見出し画像

【536】デカルトはそんなこと言ってません/あなたは全然読めていません

世界的なデカルト学者であるドゥニ・カンブシュネルの『デカルトはそんなこと言ってない(Descartes n’a pas dit)』の邦訳が、今月末(2021年9月末)に出るようです。

デカルトに関するよくある誤解をとりあげ、それがどのような意味で間違っているか、ということが取沙汰されます。

タイトル(の訳)からも分かる通り、決して固い本ではなく、フランス語で読んでみた限りでは非専門家でもわかるように書かれています。しかし同時に文献学的な正確さはまったく失われていません(注は充実しています)。新たなデカルト像、というものを得るかどうかはともかく、少なくともデカルトに関する思い込みが取り除かれる面はあるでしょう。

思想史には誤解や誤読やレッテル貼りがつきもので、それが長年に渡り波及効果を持ちつづける——トマス・アクィナスを「カトリック教会の権威」とばかり見做し、その革新的な側面を忘却するように——ことも珍しくないわけで、こうした点に係るケーススタディとしても実に面白いものです。

デカルトと言えば「我思うゆえに我あり」などの言葉ばかりがよく知られ、また少し高校で倫理を学んだ方であれば「(経験論に対する意味での)合理論の祖」のようなレッテルがはられていることをご存知かもしれません。

あるいはスピノザから大いに批判を受けたことなども有名ですし、「哲学」という分野に限って言えば、ごく若い人が惹かれるのはデカルトよりスピノザでしょう。スピノザは過激に見えますし、異端っぽく(実際、彼の書物は匿名・偽名で出されていますし、特に『神学・政治論』は発禁になりました)、20世紀後半の思想の重要な源泉のひとつでもあるので、現代思想が何故か若い人にウケがよいことを踏まえるなら、人気を博するのもわかります。フローベールのような作家がアマチュア的に受容してきた歴史もありますし、どうも混沌として豊かに見える。

が、これに対してデカルトは、ぶっちゃけ不人気です。堅苦しく・正道で・つまらない、というような見方もありえます。研究書などにもどうにも派手さがなく、教養課程の講義で説明されることがあるとしても、素手で哲学することを説くようでいてその実そうした「素手」の押し付けが寧ろ鼻につく、既に権威化された「素手」であって近寄りがたい、ということもあるかもしれません。

近寄られないだけならまだいいのですが、上に見たようなレッテルに基づいて、あることないこと言われているのも事実です。そうした「あることないこと」を篩にかける『デカルトはそんなこと言ってない』は、単にお笑いコンテンツとして読むのもよいのですが、デカルトに入っていくきっかけのひとつとしても有効でしょう。本書を読んで、デカルトのテクストにあたることなくドヤ顔で又聞きの知識を開陳する、というような倒錯に陥ることさえなければ、全般的に有用な読書体験になるのではないでしょうか。


具体的な内容は措くとして、「理性は感情(or情動)なしでもやってゆける」というデカルトに帰される主張を扱う、本書の第17章は実に色々と思わせるところがあります。

ここでは具体的にダマシオ(António Dámasio)という神経生物学者が槍玉に挙げられています。ダマシオはその名もずばり『デカルトの誤り(Descartes’ Error)』という著作を出しており、これは邦訳があります。

カンブシュネルはDámasioの自然科学分野における業績には触れず、彼がデカルトについて述べること(そしてスピノザを擁護していること)についておおいに批判しています。

具体的な中身は、まあ翻訳がそろそろでますし、興味のある方はamazonから予約するなり、フランス語版を取り寄せるなりしてください。とまれ批判の調子は辛辣です。

ダマシオが実際デカルトをまったく読んでいないことは明らかである。彼はデカルトについて、特にアングロ=サクソンの自然科学界で流通しているステレオタイプをとりあげているに過ぎない。デカルトが人間の生活における感情の役割について論文(1649年の『霊魂の諸情念について』)を丸々一つ割いているということをわかっていないようであるし、この論文に言及するにせよ、それは形而上学的なまた道徳的なクリシェを取り出して繰り返すためだけにそうしているのである(…)こうして彼はデカルトの問題系と、情動的生に係るスピノザの分析の間のとても強い連続性を無視しており[or見抜けておらず]、デカルトがダマシオ自身の展開する見解について正当化することになっている、ということもまた無視している(これらの見解の科学的価値はここでは問題とならない)(D.Kambouchner, Descartes n’a pas dit, Les Belles Lettres, 2015, p.169)

