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【174】息抜きにフランス語を読めるようになった経緯から振り出される、あなたへのシンプルな問い

外国語はどこまでも外国語ですが、外国語を読むことが息抜きになっている人種もいるわけで、それは私のことです。

今回はそういうことについて書いてみたいなと思います。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。


研究をやっているとは言っても、息抜きで小説や教養書なども読みます。特にフランス語や英語やイタリア語で、研究にまるで関係のない通俗小説や教養書を買って読むのは、疲れているときには寧ろ積極的にやっている作業です。「勉強している」という言い訳も立ちますし、悪いことは特にない。

日本の最近の「純文学」の小説はほとんど読みませんが、フランス語ならばいくらか買って読むことはあります。最近はCamille LaurensのFilleという小説を買いました。これはこれで(著者の経歴から明らかな通りですが)相当に「政治的」な小説であり、殊にジェンダー論・フェミニズムに関心のある人であれば面白く読めると思います。


研究に直接役に立つということはもちろん全くありませんが、精神的にはずっと研究書を読んでいるわけにもいかないので、計画的な息抜きには実によいものです。

そして、こうした息抜きには、単に無聊をなぐさめる以上の、「休む」以上の、そして「一応は外国語を読んで学習している」という思いこみ以上の、効果があります。


フランス語は勉強しはじめてから10年弱といったところですが、(研究書などよりある意味ではよほど難しい)通俗小説や教養書もわりと読めるようになってきたな、ということを感じられるわけです。イタリア語も期間で言えば同じくらい勉強しており、まあどうにか読めるようになってきたかなという感じはあります。

小説や、緩めに書かれた一般向けの書籍をきちんと正確に読むという作業は、研究書や哲学テクストを読むのとは異なる神経を要する作業であり、どちらにも異なる大変さがあるということは、ある程度語学の訓練を積まれた方であればおわかりの通りです。

それだけに、専門外のテクストをサクサク読めているときには、自分の成長を感じるというものです。

小説の特殊な語彙には今尚苦しめられることがありますし、研究書ではほとんど考慮しなくてもよい要素に気を向ける必要もあり(小説ならば談話構造など)、おおいに苦労することはあります。

それでも、辞書や文法書に首ったけになってゴリゴリ読みまくっていたことが次第に効いているのか、あるいは論文を書いてきた経験が功を奏しているのか、ストレスをさほど感じずに読めるものは増えつづつつけていますし、読みの速度も深度も精度も上がっています。

もちろんまだまだ修行が必要ですし、語学学習というものは(母語においてもほんとうはそうであるように)終わりのないものですが、そんななかでも特に通俗的な小説や専門性の低い教養書を読む作業は、あるいはそれらを息抜きに読めているということを確認する作業は、自分の成長を感じられる機会になるということです。

利用頻度の点でそもそも低いドイツ語やスペイン語、オランダ語などについては、小説を自在に緩急をつけながら読むというレヴェルには至っておらず、研究書ならともかく特に小説ならば辞書に首ったけになりながら精読しなければいけないので、なかなかきついものがありますね。まだまだ慣れておらず(そして当分慣れる必要も意欲も大きくはなく)、慣れようとすれば修行が必要になるところです。

が、それはともかく、自分の語彙力や文章の内容の把握能力、また読解の速度がどこまで上がったのかということを確認するために読んでいる、という節があります。


私で言えば主に語学や、あるいは哲学書ないしは哲学に関する研究書の読書ということになるわけですが(いや、他にもありますが)、慣れていくにつれて気軽に・気楽に取り組めることが増えてきたように思われるのですね。

最初のうちは、特に慣れていない著作や著者の世界に入っていくためには、入門書を読む場合でさえ、背筋をピンと正して、精力を投入して読む必要がありました。

哲学関係の辞典を引きながら、あるいは、原書であれば辞書であらゆる単語を確認しながら、文法書を丹念に参照しながら、読み進めていったということです(逆に言えば、それくらいのことをしなくては外国語のテクストは読めるようになりませんし、文法や単語というものを軽視して何となく意味を抑えているという範囲で読んでいても、知的な水準ではほとんど何の訓練にもならず、底の抜けた、あるいは不安定な力しかつかない、ということは確認しておいても良いでしょう)。

