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【261】イタい鼻うがいから「勘所」を押さえることの難しさへ

ちょっと必要があって鼻うがいをしたのですが、激痛が走りました。

その体験から。

※この記事は、フランス在住、西洋思想史専攻の大学院生が毎日書く、地味で堅実な、それゆえ波及効果の高い、あらゆる知的分野の実践に活かせる内容をまとめたもののうちのひとつです。流読されるも熟読されるも、お好きにご利用ください。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。


実は私はこれまで鼻うがいをしたことがありませんでした。花粉症がひどかったことがありませんし、特に必要を感じたことがなかったからです。

しかし先日、どうしても鼻うがいをしなければならない事態が生じました。ご飯を食べていたら、お米の粒が喉の奥の端の方に引っかかってしまって、なかなか取れない状態になったのですね。

その状態が1日、2日と続き、もちろん普通に生活したり会話したりするぶんには問題がないのですが、なんだか喉の奥がいがらっぽくて嫌な感じがするので、対策を探しました。

いろいろ調べていたところ、鼻うがいがいいらしい、という情報が入ってきたというなりゆきです。


鼻うがいというのは、鼻から水を入れて出すわけですから、明らかに痛そうな印象があるわけです。

私が思い出したのは、中学や高校の水泳の授業でした。水泳は苦手ではありませんし、全般的に苦手なスポーツの中ではかなり得意な部類に入りますが、何かの拍子に鼻に水が入ってしまうととても痛いのですね。

なので、水を鼻にわざわざ入れるなんて狂気の沙汰だ、と思いながら、どうにか痛くない鼻うがいの方法を探してみました。

すると、まあ簡単に「痛くない鼻うがい」の方法がみつかるわけです。

やってみました。

……痛かったわけです。

痛いのでしばらく休んで、何か良くなかったのかなと思いなおして、もう一度鼻うがいのやり方をよく見直してからやってみたら、今度はあまり痛くなることもなく上手くいきました。

なぜ最初に痛かったのかといえば——これは比較すれば明らかなのですが——、書いてある説明をよく読まなかったからでした。

具体的には、最初は塩水を使わなかったのですね。水が鼻に入って痛いと感じるのは多く浸透圧の問題らしいので、痛くない鼻うがいをするためには真水ではなくていくらかの濃度を持った塩水を用いる必要がある、ということでした。

塩水を使え、ということははっきり書いてあったのですが、当初の私は完全にその部分を読み飛ばして、ただの水でやっていたたのです。だからめちゃくちゃ痛かったというわけです。

……全く、自分のいい加減さには呆れ返るばかりです。鼻うがいは痛かったのですが、マニュアルに従わずに痛い思いをした私は「イタい」ヤツ、ということになるでしょう。

ともかく、自分がよく知らない分野のことをやろうと思ったら専門家が書いてくれているレシピや処方箋の類はきちんと厳密に守りましょうね、という当たり前のような教訓を獲得しなおしたわけです。

実に今回の場合は、「塩水を使う」というのが「勘所」であったことに最初は気づかず、マニュアルの類を読み直すことで、その「勘所」を発見・再確認できた、ということです。


似たようなことは、いろいろな分野において言えるかもしれません。

例えば私の知人に薬剤師がいますが、どうにも患者が薬の用法用量を守らないことがあるようですし、ひどい場合には患者同士で薬を分け合うようなのです。

蛇足と思いつつも「そのようなことをしてはいけない」と窓口で説明するようなのですが、それでも専門家の言うことを聞かずに薬を変な風に用いる患者があるようです。

用法用量を守らないことにも、薬を分けてしまうことにも、相応の理由があるのかもしれませんが、寧ろ適切と思われる見立ては、薬剤師のいいつけを守るに足る理由を確認できていない、というものでしょう。処方の深刻さを理解していない、と言ってもいいかもしれません。

一般的な問題として、医療関係者と患者というもののコミュニケーションがもっと良いものになれば良いとは思いますが、このような場合に知人が問題にしていたのは、「専門家の指摘や忠告を守らない素人」という構図でした。

患者の側からすれば、「1回に2錠飲んでも大したことない」のですし、「調子がいいから飲まない」ということでもよいと思われているのですし、「似た症状の知人に薬を分けてあげるのはよいこと」なのです。いずれも(場合によっては)勘所を外した考え方ですが、少なくとも患者にしてみればマズいことではないのです。

薬剤師がそうした医学的・法的観点から「勘所」を口を酸っぱくして説明しても、患者としては体感される快さや友人・知人への思いやりのほうが重要なのであって、響かないということです。


