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【323】ハッピーエンドのその脇で

幼少の頃からハッピーエンドの物語にどこか居心地の悪さを感じてきた身としては、そもそもハッピーエンドとはどういうものかということを考える機会が到来するのも自然ななりゆきだったと言えるでしょう。

以下は極めて図式的で、特に最近繁茂しつつある例外についてはほとんど触れない文章ですが、典型的なハッピーエンドの形式、とりわけ少女漫画的ハッピーエンドの形式と、そこに疑いを差し挟むことから出発して、そうした批判的な——まったく攻撃的というわけではありません——態度を拡張することについて。

※この記事は、フランス在住、西洋思想史専攻の大学院生が毎日書く、地味で堅実な、それゆえ波及効果の高い、あらゆる知的分野の実践に活かせる内容をまとめたもののうちのひとつです。流読されるも熟読されるも、お好きにご利用ください。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。


ハッピーエンドは結末において幸福が実現されている、ないし幸福を強く予感させるということですから、結末でないところでは、幸福でない場面が、少なくとも幸福が確定していない瞬間が描かれることになります。

典型的には、いわゆる恋愛関係が確定しない場面であったり、あるいは相手の心変わりを疑うシーンであったり、あるいは外部からの介入によって相手との関係が不安定になったりするシーンです。

少女漫画の多くは(それ自体指示対象が曖昧であるとはいえ)恋愛を一個の大きな要素として持つわけですが、始まりと終わりを持つからには、必ず関係がこじれたり戻ったり、切れたり結ばれたりするわけで、そのようなすったもんだの末にハッピーなエンドが訪れるというわけです。

そのハッピーなエンドは概ね、将来へと開かれた安定を提示することで終えられるようです。特に高校の卒業のタイミングで話が終わりになるものが多いことは、識者ならばご存知でしょう。もちろん、高校にはたいていの人が行くのに対して、大学は半数ほどが進学するばかりである、というのがひとつの大きな理由です。

例を出しても仕方がないのですが、『君に届け』は卒業のシーンで終わりましたし、後にも触れる後日談の類を除けば、『彼氏彼女の事情』もそうです。恋愛を主軸とした複数の人間模様がそれなりのところに落ち着いて、それぞれが将来へと分かれて進路を歩みはじめるところで大きな区切りが置かれました。

いくつかの極めて複雑な要素が絡み合っていた『フルーツバスケット』においても、透と夾の将来が概ね確定されるばかりではありません。草摩家全体の行く末も、十二支の面々の進路も、納得とともに確定されます。由希も透に対する思いを明確な言葉に落として倉伎真知とくっつきます。そうしたところでさしあたってのお開きになります。

これらの多くが結婚ないしはそれに近い形態をとる、ということはお決まりのパターンであったと言えましょう。


そして、結婚に対して後日談というかたちで付け加えられがちなのが、子孫繁栄ないしは家族と世界を存続させていくというモメントです。

恋愛がある側面において激越な感情や不安定を伴うものであるとすれば、それは婚姻によって、家族を構成するということで和らぐ面があります。これはアレントが、子供を産み新たな主体(世界性)を創設することを(本来は2つの主体の間の距離を抹殺し、溶融せしめる)愛の唯一の「ハッピーエンド」として規定していることと無関係ではないでしょう(『人間の条件』第33章)。

愛が一定の落ち着いたかたちをとって将来へと開かれ、開かれた将来の展開の可能性を、具体的には子孫繁栄・世界の存続ないし反復といったかたちで描き出すのが、ハッピーエンドとその先の描き方のひとつの典型であるといっても大きな間違いにはならないかもしれません。


こうしたハッピーエンドを個人がどう思うかどうかは、もちろん人や文化や時代によるとしか言いようがないのですが、そもそもこうした典型的な終わり方というものを「ハッピー」なものとして規定する、ということに纏わる問題はどこまでも残ります。

「ハッピーエンドが好きだ」とか、「ハッピーエンドは嫌いだ」、とかいった言い方が成立するのは、とにもかくにも自分の好みとはさしあたって別のなんらかの規範に即してハッピーエンドであるか否かを判別しうる、ということを認め、剰え引き受けているからですが、そもそも嫌いな、自分なりの幸福とはおおいに異なる帰結を「ハッピーエンド」と名指すよう、半ば(気づかぬ間に)強制されている、ということには一定の問題があるということです。

もちろんそうした引き受けがダメなわけではありませんが、そこには疑いを差し挟む余地が大いにありますし、曖昧なままに取り置くよりは、個人的に一度疑っておくのが、或る種の批判精神の発露だと言えるでしょうし、後に言う通り、これが或る種の自由の前提になるように思われます。

疑うというのは、結婚すれば本当にハッピーなのかということを疑うということでもあります。実に幸福な、お手本通りの結婚生活しか知らないという人はあまりいないでしょう。もちろんご自身の結婚生活が幸せであればそれはそれで良いのですが、世の中の結婚というものは全てが全て幸福に終わるわけではありません。結婚はエンドではなくスタートでしょうし、失敗することも往々にしてあります。