ともかく、血の滲むほど努力をしたかどうかわかりませんが、かなりの修行の期間があってこそ、研究に関係のない通俗小説などにも、教養書にも、ある程度気軽に取り組めるようになった、という経緯があります。


こんなことを振り返ってみると、興味深いのは、例えば(プロも含む)ある程度絵の上手い人が、「らくがき」などと言って非常にクオリティの高い絵を描いて、SNSにアップロードするという現象です。

それ「らくがき」なんですか、という話になるわけですね。

しかし彼らは、別に嫌味で、あるいは自分の高い能力を顕示したくて、「らくがき」と言っているわけではなくて、彼らにとっては、かなり完成度の高いものとしか思えない絵が、気楽に着手して短時間で描ける「らくがき」であるということがよくあるわけです。


どのような意味で、私の事例と、そうした絵描き等の事例が抽象化されるかといえば、それはある分野において技術が高まってくると、物事に対して気楽に構えることができるようになる、ということが言えるのではないかと思われます。

私も当初は、通俗小説やら教養書やらは読む気になりませんでした。

フランス語運用能力が限られていることはわかっていたので、時間を無駄にしたくないという気持ちが強かったのですね。

ですから、フランス語の初等文法を2週間で終わらせたあとは、活用表と辞書と文法書を何度も見返しながら、価値がはっきりしていて、取り組むことに意義があることがはっきりしている対象にとりかかったわけです。具体的には、すぐにベルクソンとかレヴィ=ストロースとかを(わけがわからないながらに)読みはじめましたし、恐らく初めて読み切った書物もサルトルの『嘔吐』です。

まったく、他にやることがないからこそできたことですね。というよりも、他にやることを作らないようにしなくては、なかなか取り組みつづけることはできませんでした。

こういうわけですから、通俗小説や教養書を読んでいなかったのは、特有の困難さに怯んでいたからというよりは、フランス語を読むという作業がそもそもかなり知的に負荷のかかる作業で、億劫な面があって、内容面での負荷を考慮している暇がなく、ならば内容面でも困難なものを読みたかったから、ということになるのでしょう。

言い換えるなら、「フランス語を読む」という作業(に手を付けること)が、「精神力を用いる」こととセットになっていて、「気楽にフランス語を読む」ということが構造的にできなかったのでしょう。気を張りつめて(難しいもの)を読むしか、選択肢がなかったのです。

軽いものよりも、もっと自分が読むべき本・自分がもっと時間を使いたいものに、しかも気を入れて取り組みたいと思っていたから、哲学関係の本ばかり読んでいたのでしょうし、そのような訓練を積み重ねてきたわけですね。

とはいえ徐々に力がついてきて、そうしてゆくと自分の専門分野に関係のないもの——通俗小説や、時事評論などの類——も、読めるようになってきたわけです。

ゆとりが出てきて、そして何よりフランス語を読むのが生活の一部になってきて、ことさらに精神力を使っているという意識は次第に薄れてゆきました。

いや、もちろん読むときには気を入れますし、よくよく考えてみれば手を抜いているわけではなく、客観的にみても気は入っていると思います。通俗小説を読んでいても(特に家であれば)文法書と辞書は手元にありますし、必要に応じてサッと参照します。知らない表現や使えそうな単語があったら書き留めたり音読したりもします。

それでも平均的に、楽にスイッチを入れて、たいして意識せずに集中力を発揮して、必要に応じて力を入れたり抜いたりできるようになったわけです。

絵描きもおそらくはそうで、長いことを絵を描いていると、もちろん気を入れて取り組むことはできるけれども、気を入れなくてもささっと着手して、ある程度のことができてしまうようになるのであり、気楽に取り組んでいても素早くできることが増えていくのだと思われます。


こうした、

「慣れることで、楽にとりかかれるようになる」

現象は、語学のようないわゆるお勉強や、芸事についてのみ言えることではない、と思われます。

何でも、やっていれば技術がどんどんついてくるというのは当然で、それは皆さんの専門分野やお仕事についても言えるのではないか、と思われるのですね。

例えば対人コミュニケーションの苦手な人も、先輩の営業マンに付き添って営業のスキルを実地で学んでいけば、そのうち慣れて割と気軽に人と話せるようになっていくはずですしょう。元々の向き不向きはあるはずですが、逃げ出さない程度の最低限の適性があれば、伸びていくでしょう。

