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【351】leaderなる語を取り巻くイメージから出発する

いわゆる「リーダーシップ」は特に経営や組織論などの分野において極めて重要になるのでしょう。私はそうした分野に関してほとんどレレヴァントな知見を持ちませんが、自らが接近できる範囲で、つまり(些か衒学的に、しかし論証を緩やかにとどめつつ)とりわけ西洋語をとっかかりにして、この言葉が持つ実態に接近することはできるでしょう。

言葉で遊ぶのは実証性を欠く、という言明が、私たちが言葉によらずして「実証的」なものとして立ち現れうる現実を把握できないからには、あるいは実証性の尺度そのものも言語に委ねられるからには、言語(langue)という水準において概念を操作することには一定の分があります。いわゆる実証の側から言語による分節が可能になりうるのと同様に、「実証性」や実証性を標榜する者が前提してしまう枠組み——対象の範囲や切り分け方——を反省する作業は、言語によってのみ成されるものでしょう。

今回のとっかかりは、「リーダー」という英単語(別に同じくゲルマン系のドイツ語のLeiterでもよいのですが)にほとんど一対一に対応するラテン語起源の言葉がなく、フランス語においてもイタリア語においても見つからない、という事実です。

※この記事は、フランス在住、西洋思想史専攻の大学院生が毎日書く、「地味だけれどもあらゆる知的分野の実践に活かせる」ことを目する内容をまとめたもののうちのひとつです。流読されるも熟読されるも、お好きにご利用ください。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。


フランス語においてleaderという英単語はスペルもそのままに使われるのですし、leadershipという単語もフランス語にそのまま直輸入されています。

もちろんフランス語にも、漠然と「指導者」を意味する語は多くあります。たとえばguideという語は英語のguideにほぼ相当する表現です。が、これはleaderとは異なるものでしょう。寧ろ「案内人」です。


あるいはdirecteurという語も考えられ、これは英語のdirectorよりも外延の広い名詞(かつ形容詞)でありつつも、leaderとは使う領域も意味も大きく異なります。

leaderは「先に立って引っ張る」者であって、これに対して、directeurは「(あるところへと)差し向ける」者です。前者が軍を率いて、「導いて」いるイメージで捉えられるとすれば、後者は「指示」や命令を出して後ろに控えている、軍を「差し向けている」イメージです。

論文の「指導教員」はフランス語だとdirecteurですが、これは実に実態をよく反映した語です。指導教員というものは概して当該分野の専門家ではあっても、指導学生の狭義の専門に必ず精通しているわけではありませんし、新規性のある研究を実施させるからには、自分の背後を歩ませる、つまりleadするわけにはいかないのです。

leaderは自ら先導しなくてはならないがゆえにひとつの道しか見せることしかできませんが、directeurは自身動く必要がないので、本人の意向も聞きつつ、いくつもの方向に差し向けることができます。

この観点からすると、「指導」という語はある意味ではミスリーディングで、目的地や方向性やタスクを「指示」することはできても、ある道を先に立って「導く」ことはできないのが、新規性を必要とする範囲の慣例です。

(なお英語では、「指導教員」は普通はsuperviserであり、もはや指示することも導くことも、言葉の上では、特にない。上から(super-)見ている(videre)、つまり見張って・監視しているだけです。)


英仏辞書でleaderを引くと、先述の通りleaderという訳語にもならない訳語(というか原語そのまま)が出てくるわけですが、他に出てくるのはたとえばchefという語です。英語においてもchefという語は用いられますが、chefという仏語はchiefというかたちでその痕跡をとどめます。

このchefは、フランス語では(というか英語でも)「シェフ」と読みます。

「シェフ」という単語は、別にフランス語をやっていないかたでもおわかりの通り「料理長」を指す言葉ですが、フランス語の文脈では料理人についてのみ言われる言葉ではなくて、何であれ集団の「長」について一般的にいわれるものです。「料理長」とは敢えて言えばchef (de cuisine)「(料理の)長」ないしはchef (cuisinier)「(料理人の)長」「長(たる料理人)」だというわけです。

chefという言葉はとりわけ歴史学においては、部族の「首長」を指す言葉です。chef d’Étatつまり「国家のシェフ」と言えば「元首」のことを指します。そしてchef de l’Égliseつまり「教会のシェフ」といえば、カトリックでの文脈は霊的な意味でのキリストを指します。

