気軽に「服好き」って名乗れない(24/08/22)

母が名古屋で見たい服があるというので、ついて行った。タカシマヤでフランス展をやっていたので立ち寄った。ヴィンテージやアンティークの小物、洋服、アクセサリーを見て思い出したけれど、わたしはそういった類のモノが好きなんだった。すっかり忘れていた。ときめく気持ちを思い出した。

わたしが明確に服やアクセサリーを集め始めたのは19歳頃。知らない人が知らない土地で大事にしてきたヴィンテージというものを知って、好きになった。当時成熟していなかったのもあると思うけれど、好きになりたてだといろんな情報が一気に押し寄せてきて、いろんな服を気に入っては買って、気に入っては買っての繰り返しだった。好みは日毎に変わって、部屋は服で溢れかえった。

一度は気に入って購入した服であっても、あるとき嫌になってほとんど手放してしまった。それは、その服自体はとっても素敵だけれど、服が素敵なだけで全く似合わない、とか、あまりに奇天烈過ぎて異性ウケしないのに、社会は異性愛規範が充満していて服のせいで生きづらかった、とか、奇天烈な服を着て街の人の視線に晒されることに疲れた、とか、そういう理由だった。

服を手放すときは気が付かなかったけれど、そのときわたしは自殺するのと同じ気持ちだった。「こんな自分、嫌い」「こんな自分、消えてしまえ」
ゴミ袋にしわくちゃに押し込まれた服は、全部紛れもない自分だった。本当は大事にしたかったけれど、もう限界だった。辛くて辛くて仕方なかった。だから手放すしかなかった。

その辛い出来事のあと、自分が素敵だと感じる服を買うことが怖くなった。またいつか嫌になってしまったらどうしよう。わたしがいつか服を手放してしまったら、糸を紡ぎ、生地を作り、パターンを作り、服を大切に作ってきた人の想いはどうなるんだろう。わたしは服を大切に扱えない。服は素晴らしいけれど、わたしじゃ釣り合わない。もっと相応しい人が居るような気がする。

そうして、手放すときに苦しくならない服を着るようになった。何の思い入れもなく、(それまで好きだった一点物とは正反対の)大量生産で作られたような、そもそも好きでもなんでもない服をわざと選んで、毎日同じ服を着た。服に興味を持つのが怖かった。服を好きになるのが怖かった。今から4年程前、22歳頃の出来事だった。この時期に素敵なものを避けていたから、ヴィンテージやアンティークにときめく気持ちをすっかり忘れていた。

最近はまた、少しずつ服への興味と愛着を取り戻し、数カ月に1回買うようになったけれど、服を買うと具合が悪くなる。買ってスッキリしたいだけなんじゃないか、本当にその服を大切に扱えるのか、不安だ。出来ることなら長く、擦り切れるまで愛用したいけれど、自分にそんなことが出来るのか。「そんな服を着てどこへ行くの?」と冷笑してくる人はどこにでもいるし、わたしはそれに耐えられるのか?それでも着る覚悟はあるのか?

服飾業界の闇のことも考える。低賃金で働かされている人達がいて、人にも動物にも環境にも優しくない産業の在り方が、今日も普遍的に存在している。明確に誰かが不当な扱いを受けているとわかっていながら、それを購入してお金を使うことで、加担したくはない。そうは言っても自分が手にする服がどのようにして作られたか全てを知ることは出来ないし、完全には自滅的な消費を避けられないのが現実。

マッチングアプリをやっていた時に衝撃だったことがある。「服好き」とプロフィールに書く人が結構居るのだ。それを見たときわたしは相当たまげた。先程述べたようにそもそも服を好きでいるのにも抵抗感があったし、例え好きであったとしても服飾業界に蔓延る闇のことに詳しくもないし、それに抵抗するような運動や活動も何もしていないから、「服好き」だなんて宣言しちゃいけないと思っていた。(あとは自分オシャレです、と言っているみたいになって余計人に冷笑されるのが怖いのもある。)

服は他の趣味と違って、どれだけ興味が無くても着なきゃいけない。あまりにしんどすぎる。みんなはどうしてる?

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