あるいは、恋愛結婚のドグマが流行する中で実施されるものとしての恋愛というものもまた、幸福なことばかりではありませんし、不幸な結末が到来することもしばしばでしょう。恋愛関係が始まるときには幸福な何かが期待されることがほとんどであって、それは無残にも裏切られることがしばしばである、ということです。

あるいは子供を産み育てることは、本当に「ハッピー」でしょうか。これはプレーンな見方として受け止めていただければ良いのですが、当然のこととして、子供を産み育てる場合と、子供を産み育てない場合とでは、できることやすべきことに差が出てきます。どちらが良い悪いという問題ではなくて、差が出てくるというのは確実ですから、どちらか一方が幸福だということでユニヴァーサルな同意が得られると思うのは筋違いでしょう。子供を産み育てるエンド(というよりも経路)の方を「ハッピー」と規定するからには、そうしないエンドが(少なくとも比較において)アンハッピーだということになるのですが、この点を一度疑うことはできるということです。

あるいは、そもそもこんな一連の議論というものは、異性愛の規範を受け入れない・受入れられない人にとっては全く無である可能性もあります。同性カップルが子供を持つこと(homoparentalité)についてはここでは見ません。とまれ虚心坦懐に少女漫画を読んでいれば、異性同士の恋愛と名指しうるものが一定の覇権を得ていることは明らかで、落ち着いた帰結を提示することをハッピーな終わりだと流すことができてしまうわけですし、こうした言語のあり方は異性愛の規範を受け入れない・受入れられない人間の精神を深いところで蝕み攻撃するものでありうる、ということはできます。(言葉が表面上のものでしかなくその内容が重要だ、という主張は、形式を軽んじているのです。寧ろ形式が内容で、内容が形式であるからには。)


既存のハッピーエンドが悪いと言っているのではありません。あらゆる習慣や体系がプレーンなものではありえず、何者かを傷つけたり、何者かを増長させたりする可能性が大いにある、ということを言っているのです。

そもそも言語の中にある言語の中に産み落とされてしまっている私たちは、最初から一切透明で中立な言語を引き受けられるわけではありません。そうした様々な見えざる作用を持つ言語を受け止めながら生活していかなくてはならないわけです。

その中でせめてできるのは、自分が使う言語、あるいは他人が使う言語を慎重に吟味し、ときに少し離れたところから眺めて、その言語が無意識に設定している(あるいは私たちをして設定させる)内容を吟味することではないでしょうか。

そうした吟味の作業は、もちろん既存の内容を追認させるものかもしれません。既存のハッピーエンドを十分にハッピーだと思う、というのは十分にありうる態度です。

そして同様に、これは世間ではハッピーエンドと言われているが、私から見れば全くハッピーには思われないし、幸せの手本になるようにも思われない、という帰結も、正当でありうるでしょう。

とまれそのように距離を取ること、俯瞰することなしには、私たちは私たちを拘束している言語から自由になることも、新たな選択肢を構想することもできないのですし、その距離取り・俯瞰のプロセスもまた言語によって行われる、という成り行きです。言語による拘束は言語によってのみ解かれるということです。


似たようなことはもちろん、少女漫画におけるハッピーエンドのような極めて狭い領域についてのみ言えるわけではありません。

私たちは様々な幸せのかたちを周囲から借り受けて語りつづけているのですし、周囲から引き受けて自分の目標として設定するわけです。

だからこそ、5000兆円欲しいとか、働かずに不労所得だけで暮らしたいとか、そういった思惟や反省の痕跡の見られない、実態も経路も何も分からないような夢が空虚に語られるというなりゆきです。それはそれで癒やしかもしれませんが、果たして私はそこに大きな不自由を見いださずにはおれません。

(cf.【136】リスになりたかった少年と、不労所得で暮らしたがるあなたの共通点

私たちの人生は、おそらくは死ぬことによって終わりを迎えるわけですが、その死という地点を見つめるか否かは別にしても、この先どのような「ハッピー」な区切りを迎えられるか、ということを構想する際には、つまり簡潔に言えば当座の目標を構想する際には、その目標というものがどこから借りられてきたものなのか、その目標に対して疑いを差し挟むことはできないか、ということを常に考えることが、それ自体幸福な作業ではないかもしれないとしても、言語を使って生きる存在として自由を、選択肢を確保するための手段になるのではないでしょうか。

■【まとめ】
借り物の概念としての「幸福」を追求する態度は咎められるべきものではないが、少なくともそれが借り物である可能性を言語によって一度俯瞰し反省することでこそ、選択の可能性としての自由が開かれるのだし、そうした反省の作業を踏まえてようやく、自分なりの「ハッピーエンド」を構想することができるのではないだろうか。