このchefという語は、(料理人の長としての)シェフの像から既に見えるように、明確な上下関係を示唆します。しかも、単に位置関係や量的な優越のみならず、役割における、つまり質的に決定的な優越を示唆します。leaderが(leadという語に忠実である限りにおいて)単に「引っ張り導く者」を意味していたのとは、いくらか事情が違います。単純に言えば、長(chef)がいれば必ず下っ端がいるのです。

語源から見れば、この事態は一層わかりやすくなります。chefという語は、ラテン語のcaput「頭」から来ているのですね。

「頭」であるからには、身体の別の部分の存在が示唆されます。典型的には「四肢」です。頭は四肢に命令し、物理的障害や機能不全がない場合には、基本的には思いのままに動かします。あるいは、そのように命令を発するものとして、「頭」が想定されています。逆に、四肢が頭に命令するということはありえません。

さて、「頭」が命令を与えるところの「四肢」のことは、ラテン語でmembrumといいます。見覚えのある単語だと思います。英語のmember「構成員」の直接的な語源です。つまり、頭=caput(に由来するchef-chief)は、四肢=membrum(に由来するmembre-member)を意のままに動かすところのものとして想定されています。

実のところ、これは中世に発達した或る種の法人理論、つまり「神秘体(corpus mysticum)」としての教会の理論にも通底する観念です。頭=長(caput)であるところのキリストが、司祭を通じて、人を四肢=構成員(membrum)とし、動かす。もちろん教会の構成員の自由意志を剥奪するとか、言語化された命令を与えるとかいうわけではないにせよ、神学においては、頭としてのキリストから降りてくる聖霊によって四肢としての構成員が満たされる、とされます。何にせよ頭が原理です。頭をなくせば共同体は決定的に変質します。

こうしてchefという語は、leaderの訳語としては多くの不満を残すものです。

leaderという語は、さしあたって垂直的な秩序や、決定的な単方向性を意味しないのでした。つまり方向や性質が基本的に自由であり、ときにあるときにはleaderであった者が場合によっては別のleaderに付き従っている、ということがありうるのです。同質の者が、先を行く同質の者の後を行く、ということも十分にある、というよりもこの図式こそが典型です。

これに対して、chef(chief)がmembre(member)に服従するということは、或る種の転覆なしにありません。あるとすれば、それは上下の秩序の破壊であり転覆です。あるいはchefという語がそもそも上下関係を含む一定程度ソリッドな秩序を示唆します。

広い意味での儀式によってのみ秩序の転換は確定されます。たとえばクーデターが事実上の制圧だけでは成立しえず、荘厳な儀礼——王の処刑や、高台からの宣言等、典型的に 可視的な効果——によって初めて新しい秩序を立てうるのと同様です。

昨日のシェフが今日のスーシェフということは、「今日で私はシェフを降りる」という宣言なしにはありませんし、今日の王が明日の日には書紀である、ということは、転覆と宣言なくして起こりえません。昨日は頭であったものが今日は足である、ということはないということです。

(頭なき共同性という困難なありかたをあるかたちで目指したのが若き日のジョルジュ・バタイユであったこと、『アセファルAcéphale』という雑誌のタイトルがその事実を直接的に示していることは、言うまでもありません。a-は否定辞、kephale (cephale)は「頭」です。Acéphaleの試みがいささか刺激的であるとすれば、それは私たちにとって頭のない共同体、特権的な支配原理のない共同体を構想するのが困難だからです。)


別の観点を足すなら、chefに垂直的に従うことと、leaderに水平的に従うことの間には、おおいに差があります。chef(=長)は謂わば自分の歩まぬ道をmembre(=構成員)に歩ませうるのであって、寧ろ先ほど見たdirecteurに近い面がある、と言ってもよいでしょう(あるいはローマのdictatorをこの系譜に含めてもよいでしょう)。

