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【818】どうしてそこでつまずくの?

簡単な中学数学の問題を。

問:Aさんはxメートルの直線トラックのスタート地点から走って、ゴールとの間を往復しつづける。BさんはAさんと同時にスタート地点から分速80メートルで歩き出した。Aさんが2往復してスタートに戻るのと同時に、Bさんはゴール辿り着いた。このとき、AさんとBさんが初めてB君と出会うのは何分後か、xを用いて表わせ。

これは極めて簡単な問題で、文字式でさえなければ中学受験で出してもよいくらいです。

念のため説明すると、「Aさんが2往復してスタートに戻るのと同時に、Bさんはゴール辿り着いた」つまり「Aさんが2往復するのに要する時間は、Bさんは0.5往復するのに要する時間」で、「Aさんの走る速度は、Bさんの走る速度の4倍、すなわち分速320メートル」です。

そして、両者が出会うまでに走っている合計の距離は2xメートルですから、要は2xメートルの距離を隔てた両者が、一方は分速80メートル、他方は分速320メートルで近づいて出会うまでにかかる時間を求めれば良いことになります。言い換えれば、80+320で、毎分400メートル近づく場合に2xメートル走破するのにかかる時間を求めればよいことになります。

ですから、答はx/50(分後)です。

……何をバカなことを、と仰るかもしれませんが、この問題——正しくは類題ですが——について、知人が「ちょっとこの問題わかんないんだけど」と連絡をよこしたものです。

いや、彼は数学ができないというわけではありません。専門にしているわけではありませんが、苦手なほうではないはずです。私より年配ですが、文系とはいえ東大を出ていて——ということは大学受験では数学を使っていて——、しかも稀にいる「数学0点で受かりました」みたいなタイプの猛者ではなく、数学で満点を取ったタイプの猛者です。

私も数学は苦手ではなく、趣味で理系範囲までやるクチだったわけで、ぶっちゃけ満点を狙っていたのですが、あえなく惨敗したのでした。本試験では4問のうち3問まで調子よく解いたものの、1問まるごとわからなかったのですね。私がやった程度のいい加減なハリボテ勉強だと、満点狙いの野望を持つことはできても、そんな野望はあっさり倒されるわけです。満点を狙えるかもと思う圏内に入るのはわりと簡単ですが、実際に満点を取るとなると話が変わります。運の良さが絡まないとは言いませんが、相当なものです。英語なんかもそうですが、5割しか取れない人が7割とれるために要する勉強と、7割とれる人が9割に達するために行う勉強では質や量が変わってきます。絶対的な時間だけ見ても、後者のほうが実に苦しい闘いになります。

そんな中で満点をとっている彼は、数学ができないタイプの人ではないはずなのですが、何故か中学数学の問題、しかも上に見た簡単な問題がわからないのだと言います。

もちろん時間が経っていて忘れているとか計算が遅くなっているとかいうことはあるはずですが、中学数学を解けなくなるほどに忘れることなどあるのかしら、もしかして問題文を読み込みすぎておかしなことになったのかしら、などと思われましたが、何がどうわからないんだろう、と思って聞いてみると、「解説を読んでみても、2xメートルという数値を速さの合計で割っているようだが、2xという数が出てくるのがわからん」と。

いや、私は開いた口が塞がりませんでした。「どうしてそこでつまずくの?」と。つまずくところ、ある?と思われたのですね。

もちろん皆さんにはおわかりの通り、AさんとBさんが出会うためにはxメートル走るだけではダメで、合計で片道2本分、つまり1往復分の距離を踏む必要があるわけです。片道分がxメートルですから、ふたりが初めて出会うまでに踏破する合計距離は2xメートルになります。

そんなの当たり前じゃん!

「どうしてわからないのか」がわからないとはこのことか!

