ReHacQは「一流のメディア」になるために何をすべきか
ReHacQ(リハック)というネット世代に人気があるらしいYouTubeのチャンネルに、国際政治学者の東野篤子氏が出演し、話題になっている。
ヘッダーは、彼女が「自分はネットで叩かれる」旨を繰り返す箇所の一部だが、カタカナでセンモンカと書く人は私の知るかぎり私しかいないので、「ウクライナ論壇」に批判的な拙noteもお読みいただいているのだろう。メディア上での第一人者に批判が届いているなら、光栄なことである。
このReHacQの番組(11月26日配信)に対して、東野氏からネットリンチの被害に遭った羽藤由美氏は、当然ながら怒っている。
私も通して見てみたが、前半は文春がすでに報じた「茨城県警の元警部がTwitterで中傷」の後追いで、新味はなかった。さすがに東野氏が「中傷の当時はオーストラリアにいた」(=その時点で安全面の不安はなかった)点を認めていたのと、相手の職業を知った手法について、若干の仄めかしがあったことくらいか。
むしろ、目をみはったのはインタビューの後半だ。具体的には 26:20 あたりからだが、いちばん気になった箇所を文字起こししておこう。
いやいや、あたりまえじゃない?
ウクライナ戦争のように多数の人命がかかっていて、かつ何が正解かわからない話題の「専門家」として毎日TVに出ていたら、「この人、いっつもメディアで見るけど、主張がオカシイ!」みたいに批判する視聴者も出るでしょう。大事なのは、その批判の中身が妥当かどうかじゃないの?
具体的には、「東野篤子はこんなことを言っていた」と書かれたが、そんな発言はしていないという場合は、もちろん中傷にあたる。おそらく、開示請求をすれば通るだろう。逆に「いや実際、あなたはそう発言しましたよね」ということなら、請求は通らないし、また通してはならない。
たとえば2022年9月のノルドストリーム爆破について、東野氏が「犯人はロシアだ」と間違ったことを言っていたと指摘するのは、中傷ではない。指摘が続くのが嫌なら、本人が謝罪・訂正すればよいことで、スラップ訴訟やまして公権力の規制を持ち出すのは、思考が根本的におかしい。
批判を続ける複数のアカウントについて、「おそらく1人の人が運用している」と決め込むのも、理解不能だ。東野氏自身が言うように、開示請求しても通らないのだから、「これらのアカウントはみな1人がやっている」と断定する根拠は何もない。
TVの常連でも芸能ゴシップの専門家なら、多少は「どうせ、こんなオチじゃないですかぁ?」と憶測で喋っても大目に見られるかもしれないが、現実の戦況を分析する第一人者のように扱われてきたセンモンカが、こうしたエビデンス・レスな妄想で物を言う人だったとは戦慄する。
先ほどの引用でも「中傷を込めて」と東野氏が述べているとおり、東野氏は中傷という言葉の定義が、ふつうの人と違っている。メディアで自分が実際に行った発言の問題性を指摘されるのは、批判(聞き手の高橋弘樹氏の用語では「批評」)であっても中傷ではない。
彼女自身のツイートから察するかぎり、東野氏は中傷の語義を「私に抱いた悪い印象を言葉にすること」と、取り違えているようだ。
有識者を批判するならその発言の内容に対してすべきで、容姿や性別を攻撃の対象にするのは違う、とする指摘にまで「そうすることで私の悪口を長く言いたいんだろう!」と絡む人の神経は、ふつうではない。そうした人が用いる「中傷」という言葉の定義は、かなり独特なものになっているので、起用するメディアは精査すべきだ。
中傷と同じく「差別」も、むろんあってはいけないものだが、しかし独自な定義で「差別」を勝手に認定することを認めれば、穏当な常識に沿った意見の表明まで差別にされてしまう。そうした問題がいま起きているのと、東野氏のふるまいは、まさにパラレルな関係にある。
国際政治学でいえば、ガザで行われている民間人への空爆を批判することが、ユダヤ人への「差別」にあたるとする、独自の用語法を持つ国がある。その国の言い分を「差別された当事者だから」として、一方的に垂れ流すメディアがあるなら、単なるプロパガンダにすぎず、一流とは呼べない。
さて東野氏による、辞書の定義どおりの「ネットリンチ」の被害に遭った羽藤由美氏は、ReHacQのアカウントに宛ててこう提言している。同社が「TVで有名になった人」を連れてきて、長く喋らせるだけではない、真にオルタナティブなメディアに成長する上でも、優れた機会となろう。
今回のゲストだった東野氏自身、以下のようにTwitterで発言していたのだから、ReHacQが論敵に出演・反論の機会を与えたからといって、悪く思うことはないはずだ。SNSでの誹謗中傷がやまない時代を終わらせるために、ぜひそうした価値ある番組を、ReHacQには期待したいと思う。
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