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【821】「真似る」と「盗む」、ピカソ(仮)と自転車泥棒

しばしばピカソに帰される、しかし私の側では正確な出典を突き止められていない言葉として、「優れた芸術家は真似るが(copier)、偉大な芸術家は盗む(voler)」というものがあります。

「真似る」ことと「盗む」ことは日常語においてはおおいに異なるにも拘らず、(日本語であろうと仏語であろうと)学ぶプロセスの説明としておおいに用いられるわけで、しかしピカソ(に帰される言葉)は、ここで「模倣する」と「盗む」の間に明確な差異を見出しているわけです。さて、その差はなんでしょう。


「学ぶ」ことは「真似ぶ」こと、というのは実に有名な話で、何かを学ぼうと思えば先行者を真似るのが当たり前です。創造性ということが言われるのはその後の話です。真似が必要だというのは「型にはまる」必要があるということで、何も身に着けないうちから「自由な発想」だのなんだの言うのはあまり賢くありません。

数学なんかは、わかりやすく模倣を通じた勉強を基礎とします。多少複雑な演算であっても、まあ高校数学程度であればやはりほぼ全て模倣に存します。模倣を通じて蓄積された感覚や知識がなければ、より高等なものに取り組むことも、創造性を発揮することもできません。

英語なんかもわかりやすいと思いますが、単語や文法がわかっていないと創造性などはたらかせようがありません。覚えること、真似ることを通じて何かを(英語の場合には単語や文法的構造に関する知識を)獲得することが出発点であり、この点を抜きにしては学習が成り立ちません。

(もちろん、限られた知識をもとに自分の意図を最大限伝えようとする・相手の意図を理解しようとするのは大切で、その点「出川イングリッシュ」などはかなり素晴らしいものですが、あれは模倣を、また模倣をベースとした学びを否定するために引照されるべきものではありません。出川イングリッシュ的態度はフツーの勉強と掛け合わせることでかなり強力になりうる、というだけの話です。)

「盗む」はどちらかと言えば、必ずしも言語で記述されない分野や、言語で明確に教えてくれない分野、あるいは言語で明確に教えないことが何故か美徳となっている分野について言われる感があります。弟子が先輩の技術を「盗む」という表現に見えるところです。

型にはめにくい、あるいは型や言語的内容を抽出して伝えること(つまり教えること)が好まれない領域において、「盗む」という語彙がしばしば使われる、という仮説は立つでしょう。

ここから翻って見れば、極めてふわっとした感想として、なるほど「真似る」ことで学ぶことになる領域にははっきりと教室があったり、「修行」というよりは勉強が云々されたりする、とは言えるかもしれません。


こうして、ざっくり言えば「盗む」には明晰に言語化されない内容が関わりやすい、という傾向を想定することができますが、現実において行われる盗みがどういった様態をとるか、ということを踏まえると、もう少し異なる側面が見えてくるかもしれません。

何のために盗むのか、を考えれば、それは他人のもとにある財を強制的に・あるいは秘密裏に移転させて自らの利益とするためですが、単に移転させただけだと多くの場合には使用できません。おおっぴらに使えば足がつくからです。盗んだ車をいつまでも使いつづけるバカがいないのは、そうすれば足がつくからです。

なので、持ち腐れにしないためには、財を移転させた後で、足がつかないかたちに変えてしまう必要があります。車を盗んだらバラバラにして部品を売るわけで、足のつきそうな部分は(不法に)投棄することになるでしょう。携帯電話ならば少なくともSIMカードは抜きますし、製造番号から足がつくことを恐れるならば、分解して部品だけ売りさばくことになるでしょう。財布だって、誰のものかを証明するのが難しい現金だけを抜き取ってポイすることになります。カードなんかは不正利用できなくもないはずですが、履歴から足がつくので、まともな窃盗犯ならば使いません。

ということは、「盗み」は「追跡不能なかたちに変えてしまう」こととセットになっている、と言うことができるかもしれません。少なくともそうできない場合、盗みは失敗していると言うことができるでしょう(端的に言って、捕まり訴追される)。これは強盗であれ窃盗であれ、財の(不正な)移転が成功裏に終わることの必要条件です。

さて、「追跡不可能なかたちに変えよう」と思ったら常にそうすることができる、というものではありません。事情はそう簡単ではなく、寧ろ追跡不可能にするためにはそれなりの装備や背景が必要になります。

——ヴィットーリオ・デ=シーカの『自転車泥棒』なんかを見るとよくわかることです。

仕事に必要なとても大切な自転車を盗まれたアントニオはあちこちローマの街を探し回るのですが、どうしたって見つかりません。市場にいけば自転車の部品がバラバラに積み上がっているわけで、そこから「この部品は俺の自転車のものだ、返せ!」と言い張ろうとも、証明はどうしたって困難になります。寧ろ証明できないようにバラバラにするわけです。