料理についても、レシピの「勘所」は大切です。

私は割と料理が好きな方ですし、大きな失敗をしたことはないのですが、それはレシピを徹底的に守ってきたからですし、レシピを離れて作っても大惨事にならないのは、一定数のレシピを見てきた経験から、どういじれば問題のない範囲に収まるかわかっているからです。

他方で、料理が極めて苦手な知人がいます。作ると何でも美味しくないものになってしまう、そういう人がいます。

その人と一度料理をしたことがあるのですが、見ていると、「まあこれは不味くもなるよね……」という感じのやり方なのですね。

「素人あるある」、つまり料理があまり上手でない人にありがちですが、勝手にアレンジを加えるのです。塩の量を勝手に減らしたり、強火でn分と書いてあるところ、弱火でn+5分加熱したり、手に入らなかった食材を勝手にありあわせのもので代用したりするのですね。

レシピというものは常に内的な一貫性をもって書かれているわけですし、書いている側はもちろん、程度の差はあるかもしれませんが、ある程度必然的な秩序に従って材料の種類や分量を規定しているわけです。

であれば、特に(何も知らない)素人がレシピを見てやるべきことは、まずはそのレシピを完璧に・忠実に模倣することであって、勝手に足したり引いたりアレンジを加えたりすることではないはずです。

岩塩を使えと書かれていれば海塩を避ける意味があるのですし、キャロブハニーを指定されていれば他の胡椒でない理由があるわけですし、牛肉の赤ワイン煮込みにボルドーでなくブルゴーニュの赤を使うことにもそれなりの理由があると思っておくべきなのです。

もちろん、どうしても揃わない調理器具や食材については一定の妥協が必要かもしれませんが、それはあくまでも最後の手段です。

こうしたことは、よくよく考えてみれば分かるはずです。

が、料理の苦手な人は、勝手に・無意識に、調整してよい範囲を広くとってしまう面があるようなのですね。そうして、すべきことをせず、入れるべきものを入れず、余計なことをやり、余計なものを付け足すわけです。そうした気まぐれが功を奏することは稀でしょう。シェフの気まぐれサラダはシェフがやるからきちんとした成果に結びつくのです。

慣れてくれば、レシピどの要素をどの程度変更してよいかは次第に見えてきますが、慣れないうちはとりあえず忠実にやろうね、ということです。

もっとも、ここにも難点があって、案外本人は「忠実に」レシピを守っているつもりななのです。「いや、あなたはここで中火にしたよね、強火って書いてあるのに」と言われれば「ああそうか、それはダメだったのか」という気づきを得るですが、指摘されるまでは、「当然ありうるちょっとした差異」くらいの認識で、あるいはそもそもまるで認識されていないのです。「塩小さじ1のところ、倍入れたよね」でも、「出汁の代わりにお湯にしたよね」でもよいのです。

が、本人はレシピから逸脱しているという意識をそもそも持っていないことが多いわけですし、最低限どこを守ればレシピに従っていることになるかいまいちわかっていない、つまりレシピの「勘所」を押さえていないというわけです。


あるいは、ちょっとお勉強めいたことを言うのであれば、外国語の発音という問題においても、規範的な発音を守り切る努力を尽くさないままに、気を抜いてはいけないところで気を抜いてしまって、通じない発音になってしまっている、という例は少なくありません。

なるほど、我々が後天的に、特に発音のあり方の遠い外国語を学ぶときには、きれいな発音を身につける必要はありませんし、困難でしょう。そんなところにリソースを割くぐらいであればその外国語で知的な読解・知的な会話ができるようになる方向で頑張った方がよいとは思います。発音は「勘所」を押さえていれば、多少下手でも確実に伝わるのですから。

とはいえ、「勘所」を外した発音や抑揚で喋っていると、会話の成立可能性・発話の理解可能性が著しく下がってしまうことがあります。

「勘所」がきちんと押さえられているというだけで、発音が多少悪くても・また他のところが多少崩れていてもきちんと通じる発話になることはよくありますが、逆に変なところは正しいけれども「勘所」を決定的に外している人の言葉は、文字列になおしたときに正しいようであっても、聞いてみると全然理解できない、ということがしばしばです。

例えばフランス語であれば、初学者は(実は地域差の激しい)鼻母音の表面的な綺麗さに必要以上に拘泥がちで、重要性の点で遥かに勝る広いeと狭いeの差や、語末子音の有無、また母音のないところではきっちり母音を入れないように発音するということに無頓着であることが多いです。あるいは、リエゾンをすべき箇所・すべきでない箇所の区別にも鈍感であることがしばしばです。

