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熱狂的女子高生 2

清涼な水の中 side.村島律


 ソファに身を投げ出した状態でうたた寝から目覚めた村島律は、視線の先のビール缶二本を見やって舌打ちをした。寝落ちた瞬間にでも倒したのか、まだ少し中身の入っていたらしい一本がテーブルを汚していたからだ。
 正面の壁掛け時計に目をやると、時刻は間もなく零時に差し掛かろうとしている。テーブルを片付けることと明日が早番であること。さらに歯磨きという任務を思い出した律の動きは鈍かった。
 ひとつをこなすだけでベッドにダイブできるのならさっさと片付けてしまうのに、疲労を訴える心身に追い打ちをかけるものが増えた今、寝室へ向かうためのモチベーションが一気に下がってしまった。
 別段忙しかったわけでなし。トラブルもなく、勤務自体は滞りなく終えてタイムカードを押したのだ。それが何故こんなにも疲れているのかといえば、思い当たる節はひとつしかない。
 テーブルに転がる缶をどかして布巾で拭きながら、脳裏に三日と置かずにやってくる少女の顔を浮かべる。射抜くように向けられる大きな瞳には、良くも悪くも彼女の不器用さが窺えた。純粋すぎるのだと律は思う。そして目と同等に物を言う唇が開くたび、それを無視して捨て置けない自分に苛立ちもした。
 彼女の目に自分がどう映るのか。憶測といえど何となく想像はついていた。そして、ひたむきに寄せられる期待そのものが、おそらく彼女を救う蜘蛛の糸なのだということも。
 糸の持ち主が何であるかより、彼女にとっては糸が存在すると思えたことの方が重要だったに違いない。そのきっかけが、たまたま自分だったというだけで。そうでなければ、こうまでして自分に執着する意味などないのだから。
 二本の缶をすすいで不燃用のゴミ箱へ捨てながら、律はそう長くない間に確実に覚めるだろう彼女の幻想を思う。理想を求めなければいられない少女には、まだ見えていないだけなのだ。彼女が『同類』と認識し、手を伸ばした自分もまた彼女が忌避する側の住人だということを。
 ──嫌いなの。桐木いちるへの身も蓋もない言い様に、律はふたつの意図を込めていた。ひとつは、いっそ幻滅してくれるならという思惑。そしてもうひとつは彼女を通して対峙する羽目になった、律自身が抱く葛藤への率直な感想だ。
 桐木いちるの潔癖さはネオンテトラを思わせた。視覚的に刺激をもたらす彩度の高い青と赤。隠しようのない美しさは否応なしに人目を引き、さぞや雑音も多いだろうことは同性だからこそ思い至る部分でもある。
 さらにこの種は淡水熱帯魚の入門種の位置に置かれているが、水質への繊細さは相当なもので、飼育の際は細心の注意を要する。それを怠れば、一晩と保たず命を落としてしまうからだ。
 澄みきった水でなければ生きられない美しい魚。あの少女に接するたび、どうにかなりたいと願いながらも諦め、形ばかりの大人になった自分を突きつけられているようで居たたまれなさに包まれた。
 そもそもこんな後ろめたさに揺さぶられること自体、彼女の求める清廉で自立した大人像からかけ離れているにも程がある。
 歯を磨きながら明日が燃えるゴミの日であることを唐突に思い出し、ようやくコンプリートを迎えるはずのミッションが増えたことに律は落胆する。だがそうしたところで早番は早番のままであり、ゴミの日が移動するわけでなし。できることといえば多少なりともスピードを上げて家事をこなし、早めにベッドへ入る努力をするくらいだ。
『大人』をするために意識的に鈍感になることは、折合いのつくものとそうでないものに追われながら編み出した律なりの処世術である。苦労して平らにならした地面を容赦なく掘り返すという点において、桐木いちるは確実に律のテリトリーを侵す存在といえた。
 にもかかわらずだ。その気になればできるはずの決定的な拒絶をしないまま、その来訪を赦しているのは何故なのか。そうは思いたくないが、自分もまたあの少女に期待のようなものを抱いているとしたら。
 澄みきった水質を維持したまま成長していく。その様を見てみたいという気持ちがないではない。そう思わせる強さを彼女は持っており、それは律がかつて持ち得ずに焦がれた類の資質に他ならない。
 向かったマンションのゴミ置き場には先客が鎮座している。ゴミを回収日前夜に出せるのは単身者の朝の忙しさを配慮した大家の許可のおかげであり、実際この取り決めにはかなり助けられている。週に二度、手にしたゴミ袋と共に大家への感謝を置くことは、すっかり律の恒例行事と化していた。
 部屋に戻ると、壁掛け時計の長針は零時四十五分を指している。ギリギリとはいえ一時前にベッドへ入ることに成功した律は、それなりに今日という日を乗りこなせた自分を労った。
 待って欲しくても朝日が昇るように、少女であるということも気づいた時には過去なのだ。いずれ曖昧になる遠くないいつかを待てずに、窮屈さと鬱憤を抱えながら、自由に息ができる場所を求めずにいられない。
 桐木いちるは明日も来るだろうか。目を逸らしたくなるほどの潔癖を湛えた瞳が背中を凝視する。容易く思い起こせるようになってしまった感覚に、知らず背中に手をやった。眠気の波に包まれた右手は重く、この程度では到底あの少女に敵わないとぼんやり思う。
 この夜、律は彼女の夢を見た。いつものやり取りと同じように、何を言われても撥ね除ける自分。彼女のローファーが前に出る。後退したら負けと、余裕ぶって踏み止まった。じりじりと縮まる距離に緊張が高まる。とうとう目と鼻の先まで近づく顔に息を止めた。
 瞬く瞳にネオンテトラの輝きを見る。目が離せずにいる自分に、桐木いちるは呪文でも唱えるかのようになめらかに言い切った。

「私をみくびらないで下さい。どうか安心して、」
 律さん──。
 
 なんで子どものあんたが私を守るみたいな言い方! そう反論しようとして、大切に育てた水草に触れたような柔さに包まれる。桐木いちるの腕が背中に回されると共に、言いようのない安堵が律の胸を満たした。
 放たれた場所が未知の水槽だったとして、この水なら大丈夫と思わせるような。律は感じたことのない清涼さに身をまかせ、深く息を吸い込んだ。


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