見出し画像

【188】「なんとなく」で済ませるのはきちんと慣れてから

正直に申し上げて、多くの日本人は、「読めない」ことを前提にしながら、意識的に日本語を読んだ経験がないと思います。

これは別に悪いことではなくて、それでどうにかなってしまうからには、良いのです。特定のテクストを読み飛ばさないでしっかり読むということは、寧ろ特定の職業にある人間のすることだ、と言われればそれまででしょう。

例えば私であれば研究書や思想史テクストを読む能力を身につけているわけですし、法曹は法律の条文や判例を読み解く能力を持っているわけですし、会計士は(日本語と言えるかどうかは微妙かもしれませんが)複式簿記のシステムに則って書かれたものを正確に読み解く能力を養っているわけです。

ととはいえ、本当に「なんとなく」で済ませていて良いのですか、ということを今回は見てみたいなと思います。

※この記事は、フランス在住、西洋思想史専攻の大学院生が【毎日数千字】書く、地味で堅実な、それゆえ波及効果の高い、あらゆる知的分野の実践に活かせる内容をまとめたもののうちのひとつです。流読されるも熟読されるも、お好きにご利用ください。

※写真はサン・マルコ美術館(フィレンツェ)。リッピの『受胎告知』と、サヴォナローラの部屋で有名ですね。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。


なぜ皆さんが日本語を何となく読み飛ばしてしまうか、さしたる問題なしに読み飛ばせるか、といえば、それは、日本語に慣れているからです。

読まれている方のおそらく9割9分は日本語を母語として、日本で長く過ごされ、日本で教育を受けられてきたことと思います。

その中で、日本語がなんとなく体に馴染んでいて、読み飛ばしながら読めるようになったわけですね。

それに、読み飛ばされることを想定して巧みに書かれたテクストというものもあるわけで、気を抜いて生きていれば、そういったテクストだけ読んでいれば生きて行けてしまう、ということになります。

読み飛ばしていても内容を大きく間違えて掴んでしまう、ということがほとんどないので、問題がないのです。例えばある種の卓越した通俗小説は、本当に1冊5分ぐらいで読んでも内容を大きく外さずに捉えることができます。

そうしたものは、緻密に細かく書かれたものと比べて劣っているわけではありません。

世の中に溢れている広告の類というものも、特に大多数の人間に訴求することを目指したものは、厳密に・緻密に読み解こうとしなくても、なんとなくふわっと捉えてよいわけです。なんとなくふわっと目の端で捉える人にも訴求できるように、戦略的に製作されているわけです。

これらは極端な例であるにしても、日頃流し読みできる範囲の文章を読んでいれば大過なく過ごせるというのは事実でしょう。

役所や保険や銀行やクレジットカード会社の窓口では、概ね親切な職員がきちんと書類の書き方を教えてくれるでしょうし、厳密に約款を読む必要も、ほとんどないままかもしれません。

「リボ払いはヤバい」とか、「簡単にハンコをついてはならない」とか、そうした当然のことを気に留めておけば、大丈夫でしょう。


とはいえ皆さんが真剣に何かを勉強しようと思うときには、「なんとなく」で済ませてはいけない面が強い、ということははっきりと肝に銘じておく必要があるでしょう。

手前味噌で恐縮ですが、これは外国語において顕著です。

外国語を勉強するときに、例えば外国語の文と日本語の訳を並べてなんとなくふんふんと言って適当に流していては、決して身につきません。

フランス語であればちゃんと活用形を覚えて、名詞の語尾変化を把握して、何度も発音とスペルを対応付けて、文の構造を考えて説明できるようにして、コロケーションを文脈ごと覚えて、一歩一歩確実に・一つもゆるがせにすることなく学んでいく必要があります。

「なんとなく」やっている人は何も読めるようになりませんし、知的なコミュニケーションなど望むべくもありません。せいぜいジェスチャーまじりの、薄っぺらい、「なんとなく」の会話しかできないでしょう。それでいいのならばどうぞ、とは思います。

自然言語でなくても事情は同じです。

先ほど挙げた会計の例ももちろんそうですし、数学を学ぶときにも、一つ一つの記号が示している操作についてはその都度あたう限り厳密な定義を与えておかなくては、受験レベルであっても問題を解く上で非常な問題が生じます。

論文を読んで書くという段になればなおさらでしょう。一つでも論理のほころびがあれば、全てが一瞬のうちに崩壊することがあります。


そしてこれは、同じ日本語で書かれた文章においてさえそうです。

法律の条文というものも、特に最初のうちは、出てくる用語や、出てくる概念そのものに対する理解がおろそかになっていては、実践上の致命的な誤りが生じてしまうわけです。

また例えば、皆さんが高校受験や大学受験で触れた「評論文」の類も同じで、「なんとなく」読んでも全く理解できません。特に大学受験で出題される評論文は、ほとんどが広く言えば西洋哲学の範疇に収まる文章ですが、日本語で書かれているからと言って、時間をかければ誰にでも読めるというタイプのものではありません。

大学受験生にとっても、現代文というのは対策が難しいとされる科目です。その理由のひとつは、所詮は日本語で書かれていて、こういう言い方が適切かどうか分かりませんが、わかっていると錯覚してしまい、厳密に読もうとしないからです。