対照的に、(leadという語の最も基本的な意味を固持するなら)leaderは自らの歩んだ道を、自らの切り開いた道を、歩ませるものだ、と言ってよいでしょう。

chef(=頭=長)が声によって組織に深く依存したmembre(=四肢=構成員)に命令する一方で、leaderは背中を見せることで、各々ソリッドに屹立する主体を導く(lead)また別の主体である、という便宜的区別が可能だということです。


chef=caputという語は身体に比される秩序を含意し、一方的に命令が伝えられる秩序を示唆します。極めて強い凝集性・一体性・安定性がはたらきます。分業の仕組みもしぜんに含みこまれます(四肢は互いに補い合うわけで、私たちの多くは手で歩かないものですし、足で背中を掻くことも稀です)。chef=頭が適切に機能する限りにおいて、集団=身体は実に上手くいくことでしょう。

これに対してleaderという語は、水平的にある方向に「引っ張る」という動詞に由来するからには、主体のステータスをそもそも問題としません。leadする者、leadされる者の間の秩序はたかだかleadが成立している状況においてのみ問題になります(あるいは両者の関係を持続させることも可能ですが)。もとより連帯は緩やかでありえます。かつ、命令-服従に基づく垂直的な関係は、特に成立する必要がありません(成立していてもよいのですが、すると寧ろchefに似ます)。主従関係や分業の構成に縛られるものではなく、すぐれて自由でバラバラな主体間の関係を読み取ることが可能です。皆が皆「この領域にかけては彼が先達だから利用しよう」と計画して引っ張ってもらおうとする場合であっても、劣らずleaderなのです。

さらに、以上ではleadという語が見せるイメージとchef(=頭)のイメージとを明確に区別しましたが、この区別とて曖昧でありうる、あるいは日常の言語使用においては寧ろ積極的に混濁せしめられている、ということは既に述べた通りですし、上の説明でも、便宜的な区別であるということは強調しました。つまり、上意下達の強権的な人間は、directしておりchef(=頭)として命令を下しているように見えるにせよ、一般にはleaderと呼ばれうる(そしてその言語使用自体には問題がない)ということです。

leaderはこうして、極めて緩やかで、かつさまざまな様態をとりうるものです。その姿をさしあたり分節するために(切れ目を入れて理解するために)、leadの「引っ張る」という意味を強調し、またcaput=chef=頭という様態を便宜的に区別して切り出そうとしたのが、以上の見立てです。


実にフランス語にあるいはラテン語に直接由来する語に、leaderないしはleadという英語にちょうど対応する語がない、というのはそれ自体興味深いことですが、ともかくこうした偏差に関するごく短い検討から見られうるのは、たとえば「『リーダー』なる語で言われるものの実態にもいろいろあるよね」ということではないでしょうか。

chefのようなかたちでleaderである、というケースは珍しくありません。「強力なリーダーシップ」と言われるときに想定されるのは、実のところ強力な上意下達・見事な作業の配分である場合がしばしばでしょう。つまり構成員=手足に対して的確な命令を下して意のままに動いてもらう、という意味での「リーダー」というものは、日常の語用においては十分にありうるでしょう。いわゆる(単にひとりだというレヴェルを超えて)ワンマン経営者だ、などと言われるものがそういう種類の人間かもしれません。

とはいえまた別の部分・別の領域・別のところにおいては、構成員——というよりは諸個人——がもっと闊達に意志を発揮して、leadされるかされないかを選ぶ、というケースも考えられるのであって、こうしたケースにおいてはchefから弁別されるものとしてのleaderの(謂わば否定的な、上下の秩序を前提しない、という)性質が際立つことでしょう。

何も考えていない人やあるいは極めて忠実な人を引っ張って行くというイメージでとらえられる「リーダー」もあれば、いつでも離れられるし疑いを持つこともできるけれどもとりあえず先にいて露払いをしてくれる人としての「リーダー」もあるのでしょう。

そうした意味で、(日本語の、あるいは英語であろうとも)「リーダー」という語は実に豊かな広がりを持った言葉であるな、ということが感じられたという次第です。


さて、

リーダーシップということは、個々人が生きるにあたっても、あるいは組織を運営し発展させていくことにおいても、極めて重要な要素として語られることがしばしばかと思われます。実にリーダーシップの発揮の仕方にも色々ある、ということもまた、しばしば言われます。