仮に部品がもともと自分の自転車のものであったと証明できても、「いや、あっちの業者から買っただけだし」「私は向こうの業者から」「いやいや私はあっちから……」とたらい回しになるのがせいぜいです。どこかでコネクションは闇に紛れます。それに、自分がもともとその自転車を持っていたと証明するのも大変なことです。

要するに現実における「盗み」は裏社会の一部です。原題はLadri di bicicletteですが、「泥棒」も「自転車」も複数形であって、アントニオの自転車のみが問題になっているわけでもなく、アントニオの自転車を持っていった実行犯のみを意味しているわけでもありません。自転車は組織的に大量に盗まれており、要するに「盗み」を彼らにとって有意義に遂行しその果実を分け合うための不透明な裏社会があるのです。盗むという行為そのものが問題になるのでなく、背後に様々な条件があってこそ「盗み」が可能になる、とも言えます。

(この点、たとえば仏語訳ではLe voleur de bicycletteと、「泥棒」にも「自転車」にも単数形が用いられています——無論de+無冠詞名詞ですから暗に総称ですし、定冠詞+単数もおよそ総称と見てよいと言えばよいのですが、何にしてもイタリア語原文との隔たりは確認されて然るべきでしょう。)


翻って、技術や技能を「盗む」、そうして学ぶのだ、というときにも、様々なリソースを活かしつつ、由来を突き止められないくらいに変形して自らの利用に供することが暗に前提される、と考えることはできるわけで、そう考えるなら、「盗む」ためには由来を突き止められないくらいに変形させるための技術や、背景となる様々な知識や、種々の経験が必要になるわけですし、それをきちんと生かしてみる、というおおいに知的な作業が入ってくることになるでしょう。

ピカソに帰されていた言葉に帰るのであれば、こうして「盗む」水準に至ってこそ「偉大な(grand)」芸術家たりうるのであり、そうでないこと、つまり由来がごく明確にわかってしまうような、謂わば既に明かされている手法や要素を「真似る」ないし単に再生産することのほうは、「良い」芸術家たるに必要であるとはいえ、謂わば一段劣る、ないしは質的に異なる、そうした振舞いにとどまる。

もちろん「真似る」ことは「良い」芸術家のやることとされていますし、必ず外的に由来を特定されてしまうわけではなく、しかも全く悪いことではない、それどころかまっとうなプロセスとして捉えられてはいるのですが、それでも特有の限界がある。それはそれで大切で、ピカソ自身も通った道であるにせよ——若き日のピカソの絵が極めて古典的・アカデミック・模範的なものであったことはよく知られています——、たかだか「良い」にとどまるということです。

盗んで、バラバラにして、ときには別のものに交換してしてしまう。もちろん元ネタはあるかもしれないけれど、何が元ネタかがわからなくなるくらいにしてしまう。場合によっては、盗んだ当人にさえ元ネタがわからなくなるくらいに、反省と加工の対象にしてしまう。……


もちろんピカソに帰される言葉は専ら芸術家に言及するもので、直接的には、所謂「トレパク」騒動に関して一定の示唆を与えうるものです(トレパク、つまりトレースしパクることは、著作権に関わる法制上それ自体として問題になるわけではないのですが、付帯的に著作権を侵害していることも多く、イラスト界隈ではよく問題視されます)。「真似る」こと、謂わば出元をたしかに抑えておきながら写してくることは、なるほど描き方を学び上手くなっていくために必要ではあるが、何に影響されたか・何を真似したかが一見わからないくらいに吸収してこそ「偉大」であり、それは「真似る」ことからはさしあたり区別しうる「盗む」ことである、という具合に。

しかしこれは、翻って芸術家を自称しない、そう称されることのない人々においても何かしら反省を促すところがあるのではないでしょうか。

見る人が見れば「模倣だなあ」と一発でわかってしまう模倣は、法的に弾劾される余地がない場合であっても極めてさもしいものですし、本人の身にもなっていない、本人の文脈に実のところ埋め込まれていないことがしばしばではないでしょうか。

場合によっては、模倣元に依存したかたちでしか用いることができない、そのアイディアを換骨奪胎して用いることができない、極めて限定的な仕方でしか用いることができない、ということがしばしばでしょう。表面的に出典・ネタ元を隠すことができていても、寧ろバレている、ということもしばしばです。じっさい、元ネタがわかってしまうことはしばしばですし、そのくせ「自分で思いつきました」みたいな顔をしている人を見ているといたたまれなくなります。「あ、こいつ、右から左に持ってきただけだな」と。

良いか悪いかの議論は措くにしても、しばしば「他の人から借りる」こととして一緒くたにされがちな「真似る」ことと「盗む」ことの差を考えてみることは、色々に面白いものであろうと思われます。