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【450】私が「逆ハの字のボーゲンで決死の股裂き直滑降」を行う理由/表現を差し控える皆さんへ

人間と人間は基本的にわかりあうことができません。というよりも、相互に何らかの了解を得たか否かを確認する手段すらも基本的には言語やその他の表現であるからには、目につくかたちで表現された内容とは異なる、秘された気持ち——これもまた、巧みさ・明晰さのほうはともかく、心内で表現されてこそ特定されるのですが——のほうはおいてけぼりになることになります。沈黙のうちに置かれるということです。

そうした沈黙は、個々人が選択する場合もあれば、社会構造を含む問題それ自体の構造に強いられるものである、ということも少なくありません。


私たちは表現の手段を多く獲得することができました。日本人は、世界的に見れば平均的には高いレヴェルの教育を受けていますし、最近では特にリソースのない人でも表現を人の目に晒すことは簡単です。

が、表現する内容がないとか、時間が取れない(取る気がない)というのは別にしても、何らかの理由で公然と表現することが躊躇われる(ことになっている)場合や、あるいは何であれ表現することそれ自体が適切でないと思われる場合には、当然表現は差し控えられます。

あるいは、完全に差し控えられるのでなくても、consistentでない形式をとります。「ボヤき」の形式をとるということですし、多くの場合には匿名で行われます。(別に匿名の表現というものが悪だとか無責任だとかは思いませんよ。念の為。匿名でも法的場面で責任を問われることはおおいにありますし。)


こうして見ると、歴史的に見れば狭い範囲ではありますが、極めて大きなサイレント・マジョリティがあるようにも思われるのですね。

「自己肯定感を高めること・成長することに対しては激越な抵抗があるけれども、自己肯定感は高いほうが様々な意味で上手くいくに決まっているということくらいはわかっていて、しかし自己肯定感の高い人間や『成長』を唱えつづける人間の表現を見るとその浅薄さに『ケッ』と思い、『俺は連中とはそもそも違うのだ』といささか投げやりな、しかし固い確信を持つ」集団とか、

「自分が知的であると自負し奔放かつ粗雑に表現を行う人々や、そういった人々を軽々に褒めそやす人々のノリに、別種の自負心からか、あるいはときに名状しがたい倫理的感覚からか、同調したくない」という人々とか、

でしょう。(あくまでも仮置ですし、網羅的で完全な分類だと言うつもりは全くありません。)

こうした人々は、自らの持つ内容を表現してはならないことを知っていますし(角で突き殺されるので)、あるいはそもそも表現することに対して激越な抵抗を持っていることでしょう。

なお、学歴とかはあまり関係ありませんよ。いい職場にいるかどうか、ということもあまり関係ありません。


あくまでも表現の側からの推測ですが、公に上を向いてにこやかになされる表現ではない、匿名で、いささかの罪悪感や絶望を持って行われる控えめな「ぼやき」から、こういう類型が推測されるということです。しかも、おそらくは相当数いるのではないか、ということです。

(そして多くの場合——もちろん比較の問題ですし、例外は多いのですが——そうした「ぼやき」のほうが、内容面では洗練されています。)

個人的には、こうした人間も含めて平均的に幸福に生きられるべきだと思いますし、この水準で「自己責任」を持ち出すのは極めて酷薄な勝者の論理だと思っていますし、声の大きなポジティヴ・マジョリティはあまりにも人間の精神に対して無反省であると思っています。

(もちろん、自分で積極的に当事者意識を持って物事を引き受けていくことは、意欲ある個人に対しては十分に推奨されてよいことですし、そのほうがこの社会ではどうやら上手く生きやすいようですが、全体としてそうできない人が落ちていく社会にしてしまうのは好ましくないと思っている、ということですし、この点を救うことができないならばそれは個人でなく社会の失敗だ、という気持ちがあるということです。努力できること、当事者意識を持てること、上を向いて歩けることは概ね努力の結果ではありませんし、不幸にもそうできない人は努力以前の様々な理由からそうできないということです。前提には、ある社会において経済人としての個人に推奨されうることがらと、社会の理想とは切り離すべきだという考えがあります。あくまでも個人の見解です。)

とはいえ興味深いのは、彼らは自らが社会から断罪されているということを感覚的に理解しているということです。現在の地位のほうはともかく、彼らが持つ倫理に背く人間のほうがどうやら儲かっていて、しかも非物質的意味でも幸せそうだ、ということを、彼らは概ね理解しているのです。そして彼らの確信こそが或る種の苦境を招いていることさえも。