ダマシオのほうも一応英語で読んでみているのですが、まあはっきり申し上げて、カンブシュネルの言っていることが正しいだろうなと思われます。私が哲学(の隣接分野)を専門にしているから、ということでもありますが、少なくとも適切にデカルトを読んでいないということは明らかだ、とは言えそうです。


で、これ、珍しいことじゃないんですよね。

非専門家が哲学テクストを読むのはもちろんまったく問題ありませんし、読まずに思い込みを持っていたりするのは普通のことですが、読んでいないのに(あるいは読めていないのに)わかったふりをするとか、ろくすっぽ理解していないのに「まとめ」を開陳するとか、ひどい場合には(ダマシオのように)読まずに非難するとか(批判にすらなっていませんが)、そういった事態です。

人文学をやっている人間が自然科学について同じことをやったらまず間違いなくアウトでしょうし、「勉強してからものを言いなさいよwww」となるはずですが、どうしてか逆向きの攻撃や侵入はよくある。

歴史とか文学とか心理学とか政治学とか教育学とか哲学とかは、なまじ自然言語を使っているためか、そしてあまりにも専門分野が細分化されているためか——たとえばインド仏教哲学の専門家は西洋古典についてサウンドな見解を持ちえませんし、ローマ法を起源とする民事訴訟法の専門家は必ずしも古代地中海東岸の貿易の様子に詳しくありません——、「ちょっとやれば(あるいは何もしなくても)自分が当該分野に対して正しく・健全な・価値のある・有意義なことを言える」と思い込みがちです。

本当は自然言語で書かれたものを読むにも訓練が必要です(本当にフリーハンドで読めるなら、所謂「現代文」は全員満点でなくてはならず、また誤読という言葉もありえないでしょう)。日本人の3分の1は5行以上の文章を読めないとまことしやかに言われていますが、「バカもいるんだな」と笑っているあなたこそが、そして実際に5行以上読めるものの、或る種の文章を読めていないのに読めていると思い込んでいるあなたが危険なのです。「読める」という思い込みこそが危険なのです。そして残念ながら「危険だ」と思う機会すら持たずにそのまま育つ人もいるという成り行きです。

さらに悪いことに、出版社もそうしたペラッペラの内容のものを、さして吟味せずに世に出してしまうということが十分にありうる。いったい世に出ている「哲学」関係の本は9割以上そうしたものでしょう。お金のためだったり付き合いのためだったり、色々動機はあるはずですが、ともかくそうした悲惨な事態があるという成り行きです。

カンブシュネルはこうした状況についていささか悲観的ですが、それでも蟷螂の斧を振るうようです。

哲学者の専門家や読者は、こうしたおおよその見当をつけてなされるような説明[orおざなりな説明]が拡散されるのを食い止めるために何ができるだろうか。殆ど何もできないだろう。実験室で働く人間には、文献学者は自らの役割の範囲を一歩でも踏み出てしまえば、常に衒学者に見えることだろう。さらに、誰かしら過去の偉大な才能の持ち主の判断が粉砕されるのを見るのは常に楽しくはないだろうか。(D.Kambouchner, Descartes n’a pas dit, Les Belles Lettres, 2015, pp.169-170)


私はもちろん、専門外のことについて語ることが全てダメだ、と言うつもりはありませんし、カンブシュネルもそんなことを言うつもりはないでしょう。

しかし専門性を尊重すること、わかった気にならないこと、わかっていないっぽいなら何重もにエクスキューズを立てておくこと、 ……などは、実に実践的に必要な態度だと思わされるものです。

自分が持っている思い込みに気づくことは殊の外困難であるからには、常に自分は何もわかっていないと肝に銘じつづける必要があるのですし、その思い込みを検証するような手癖をつけておくこと、が実に有効でしょう。