(断っておきますが、逃げることが悪いことだとは思いません。自分が心地よくいられる領域を選ぶのは必要な前提です。)

あるいは、特段経理の知識や才能がない人であっても、ひとたび経理課などに放り込まれて、適切な教育・研修のもとで仕事をやりつづけていたら、ほとんど何も考えなくても自動的にぱっと手を付けて処理できる作業の割合が増えていくものではないでしょうか。


もちろん慣れというのは怖いもので、気楽にやっている・気楽にとりかかれることで人生が埋め尽くされてしまうと、堕落してゆく一方だと思います。

獅子は兎を捕らえるにも全力を尽くすのであり、些事に関しても最大限の力を発揮するという態度は必要でしょう。それは重々承知しています。

とはいえ、自分がもはやほぼ無意識的に着手し完遂できることを意識に引きずり出して顧みれば、自分の成長のあとを裏付けられるようでもあります。

その意味では、慣れというのも悪くないなと思いますし、自分がどのように慣れていったか、を振り返ることで得られる自信というものもあるでしょう。

再度注意を促すのであれば、慣れたことばかりやっているのではダメで、常に自分にはできないこと・あるいははできそうでできないことにチャレンジしていかなければ、新たな物事に慣れる(=つまり成長する)ことができないのではありますが、

昔は不慣れでどうしても全神経を注がなければできなかったようなことのうちで、今の自分は何も意識しなくても軽々とできるようなことがないか、と振り返ってみるのも良いのではないかということです。


些細なことで良いのです。

自転車に乗れるようになった、というのもそうかもしれません。

靴紐をうまく結べるようになった、ということさえそうかもしれません。

人によっては、料理をできるようになった、ということも含まれるでしょう。

何であれ「自分が慣れきっていて、もはや当然のようにできる(けれども誰ができるわけではない)ことはなんだろう?」と問いを回してみるのもよいのではないか、ということです。

この問いは、あるかたちで自分の実績を見出す(ないしはフィクションとして打ち立てる)きっかけになるでしょう。

あるいはもちろん、例えば自分の仕事に関して、慣れに任せていてあまり望む方向に進歩していないな、もっと努力したいな、と気付くこともあるかもしれません。それなら簡単で、より強い負荷をかけたり、自分が注力できる分野を見つけて世界を広げていくことになるのでしょう。


自分に対して許しを与えたら、その次には必ず戒めを与えて、「よしじゃあ次はこちらに力をかけていくぞ」と考える必要がありますし、その逆のモメントも必要になるでしょう。ふたつのバランスが大切だということです。

「どうしても自分の成長や進歩を実感できていないというときには、自分が今息を吸って吐くようにできることは何かな?」

と自問してみるのもよいのではないかということです。

皆さんがどうかは存じませんが、自分の実力のようなものについて極めて謙虚な人は多く、特に自分がそうかしら、と思われる向きは、一度そう考えてみることで確保される自負もあるでしょう。

(もちろん、こと真理ということが問題になるとき、またテクストや歴史に係る解釈においては、謙虚さが足りない人の多すぎるきらいもありますが、それはさておき、というところです。)

なぜなら、今のあなたが当然のように手を付けてらくらく完遂できることの背後には、あなたが行なってきた努力の痕跡が認められるからであり、そうして努力してきたという事実からは、少し違う分野でも新たに皆さんが努力をしてゆける、ということが証明されるように思われるからです。

そうした「証明」は、少しずつ、きっとたしかに、自分への信頼を与えてくれることでしょう。

■【まとめ】
・ある種の技術や専門分野というものは、初めのうちは極めて大きな精神的負荷を要求するが、次第に慣れるものである。

・慣れると、気軽に着手し完遂できる範囲がひろがってくる。

・こうした経験は、大小の差こそあれど、きっと誰にでもあることだろう。

・「自分が慣れきっていて、もはや当然のようにできる(けれども誰ができるわけではない)ことはなんだろう?」と問うてみて、自分がどのように・どのくらい努力して成長してきたかを折に触れて確認する作業は、自分に許しを与えるのであれ、戒めを与えるのであれ、有益な作業ではないだろうか。


今日も、読んで、生きましょう。

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