この「リーダー」という言葉が、どういった相手を・どのように「引っ張る(lead)」ことを含意するかという点に関してかなりの自由を許容する、ということ、敷衍するなら、「引っ張ら」れる対象は意志を強く持っていても、ほとんど意思を持たない忠実な者であってもよく、これに応じてリーダーの在り方も多様であることを示す、という点は実に興味深いものです。

そして同時に、「リーダーシップ」ないし「リーダー」という語が極めて広い適用範囲を持ちうるということをも照らし返されるようです。組織の内部においてはもちろん、人間が(潜在的に)結集した場一般において、つまり避けがたく人間との関係において営まれる私生活やいわゆるプライヴェートな空間においても、何らかのかたちで発揮されうるものであるな、と感じられるというわけです。

この渾然一体とした「リーダー」を分節するいくつかの観点として、上に見た点、つまりそれが垂直的な関係を前提するか否か、自らの後を辿らせるか、といった点を基準として用いることには、我ながら、一定の整合性と利があるように思われます。


「そんな区別は当たり前で、語るまでもない」とか、「それは言葉遊びに過ぎない」と言われるのももちろんもっともですが、その点については最初に見た通り、言語がある意味で全てですから、そう思わない方に対しては——いや、そう思わないとすればここまで読んでいるはずもない、と思いたいのですが——「いやはや見解が違いますね」ということになるばかりです。

とはいえ、「意味はあるんだ!」と言い張って逃げを打つのもイヤ〜な感じがするものですから、実に言語によって切り分けておくことで可能になることが膨大である、ということに関しては、ごく簡潔な示唆を残しても実践的な過ちにはならないでしょう。

……そもそも渾然一体とした対象しかなければ、私たちの目には何が問題であるかもわからないものです。「問題っぽいもの」しか見えないというなりゆきです。問題は切り分けなくては何が問題なのか分からないのですし、何が問題か分かったときには既に問題の大半は解決されていると言えるでしょう。

この観点から言えば、実に言語という極めて流動性の高い、自由の根幹にある、私たちを強く規定するツールを用いてなんであれ事態を分析・解体する作業は、「役に立つ」領域であれもっと思弁的な領域であれ、その生命そのものだと言えるでしょう。「分析なくして生活なし、分析なくして人間なし」、ということです。

あるいは具体的には、友人同士の会話のような日常においてさえ、「リーダーシップ」が駆動していると見ることができるようになるでしょう。知らないことを友人に教えてもらうとき、そこにはリーダーシップが花開いています。私の場合でいえば、友人にヨガを教えてもらう、というケースもそうです。

こうしたことが生じているということを「リーダー」とか「リーダーシップ」とかいう言葉のもとに捉えられるようになるわけですが、そうしてみると、実に組織論の成果を日常に反映することもできるわけですし、返す刀で日常の経験を精緻に言語化・分節し、これを組織内の生活に活かすこともできる、という成り行きです。

私たちの実にプライヴェートな生活と、仰々しく組織などにおいて「リーダーシップ」として語られるものが随分溶け合って見える。あるいは対照可能になる。そして統一的な理解が得られるとは言わずとも相互に応用しあえるような、ソリッドな言語世界をつくっていくことができるのではないでしょうか。

■【まとめ】
・ある言葉や概念の曖昧さを、何らかの手立てを持って分析する作業は、知的営みの基礎にある部分と言えるのではないだろうか。

・そうして分けてこそ、さまざまな領域間での相互適用が可能になる。つまり強固で堅牢な世界を構築することができる。

・語学的な手段を用いた具体例については上をお読みいただきたい。簡単に言うなら、leaderという語が持つ曖昧さを、leaderにぴったり対応するフランス語が(英語を音写したleaderを措いて)存在しない、という観点から切り分けて理解可能なものにしようと試みている。directeurやchefといった語が一応想定されるが、これらの語が想定させる実質と、leadする者という意味でのleaderなる語が思い描かせる像の差を見ることで、その作業は実行されている。