の中に入って、初めてのゲームをする。そういう人の輪にいると、そこの空気を一瞬のうちに大きく吸い込んでしまう癖が私にはあります。誰でも多少なりともそうでしょうけれど、そうやって感じなくてもいいことを大量に洞察し、そのままそれらを分析してしまうのです。そして、スポーツともゲームとも関係のない抽象的なものが、まとまって分析結果として出てきてしまう。そこは少し変わった面かもしれません。

過敏に感じる → 熟慮 → 飛躍した結論

のパターンですね。

その結果について説明したいのだけれど、うまく言えないので、まだ読んでもいない一冊の本が世に出たことに触れさせてください。

先日、たまたま経済小説で著名な作家のコラムを読みました。その分野に詳しくない私でもタイトルくらい知っている名著の作者のものです。政治や巨大な企業の、市井の視点からは見えない裏の裏の裏話ばかりを扱う作家。それを足で稼いで取りに行き、命を張って筆にするといったタイプの方のようです。

彼を見て、今の時代なら「何のためにそんなにしてまで小説にするの?」っていう人が多いかもしれません。その風潮こそが、彼自身が誰かに今後描かれる可能性が低いことを、その作家に教えたのではないか。ひときわ時代に鋭敏な人だから痛烈に観取し、有限を天秤にかけて、最後は自分で自分を主人公に物語を描くことにした。それが高杉良著『破天荒』。

私はまだ読んでいません。
本のなかに、自分を残すことが時代を超越できる唯一の手段だと私も思います。それは大学の図書館で、私ですら偉人に出会えたことが証明しています。今の時代の、この風潮は一過性かもしれない。あるいは、時代は巡流ものです。その時に、稀有な経験が埋もれてしまわない一手として自叙伝を残したのだと思います。

コラムでは、もう「描きたい人はいない」というような事をおっしゃっていました。最初は、そんな社会に対して鋭い目を持つ人が「なぜ自分で自分のことを経済小説にしたんだ?」っていう素朴な疑問がありました。なぜって自叙伝というのは、夜に書いたラブレターみたいに、おおかた写実性が薄いものですから。しかし、この本はきっといま今うまく言えない何かを説明しようとしている私と、同じ穴に注ぎ込まれる1つの答えとして存在しようとしているのではなかと思えて、ここに喩えとして引用しました。

私は、全然違う視点から、全く異なる立場でありながら似た感想を、スポーツ系ゲームに参加して感じ取りました。旧態然としている場合ではないなと思って。ゲームが終わった時、もぐらが太陽を浴びたような気分でしたから、何にせよ、外に出て行って参加してよかったのです。時代は本当に変わったのです。

多くの人の、見ている視線の先にあるものが、かつてとは全く異なる空気感を伴っていることを感じとったと同時に、連休が終わり、整体した身体だけが新しい筋肉に支えられることなく元の骨の位置に戻ろうとしています。

また、整えなくては。
次はサウナかな。



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