ですが、読めていない・わかっていないから点数にならないのです。日本語で書かれた西洋哲学という極めて特異な、ほとんど外国語でしかないものを読んで理解できなければ点数にはならないのであって、日本語を日常的に運用できれば誰でもできるというものではないのですが、この点がなかなか了解されていないのです。

自信のある方は試しにやってみてください。大半の人には読めませんよ。読めた気になれる人はいるかもしれず、だからこそ対策が難しいのですが。

……「いやいや、俺は読めるよ」と思われる方は、たとえば西田幾多郎のテキスト読んでみてください。一行も分からないと思います。はっきり言って私にもほとんど分かりません。

あるいは西田幾多郎のテクストが、日本語で書かれているとはいえ極めて特殊で、受験現代文にはまず出てここない、と主張されるのであれば、それはまあ正しいと思いますから、例えば大森荘蔵を読んでみてください(大森は大学入試でもしばしば題材になります)。おそらく、かなり平明な大森荘蔵のテクストであっても、一定の訓練を経ていなければほとんど何も分からないはずです。

別にこれは、皆さんの日本語運用能力が低いということではないのですね。単に特殊な訓練を積んでいないからできるはずがない、ということです。法学を勉強していないから法テクストを読めないのと同じです。


もちろん、皆さんが哲学テクストを読めるようになる必要はありませんし、そのようなことが皆さんの役に立つとか、皆さんを幸せにするとか、そういったことを私は確約しません。

しかし、何であれ皆さんはこの変化の激しい時代に生きていて、その中では、自分が単に生きていくためにも、あるいはよりよく生きていくためにも、必要な知識や精神的態度や小手先の技術というものを少しずつ学んでいかなくてはならない、ということは確かではないでしょうか。

そして、学ぶべき内容というものは、日本語であれ他の言語であれ、言語的に記述されていることが極めて多いことと思います。特に知的な領域であれば、やはり言語化して後に残すということが重要視されている以上、言語化されているケースは多いでしょう。

そういった場合に、「なんとなく」学んでいてはいけない、ということです。書かれたものから学ぶなら、目を皿のようにして、必死で読む。教師が口頭で教えてくれるなら、耳をダンボにして、必死で吸収する。

もちろん、効率悪く見えるかもしれませんし、精神的負荷がかかって大変だと思われる向きもありません。

しかし、同じ日本語で書かれていても、根本的に違う内容・あなたがたの知識や精神的態度の中にないものをこそ学びたいのですから、そうした苦労があるのは当然ではありませんか。

とすれば、何かを学び取る・何かを身につけようと思うなら、さしあたっては何もゆるがせにせずに、目をサラのようにして、傍から見れば滑稽なほど緻密に、教えを読んでいかなくてはならないのではないでしょうか。

そのようにしつこいほどに緻密な勉強を積み重ねて初めて、何かを飛ばして読むことができるようになるのではないか、と思われます。

実際私も、自分の専攻する分野に関しては、最初は本当に目を皿のようにして読んでいかなければ、理解したという感覚を得ることはできませんでした。

が、今となっては、大体この話ね、といった感じで、わりとサクサク読むことができるようになっています。気を抜いているわけではなくて、適切な気の入れどころが見えるようになったということです。

それはとりもなおさず、最初に緻密に取り組んだからです。基本的と思われる概念について専門的な辞書を入念に読み、分野特有の表現の用例をノートに書き留めて比較考量する、極めて負荷の強いプロセスを重ねていって初めて、「なんとなく」気を抜いて読んでも精度を落とさずに済む、ということになったわけです。

最初から適当に流そうと思って、「どうせフランス語とかラテン語とか、読みやすい言語で書かれているし大丈夫だろう」と思ってテキトーに流していたら、全く理解は進まなかったことでしょう。


特に情報が氾濫しているこの時代にあっては、手に入る限り全ての情報に目を通したい、という気持ちが出てきてしまうのももちろんわかります。私もヨガやらイラストやらをはじめるのにあたって、100冊単位で本を買っています(笑)。いずれ役立つだろうと思って買い溜めたというわけです。

しかし、何かを学びたいと言うのであれば、その分野において極めて重要だと思われるテクストないしは言語化された特定の教えに入念に付き合ってみる、というプロセスがまずは大切になるのではないでしょうか。

そのようにして地道に緻密に取り組んでようやく、様々な知識を幅広く効率よく吸収できる、そうした能力が身についてくるのではないかと思われるわけです。

■【まとめ】
・「なんとなく」こなせるというのは、その分野に対して一定の慣れがあるからである。

・裏を返せば、慣れるまでは、「なんとなく」やっていても大したものは身につかないだろうし、寧ろ時間の無駄である。

・最初に行われるべきは、滑稽なほど緻密に、目を皿のようにして、耳をダンボにして、言語化された教えを受け止めてみるという作業である。

・これは一見非効率的だが、緻密に取り組んで初めて、物事の勘所とそうでないところを見極める能力が身につき、「効率的に」学んでいくことができるようになるのではないだろうか。


皆さんはどうお考えですか。