それでも自分はそんなふうにはなれないし、なりたくもない、という、論理や(極めて薄っぺらい)「幸福」の観念の遥か手前にある確信を、いささかの後ろめたさとともにうっすらと引き受けているという成り行きです。こんな確信は本人すらも明晰に意識しているわけではなく、意識しているとしても、それをダイレクトに表現してはならない、あるいは表現しても意味がないということはわかっているのですね。ポジティヴなゴリマッチョに潰されるからです。あるいはそもそも表現を行うということに対する根本的な疑問があるわけです。


というより、こういうことは私が直感しているんですよ。理解した範囲のことしか表現できないのですから、私が書いていることを私がある程度理解している、というのは当然ではありますが、以上は半ば過去に差し向けられた自己紹介のようなものです。

少なくともその初めの段階において、私は否定に否定を重ねてこのnoteを書いていたのですし、変わったところはいくつもあるとはいえ、その否定の内的な履歴は忘れていません。

直接的・短期的にはこんなもの書かないほうがよほど得ですよ。余った時間でできることは思いのほか多いわけですし。

それに、はっきり言って、今日のものに限らず、noteを書いているということが学会に知れたら(最近の閣僚の言葉ではありませんが)干されますよ。暇な人なら陰口を叩くかもしれません。なにせ、業績に対する批判ということでなしに、権力者のパワハラに関する仲間内での注意喚起でなしに、人を貶めるためだけの陰口を叩く人は結構いるのです。専門に関係しない情報発信をするのは或る種の裏切りである、と言う人もいるくらいです。

それでも書いているのは、長期的な「利益」を見込んでということでもありますが、それ以上の狙いがあるわけです。

断っておくなら、前向きに楽しく成長、みんなとつながってハッピー☆なんていうことは殆ど意図していませんよ(あるいはそのような副産物はありますが)。

問題は反省を、それも自らの精神のありかたそのものに対する反省を尽きさせないということであって、フッサールがしばしば批判され剰えバカにされるところの、ナイフ(道具)それ自体を彫琢しつづけるという営みでもあります。

多くの人は、「反省」をすると言っても、それは未来の「成果」や将来の「利益」のために、道具的に行うわけですし、それはそれでよいのですが、あくまでも私は反省こそが、反省のみが唯一全存在を賭けるに値することだと思っているわけで、その結果として道具が(つまるところ精神が)擦り切れて消えてしまってもよいと思っているのです。成果が外部にしかないとすれば、人間としての価値は内部にしかない、と強弁したいところです。

希望があるとすれば、こうして大切にしていたはずの、強固にして洗練された倫理を完全に忘却する可能性、あるいはその倫理を維持したままにしかしそうではない生命を生きる可能性、謂わば両足棺桶状態の可能性、キメラ的生命を生きる可能性です。逆ハの字のボーゲンで決死の股裂き直滑降を行いつづける可能性です。

少なくとも私にとって、自分に許しえなかったはずの表現をそもそも行うということは、ある射程においては物質的生活を富ませるための前段ですし、この前段が成立した結果として大切だったはずの倫理的直感が失われる可能性すらあるでしょう。それはそれで世間並のハッピーエンドかもしれません(そこで初めて「健全な」人間になるのかもしれませんね)。しかし、それ以上に、あるいはその遥か彼方のルートにおいて、これは自己を分裂させる手段であって、反省を先鋭化させるための手段だということです。


謂わば私が行うのは精神を削った(あるいは精神を研ぎ澄ませるための)実験なのですし、こうした「実験」がそれなりの果実を生む場面もありました。いいこともあれば、ぶっちゃけ大変なこともありますよ。

ですが、自分のやりたくない、乗り気でないことも、何かしら勢いに乗って一度手を付けてみると発見はありますし、少なくとも自分で選択してやるのなら、上から降ってくる作業を淡々とこなすよりよほど何かよいことがあるはずです。

勉強をバカにしている人は一度真剣に勉強してみればよいのですし、絵の才能がなく強烈な苦手意識があるなら1年くらい描きつづけてみればよいのです。浅薄に見える表現を書き散らしている人間が疎ましく思われるなら、そのレヴェルに一度身を落としてみればよい(これは私がこうして行っている如く)。

死ぬために生きてみること、そのプロセスにおいて謂わば自傷行為としか見えないことを繰り返してみること、これもまた一興と言えるのかもしれませんし、思わぬ「利益」もあるかもしれません。

上にみたような、表現に対する抵抗心を抱くがゆえに沈黙を強いられている方々に限らず、また表現という分野に限らず、こうしてあえて自分を分裂させるような作業は、一度くらい試されるとよいでしょう。目にもとまらない対象であれば別ですが、目にとまって、疎ましく思われるということは何かがあるのです。嫌うということは、あなたは何らかの審美眼を持っているのです。その対象に、自分でもあえて関わってみるということです。