鼻母音をカッコよく出すよりは、「鼻母音は母音であるからには長く伸ばせる音でなくてはならない」などと思っておくほうがずっと重要ですが、こちらのほうは無視され、鼻母音は「アン」だとか「オン」だとか、そういった(nという子音を発音することへと誘う)ミスリーディングな音写とともにとりあげられてしまいます。

……よほど勘が良くない限り、初心者は教えられなければ「勘所」がわからないのですし、わからないのであれば徹底的にパクるしかないのですが、パクるにしてもどこに重点を置いてパクればいいかわからないわけです。ここに難点が、そして教師に習うことの価値が、親切で知的に優れたネイティヴスピーカーと話すことの価値がある、という成り行きです。


詳述はしませんが、ヨガも同じですよ。

ヨガをやっている動画を見て、見様見真似で始めるのは絶対にやめたほうがよいです。「勘所」を外しながら体を動かしつづけると、どこかしら怪我します。

前鋸筋を意識せずに手を地面についてぴょんぴょんしていたら手首も肘も肩も壊します。無理に蓮華座を組んだりマリーチアーサナをやったりすると股関節を痛めます。踏み込みを含むシークエンスで膝を内に入れると膝を壊します。バックベンド(立ちブリッジ)を含む後屈は前屈より危険で、よほど注意してやらないと大怪我につながります。ヨガは「危険があぶない」ものです。

私のやっているアシュタンガヨガはプロ(を自称する人々)でも怪我をしまくるものなのですから、いくら注意したって足りないわけです。

まして素人が「勘所」を押さえないままに、何も習わずにやっていたら、大惨事です。身につかないだけならまだよいのですが、なまじ体が動いてしまうと、怪我も重くなります。私なぞは怪我が怖いので、複数の先生について、解剖学の本を読みながら、「勘所」を探っています(そもそもそんなに危険なもので運動不足解消を図るな、という話ですが、それはまた別の話です)。


……今回の鼻うがいの件では、私は最初は「塩水を使う」という「勘所」に気づかなかったわけです。2度目のトライで、幸い気づけたわけですね。それに、気づかなくても大した打撃にはならなかったでしょう。

しかし、どこか他の、鼻うがいとは違って一回的ではない領域で、そしてずっと大事な領域で、気づかずに外しつづけている「勘所」はあるのかもしれない、ということを、一度の失敗を経たことで確認できたわけです。そして、この「勘所」にはなかなか独力では気づきにくいだろう、という構造的な難点にも思いをいたすことができたわけです。

この難点は、痛い目を見て反省するか、適切な教師に適切に見てもらうかしなければ、なかなか克服できないことでしょう。

なるほど、専門家の言うことや専門家の指南の類いを一から十まで守ってみれば、問題は生じないのかもしれません。

しかし、一から十まで守ろうとしても、「勘所」を見落としたり、「勘所」を大したことのない些末な要素と思ってしまったりすることはあります。だからこそ、添削やスポットでの修正が必要になるわけですし、自分の認識というものが信頼できないからには、必須でさえあるわけです。

鼻うがいの話はもうよすにしても、そしてそもそも「勘所」を教えられても聞く気のない患者の話は避けるにしても、語学やヨガであれば、少なくとも初歩の段階では、適切な場面で人の目を入れることがほとんど必須になるでしょう。

逆説的ですが、教科書や方法論の確立されえない領域となれば、あるいは専門家のいない領域であれば、「勘所」が可視化されづらいからには、他者の目を入れることの重要性はいっそう際立つのではないでしょうか。他者もまた専門家ではなく、確実に「勘所」を知っているわけではないのかもしれませんが、少なくとも自分の目よりはよほど役に立つでしょう。それは、自分とは異なる視角から、新たな「勘所」を見出してくれる限りにおいて。

大げさにいえば、こうして「勘所」を押さえる作業を常に欠かさないことが、(真水で行う鼻うがいがもらたらすような)苦痛を減らし、総合的には幸福度の高い生活を送ることに、繋がるのではないでしょうか

■【まとめ】
・先行者や既存の手引きがあるなら、まずはどっぷり従って、「勘所」を身につけることが必要になるだろう。

・とはいえ、自分が「勘所」を押さえつつ先行者に従えているかどうかを、そしてそもそも「勘所」がどこにあるかを見抜くのは実に多くの場合に困難だから、適切な機会に人の——教師や専門家や、ともかく第三者の——目を入れることが必須になるのではないだろうか。