と思ったわけです。

いやもちろん、弁護(?)の余地はあります。問題文には実はダイヤグラムが添えられていて、それがかえってミスリーディングだったというのは間違いのないことです。たいして複雑でない問題なので、時間を横軸に設定して云々という処理を挟むとかえってわかりにくくなる、というのは事実です。寧ろ下のような(極めて雑な 、しかも内容過多とも言える)図を自分でいちから描くほうが容易だったことでしょう。

幸い彼も、私が上のような図を描いてみせたら「あぁ〜〜〜」と脳が溶けたような声を出して納得してくれましたが、やはり「どうしてそこでつまずくの?」という問いはぷかぷか浮かびつづけていました。


私にとっても、皆さんにとっても、「どうしてそこでつまずくの?」と思われたことと思います。とはいえつまずきは予期せぬところにあるものです。


文脈は少しく異なりますが、多少絵を勉強してよかったのは、「わからない人・できない人の気持ちがわかった」ということです。

私は選択芸術はずっと音楽でしたし、必修だった美術の授業では写実性ないし現実性——写実的でないとしても内的に一貫してそれらくし見えること、たとえばアニメや漫画のように——を達成できる気がしなかったので、抽象画っぽいものを描くなどしてごまかすばかりでした。小学校の時分には理科で植物の観察日記みたいなものを絵とともに提出させられて、それを張り出されるのが本当に嫌で嫌でたまりませんでした。学校は概して嫌いではなかったのですが、絵が展示されている間は「学校よ、燃えてなくなれ」と毎日思ったものです。

……というわけで、絵なんてものは私がどうしようもなく劣等生であった領域です。楽しく描いたのは、とぐろを巻いたうんこに棒の手足を生やした「うんこマン」くらいでしょう。

そんな中、気まぐれでイラストをとりあえず勉強してみようということになると、まあおそらくは自分が描けなかったのは時間をかけることも方法論を教えられることもなかったからだろう、という当たり前の事実がはっきりとつきつけられます。

じゃあとりあえず誰かに従って手を動かしてみよう、と思うわけで、技法書やら「描き方」なんかを読んでみるのですが、マジで高度すぎて箸にも棒にもかからないということがしばしばなのですね。

勉強法の類もそうですが、だいたいの方法論はそう大きく間違っていませんし、互いに異なっていても根っこから違うということは珍しいものです。字面だけ追っていても、大体のものは「おそらくこれは正しいことを言っているんだろうな〜」と思われるものです。

ところが、正しそうだとは思っても、どうしても自分のアウトプットに結びつかない。あるいは説明に従って手を動かしてみても、説明されていない部分がどう処理されているのかよくわからない。最近は動画でコンテンツを出している人もいるわけで、謂わば筆跡はほぼすべて見られるわけですが、そういうものを見ても、どういう理屈でその位置に線が引かれるのか・どういう目・筋肉・頭の使い方をすればそういう線が引けるのか、がわからない。

上の知人のように、解説を読んでも理屈がわからないから再現できない、というようなものです。解説を作っている人からすれば、「どうしてそこでつまずくの?」と思われていることでしょう。しかし、描いてこなかった人はそこでつまずくのです。なにもないように見えるところで、平気でつまずくのです。

およそ勉強らしい勉強、研究らしい研究で私がつっかえるということは、記憶にある範囲では数学Ⅲの置換積分くらいのものですが、絵では最初からつっかえまくったのですし、今なおつっかえています。

つっかえるから、自分でごちゃごちゃやってみるわけで、その際に説明されていない箇所に勝手な理屈を与えたり、あるいは削除したり、自分で虚空に向けて解説したりしながら身につけようとするわけですが、そうして自助努力をしている最中には、「おいおい、ここを最初からちゃんと説明してくれよ!」と思われるのですが、まあそれも恐らくは無茶な話です。方法論を開陳している人はだいたい小さい頃から描いている人たちで(こればかりは仕方がなく、当然のことです)、ひょっとしたらそういった人たちであれば一発でわかるかもしれないようなことが、私には全くわからない、あるいは自分でかなり意識的に説明を補わないと吸収できない、ということがしばしばだということです。

あるいは「描ける」タイプの人、つまりマジでイチからやっているというわけではない人は、それほど苦労もなく私が行うような試行錯誤と言語化を行っているのかもしれませんが、その苦労に踏み切る前に「わかんない」感じが邪魔をして、つまずいてしまうのですね。わかろうとしてつまずくより先に、つまずくのです!

実にできない人は、なるほどやっていないからできないのですが、当然できると期待されていそうなのになかなかできないことや、やってみてもよくわからなかったものを継続してやりつづけるというのはとても大変なことです。概ねそういう事情を、わずかながら知る機会になったということです。

たとえば、読むのに知的体力と時間を要する書物を読まない人を私は知的に終わった人と看做していますが、まあこれは大変なことですし、読んだから楽しいとか主観的幸福を味わえるとかいうものでもないので、今では読まないのもむべなるかなと思われる面があります(いや、それでも読んでいてほしいのですが)。


まあ皆さんも、試しに聖書ヘブライ語(古典ヘブライ語)なんか勉強してみてください。

英語やフランス語やドイツ語や中国語というドがつくメジャー言語や、日本でも人気の高い韓国語等ならばともかく、マイナー言語や古典語は、わからない人とかカンの悪い人とかに教えてきた豊かな経験を持つ人が教科書を書くものではありません。しかも、語学の教科書を書くくらいになる人は、わりと上手く勉強が進んでしまった人ですし、しかも初心者だった頃の自分を忘れているのです。そういう人が書いた教科書は、なかなかどうしてわかりにくい。

私は多分、ごく一般的な人よりは外国語をよく勉強していると思いますし、見知らぬ言語の思わぬ文法的事項に対する耐性は強いはずなのですが、それでもヘブライ語(とアラビア語)には参りました。文字が違うとか、右から書くとか、覚えることが多いとかいうのは大したことではありませんが、文法事項の説明がいくら読んでもわからない、つかめた気がしない、ということがあるのですね。

英語なんかは教育の歴史の蓄積がありますから、変に凝り固まってしまうぶぶんがあるとはいえ、上手くいきやすい教え方のようなものがなんとなく受け継がれて広がっています。

が、ヘブライ語なんかはユダヤ教コミュニティで保存されてきた歴史が長いからか(つまり母語として、しかも古典特にトーラーやタルムード等の暗唱とともに継承されてきたからか)、非母語話者への教授はなかなか洗練されていません。

もちろん先にアラビア語をやっているなどの条件があればだいぶ学習は早まりますが、それでも、ヘブライ語学習はわりと大変なはずです。そして同時に、真面目にやればやるほど、自分のカンの悪さに気付くことでしょう。そして、何かわからない箇所を調べたり繰り返し読んだりして、当座納得のいく説明に出会った瞬間・腑に落ちた瞬間には、「あ、何で自分はこんなところでつまずいていたんだろう」と思われるものです。皆さんもしばらくヘブライ語をやれば、同じ感覚を味わえるかもしれません。


……というわけで、「どうしてそこでつまずくの?」と思うことはしばしばですが、まあそんなことを聞いても仕方がなく、どうしたってつまずくものなのです。しかも、常識的にはつまずかないであろうところでつまずくものです。あるいはあなたがつまずくというのも、教えている人から見れば「どうしてそこで?」と思われうるものです。

そうしたつまずきは、なるほど教師が対応すべきものかもしれませんし、人に聞いて解決を図るのももちろん大いに結構なのですが、いやしくも高校や大学を出ているのであれば、個々人が乗り越えるべき(あるいは乗り越えられる)ものが多いことでしょう。個々人が自分で言語化し、自分で読み筋を付けるということです。自分で取り組んでみる中でこそ育つ能力も、おおいにあります。

これは極めて面倒なことかもしれませんが、どうせつまずく、と思って自分(や相手への)期待値を極限まで下げておけば、少しは取り組みが続きそうなものです。