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鬼教師に好かれるためなら何だってやった小学生時代

小学校2年から4年の頃の担任・A先生はいわゆる「鬼教師」だった。

小太りで、真っ赤な口紅と吊り上がった細い眉がトレードマークの女性教師。
A先生率いる私たちのクラスは、はたから見てきわめて優秀なクラスだったと思う。

A先生の授業は一切私語が無い。先生が質問を投げかければ、美しい直線のラインを描いて過半数以上の生徒が挙手をする。挙手できなかった残りの生徒も、切れのある大声で「分りません!」と返事をする。

名指しされた生徒は速やかに椅子から立ち上がり明朗かつ手短に自分の意見を述べる。同意見の生徒たちは「同じです!」と間髪入れず肯定の合いの手を入れ、異なる意見の生徒は「違います!」とまたも鋭利な挙手をし、先生の名指しを待つ。

そうしないと、「罰」が待っていたからだ。

「罰」は生活の授業があればその時間を丸ごと、なければ帰りの会を30分だろうが1時間だろうが延長して執行された。A先生の意向にそぐわないことをやらかした生徒が全員の前で立たされて、先生にひたすら責められるのだ。

どうして教えたことができないのか。常識で考えて分からないのか。みんなの大切な時間を使って迷惑かけて、どう思っているのか。などと延々詰られる。これだけで終わればまだ良い方で、本当に先生の逆鱗に触れてしまった者には「あなたは小学生の資格がない赤ちゃんだから」と教室の一番後ろの床に座らせられて、何時間もの間ずっと「赤ちゃん」らしく一人でボール遊びを強要させられるなどの重い罰もあった。

令和となっては、鬼教師などという言葉では片づけられないのかもしれない。でも当時は、先生がどんな暴言を私たちに浴びせようとも、クラスで3人の登校拒否が出ても、学校側も親も何も動かなかったのだ。古き良き平成の時代において、A先生はのびのびと教鞭を振るっていらっしゃった。

幸か不幸か、私はそういった大人の理不尽や大人による言葉の暴力には慣れっこの子供だったので、A先生の振る舞いにさほど新鮮な恐怖を覚えなかった。のみならず、こういう大人に嫌われないよう生きることが染みついた家庭の子供だったので、「なんとしてもA先生に好かれたい」と必死になりさえした。

テストは毎回100点を取ること。先生の質問には必ず挙手すること。A先生の気に食わない回答をした生徒にはすぐ私が先生の代わりに反論すること。忘れ物は決してしないこと。必要な場面以外では一切口を利かないこと。先生の怒りに触れてしまったときは自分の何が悪かったかをきちんと説明し速やかに謝罪すること。先生の誕生日には庭に咲いたコスモスを教壇に飾りお祝いすること。学校に不要なものを持ってきていた生徒がいれば速やかに密告すること。ただしバレンタインには「どうしても先生に日ごろの感謝を伝えたかったんです」と、手作りのクッキーを渡すこと──。

でも、2年半余り続いたA先生のクラスは、案外あっけなく失われた。先生が産休に入り、まもなく流産したのだ。

やってきた代理のB先生は、嘘みたいに優しい老婦人だった。彼女は私たちとの初めての顔合わせに、ふわふわした毛並みのテディベアを抱いて現れた。

「私はみんなの新しい担任のB先生。この子は副担任のくまちゃん。私たちのことはもう一人のお母さんとお父さんだと思って、いっぱい仲良くしてね。」

長い間A先生の軍事政権下で笑ったり泣いたりできなくなっていた生徒たちは、B先生のもとでこれまた嘘のように無邪気な赤ちゃんみたくなった。

先生に罵倒されるばかりだった生活の授業では、B先生の引くオルガンに合わせて手をつないで歌ったり、くまちゃんのおままごとセットを作って遊んだりして、みんなあっという間にA先生のことなど忘れ去ってしまった。

ほどなくして、私はA先生に手紙を書くようになった。

先生、お元気ですか。体調は崩しておられませんか。先生のいなくなってしまった学校はとてもさみしいです。また先生の授業を受けたいです。みんなもきっとまた先生のお元気な姿を見る日を待ち望んでいると思います。今はゆっくりお休みになられて、きっとまた先生が担任になってくれることを願っています。私はこの間のテストも一番でした。書写のコンクールも金賞でした。私は。私は。先生は。私は。先生は。先生は。先生は…………。

先生からは、ひと月後くらいに返事が来る。教室で見た、私たちを頭の悪い犬猫ほどにしか思っていなさそうな表情と口調からは想像もできない優しい言葉を連ねた、私のことをいたわるような内容が、黒板にチョークで書かれた神経質な文字とは趣の異なる糸のような文字で、ミッフィーの便箋の上に連なっていた。

はじめてA先生に私の、人の形をした私の輪郭をなぞってもらえたような心地がした。こんなことは誰も知らない。私だけが手に入れた。テストの100点よりも、コンクールの金賞よりも、うんと難しい、私にしか手に入れられなかったもの。

手紙のやり取りは季節の変わり目ほどの頻度で続けられた。やり取りが続くたび、私は友達や、家族や、飼っている犬や、学校のことだけじゃない様々なことを書くようになった。
A先生はほどなくもう一度妊娠し、今度は無事女の子を出産した。学校のことを尋ねるような内容から、先生の家族の話をたくさん教えてくれるような内容に少しずつ変わっていった。

五年生になっても、六年生になっても、卒業して中学生になっても、手紙は続いた。

小学校のジャンパースカートを下級生に譲り、中学のセーラー服にもずいぶん慣れたころ。
珍しく早く目が覚めて、気分もよかったため少し寄り道をして通学した。小学校の頃通っていた交差点を通るのだ。もう少し遅いと小学生がぞろぞろ集団登校をはじめるので危なくて通れたものではないが、川沿いの桜がよく見えて悪くない眺めなので割と好きな道だった。

「──もしかして、嫁島さん?」

みどりのおばさんだと思った中年女性が誰だか、顔をまじまじと見てもしばらく分からなかった。

真っ赤な唇と細い眉、小太りの体。…でもその唇は小さな歯をのぞかせて柔らかに微笑んでいて、細い眉根には私たちを罵っていたころに深く刻まれていたシワの見る影もなく。小太りの体を厳めしく包んでいたスーツはリネンのワンピースに着替えられ、卵焼きの匂いのしみついたエプロンがよく似合いそうな、その人が。

「やっぱりそうだった。いつもお手紙ありがとうね。娘もとっても大きくなって毎日大変なんだけど、そうねえ。あれから随分経ったから…嫁島さんも大きくなったね。嬉しいなあ、またこうして会うことができて。またね。私、時々ここにこうして立っているから……。」

シャボンの泡のような、つやつやと丸い声をしていた。聞いたことない声だった。なんと返事をしたのだか、覚えていない。

交差点を過ぎて、桜を散らす勢いで坂を立ち漕ぎしながら、今すぐあちこち体をぶっつけて大声で喚き散らしたいような気分だった。

細い眉。真っ赤な唇。丸いおなか、スーツ。リネンのワンピース。黒板の消えにくいチョーク文字。糸のようなペン字。ミッフィーの便箋。罵倒。交差点。つやつやの声。子供。生徒。お母さん。先生──。



それから私は二度と手紙を書かなかったし、朝の交差点にも近づかなかった。

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