「推し文化」が変えた政治とメディアのリテラシー
12月25日発売の『正論』2025年2月号に、「斎藤知事再選と「推し選挙」 その必然と危険」を寄稿しています。以下のnoteが好評で、ぜひ年内に出しておきたいと急遽お声がけいただきました。御礼申します。
「推し」の文化ってホントは、民主主義と相性悪いよね、とは、一見すると『正論』と真逆の朝日新聞で2021年の夏、延期された「コロナ禍での東京五輪」を控えた時期から言ってたんですよね(有料記事)。なので、今年の石丸・斎藤ブームを見て思いついたのではありません。
むしろ、私の関心は一貫しています。芸能をはじめとした「プライベートな趣味」の世界なら、推しの言うことが絶対! で生きていく人がいても自由で、それを他人が悪いとまでは言えない。
しかし政治家や、その意思決定に助言する「専門家」といったパブリックな、つまり趣味が違う人にも影響を与えちゃう存在を「推し」てはならない。そうした行為は、明確な悪である。
「私を嫌いでも、AKB48を嫌いにならないで!」が名言として美談になるのは、AKBが、嫌いなら単にスルーできる存在だからです。逆に、コロナで過剰な自粛を煽って甚大な被害を出した人が、「8割おじさんを嫌いでも、理論疫学のことは嫌いにならないで!」で通るわけがないでしょ?
実際に諸外国ではそうした言い訳は、通っていません。むしろ歴史の再検証に基づき、処罰が始まっています(以下は米国の例)。
空気の共有では動けない分、徹底してすべてを文書化し歴史を共有することで、国家として存続し続けるのが腐ってもアメリカです。これに対して、日本は一見すると、色々とぬるい。
昭和のマジモンの戦争の際、「推し参謀」で投票したらセンターは辻政信だったでしょうが、戦後も実録ベストセラー作家として復権し、1959年の参院選では無所属なのに全国区で3位につけました。一度でも「推されちゃえばこっちのもの!」みたいな発想の人が、減らないのも国柄でしょうか(ヘッダーは、21年6月刊の拙著より)。
政治のような、無関心な人にも影響してしまう領域に、「推し」を持ち込んではいけないのです。逆にいうと、もし「推されて」キラキラしたいなら、政治にだけは関わっちゃいけない。
ところが世の中には、「政治で推される」のがいちばん儲かる、権力とのコネができて、公金も吸い上げられる、と考える人がいるんですねぇ。
平時には、政治に興味を持つ人ってあんまいないから、集客するのはむずかしい。でもコロナなり、ウクライナなりの「戦時」なら、一時的にみんながその話題限定で政治にがぶりつきますから、そこで推してもらえばウハウハだ、みたいな思考らしいんですなぁ。
メディアの側も、そうした人が「数字を取ってくれる」のは、ありがたい。だけど推されるために民意に合わせてるだけの人を、ずっと使い続ければ、遠からず現実とずれてくる。
そうなっても「現実より推し! 事実よりカネ!」を続けると、どうなるのか。今回の『正論』では、こう記しています。
それが様々な選挙での、「番狂わせ」の深層にある底流だと捉える視点は、今年のnoteで何度も書いてきました。
一方で、忘れるべきでないのは、次のことです。
この国で広がるニヒリズムには、理由がある。散々まちがった民意を煽った人たちが、いまごろ焦って「ネットを信じる若者はバカ。伝統と信頼のオールドメディア!」と叫んでも、失った信用は戻ってきません。
一方で「マスゴミ」を疑うことを覚えた若年層が、より怪しい詐欺師をネットで見つけて「推し」始めるだけなら、状況はもっと悪化する。それならいったい、どうすればいいのか?
答えとまではいきませんがヒントは、論考の末尾にしっかり記せたと思っております。2025年を希望のある年にするために、ぜひ年越しには最新号の『正論』を、手繰っていただければ幸いです!
参考記事: