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【469】「私に触れるな」:劣後順位と説明責任byイエス

イエスはなかなか過激なことをよく言います。上司には持ちたくないタイプ、などと言うと問題があるかもしれませんが、特に古い訳の聖書を読むと、そうした印象を強く持つ方もあるでしょう。

「私に触れるな」もそうした言葉のひとつで、磔刑に処された後に復活を遂げたイエスが、忠実な弟子であるマグダラのマリアに向けて言った言葉です。

ヨハネによる福音書の第20章第17節にある「私に触れるな」というイエスの言葉は、もちろんキリスト教神学の分野では極めて有名な言葉ですし、ジャン=リュック・ナンシーがこの文言について論じる本があることから、ナンシーを直接読んでいないとしても、フランス現代思想に興味を持っている人は聞いたことがあるかもしれません。


イエスはユダの密告によって磔刑に処せられた後、埋葬されるわけですが、その後のある朝、マグダラのマリアがイエスの墓のもとにやって来ると、墓の石がのけられているのを目撃します。墓の中には、もはやイエスの体がありませんでした。

マグダラのマリアは、イエスの体が誰かに取られてしまったと思い涙を流すのですが、そこにある男が現れます。その男はマリアに、何故泣いているのかと訪ねます。彼こそが実は復活したイエスだったのですが、初めマグダラのマリアはそれがイエスであることに気付かず、もしあなたがあのお方を(=イエスを)運んで行ってしまったのでしたら、どこに置いたのか教えてください、と言います。これに対して、その男つまりイエスは、ただ「マリア」と彼女の名前を呼ぶので、マグダラのマリアは目の前に居る男性こそがイエスであることに気づきます。

そしてマリアは、再び会えた師にすがりつこうとするのですが、そのときにイエスが言うのが、「私に触れるな」という言葉です。

「私に触れるな」に対応するギリシャ語は μή μου ἅπτουであり、伝統的にはラテン語のNoli me tangereという言葉を経由した重訳ですが、tangereという動詞は意味がかなり広い言葉であるからか、最新の新改訳聖書では「私にすがりついてはいけません」と訳されています。

tangereを単に「触れる」と訳すのも、「すがりつく」と訳すのも、どちらもオッケーでしょう。イエスが死んだと思っていた(いや、確かに死んでいます)、そしてその亡骸がどこかに奪いされてしまったと思っていたマグダラのマリアが、イエスの身体を、しかも生きた身体を目の当たりにして「触れる」あるいは「すがりつく」というのはよくわかる反応です。


いずれにせよ、復活したイエスは、自らの姿を認めてすがりつこうとするマグダラのマリアに向けて「私にすがりついてはいけません」と言ったわけです。

この一見冷たいとも思われる仕打ちの根拠は、次のようにイエスによって説明されるところです。まとめて引用するなら、「私に触れるな。私はまだ私の父のもとに昇っていないからには。あなたは兄弟たちのもとに行き、彼らに伝えよ。私は私の父にしてあなたがたの父、私の神にしてあなたがたの神のもとに昇る」。

つまり神のもとに昇ることのほうが優先されるのであって、目下マグダラのマリアと交わることはできない、と述べているわけです。


もちろんこのエピソードについては、他の福音書ないしは聖書中の章句と同じように、極めて多様な解釈が行われるところです。

マグダラのマリアは復活したイエスを最初見たとき墓を取り囲む庭の管理人だと思い込んだわけで、ここから庭師としてのイエスのイメージについて話が広げられることもしばしばです。

その他、空っぽになった墓のところには2人の天使が現れるわけですが、この天使が何を意味するのかということを研究することもあれば、あるいはなぜイエスが最初に名乗らなかったのかを問題にすることも考えられます。

ともかく、極めて多様なイメージを喚起する章句になっているわけですが、しかし最も単純で・最もとらえやすい筋書きを見るのであれば、イエスが「私に触れるな」とマリアに向かって言い放つのは、もっと別の・より高次の目的があるからだ、と解釈するのが、極めて浅薄ではありつつも最もわかりやすいということになるでしょう。そのためにはマリアが自発的に手を離してくれることが望ましいとされた、とも言えるでしょう。

実にこれは極めて多くのことを示唆するようで、浅薄な読解を許すのなら、そこに実践的な示唆を読み取ることもできます。


私たちの日常にあふれる事象は、たいてい、何らかの価値を持ちます。

勉強した方が良いことは無限にありますし、何であれ色々なアクティビティというものはやってみたほうがいいに決まっているのです。ヨガであれボルダリングであれフィギュアスケートであれ、ベンガル語であれポルトガル語であれ複式簿記であれ、通訳案内士の資格をとるための勉強であれ、スマホゲームに課金してガチャを回すことであれ、競馬に大量にお金を投げ込んですってしまうことであれ、経験しないよりマシです。知識も、どんなことであれ知っておいた方がいいわけです。友人とか、自分を慕ってくれる人と親密に交わる、ということであれば、その交わりの価値は極めて高いものになるでしょう。あるいは路上で見知らぬ人と喋ることにも、価値を認めることはできます。

イエスがマリアを退けることで示唆している(と勝手に読み込まれうる)ものは、どれほど親密で有意義に見える交わりであっても、それ以上に価値のある行い——ここでは神のもとに昇ることですが——がある場合には、退ける可能性が出てくるということです。

簡単に言うのであれば、しょぼいものの中からもっともマシなものを選ぶ、つまり優先順位をつけるということではなくて、優れたものの中から相対的に駄目なものをふるい落とす、つまり劣後順位をつけるということが問題になっている、と言えるでしょう。

これ、結構重要な考え方なんですよね。

先ほども申し上げた通り、どんなことにもそれなりの価値はあるものです。少なくともこじつけることはできます。

頭を休めるためにYouTubeの毒にも薬にもならないような動画を見ることにも、それはそれで休息をするという価値があるものです。

勉強することにも、将来を切り開くとか知的好奇心を満足させるとかいった価値があるのかもしれません。

友人との会話は、実に快く魂を休ませるものでありつつ、新たな世界を広げるという価値をもたらしてくれるものであるかもしれません。

あるいは目の前の仕事に専心するということは、自分の信用を積み重ねまた直接的には給与を得るということでも極めて重要な価値を持っていることでしょう。

例えばスマホゲームに課金してガチャを回すとか、パチンコに数十万円突っ込むとか、あるいは周囲の人から見れば私がヨガに勤しんでいるということは、なるほど無意味に見えるかもしれませんが、価値づけはできます。課金せねば見えない世界はあるでしょう。パチンコで金を費やしている人は、或る意味ではパチンコ屋に入ったことのない私よりも視野が広いと言えそうです。あるいはヨガは時間の無駄に見えても、身体の健康に良くまた人間離れしたポーズをとれるようになる過程には滑稽味があります。

こういったかたちで、何にでも価値を見出すことはできてしまうわけです。

とはいえ、使命のような大げさなものではないとしても、高い志や遠大な目的というものがあるのであれば、価値に満ちた(あるいは価値をこじつけうる)世界の中で、より高い価値を掴み取っていく必要があるのですし、普通のレベルのしょぼい価値しかないものには目をくれている暇がなくなるというなりゆきです。さまざま様々な意味での資源——時間とか金銭とか精神力とか——がなくなってくる、ということになります。

まして、害としての側面が際立つもの、つまり自分の歩みを妨害しようとしてくる連中とか、自分を不快にしようとする連中とかに割くべき資源は、私たちには全く残されていないと言ってもよいでしょう。

(もちろん、健全な批判を受け入れる開かれた健全な精神は持っておくべきですし、まっとうかつ誠実な批判を受け入れられないとすればそれこそヤバいと思いますが、それはそれです。)

自分の歩みを妨げる者を退けねばならないとなれば、そうして退けることには精力を傾けるべきです。しかし、悪意をもって立ち向かってくる連中とか、自分を極めて意味の薄いかたちで不快にしてくる人間とは、関わらなくて済むなら関わらないほうがいい。それどころか、必要がなければ関わっていてはいけないということです。

もちろんそうした存在者たちからも学ぶところは大いにあります。存在している限りでは何らかの善であって、何らかの価値を持っている、ということは言えるでしょう。新プラトン主義的な考え方ですが、これはある程度納得がいくものです。何にだって、良さというものはあるのです。

とはいえあくまでも比較の問題として、もっと他のものと関わるほうがよほど有意義だろう、ということです。存在している限り善なのだ、存在しているからには一片の善さがあるのだ、存在しているから何かしら善いところがあるんだ、と思うようにしても、そうした微細な善に大きな時間を割くか否かはまた別の問題だ、ということです。私たちの資源は有限だからです。


さらに、あからさまな悪をしりぞけるのは当然として、(マグダラのマリアのように)善いものを泣く泣く退ける場合には、一定の説明責任を果たす心づもりを持っておく、ということを読み取ってみてもよいかもしれません。あるいは少なくとも、相手を一方的に・考えなしに振りほどくのではない、という意識を持ってみる。

イエスはマグダラのマリアを振りほどくことくらいできたでしょう。殊によってはそもそもマグダラのマリアのもとに現れる必要はなかった、とすら言えます(もちろん復活の前にあえて弟子の前に現れた理由についてはもっと別種の考察が必要になりますが)。それでも「私に触れるな」というかたちで、しがみつかないように注意をして、しかもその理由を説明して、自発的に離れるよう促しているのです。

たとえばある技術を高めたり、ある分野の勉強をするために、大切な友人との付き合いを泣く泣く薄くする、ということがありうるでしょう。そのときに、何も言わずにフェードアウトするというのは、なるほどひとつの選択です。しかし、君との付き合いは大切だけれど、これこれこういう事情があるからちょっと会うのが間遠になるかもしれない……という説明があれば、寧ろそうして気にかけてくれることを嬉しく思って、応援してくれるかもしれません(それで切れてしまう関係は、それまでの関係ということでしょう)。

劣後順位を付けるということは、当然何かを切り捨てるということですが、その切り捨てが乱暴なばかりであるよりは、場合によって、泣く泣く切り捨てる理由を持っておき、ときに提示することが、ひとつの責任の果たし方になるのかもしれません。それは自分自身の意思決定基準を精緻にするためにも役立ちますし、人間が絡んでくるのであれば、相手を尊重し信頼を得ることにもつながりうるでしょう。


もちろん、以上に示した「私に触れるな」というイエスの言葉の解釈は、文献解釈という点から見て正当なものでもなければ、神学的に意味を持たせうるものでもありません。

とはいえ少なくとも、ときには劣後順位が私たちの意思決定において重要な意味を持ち得るということ、その際の切り捨てが乱暴にならないようにしうる、という示唆を、勝手に読み取ることができるようです。